2021年12月21日火曜日

気象予測の科学化とノーベル賞

 真鍋淑郎氏がノーベル物理学賞を受賞した。気象学は物理学なのかと驚いた方もおられるかもしれないが、気象学においてはこの「ノーベル物理学賞」受賞の意義は深いと思う。20世紀初頭まで気象学は、当時の物理学、化学、数学などと比べて科学とは見なされていなかった。本の「8-8-1 気象学におけるベーコン主義の破綻」で述べているように、大学に気象学部はなく、気象学として学位授与課程はなかった。気象学専門の先生はおらず、他分野の専門家が片手間に気象学を教えていた。気象学に明確な理論体系はなく、一部の熱力学的な法則を除くと、経験に基づく定性的な内容がほとんどだった。例えば、当時の気象予測の原理の一つは「天気は西から東へ移動する」だった。それから先の予報手法は経験ごとに予報者の数だけ異なった。

その状況を変えようとしたのはドイツの物理学者のヴィルヘルム・ビヤクネスだった。彼は電磁気学の研究者だったが、やはり科学者だった父親を手伝うために流体力学も研究した。その過程で彼は1897年に「ビヤクネスの循環定理」を発見した。これは流体力学の一般的な理論だったが、気象にも当てはめることが出来た。これをきっかけにしてビヤクネスは気象学へ足を踏み込んでいく。一方で、本の「9-1-3 ビヤクネスの気象学への転向」で述べているように、当時古典物理学から相対性理論・量子論への急激な変革が進んでいた物理学分野では、彼は評価されなくなっていった。

その彼が当時の気象学の状況を見て、1904年に唱えたのが「気象予測の科学化」である。これは本の「9-1-4 気象予測の科学化という目標」で述べているように、気象予測を物理学方程式を用いて行おうという壮大な考えだった。これは容易なことではなかった。なぜならば、仮に理論が出来たとしても予測を決定するためには、予測の対象時刻の前までに観測結果を用いた解析を終えて結論を出さなければならない。各地の観測結果を集めて膨大な計算を行って1日あるいは数日先の気象予測を行うのは、簡易的な手動計算機しかなかった当時は、事実上実現不可能だった。しかし、ヴィルヘルム・ビヤクネスはこれに挑んだ。1914年に彼はこう述べている。

誰しも直ちに達成できることだけを目的とするとは限りません。おそらく到達不能なほど遠い目的であっても、それにまっすぐに向かう努力は1つの針路を定める役目を果たします。

ヴィルヘルム・ビヤクネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bjerknes.jpg

ヴィルヘルム・ビヤクネスは、気象予報のための物理方程式群を作成するとともに、「大気力学でのソレノイド」で述べたように、気象予報に視覚的な手法を利用しようとした。ところが、イギリスのリチャードソンは、第一次世界大戦中に当時新しかった差分法という数学手法を用いて、物理方程式群を改良した独自に数値計算による気象予測の試算を行った。もし成功すれば、64000人の計算者からなる「予報工場」の設立を夢見ていた。しかし、リチャードソンが計算した予測値は実際の値と大幅に異なり、彼の試みは失敗に終わった。これは本の「10-3-3 数値予報の課題」で述べているように、気象予報は原理としては可能だったが、数値計算の過程で起こる問題点がよく解明されていなかったためである。

その後、第二次世界世界大戦後に、本の「10-2-3 数値予報への胎動」で述べたように、天才フォン・ノイマンが電子コンピュータを使った気象予報を推進し(フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1参照)、また「10-3 傾圧不安定理論と準地衡風モデル」で述べたようにジュール・チャーニーという数学に長けた気象学者が物理方程式を改良したおかげで、電子コンピュータを使った数値予報が実現された。そして、「気候学の歴史(7):気候モデルの登場」で述べたように、この気象予報モデルを利用して生まれたのが、地球大気の平均的な流れ再現する大循環モデルである。これを真鍋淑郎氏などが改良して、気候をシミュレーション・予測する気候モデルへと発展させた。これにより地球温暖化研究という分野が生まれて、気候学は実証可能な(と考えられる)科学となった。これが真鍋氏のノーベル賞受賞につながったと私は見ている。

