背振山での観測
藤田は明治専門学校で物理学を教えていたが、彼は研究をやりたかった。理論ではなくフィールド指向だった彼は、物理学で実験や観測を行おうとすると巨額の研究費が必要になる。戦後すぐの当時の日本ではそれは望むべくもなかった。彼は地質などの現地調査を行ううちに、気象に興味を持ったのかもしれない。
彼は「気象学を選びました。それが当時最も安かったんです。紙と色鉛筆で事足りた。」 [3]と述べている。日々の天気予報のために全国の気象台・測候所に気象観測インフラストラクチャが整備されており、定常観測のデータを気象台で見たり、書き写したりすることは可能だった(現在ではウェブサイトから自由にダウンロードできる)。つまり、気象分野は観測データをただで手に入れて研究できるのである。これが気象学が他の研究分野と大きく異なる特徴である。
彼は気象学の専門教育を受けていなかったが、福岡管区気象台に出入りするようになった。気象台でも最初はよくわからない人が来て当惑したようだが、試しに気象データを与えてみると驚くような解析結果を持ってきたりしたので、気象台でも藤田を職員と同じ様な待遇で扱うようになった [3]。
福岡市から開けた南を望むと、福岡県と佐賀県の県境に背振山という標高1055 mの山が見える。現在はそこに気象庁の気象レーダーが設置されているが、レーダーが設置される以前に山頂付近には測候所があった。1947年8月に藤田哲也はその山頂の測候所で観測を行った。これはむしろ福岡管区気象台の方からの提案だった [3]。8月24日の13時頃から積乱雲が通過し、その際に山頂付近で強風が吹いただけでなく、気圧が大きく変動した。それを分析した藤田は、発達した雷雲の下部のほぼ背振山頂の高さに今まで知られていなかった下降気流があるという結論を出した [4]。
1947年に背振山で観測した雷雲の断面図 [5]。図中のd~eにかけて下降気流の矢印が見える。
彼は1950年に、その結果を中央気象台(気象庁の前身)の欧文彙報に英文論文として積雲構造のスケッチとともに発表した。それまで積乱雲に上昇流があることは広く知られていたが、中に下降気流があることはあまり知られていなかった。ところが、実は中央気象台内では戦時中の雷雲の観測によって、その中に下降気流があるという観測記録が既にあった [3]。しかし、これはそれほど重視されていなかったようである。おそらく当時中央気象台を含む日本気象界では、台風や大雨など優先的に研究すべきことを多数抱えており、雷雲の構造などに気象学的な興味を持っていた人が少なかったということだろう。
渡米
日本とは対照的に、欧米、特にアメリカでは積乱雲を中心とした気象は航空機の航行に重大な影響を引き起こすため、戦争中から重大な関心を抱いて積極的にその研究を行っていた。当時アメリカでは雷雨のメカニズムを探るために巨額を投資して「サンダーストーム・プロジェクト」が行われており、そのプロジェクトをシカゴ大学のホレス・バイヤース教授が主導していた。バイヤースは「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献」で述べたように、ロスビーの弟子である。
ホレス・バイヤース(真ん中)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a6/Hall-Meng-Byers.gif
藤田は背振山測候所の隣にある米軍レーダー基地に行くと、そこの職員がゴミ箱の中の論文を拾って藤田に渡してくれた。それはサンダーストーム・プロジェクトの論文で、それにも雷雲の中に下降気流があることが示されていた [2]。彼の著書ではそうなっているが、これはどうも自分でゴミ箱の中に何か論文がないか探したというのが真相のようである [3]。当時欧米の論文を見ることは容易なことではなく、レーダーは航空機の運航と密接に関わっているために、レーダー基地内ならば航空機の運航に影響を与える雷雲に関する論文があるのではないかと思ったのかもしれない。
藤田はバイヤースとは知り合いでも何でもなかったが、このプロジェクトを率いていたバイヤースに自分の論文を直接送った。論文には彼による雷雲の明快な構造図が描かれていた。バイヤースははるか遠くの日本の名もない研究者が送ってきた論文に、ちょうど自分が発見したばかりの雷雲の中の下降気流のことが詳しく書かれていて驚いたに違いない。バイヤースはこの研究にかかった費用を藤田に尋ねている。バイヤースの研究費は200万ドルだったが、藤田の研究費は50ドル足らずだった [4]。
さっそくバイヤースは藤田を招聘しようとしたが、一つ問題があった。それは藤田が博士号を持っていないことだった。欧米では研究者として活動するには博士号が必須である。それでバイヤースはまず博士号を取ることを勧めた。藤田はちょうど博士号を取得しようとしていたところだった。彼が出入りしていた頃の福岡管区気象台のつてで東京大学の正野重方教授を紹介され、彼の下で台風をテーマとする博士論文を作成中だった(台風は雷雲とも密接に関連する)。
藤田と正野のことは「正野スクール:正野重方と日本の気象学者」で述べたとおりである。藤田は正野のことを「『父親のような人』で,私は彼に感銘を受けた」と語っている [6]。彼は博士号を取得した後、32歳で1953年8月にバイヤースがいるアメリカのシカゴ大学へ渡った。研究助手という身分だった。藤田は渡米してから2年半後にビザが切れたためいったん日本へ帰国したが、バイヤースによる再度の招聘で今度は研究教授という肩書きで、1956年に永住ビザを取得して家族共々渡米した [3]。
(つづく)
参照文献(シリーズ共通)
1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」. 藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
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