3. 風船爆弾の開発
陸軍では「ふ」号兵器の開発を登戸研究所(第九陸軍技術研究所)に託し、その責任者を草場季喜少将が務めた。
3.1 気球の材質と気密性
1933年頃陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て気球の空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかった。彼は軍籍を離れて、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でこんにゃく糊を塗布した和紙を使用することを考えついていた。なお、1940年に近藤は病死したが [10]、国産科学工業研究所は、風船爆弾の製造には民間企業として大きく貢献した。
「ふ」号兵器の開発において、登戸研究所では気球の素材として手に入りやすくて軽い和紙が検討された。その材料には繊維が長いコウゾが選ばれた。当時和紙は手漉きだったが、主な労働力は既に動員されており、1個に600枚の和紙を使う気球の製造予定数25,000個を手漉きで作れる労働力は残っていなかった。和紙を大量に生産するため、陸軍登戸研究所で機械で大量に漉く方法が開発された [1]。これによって製造された和紙の品質を均一とすることにも成功した。
気球表皮の貼り合わせた和紙は、中の水素ガスを漏らさないことが重要だった。原子番号1の水素原子(H)は最も最も小さな原子であり、水素ガス(H2)は、表皮の分子レベルの隙間から漏れやすい。長時間の気密性を保つため、合成ゴム、天然ゴム、いろんな糊材、油、油布などが試験された。その結果、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせると最も水素が漏れないということがわかった [11]。
こんにゃく糊には防腐剤と色素が混入されて、色の濃淡で気球皮膜のむらの有無を検査した。しかし、1 kgのこんにゃく芋から糊はわずか90 gしか出来ない [3]。こんにゃく芋の栽培には時間と手間がかかるため急な増産もできない。こんにゃく糊の風船爆弾への大量使用は、日本中の食卓からこんにゃくを消した。なお、こんにゃくはこのように戦前は糊としても使われていたようである。でなければ、こんにゃくを糊として使うということは思いつかなかったかもしれない。
アメリカで風船爆弾が捕獲されたとき、その気球表皮の素材がMIT(マサチューセッツ工科大学)などで分析された。この気球の気密性は当時のアメリカの気球の性能を凌駕していた。その秘密が和紙を貼り合わせた接着剤にあることはわかったが、接着剤が何で出来ているのかは戦後までわからなかった
[3]。こんにゃくを食べない欧米人には、よもや食用の芋を用いているとは想像だにしなかったろう。戦後、風船爆弾は日本でこんにゃく爆弾と揶揄されたようだが、大量に準備可能でかつ水素ガスを最も漏らしにくい接着剤がたまたまこんにゃくだっただけで、水素を通しにくい接着剤の開発・発見は評価すべきものだろう。
3.2 高度制御装置
「ふ」号兵器の技術者にとっての最大の懸案は、気球が強い西風が吹く高度約10kmの太平洋上を50-70時間かけて飛行する間、この高度をいかにして維持するかということだった。この高速の西風に乗れないと、徐々に浮力を失った風船爆弾はアメリカ大陸にたどり着けずに、太平洋上に墜落してしまう。
雲のない成層圏では、昼間は気球は強い日射を受けて、中のガス温度が30℃以上にまで上昇する。そうすると、ガスの膨張のために気球の内圧が上昇して気球が破裂する。一方で、夜間は-50℃にまで下がるため、気球は低温で収縮して浮力を失って高度を下げる。そこで、高圧時の対処として気球の底部にガス放出弁を設置して高圧(高浮力)時にはガスを放出し、低浮力による沈降時には高度制御装置によってバラスト(砂袋)を投下することでこの問題を解決した [1]。なお表皮の製造状況によっては、低温のためだけでなく、水素ガスが気球表皮から少しずつ抜けて高度を下げることもあった。
高度制御装置は登戸研究所で開発された。それはアルミ製の車状の環で、環の周囲から最大で28個のバラスト(2.7kgの砂袋)と4個の焼夷弾が支索で吊り下げられた(焼夷弾はバラストを兼ねていた)。気球が浮力を失って、装置内のアネロイド気圧計によって予め設定された高度(290 hPa、約9000 m)以下に達するとカウントが行われた。そして、カウント毎に設定された爆薬が小型電池によって着火されて、それによって支索が切断されて、順番にバラストが落下するようになっていた。砂袋のバラストがなくなると焼夷弾が落下した。
支索が切断された際に、同時に3分間燃焼の導火線に着火され、バラストが落下しても高度が9000 mにまで回復しない場合は、3分後に次のバラストの支索を切り離すように設計されていた(高度が回復すれば、導火線が燃え切っても支索は切断されない) [8]。つまり高度が回復するまで3分毎にバラストを切り離すようになっていた。