これはもとはと言えば、ヴィルヘルム・ビヤクネスが当時学問としてはひ弱だった気象学に、気象予測の科学化という当時から見ると到達不可能な目標を敢えて設定したおかげである。彼が敷いたレールに沿って、彼の弟子たちが気象予測を長年かけて科学化することに成功した。そして、それから気候モデルが生まれた。ヴィルヘルム・ビヤクネスは5回にわたってノーベル賞候補に挙がったが、受賞するには至らなかった。しかしながら、今回の真鍋氏のノーベル物理学賞受賞によって、気象学は気候学を含めて世間からも名実ともに「科学」と広く認知されたのではないかと考えている。そういう意味で、気象学にとって真鍋氏のノーベル賞受賞は意義深いと感じている。

私は本の「9-2-8 ヴィルヘルム・ビヤクネスのその後」の中で「もしヴィルヘルム・ビヤクネスがノーベル賞を受けていたら、その後に気象学の発展に貢献した人たちの中からもノーベル賞を受けた人が出たかもしれない」と書いた。真鍋氏のノーベル賞受賞を機に、気象学の分野からさらにノーベル賞受賞者が出ることを期待したい。


2021年12月4日土曜日

天人相関説と気象学(2) 日本での天人相関説

 5 日本での天人相関説に対する考え方

5.1 律令制度での天人相関説

日本では、推古天皇の代の602年に百済の僧「観勒」がやってきて、暦本、天文地理書などの書を貢ぎ物として贈った。その頃に中国から日本に天人相関説とともに陰陽五行説や災異説も伝来し、7世紀の律令国家体制の形成時に、それらは政治的に利用される形で普及したとされている。しかし、中国のものをそのまま受け入れたのではなく、日本古来の神の思想や仏教の影響を受けて部分的な摂取や折衷が行われながら、あるいは独自の発展をしながら律令国家時代の日本に広まっていった [10]。

律令制度の下では、天人相関説の影響を受けた陰陽道を実践する朝廷の機関として陰陽寮」が設けられた。陰陽寮はいってみれば天文の状況を統治者である朝廷に報告する行政機関だった。そのために、陰陽寮には陰陽、暦、天文、漏刻(水時計で時を計る)の部門に各博士がいた。そして占いの専門職として陰陽師6名がいた。なお、陰陽師という名前は日本独自で、当時中国では陰陽家と呼ばれた。

陰陽寮の公職としての仕事は、御卜(占い)、天文密奏(天体や気象などの観測をして、何か異変があれば天皇に奏上すること)、祈祷(陰陽道祭)、祓え(天皇が人形に息を吹きかけて陰陽師に渡し、お祓いをしてもらって川に流す)、反閇(へいばい。禹歩とも言う独特の歩き方による祓い)、身固(みがため。身体を丈夫にするための呪術)、日の吉凶を含む暦(具注暦)の作成、日時・方角の占定などであり [4]、その仕事は多岐にわたっていた。

5.2 平安時代の陰陽道

平安時代に陰陽師として有名になる安倍晴明(921~1005年)は、陰陽師の賀茂保憲(917~977年)の弟子であった。賀茂保憲は天文道を我が子に授けたかったが、安倍晴明の器量が遙かに上回っていたため、子の賀茂光栄には比較的易しい暦道を授けて、安倍晴明に天文道を授けたともいわれている [11]。

陰陽寮の天文の部署に属していた安倍晴明はやがて頭角を現して、特に賀茂保憲の死後には天文に基づいて儀式を行う天皇や貴族にとって欠かせない人物となった。その後、賀茂家と安倍家が平安時代中期の陰陽師の2大宗家なった。安倍晴明が土御門大路近くに住んでいたことから、15世紀ころからその子孫は土御門氏を名乗るようになったようである [4]。

賀茂氏は戦国時代に断絶し、江戸時代には土御門氏が全国の陰陽師を支配するようになった。ただし、本の「7-1-2 日本での暦問題」で述べたように、当時の陰陽師は公職ではなく、一種の民間信仰に近い占いの実施者で、土御門家はその家元のような立場だった。

