2022年2月20日日曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(3)

背振山での観測

藤田は明治専門学校で物理学を教えていたが、彼は研究をやりたかった。理論ではなくフィールド指向だった彼は、物理学で実験や観測を行おうとすると巨額の研究費が必要になる。戦後すぐの当時の日本ではそれは望むべくもなかった。彼は地質などの現地調査を行ううちに、気象に興味を持ったのかもしれない。

彼は「気象学を選びました。それが当時最も安かったんです。紙と色鉛筆で事足りた。」 [3]と述べている。日々の天気予報のために全国の気象台・測候所に気象観測インフラストラクチャが整備されており、定常観測のデータを気象台で見たり、書き写したりすることは可能だった(現在ではウェブサイトから自由にダウンロードできる)。つまり、気象分野は観測データをただで手に入れて研究できるのである。これが気象学が他の研究分野と大きく異なる特徴である。

彼は気象学の専門教育を受けていなかったが、福岡管区気象台に出入りするようになった。気象台でも最初はよくわからない人が来て当惑したようだが、試しに気象データを与えてみると驚くような解析結果を持ってきたりしたので、気象台でも藤田を職員と同じ様な待遇で扱うようになった [3]。

福岡市から開けた南を望むと、福岡県と佐賀県の県境に背振山という標高1055 mの山が見える。現在はそこに気象庁の気象レーダーが設置されているが、レーダーが設置される以前に山頂付近には測候所があった。1947年8月に藤田哲也はその山頂の測候所で観測を行った。これはむしろ福岡管区気象台の方からの提案だった [3]。8月24日の13時頃から積乱雲が通過し、その際に山頂付近で強風が吹いただけでなく、気圧が大きく変動した。それを分析した藤田は、発達した雷雲の下部のほぼ背振山頂の高さに今まで知られていなかった下降気流があるという結論を出した [4]。

1947年に背振山で観測した雷雲の断面図 [5]。図中のd~eにかけて下降気流の矢印が見える。

彼は1950年に、その結果を中央気象台(気象庁の前身)の欧文彙報に英文論文として積雲構造のスケッチとともに発表した。それまで積乱雲に上昇流があることは広く知られていたが、中に下降気流があることはあまり知られていなかった。ところが、実は中央気象台内では戦時中の雷雲の観測によって、その中に下降気流があるという観測記録が既にあった [3]。しかし、これはそれほど重視されていなかったようである。おそらく当時中央気象台を含む日本気象界では、台風や大雨など優先的に研究すべきことを多数抱えており、雷雲の構造などに気象学的な興味を持っていた人が少なかったということだろう。

渡米

日本とは対照的に、欧米、特にアメリカでは積乱雲を中心とした気象は航空機の航行に重大な影響を引き起こすため、戦争中から重大な関心を抱いて積極的にその研究を行っていた。当時アメリカでは雷雨のメカニズムを探るために巨額を投資して「サンダーストーム・プロジェクト」が行われており、そのプロジェクトをシカゴ大学のホレス・バイヤース教授が主導していた。バイヤースは「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献」で述べたように、ロスビーの弟子である。

 

ホレス・バイヤース(真ん中)
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藤田は背振山測候所の隣にある米軍レーダー基地に行くと、そこの職員がゴミ箱の中の論文を拾って藤田に渡してくれた。それはサンダーストーム・プロジェクトの論文で、それにも雷雲の中に下降気流があることが示されていた [2]。彼の著書ではそうなっているが、これはどうも自分でゴミ箱の中に何か論文がないか探したというのが真相のようである [3]。当時欧米の論文を見ることは容易なことではなく、レーダーは航空機の運航と密接に関わっているために、レーダー基地内ならば航空機の運航に影響を与える雷雲に関する論文があるのではないかと思ったのかもしれない。

藤田はバイヤースとは知り合いでも何でもなかったが、このプロジェクトを率いていたバイヤースに自分の論文を直接送った。論文には彼による雷雲の明快な構造図が描かれていた。バイヤースははるか遠くの日本の名もない研究者が送ってきた論文に、ちょうど自分が発見したばかりの雷雲の中の下降気流のことが詳しく書かれていて驚いたに違いない。バイヤースはこの研究にかかった費用を藤田に尋ねている。バイヤースの研究費は200万ドルだったが、藤田の研究費は50ドル足らずだった [4]。