バラストの投下で重量が軽減した風船爆弾は再び約11,000 mまで上昇し、強風に流されながらガスの減少や収縮によって再び設定高度まで沈降する。そうするとさらにバラストを切り離して上昇する。このプロセスを繰り返すようになっていた
[1]。この高度制御装置の構造は最高の機密となった。
風船爆弾の高度制御装置とそれに吊された爆弾とバラスト(砂袋)。横を向いた筒がバラストとしても使われる焼夷弾。指定の気圧にまで下がると、カウント数に応じて車状の環の下につるされた砂袋(と最後は焼夷弾)が落下する。これが繰り返されて、最後に中央に下向きにぶら下がっている黒色の15kg爆弾が放出される。車状の環から上に延びている線は、3分後にさらにバラストを切り離すための導火線。[1]より。なお後には、導火線を使ってバラストを切り離す方式ではなく、バケットを使って指定の気圧になるとスイッチが入って中の一定量(約3 kg)の砂を放出する型の高度制御装置も開発された。これは車状ではなく箱形で、簡便な小型の機構で確実に動作する優れたものだった [8]。この型もかなりの数が製作されたようであるが、製作後に空襲で失われた分もあり、これがどの程度実際に使われたかはよくわかっていない [3]。
3.3 成層圏の環境への対応
風船爆弾が成層圏で遭遇する技術的な問題は、装備品が遭遇する異常な低温と低圧だった。日本陸軍の装備は、すべて-30℃の環境下で使用できるように設計されていた。しかし、成層圏の気温-50℃という環境ではゴム部品やバネの弾力性が失われ、電池の出力も大幅に低下した。そこで低温用の部品や電池などについて、かなりの研究が行われた。また同様に高度約10 kmの気圧(約260 hPa)になると、バラスト投下用の爆薬が着火しなかったり導火線の燃焼時間が延びたりした。しかし、爆薬と導火線の問題の抜本的な解決法はなかったようである [8]。そのためにも爆薬や導火線を用いないバケット方式の高度制御装置の開発が望まれた。
日本にとって最も困難だったのは、風船爆弾の飛行を確認するために、安定して動作するラジオゾンデを開発することだった。ラジオゾンデとは、気象センサー(ゾンデ)などから得られた信号を無線で送信する装置である。成層圏の低温・定圧下でも長時間安定して動作することと、発信した電波が数千km先まで届く周波数を安定して確保することだった [8]。
その主な目的は、気球のガス温度の測定、内圧と外圧(高度)の測定、高度制御装置とガス放出弁の作動状況を送信することだった。また発信方位と時刻から、気球の飛行コースも推測できた。測定気圧から気球の高度(降下、上昇)がわかれば、バラストをいつ投下したかがわかる。当時、成層圏の過酷な環境で長時間稼働するラジオゾンデはなかった。風船爆弾開発の成功は、このラジオゾンデにかかっていた。
また、ラジオゾンデには電力が要るが、電池は低温になると性能が低下した。苦労したのは、-50℃という低温でも安定して動作する電池の開発だった。1944年4月から9月まで半年かかってさまざまな試験を行い、最終的に電池の周りを不凍液で覆って保温し,これを二重セルロイド製保温箱に収めて電源問題を解決した [12]。
ラジオゾンデの機能を確認するため、さまざまなモデルが開発され、気球に吊り下げられて実験が行われた。さまざまな研究の結果、ようやく適切なラジオゾンデが開発された。気球に取り付けて自由飛行させたところ、80時間連続で作動して西経130度まで飛行情報を伝えた。11月から3月までの冬季であれば、気球は3日(72時間)で太平洋を横断できると結論づけられた
[3]。この高高度で長時間動作するラジオゾンデの性能は、おそらく当時世界最高のものだった。
3.4 飛行実験
作戦を成功させるためには実際の気球の飛行経路を追跡し、北米に到達する可能性が高いかどうかを確認しなければならない。発射場の準備と並行して、陸軍気球連隊(これについては後述する)は電波兵器の開発を担当する第五陸軍技術研究所の協力を得て、無線方位探知機を装備した気球位置の標定所の設置を行った。これらの標定所は青森県の淋代(古間木)、宮城県の岩沼、千葉県の上総一宮に設置された [1]。
そして、1944年2月から確認のための気球が上総一宮から打ち上げられた。これは後述の海軍の潜水艦を用いた作戦用に既に製作されていたものとされている
[1]。その後、場所をいくつか変えて実験したようである。この実験による不具合を改修した結果、飛行経路や速度、投下装置などが正確に作動することなどがわかった
[3]。
(つづく)
参照文献(このシリーズ共通)
1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
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