平安時代の陰陽師は天文観測を仕事として行っており、星々の細かな動きによる天変をいち早く知る立場にあった。そのため、陰陽師は天譴に基づいた政治と密接な関わりがあってもおかしくなかった。

天変には天を動き回る惑星が恒星に異常に近づくこと(犯)が含まれている。特に木星は当時「歳星」と呼ばれ、天子や天皇の運命を表すと考えられていた。安倍晴明が陰陽師だった寛和2年(985年)6月22日の夜半に、花山天皇が突如として元慶寺に赴いて退位して出家し、一条天皇が即位するという大事件が起こった。これは「寛和の変」と呼ばれており、右大臣だった藤原兼家が孫の一条天皇を即位させるためのクーデターだったともいわれている。

実はこの日、木星が今日でいう天秤座のアルファー星に異常接近したことが現在の天文解析からわかっている。惑星はその名の如く地上から見ると一見不規則な運行をするが、天文を詳しく観測していた陰陽師は、12年に一度この日に木星が天秤座のアルファー星に異常接近することを知っていた。そのことは当時陰陽師が使っていた天文図にも記されている。そのことから、安倍晴明がこの日に歳星が犯を起こすことを藤原兼家に告げ、藤原兼家が天皇の退位にそれを利用したのではないかという説もある [12]。

安倍晴明
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abe_Seimei.jpg

このように、平安期から鎌倉時代にかけても天人相関説は影響力があったと考えられている。1181年に超新星が現れた際には、九条兼実は人事が適切でないので天変が起こったと書き送っている。1245年の彗星と思われる現象が起こった際には、平経高は災害の下で譴責を行ったため、天の意に背いたと考えた [10]。1312年には花園天皇が天変や雷鳴を自らの不徳と捉えている[8]。また、その花園天皇は、1317年の地震により文保に改元してもさらに地震が続いたため、物忌み(蟄居)を行った [4]。

一方で、9世紀後半から10世紀にかけては、災害や怪異を天の譴責ではなく神・怨霊の崇りと見なす傾向が朝廷内で強まり、天人相関説を含む儒教の理念は衰退したともいわれている。たしかに当時の災害や高官の死を、例えば菅原道真の怨霊の仕業と考えて、それを鎮めるために天神社の設立などが積極的に行われた。そしてその怨霊の祓いにも陰陽師が活躍した。しかし、その祓いには仏教(加持祈祷)や神道、あるいは民間信仰も加わって、それぞれがそれぞれのやり方でさまざまな要請に応えていったようである。

しかしながら陰陽道研究家の下村周太郎氏は、平安期から鎌倉時代にかけてさまざまな記録から、「天文道を掌る陰陽師の言説や貴族たちの中国典籍の参看を媒介に、朝廷社会で天人相関説に関わる心性が維持・再生産されていたと言えるだろう。」と述べている[8]。このようにさまざまな形で折衷しながらも天人相関説は平安時代以降も残っていった。

しかし、天文現象(新星や彗星)と地上の気象災害は区別されて行ったようである。平安期以降、天文現象である天変(一部の地震を含む)は陰陽師の天文密奏(勘申)の対象として天人相関説に基づいて理解され続けたのに対して、自然災害や動植物の異変など他の災異はむしろ神祇官や陰陽寮の占い(卜占)の対象となった。安貞2年(1228年)7月22日に源頼経が遊興に出かけるのに翌日の天候を占わせて「曇り」とでたが、その通り翌日は曇りとなったので、占った安部泰貞は褒美をもらっている [4]。

5.3 日本での徳政について

天変などの天による譴責に対して朝廷がなすべき対応には、大きく分けると祈祷と徳政があった [10]。そして、天変の中で一番重要視されたものは彗星だったようである。彗星こそが「第一の変」と書かれている史料がいくつかあり、その際の対応は祈祷だけではなかった。公卿万里小路時房の日記である「建内記」には、永仁五年(1297年)の彗星の出現によって徳政が行われたことが記されている[8]。なお、徳政には「行事の中止」、「高官の謹慎」、「倹約」、「特赦」、「叙位」、「改元」、「譲位」が含まれる。「特赦」は、本来は徳政についての天に対する意思表示であったが、徐々に民衆に対する撫民という色合いが濃くなっていたようである。徳政による「改元」は承徳元年(1097年)など7回あったとされている。「譲位」については、彗星の出現をきっかけに土御門天皇の順徳天皇への譲位と、後堀河天皇の四条天皇への譲位が行われている。しかし、実際には政治的要因も大きく、彗星の出現が譲位を正当化する名目に使われた可能性も高いとされている[8]。なお、祈祷や徳政などは天変以外の非常時、例えば蒙古襲来時などにも異国降伏のために行われた。