さっそくバイヤースは藤田を招聘しようとしたが、一つ問題があった。それは藤田が博士号を持っていないことだった。欧米では研究者として活動するには博士号が必須である。それでバイヤースはまず博士号を取ることを勧めた。藤田はちょうど博士号を取得しようとしていたところだった。彼が出入りしていた頃の福岡管区気象台のつてで東京大学の正野重方教授を紹介され、彼の下で台風をテーマとする博士論文を作成中だった(台風は雷雲とも密接に関連する)。

藤田と正野のことは「正野スクール:正野重方と日本の気象学者」で述べたとおりである。藤田は正野のことを「『父親のような人』で,私は彼に感銘を受けた」と語っている [6]。彼は博士号を取得した後、32歳で1953年8月にバイヤースがいるアメリカのシカゴ大学へ渡った。研究助手という身分だった。藤田は渡米してから2年半後にビザが切れたためいったん日本へ帰国したが、バイヤースによる再度の招聘で今度は研究教授という肩書きで、1956年に永住ビザを取得して家族共々渡米した [3]。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.


2022年2月17日木曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(2)

 藤田の生い立ち

彼は1920年に北九州の小倉で生まれた。彼の父親は地理の教師で学校長も務めた。しかし彼は18歳の頃に父親を結核で亡くし、12歳の妹と10歳の弟を彼が独力で支えなければならなくなった(その2年後には母親が結核で亡くなり、さらにその6年後には妹も同じく結核で亡くしている)。そういう状況ではとても進学して学問を続ける境遇ではなかった。しかし、当時の(旧制)小倉中学校の校長が、優秀だった彼が学問への道を断たれることを残念に思い、国立の明治専門学校へ授業料の要らない特待生として推薦してくれた [2]。なお彼は中学卒業式の際に、太陽の黒点観測から自転周期を求めた研究によって理科賞を授与された。

明治専門学校

藤田は北九州の明治専門学校(今の九州工業大学)の機械科に入学したが、苦しい生活をしのぐために家庭教師をした。このとき教えたのは後に料理研究家として有名になった江上トミの子息だった。また彼女から当時としては貴重な英文タイプライターを譲り受けた [3]。これが後述するように、背振山での観測論文を英文で書く際に役に立つことになった。

在学中に地質学の松本唯一教授の下で助手としてアルバイトをした。これには父親の影響もあったかもしれない。結局、明治専門学校では松本教授についてもっぱら地質学をやることが多かった。在籍した機械科では設計図の作図方法を習得するとともに、地質調査の際に松本教授から地図や地形の見方やその作成方法を徹底的に教わった。これは後にアメリカでの竜巻調査の際に、竜巻の移動経路の決定などに大きく役立ったと思われる。松本唯一は、その後九州大学教授および熊本大学理学部長を務めている。

藤田は母校である小倉中学(旧制)で代理教師もした。その際には権威主義的な当時の教科書を使わず、手製の絵による解説入り教科書を毎回ガリ版刷りで準備した [3]。これを用いた彼の授業はわかりやすく好評となった。この時から既に「誰にでもわかりやすく伝える」ということがモットーだったのだろう。これは、その後の研究成果の発表でも活かされることとなる。

卒業すると1943年に23歳で明治専門学校の物理科の助手となった。戦時中とはいえ異例の抜擢だった。これは、このとき学校側からアインシュタインの相対性理論を教えられるかと聞かれて、「できます」と答えたためとなっている [3]。しかも、わずか1か月後には助教授となった。

原子爆弾の爆発調査

この時期の特筆すべきことは、彼による原子爆弾調査である。彼は志願して8月下旬に行われた明治専門学校による長崎の調査団に加わった。当時新型爆弾が使われたことはわかっていたが、それがどんなものでどこで何発爆発したかはわかっていなかった。

