2022年2月17日木曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(2)

 藤田の生い立ち

彼は1920年に北九州の小倉で生まれた。彼の父親は地理の教師で学校長も務めた。しかし彼は18歳の頃に父親を結核で亡くし、12歳の妹と10歳の弟を彼が独力で支えなければならなくなった(その2年後には母親が結核で亡くなり、さらにその6年後には妹も同じく結核で亡くしている)。そういう状況ではとても進学して学問を続ける境遇ではなかった。しかし、当時の(旧制)小倉中学校の校長が、優秀だった彼が学問への道を断たれることを残念に思い、国立の明治専門学校へ授業料の要らない特待生として推薦してくれた [2]。なお彼は中学卒業式の際に、太陽の黒点観測から自転周期を求めた研究によって理科賞を授与された。

明治専門学校

藤田は北九州の明治専門学校(今の九州工業大学)の機械科に入学したが、苦しい生活をしのぐために家庭教師をした。このとき教えたのは後に料理研究家として有名になった江上トミの子息だった。また彼女から当時としては貴重な英文タイプライターを譲り受けた [3]。これが後述するように、背振山での観測論文を英文で書く際に役に立つことになった。

在学中に地質学の松本唯一教授の下で助手としてアルバイトをした。これには父親の影響もあったかもしれない。結局、明治専門学校では松本教授についてもっぱら地質学をやることが多かった。在籍した機械科では設計図の作図方法を習得するとともに、地質調査の際に松本教授から地図や地形の見方やその作成方法を徹底的に教わった。これは後にアメリカでの竜巻調査の際に、竜巻の移動経路の決定などに大きく役立ったと思われる。松本唯一は、その後九州大学教授および熊本大学理学部長を務めている。

藤田は母校である小倉中学(旧制)で代理教師もした。その際には権威主義的な当時の教科書を使わず、手製の絵による解説入り教科書を毎回ガリ版刷りで準備した [3]。これを用いた彼の授業はわかりやすく好評となった。この時から既に「誰にでもわかりやすく伝える」ということがモットーだったのだろう。これは、その後の研究成果の発表でも活かされることとなる。

卒業すると1943年に23歳で明治専門学校の物理科の助手となった。戦時中とはいえ異例の抜擢だった。これは、このとき学校側からアインシュタインの相対性理論を教えられるかと聞かれて、「できます」と答えたためとなっている [3]。しかも、わずか1か月後には助教授となった。

原子爆弾の爆発調査

この時期の特筆すべきことは、彼による原子爆弾調査である。彼は志願して8月下旬に行われた明治専門学校による長崎の調査団に加わった。当時新型爆弾が使われたことはわかっていたが、それがどんなものでどこで何発爆発したかはわかっていなかった。

彼は3日間にわたって、爆発の強力な下降気流による倒木や閃光によって残った影の方向と程度を綿密に調査した。その結果から、爆発地点を1か所と判断し、その爆発高度を浦上上空の地上520mと特定した。そして爆風の影響が最も強かったのはその直下ではなく、爆発地点直下から500mから700mほど離れた同心円状の地域だったと結論した [3]。


長崎へ投下された原子爆弾の爆発直後の様子
https://ww2db.com/image.php?image_id=20501

その後広島の原子爆弾の調査も行い、爆発高度を530mと推定した。また鉄柱の曲がり具合から長崎の爆弾(プルトニウム爆弾)の方が広島の爆弾(ウラン爆弾)より20%強力だったと結論した [4]。これらの調査が、原子爆弾による強力な下向き衝撃波によって引き起こされた状況を彼の脳裏に焼き付けることになった。

原爆投下後の鎮西学院中学校(現活水中・高校)付近の様子(後ろの建物)。爆心地に近い。1946年初め頃。何か調査しているのか連合国軍の兵士が見える。
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この長崎での調査は原子爆弾の投下からわずか10日程度の後であり、まだ現地の惨状が残ったままの状況だった。彼はご遺体の一つ一つに手を合わせながら調査したと述べている [4]。また彼は物理学者であり、放射線の恐ろしさを知っていた。調査中に同じところに長く留まらないなどの配慮を行った。後年彼は原爆症を心配したが、放射線の影響はなかったようである。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者 第1回「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2016年05月02日.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.

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