5.4 気象占いについて

奈良朝、平安朝を経て鎌倉、室町時代の気象現象に関する記述及記録は多く、三代実録、文徳実録等を始めとして、その数約3000とも言われる [13]。それらは中国などで史記天官書や、准南子等に見られる天人相関理論、陰陽五行説の考え方を基礎としている。そして「気象占い」も数多く行われた。この気象占いというのは、天候を占うのではなく、天候を使って物事を占うのである。司馬遷の史記の「天官書」には、天文占いとともに雲気や気候によって占う気象占いについても記されている [4]。

武家政治の時代になっても、武将たちは陰陽師を顧問として雇って、その気象占いにしたがって作戦を立てたり、政治判断を行ったりしていた。甲府の武田神社には、「運気書」と呼ぼれる気象占いの巻物が伝えられている。これは武田信玄の直筆とも言われているが、作成されたのはそれよりやや新しいとされている。この書物は、運気、すなわち気象によって合戦などの状況を占う方法についてくわしく書かれたものである。

武田信玄の軍師であったといわれる山本勘助は気象占いをおこなった。山本勘助は、雲気・煙気といった気象のほかに、五音(五行思想にもとづいて分類された音)、三軍鳥(烏、鳶、鳩)などの自然現象や自然界に存在するものを用いて占っていたとされている [4]。武田信玄も自ら望気(星や風雲の状態から吉凶を占うもの)を学んでいたとされているが、信玄自身は占いを鵜呑みにせず、その時々の状況に依ってものごとを合理的に判断していたようである。


6 現代と天人相関説

近世になると、幕府には天変を天譴とする意識はほとんど見られなくなる。それは西洋近代天文学が入ってきて、幕府が暦作成のために「天文方」という組織を作るなどして天変という観念自体が否定され、朝廷の天文占ですら懐疑的ないし合理的な内容へと変転せざるを得なくなったためと思われる。しかし、現在において、天人相関説は我々の暮らしと全く無関係かというと、そうとは言い切れない部分がある。

本来、史記の「天官書」では天変かどうかを天文観測の結果に依っていた。一方で、中国では古くから讖緯思想と呼ばれる疑似科学的な思想があり、それを用いた運命論や「縁起かつぎ」が行われていた。この考え方と暦算天文学の発達が結びついて、三世紀のころには天文観測を用いた宿命占星術のようなものが現れた。

ところが暦学が進歩して惑星の位置などを観測せずに計算できるようになると、徐々に天文観測が行われなくなり、そういう手間がかかることを止めて簡便な方法がとられるようになった。例えば各日と惑星の位置との対応などから、暦にまつわる何らかの指標を机上で計算して暦に載せる暦註が作られるようになった。また惑星や太陽、月の位置に基づいた今後1年間の天候を予測した農事暦のようなものも作られるようになった。

そして、本来は天体の位置を観測して決めていた宿命としての運勢を、観測どころか天体の位置を計算することさえも止めて、定期的に繰り返す簡便な指標で代用して、それを暦に暦註として載せる方法に変わっていった [11]。そしてこの簡便な方法は、印刷による暦の普及とともに、一般の人々もその日の吉凶などの身辺事の運勢を暦註で間に合わせることが広まった。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六曜もそういった暦註の一部である。

現在、結婚式や葬式などの日取りには六曜が参考にされることが多い。しかしそれだけではなく、登記や契約の日も大安などが選ばれて、そういう日は役所や銀行の窓口が混雑するそうである。暦註も元はといえば天人相関説と密接な関係にあったわけで、現代でも人々の中に天人相関説の残滓が残っていると言えるのかもしれない。

(このシリーズおわり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86,.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.
[10] 菅原正子 (2011) 占いと中世人, 講談社.
[11] 中山茂 (1993) 占星術 その科学史上の位置, 朝日新聞社.
[12] NHK (2020) いにしえの天文学者安倍晴明. コズミックフロント☆NEXT. 2020月11月26日放映.
[13] 藤原咲平 (1951) 日本気象学史.岩波書店.