彼は3日間にわたって、爆発の強力な下降気流による倒木や閃光によって残った影の方向と程度を綿密に調査した。その結果から、爆発地点を1か所と判断し、その爆発高度を浦上上空の地上520mと特定した。そして爆風の影響が最も強かったのはその直下ではなく、爆発地点直下から500mから700mほど離れた同心円状の地域だったと結論した [3]。


長崎へ投下された原子爆弾の爆発直後の様子
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その後広島の原子爆弾の調査も行い、爆発高度を530mと推定した。また鉄柱の曲がり具合から長崎の爆弾(プルトニウム爆弾)の方が広島の爆弾(ウラン爆弾)より20%強力だったと結論した [4]。これらの調査が、原子爆弾による強力な下向き衝撃波によって引き起こされた状況を彼の脳裏に焼き付けることになった。

原爆投下後の鎮西学院中学校(現活水中・高校)付近の様子(後ろの建物)。爆心地に近い。1946年初め頃。何か調査しているのか連合国軍の兵士が見える。
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この長崎での調査は原子爆弾の投下からわずか10日程度の後であり、まだ現地の惨状が残ったままの状況だった。彼はご遺体の一つ一つに手を合わせながら調査したと述べている [4]。また彼は物理学者であり、放射線の恐ろしさを知っていた。調査中に同じところに長く留まらないなどの配慮を行った。後年彼は原爆症を心配したが、放射線の影響はなかったようである。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者 第1回「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2016年05月02日.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.

2022年2月14日月曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(1)

 はじめに

藤田哲也は日本人の気象学者であるが、主にアメリカで活躍した。日本でも竜巻の強さの指標となっているフジタスケール(現在では改良フジタスケールを使っている)は、耳にしたことがある人も多いかもしれないが、藤田哲也については、日本ではアメリカほどには知られていないのではないかと思う。彼は竜巻の研究でも知られているが、彼の研究の真骨頂はダウンバーストである。

彼自身は、自分の人生を「幸運と印された石の上の踏んで歩んでいるようなものだ」と述べている [1]が、間違いなく彼は自らの努力で幸運を築いていた。彼は1998年にアメリカで亡くなったが、彼は後述するように旅客機の安全に絶大な貢献をしたため、もし生きていればノーベル賞を取ったのではないかという人もいる。

私はJ. Cox著の「嵐の正体にせまった科学者たち」を翻訳出版(丸善出版)したが、その中に紹介されている気象学者28名の中で、唯一の日本人として藤田哲也が紹介されている。この本はNHKエデュケーショナルの佐々木健一氏の目に止まり、それがきっかけで同氏は「Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男」という本を出版された(同書の序章に私の訳書が紹介されている)。また、同氏がディレクターとなってNHKで「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」という題名のドキュメンタリー番組が制作されて放映された。

藤田哲也の経歴や研究手法は独特な面があり、異色の気象学者とも呼ばれた。竜巻の研究については、同じく「嵐の正体にせまった科学者たち」で紹介されている19世紀のフィンレーなどの先駆者がいたが、藤田は近代的な手法を用いた竜巻やダウンバーストの研究分野を独自に立ち上げ、少なくとも航空機に対する脅威の大半を自身で解決してしまった。そういう意味では、彼の研究は系統的な大きな歴史的流れを示す気象学の通史から見ると扱いにくい。そのため、本書では「10-1-3 レーダーの気象学での利用」のところで彼のことに少し触れただけである。今回は彼のことを補足しながら紹介しておきたい。

藤田哲也
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つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 丸善出版, 2016.

2021年12月21日火曜日

気象予測の科学化とノーベル賞

 真鍋淑郎氏がノーベル物理学賞を受賞した。気象学は物理学なのかと驚いた方もおられるかもしれないが、気象学においてはこの「ノーベル物理学賞」受賞の意義は深いと思う。20世紀初頭まで気象学は、当時の物理学、化学、数学などと比べて科学とは見なされていなかった。本の「8-8-1 気象学におけるベーコン主義の破綻」で述べているように、大学に気象学部はなく、気象学として学位授与課程はなかった。気象学専門の先生はおらず、他分野の専門家が片手間に気象学を教えていた。気象学に明確な理論体系はなく、一部の熱力学的な法則を除くと、経験に基づく定性的な内容がほとんどだった。例えば、当時の気象予測の原理の一つは「天気は西から東へ移動する」だった。それから先の予報手法は経験ごとに予報者の数だけ異なった。