2021年11月29日月曜日

天人相関説と気象学(1)中国での 天人相関説

中国で始まった天人相関説は、政治を含めて当時の人々に大きな影響を与えた。そのことは「古代中国での気象学(1)初期の考え方」や「古代中国での気象学(2)天人相関思想」で簡単に説明した。しかしそれだけではなく、天人相関説は日本にも伝わって今でも日本人の生活に影響を及ぼしている。

古代から中世にかけての中国や日本の思想史に関する書物は数多くあり、ここで改めてそれらの思想を網羅するつもりはない。しかし、当時の気象災害などに対する考え方は当時の思想とも強く結びついており、上記の「古代中国での気象学(1)・(2)」と一部重複するかもしれないが、気象災害や天文現象が天人相関説などと結びつけられてどう捉えられていたのかを見てみたい。

なお、天人相関説では上記ブログで説明したように、天と地上(人間界)が双方向で影響し合う。しかし「アリストテレスの二元的宇宙像」でも述べたように、西洋の古代ギリシャ自然哲学では、人間を含む地上界は天上界に影響を及ぼすことはない。その後のキリスト教では、自然災害は人間の行為に対する神による罰や試練と捉えられることがあった。その場合は神が自然をそのように操作しているのであって、神と自然は別物であった。東洋では自然神という言葉があるように、影響を及ぼす主体である天は自然は明確には分けられず、渾然としているようである。

1 漢時代より前の災害に対する考え方

1.1 古代

人類が農耕生活を始めるようになって以来、農業生産をはじめとして人間の生活は天候状態に左右されることが極めて大きくなった。古代中国では天文の動きから天候の推移を予測しようとした。そしてそれは天文を利用した占いへと発展した。経書の一つ「周易」は、天文観測の結果にもとづいて今後の吉凶を説いた占いの書である [1]。当時の異常気象による不作は即飢饉へとつながったので、これから雨が降るかどうかというようなことは、当時の人々にとって極めて重要な問題だった。そのため、洪水や干ばつの予測のためにさまざまな自然現象に基づいた占いによる天候予測が試みられた。天候予測は収穫の豊凶占いでもあった [2]。

また、古代中国の音楽は12の音階で出来ていた。この音階は律管という竹でできた楽器が出す音律(音色)に基づいており、この12律が定まるのは天地の風気が正しい時のことと考えられていた。そのため、この音色で天気や気候を占ったり確かめたりすることも行われた(律管候気) [2]。また、この音律の数と暦が融合して24節ができたという説もある。

古代の気象占いは動物の骨や亀の甲羅に碑文の形で残っている。 多くの場合、これらの碑文は雨がたくさん降るかどうかなどが神への質問の形になっている [3]。日本でも古くから太占(ふとまた)と呼ばれた鹿の骨を使った占いや亀卜(きぼく)と呼ばれる亀の甲を使った占いが行われ、遺跡からその跡も見つかっている [4]。

1.2 殷・周時代

古代中国では「天」は意思を持ち、その子である「帝」は神として、雨を降らことも干ばつを起こして飢饉をもたらすこともでき、自然と人事にたいして絶対的な権力を持っていた [4]。その古代中国の王朝「」で信仰されていた帝は、自然神の一つでありながら別格の存在であり、殷の王はその直系の子孫であるとされた [4]。

前1027年に殷を滅ぼした「」王朝は、帝に代わって「天」を信奉した [4]。周では殷の王権(帝位)を奪ったことを正当化するために、殷の滅亡を天によって下された命とした。そして、天は徳のない統治者から位を奪い、有徳者に位を与えて統治者とすることを唱えた。これが天命説となった [4]  [5]。つまり、天は自然の万物、万象の絶対的支配者であり、天は人間の世界から誰かを自分の「子」として選び、その子が「天子」として人間世界を支配するということである。そしてその天からの支配権の委譲が「天命」と考えられた。