その状況を変えようとしたのはドイツの物理学者のヴィルヘルム・ビヤクネスだった。彼は電磁気学の研究者だったが、やはり科学者だった父親を手伝うために流体力学も研究した。その過程で彼は1897年に「ビヤクネスの循環定理」を発見した。これは流体力学の一般的な理論だったが、気象にも当てはめることが出来た。これをきっかけにしてビヤクネスは気象学へ足を踏み込んでいく。一方で、本の「9-1-3 ビヤクネスの気象学への転向」で述べているように、当時古典物理学から相対性理論・量子論への急激な変革が進んでいた物理学分野では、彼は評価されなくなっていった。

その彼が当時の気象学の状況を見て、1904年に唱えたのが「気象予測の科学化」である。これは本の「9-1-4 気象予測の科学化という目標」で述べているように、気象予測を物理学方程式を用いて行おうという壮大な考えだった。これは容易なことではなかった。なぜならば、仮に理論が出来たとしても予測を決定するためには、予測の対象時刻の前までに観測結果を用いた解析を終えて結論を出さなければならない。各地の観測結果を集めて膨大な計算を行って1日あるいは数日先の気象予測を行うのは、簡易的な手動計算機しかなかった当時は、事実上実現不可能だった。しかし、ヴィルヘルム・ビヤクネスはこれに挑んだ。1914年に彼はこう述べている。

誰しも直ちに達成できることだけを目的とするとは限りません。おそらく到達不能なほど遠い目的であっても、それにまっすぐに向かう努力は1つの針路を定める役目を果たします。

ヴィルヘルム・ビヤクネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bjerknes.jpg

ヴィルヘルム・ビヤクネスは、気象予報のための物理方程式群を作成するとともに、「大気力学でのソレノイド」で述べたように、気象予報に視覚的な手法を利用しようとした。ところが、イギリスのリチャードソンは、第一次世界大戦中に当時新しかった差分法という数学手法を用いて、物理方程式群を改良した独自に数値計算による気象予測の試算を行った。もし成功すれば、64000人の計算者からなる「予報工場」の設立を夢見ていた。しかし、リチャードソンが計算した予測値は実際の値と大幅に異なり、彼の試みは失敗に終わった。これは本の「10-3-3 数値予報の課題」で述べているように、気象予報は原理としては可能だったが、数値計算の過程で起こる問題点がよく解明されていなかったためである。

その後、第二次世界世界大戦後に、本の「10-2-3 数値予報への胎動」で述べたように、天才フォン・ノイマンが電子コンピュータを使った気象予報を推進し(フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1参照)、また「10-3 傾圧不安定理論と準地衡風モデル」で述べたようにジュール・チャーニーという数学に長けた気象学者が物理方程式を改良したおかげで、電子コンピュータを使った数値予報が実現された。そして、「気候学の歴史(7):気候モデルの登場」で述べたように、この気象予報モデルを利用して生まれたのが、地球大気の平均的な流れ再現する大循環モデルである。これを真鍋淑郎氏などが改良して、気候をシミュレーション・予測する気候モデルへと発展させた。これにより地球温暖化研究という分野が生まれて、気候学は実証可能な(と考えられる)科学となった。これが真鍋氏のノーベル賞受賞につながったと私は見ている。

これはもとはと言えば、ヴィルヘルム・ビヤクネスが当時学問としてはひ弱だった気象学に、気象予測の科学化という当時から見ると到達不可能な目標を敢えて設定したおかげである。彼が敷いたレールに沿って、彼の弟子たちが気象予測を長年かけて科学化することに成功した。そして、それから気候モデルが生まれた。ヴィルヘルム・ビヤクネスは5回にわたってノーベル賞候補に挙がったが、受賞するには至らなかった。しかしながら、今回の真鍋氏のノーベル物理学賞受賞によって、気象学は気候学を含めて世間からも名実ともに「科学」と広く認知されたのではないかと考えている。そういう意味で、気象学にとって真鍋氏のノーベル賞受賞は意義深いと感じている。

私は本の「9-2-8 ヴィルヘルム・ビヤクネスのその後」の中で「もしヴィルヘルム・ビヤクネスがノーベル賞を受けていたら、その後に気象学の発展に貢献した人たちの中からもノーベル賞を受けた人が出たかもしれない」と書いた。真鍋氏のノーベル賞受賞を機に、気象学の分野からさらにノーベル賞受賞者が出ることを期待したい。


2021年12月4日土曜日

天人相関説と気象学(2) 日本での天人相関説

 5 日本での天人相関説に対する考え方

5.1 律令制度での天人相関説

日本では、推古天皇の代の602年に百済の僧「観勒」がやってきて、暦本、天文地理書などの書を貢ぎ物として贈った。その頃に中国から日本に天人相関説とともに陰陽五行説や災異説も伝来し、7世紀の律令国家体制の形成時に、それらは政治的に利用される形で普及したとされている。しかし、中国のものをそのまま受け入れたのではなく、日本古来の神の思想や仏教の影響を受けて部分的な摂取や折衷が行われながら、あるいは独自の発展をしながら律令国家時代の日本に広まっていった [10]。

律令制度の下では、天人相関説の影響を受けた陰陽道を実践する朝廷の機関として陰陽寮」が設けられた。陰陽寮はいってみれば天文の状況を統治者である朝廷に報告する行政機関だった。そのために、陰陽寮には陰陽、暦、天文、漏刻(水時計で時を計る)の部門に各博士がいた。そして占いの専門職として陰陽師6名がいた。なお、陰陽師という名前は日本独自で、当時中国では陰陽家と呼ばれた。

陰陽寮の公職としての仕事は、御卜(占い)、天文密奏(天体や気象などの観測をして、何か異変があれば天皇に奏上すること)、祈祷(陰陽道祭)、祓え(天皇が人形に息を吹きかけて陰陽師に渡し、お祓いをしてもらって川に流す)、反閇(へいばい。禹歩とも言う独特の歩き方による祓い)、身固(みがため。身体を丈夫にするための呪術)、日の吉凶を含む暦(具注暦)の作成、日時・方角の占定などであり [4]、その仕事は多岐にわたっていた。

5.2 平安時代の陰陽道

平安時代に陰陽師として有名になる安倍晴明(921~1005年)は、陰陽師の賀茂保憲(917~977年)の弟子であった。賀茂保憲は天文道を我が子に授けたかったが、安倍晴明の器量が遙かに上回っていたため、子の賀茂光栄には比較的易しい暦道を授けて、安倍晴明に天文道を授けたともいわれている [11]。

陰陽寮の天文の部署に属していた安倍晴明はやがて頭角を現して、特に賀茂保憲の死後には天文に基づいて儀式を行う天皇や貴族にとって欠かせない人物となった。その後、賀茂家と安倍家が平安時代中期の陰陽師の2大宗家なった。安倍晴明が土御門大路近くに住んでいたことから、15世紀ころからその子孫は土御門氏を名乗るようになったようである [4]。

賀茂氏は戦国時代に断絶し、江戸時代には土御門氏が全国の陰陽師を支配するようになった。ただし、本の「7-1-2 日本での暦問題」で述べたように、当時の陰陽師は公職ではなく、一種の民間信仰に近い占いの実施者で、土御門家はその家元のような立場だった。

平安時代の陰陽師は天文観測を仕事として行っており、星々の細かな動きによる天変をいち早く知る立場にあった。そのため、陰陽師は天譴に基づいた政治と密接な関わりがあってもおかしくなかった。

天変には天を動き回る惑星が恒星に異常に近づくこと(犯)が含まれている。特に木星は当時「歳星」と呼ばれ、天子や天皇の運命を表すと考えられていた。安倍晴明が陰陽師だった寛和2年(985年)6月22日の夜半に、花山天皇が突如として元慶寺に赴いて退位して出家し、一条天皇が即位するという大事件が起こった。これは「寛和の変」と呼ばれており、右大臣だった藤原兼家が孫の一条天皇を即位させるためのクーデターだったともいわれている。