しかし天は直接には語らない。そのため、洪水や干ばつなどの天変地異は、天が地上における有徳の政治が失われた状態を見てそれらを引き起こしたと考えられた [4]。つまり天命とは、天命を受けた者は統治者となるが、その統治者に倫理的・政治的な過失があれば、天は災異によって警告する。統治者がそれを改めなければ天は最終的に統治者の命を奪って滅亡させ、別な有徳者に天命を授けて次の統治者となすというものだった [5]。これは「易姓革命」とも呼ばれている [6]。

また周王朝の「周礼」では、当時既に自然現象に基づいた占いが行われたとされている。日食、月食、五惑星(木星・火星・土星・金星・水星)の会合などの天文現象から吉凶を占うだけでなく、気象(雲や風や虹、太陽の周囲に現れる暈)からも水害や干ばつなどを予測し、諸国の農作物の豊穣・凶作を占うことが行われた [1]。

2 災異説

しかし、天は王朝の交替をも決定するという思想は諸刃の剣であり、「天命」は徳ある者に政権を付与する一方で、徳を失った統治者からは政権を奪うことも正当化した。天は、統治者の権力の根拠であると同時に、それを制限する根拠ともなった [4]。例えば中国においては治水によって河川の氾濫による被害を防ぐことが統治者の大きな課題だった。そのため、後漢時代の辞書である「説文解字」によると「政治」という言葉は「正しい治水」から来ているとも言われている [1]。このため、洪水の発生は統治者が民を正しく治めることができなかった証拠とも見なされた。そのため天変地異が発生すると、それは正しい政治が失われたためと解釈された。この考えは「災異説」となっていった。 

上記の災異説の一つの典型的な考え方は、統治者が立派な徳を身につけて正しい政治を行えば、天はその徳を感じて雨、陽光、暖、寒、風という天の恵みを地上にもたらす。逆に統治者の徳を失って悪政を行うと、天は長雨や干ばつ、あるいは冷夏や暖冬などの天候不順、地震や水害・虫害・疫病などの災害異変を起こすというものである [1]。災異説は儒教に取り入れられたため広く流布し、後述するように前漢の董仲舒によって政治へと反映されていくことになる。

3 陰陽説

古代中国で広く信じられていた自然観は陰陽説である。これはいろんな物を陰と陽に分類し、両者の生成消滅のバランスで世界が成り立っているという考え方である。陽を代表するものには天、男、太陽などが挙げられ、陰を代表するものには地・女・月などが挙げられる。両者は対等で物事の裏表であり、優劣があるわけではなく、またどちらかだけでは世界は成り立たない。四季の循環もその陰陽説で生まれるとされており、草木は陽気の兆す春に芽吹き、陽気の最も盛んな夏に生育し、陰気と陽気とが交わる秋になると実を結び、陽気が衰えて陰気が満ちる冬に枯死する。そして、それらは絶えず繰り返されると考えられた [1]。

これに、中国戦国時代の思想家だった鄒衍が、世界は木、火、土、金、水の五つの要素から構成されるという五行説を加えて、「陰陽五行説」が完成した。この考え方は儒教に大きな影響を与えた。

陰陽説を表す太極図

4 漢時代前後の災害に対する考え方

天人相関説は災異説、陰陽五行説などと融合して儒教の一部となり、その儒教は当時の政府に取り入れられ、いわば「国教」となった。当時の天人相関説に関する代表的な書物や人物の考え方を紹介する。

4.1 呂氏春秋

呂氏春秋」は、秦の丞相であった呂不韋(? ~紀元前235年)が編纂して紀元前239年に完成したとされている。これは各季節をさらに「孟」、「仲」、「季」の順に3分してその気象や気候を記した12の「紀」からなっている。ただし夏至や冬至は真ん中の「仲夏紀」と「仲冬紀」に含まれており、現在の季節とは1か月程度ずれている。呂氏春秋によると、季節は陰陽五行説に基づいて陽気と陰気とが1年周期でその勢力が交代するために起こる。しかしその交代は因循的、規則的なものではなく、その時々の状況、特に夏至と冬至の頃の状況がその後の両者の勢力の度合いに影響して、続く冬や夏の動向が決まるというものであった。そしてその季節の状況には天人相関思想に基づいて人間の振る舞いも含まれていた [7]。そのため、統治者は季節の動向にも注意しなければならなかった。