実はこの日、木星が今日でいう天秤座のアルファー星に異常接近したことが現在の天文解析からわかっている。惑星はその名の如く地上から見ると一見不規則な運行をするが、天文を詳しく観測していた陰陽師は、12年に一度この日に木星が天秤座のアルファー星に異常接近することを知っていた。そのことは当時陰陽師が使っていた天文図にも記されている。そのことから、安倍晴明がこの日に歳星が犯を起こすことを藤原兼家に告げ、藤原兼家が天皇の退位にそれを利用したのではないかという説もある [12]。

安倍晴明
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abe_Seimei.jpg

このように、平安期から鎌倉時代にかけても天人相関説は影響力があったと考えられている。1181年に超新星が現れた際には、九条兼実は人事が適切でないので天変が起こったと書き送っている。1245年の彗星と思われる現象が起こった際には、平経高は災害の下で譴責を行ったため、天の意に背いたと考えた [10]。1312年には花園天皇が天変や雷鳴を自らの不徳と捉えている[8]。また、その花園天皇は、1317年の地震により文保に改元してもさらに地震が続いたため、物忌み(蟄居)を行った [4]。

一方で、9世紀後半から10世紀にかけては、災害や怪異を天の譴責ではなく神・怨霊の崇りと見なす傾向が朝廷内で強まり、天人相関説を含む儒教の理念は衰退したともいわれている。たしかに当時の災害や高官の死を、例えば菅原道真の怨霊の仕業と考えて、それを鎮めるために天神社の設立などが積極的に行われた。そしてその怨霊の祓いにも陰陽師が活躍した。しかし、その祓いには仏教(加持祈祷)や神道、あるいは民間信仰も加わって、それぞれがそれぞれのやり方でさまざまな要請に応えていったようである。

しかしながら陰陽道研究家の下村周太郎氏は、平安期から鎌倉時代にかけてさまざまな記録から、「天文道を掌る陰陽師の言説や貴族たちの中国典籍の参看を媒介に、朝廷社会で天人相関説に関わる心性が維持・再生産されていたと言えるだろう。」と述べている[8]。このようにさまざまな形で折衷しながらも天人相関説は平安時代以降も残っていった。

しかし、天文現象(新星や彗星)と地上の気象災害は区別されて行ったようである。平安期以降、天文現象である天変(一部の地震を含む)は陰陽師の天文密奏(勘申)の対象として天人相関説に基づいて理解され続けたのに対して、自然災害や動植物の異変など他の災異はむしろ神祇官や陰陽寮の占い(卜占)の対象となった。安貞2年(1228年)7月22日に源頼経が遊興に出かけるのに翌日の天候を占わせて「曇り」とでたが、その通り翌日は曇りとなったので、占った安部泰貞は褒美をもらっている [4]。

5.3 日本での徳政について

天変などの天による譴責に対して朝廷がなすべき対応には、大きく分けると祈祷と徳政があった [10]。そして、天変の中で一番重要視されたものは彗星だったようである。彗星こそが「第一の変」と書かれている史料がいくつかあり、その際の対応は祈祷だけではなかった。公卿万里小路時房の日記である「建内記」には、永仁五年(1297年)の彗星の出現によって徳政が行われたことが記されている[8]。なお、徳政には「行事の中止」、「高官の謹慎」、「倹約」、「特赦」、「叙位」、「改元」、「譲位」が含まれる。「特赦」は、本来は徳政についての天に対する意思表示であったが、徐々に民衆に対する撫民という色合いが濃くなっていたようである。徳政による「改元」は承徳元年(1097年)など7回あったとされている。「譲位」については、彗星の出現をきっかけに土御門天皇の順徳天皇への譲位と、後堀河天皇の四条天皇への譲位が行われている。しかし、実際には政治的要因も大きく、彗星の出現が譲位を正当化する名目に使われた可能性も高いとされている[8]。なお、祈祷や徳政などは天変以外の非常時、例えば蒙古襲来時などにも異国降伏のために行われた。