4.2 淮南子

淮南子」は、高祖の孫で淮南王となった劉安(紀元前179年~紀元前122年)が、学者を集めて編纂させた思想書である。淮南子では、災異説に基づいて統治者は天に従わねばならない。それを怠ると天に異変が生ずるとし、人間の行動は天すなわち自然にも作用すると考えられた。天地自然と人間との間は、「気」を通して相互に作用することで、天は統治者が人々に対して正しい政治をしているかどうかを判断するとされた。

例えば、「淮南子」の「天文訓」では、

人主之情,上通於天,故誅暴則多飄風,枉法令則多蟲螟,殺不辜則國赤地,令不收則多淫雨.

(統治者の感情は天に届いているので、暴力的な罰は多くの風を引き起こし、無駄な法律は多くの昆虫の害を引き起こし、罪のない人々を殺すことは国の荒廃をもたらす。そしてそれらを受け入れなければ多くの雨が降ることになる。)としている。

しかし、淮南子では災異に関する説話を引用しているだけで災異説を論理的に細密に構築しているわけではない [8]。淮南子での考えは陰陽思想に基づいており、清陽と重濁の気、つまり陽と陰の気が上下に分離、凝縮して天と地が形成されたとしている。そして、雨、雷、雪などの気象も天と地の気に起因する。洪水や早魅も陰陽の気の生み出す現象とした [4]。また、人間は自然にも作用するとしたため、雨乞いの根拠にもなった。また、「淮南子」に既に二十四節気が記されていることは注目される。

4.3 董仲舒

前漢の儒学者、董仲舒(紀元前176年? ~紀元前104年?)は、統治者である皇帝の専制的権力を正当化するために、天人相関説という新しい統治のイデオロギーを提示した。その元となった考え方は災異説である。つまり、自然界の陰と陽とがバランスしているならば、雨は然るべき時に然るべく降り、風は然るべき時に然るべく吹く、その結果農作物は豊かに実る。ところが災害異変が発生して農作物に被害が出るのは、地上での悪政に天が鳴らした警鐘であるというものであった。つまり異常気象は政治を行う統治者に原因があるとするものである。

董仲舒は「春秋繁露」で次のように述べている。そもそも災害異変はことごとく国家の失政によって生ずるものである。国家に失政の兆しがあると、天は災害を起こしてその国に警告する(天譴)。天が譴告しているのに天の意を理解しようとしない場合、天は次に怪異を示してその国を威嚇する。それでも非を改めようとしなければ厳罰を下して国を滅ぼす[6]。

これは天は統治者の政治を監視して、統治者(とその側近)によって失政や悪政が起これば、天はそれを咎めて天変地異(天譴)を起こして、国家の存亡を警告するという政治理論となった。彼の天人相関説は、秦の始皇帝が苛烈な専制政治によって大勢の民を苦しめた後、わずか数十年で滅亡したことを踏まえて、統治者の権力が暴走することを防ぐためとも考えられている [1]。 

この天人相関説のため、統治者は天のもたらす自然現象にたえず注意して、天の意思にかなった政治に努めることが必要になった。そしてその天の意思をまず示すものは、彗星や新星などの天体の異常とされた。そのため、天体観測は統治者にとって重大事となった [4]。逆に彩雲などの気象は祥瑞とされ、善政を布いた統治者への称揚と考えられた。また董仲舒は、人間の気は天の気へ影響するため、人間の行為によって雨を降らせることも止めることも可能であると考えていた [4]。