5.4 気象占いについて

奈良朝、平安朝を経て鎌倉、室町時代の気象現象に関する記述及記録は多く、三代実録、文徳実録等を始めとして、その数約3000とも言われる [13]。それらは中国などで史記天官書や、准南子等に見られる天人相関理論、陰陽五行説の考え方を基礎としている。そして「気象占い」も数多く行われた。この気象占いというのは、天候を占うのではなく、天候を使って物事を占うのである。司馬遷の史記の「天官書」には、天文占いとともに雲気や気候によって占う気象占いについても記されている [4]。

武家政治の時代になっても、武将たちは陰陽師を顧問として雇って、その気象占いにしたがって作戦を立てたり、政治判断を行ったりしていた。甲府の武田神社には、「運気書」と呼ぼれる気象占いの巻物が伝えられている。これは武田信玄の直筆とも言われているが、作成されたのはそれよりやや新しいとされている。この書物は、運気、すなわち気象によって合戦などの状況を占う方法についてくわしく書かれたものである。

武田信玄の軍師であったといわれる山本勘助は気象占いをおこなった。山本勘助は、雲気・煙気といった気象のほかに、五音(五行思想にもとづいて分類された音)、三軍鳥(烏、鳶、鳩)などの自然現象や自然界に存在するものを用いて占っていたとされている [4]。武田信玄も自ら望気(星や風雲の状態から吉凶を占うもの)を学んでいたとされているが、信玄自身は占いを鵜呑みにせず、その時々の状況に依ってものごとを合理的に判断していたようである。


6 現代と天人相関説

近世になると、幕府には天変を天譴とする意識はほとんど見られなくなる。それは西洋近代天文学が入ってきて、幕府が暦作成のために「天文方」という組織を作るなどして天変という観念自体が否定され、朝廷の天文占ですら懐疑的ないし合理的な内容へと変転せざるを得なくなったためと思われる。しかし、現在において、天人相関説は我々の暮らしと全く無関係かというと、そうとは言い切れない部分がある。

本来、史記の「天官書」では天変かどうかを天文観測の結果に依っていた。一方で、中国では古くから讖緯思想と呼ばれる疑似科学的な思想があり、それを用いた運命論や「縁起かつぎ」が行われていた。この考え方と暦算天文学の発達が結びついて、三世紀のころには天文観測を用いた宿命占星術のようなものが現れた。

ところが暦学が進歩して惑星の位置などを観測せずに計算できるようになると、徐々に天文観測が行われなくなり、そういう手間がかかることを止めて簡便な方法がとられるようになった。例えば各日と惑星の位置との対応などから、暦にまつわる何らかの指標を机上で計算して暦に載せる暦註が作られるようになった。また惑星や太陽、月の位置に基づいた今後1年間の天候を予測した農事暦のようなものも作られるようになった。

そして、本来は天体の位置を観測して決めていた宿命としての運勢を、観測どころか天体の位置を計算することさえも止めて、定期的に繰り返す簡便な指標で代用して、それを暦に暦註として載せる方法に変わっていった [11]。そしてこの簡便な方法は、印刷による暦の普及とともに、一般の人々もその日の吉凶などの身辺事の運勢を暦註で間に合わせることが広まった。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六曜もそういった暦註の一部である。

現在、結婚式や葬式などの日取りには六曜が参考にされることが多い。しかしそれだけではなく、登記や契約の日も大安などが選ばれて、そういう日は役所や銀行の窓口が混雑するそうである。暦註も元はといえば天人相関説と密接な関係にあったわけで、現代でも人々の中に天人相関説の残滓が残っていると言えるのかもしれない。

(このシリーズおわり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86,.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.
[10] 菅原正子 (2011) 占いと中世人, 講談社.
[11] 中山茂 (1993) 占星術 その科学史上の位置, 朝日新聞社.
[12] NHK (2020) いにしえの天文学者安倍晴明. コズミックフロント☆NEXT. 2020月11月26日放映.
[13] 藤原咲平 (1951) 日本気象学史.岩波書店.