4.4 天人相関説に基づいた漢時代の政治

前漢の時代は、董仲舒の災異説の影響を色濃く受けた政治が行われた。しかし、天の監視対象は統治者だけではなかった。漢の正史である「漢書」には

『人君』は『心』を正して『朝廷』を正し、『朝廷』を正して『百官』を正し、『百官』を正して『万民』を正し、『万民』を正して『四方』を正す。

とある [9]。つまり、君主は一人で政治を行うのではなく、有能な臣下を組織してその助けを得て政治を行うと考えられ、逆に言うと、天譴や災異は臣下の行動にも関連すると考えられるようになった。

前漢の武帝の時代に太史令となった司馬遷は「史記」の「天官書」に天の異常現象のもつ意味を詳細に記述した占星の記事を収めた [4]。そのため、漢時代以は天に異変が起こると、その意味を天官書に従って調べて報告したり、対処したりする役職が置かれた。つまり天の観測は行政の一部となった。

前漢の考え方は後漢にもひきつがれ、天についても董仲舒の思想が正統的な位置を維持した。しかし、その思想の核にあった災異説は、五行説と融合してより神秘性の強い考え方となっていった [4]。例えば、災異を木火土金水の五行の循環を用いて解釈し、自然と人間の未来を予言しようとするものなどである。それは一種の宿命占星術のようなもので、怪しいものも含めていろいろな形で広がっていった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.




2021年10月11日月曜日

正野スクール:正野重方と日本の気象学者

 1 正野スクール

2021年にノーベル賞を受賞した気象学者の真鍋淑郎博士については、「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」でその業績を紹介したが、東京大学では正野重方教授の学生だった。そして真鍋博士を含む正野重方から教えを受けた気象学者たちは正野スクールと呼ばれている。

一般に、ある特定の指導者を中心にその人が開発した発想や手法をベースに研究を行っている研究者たちを「・・・学派」と呼ぶことがある。気象学でもヴィルヘルム・ビヤクネスを中心としたベルゲン学派(ノルウェー学派)、ライプチッヒ学派、ロスビーを中心としたシカゴ学派などが有名である。この学派という言葉は英語の「スクール」を訳したものである。そして日本では、1950年代から1960年代にかけて東京大学の気象学講座教授だった正野重方(1911 - 1969)が育てた気象学者たちのグループを「正野スクール」と呼ぶ。正野と正野スクールについては、本の「10-6 日本での数値予報の開始」で述べたが、今回、正野スクールについて補足する。

これは個人的な推測だが、正野重方が育てた大勢の気象学者のグループが「正野学派」ではなく「正野スクール」と呼ばれているのは、彼の薫陶を受けた気象学者たちがある特定の研究スタイルを取っているのではなく、かつ気象学の多くの分野に数多くの気象学者を輩出しているため、「学派」という呼び名では括れないからではないだろうか。

正野重方は将来に対する卓越した洞察力と数理物理学の豊富な知識を持っていた。ただ、それを活かした大気擾乱の理論化については、後述するようにアメリカの優れた気象学者チャーニーに先を越された。しかしながら、傑出した統率力と優れた教育手腕とによって、大勢の優れた気象学者を育てた。彼は57才という比較的若い年齢で亡くなったため、気象学者以外にはあまり名前が知られていないのではなかろうか。アメリカの気象学者レウィス(John M. Lewis)は正野のことを、あまり評価されておらず知られていない教育者「uncelebrated teacher」と呼んで、もっと国際的な評価を受けて然るべきだと述べている [1]。

正野スクールの気象学者たちは、日本だけでなく世界で活躍している。その中に今回ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏も含まれている。真鍋氏のノーベル賞受賞には、同氏の卓越した能力と努力の結果であることは間違いない。しかし、科学の発達には研究資金や機材だけでなく、直接的あるいは間接的に師による薫陶や人材育成が大きく影響を及ぼすことが多い。正野が育てた気象学者たちは、戦後の日本と世界の気象学の発展と不可分の関係にある。


真鍋淑郎博士
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crafoord_Prize_EM1B0732_(42329290061).jpg

2 正野重方と彼の研究

正野重方は東京帝国大学理学部で物理学を学び、その後同大学で地震波の研究を行い、1940年に博士号を得た。しかし、彼は寺田寅彦との交流によって気象学に強い関心を抱いていた。また日本の気象学の父、岡田武松にも興味を持っていた [2 ページ: 503]。当時、東京帝国大学には気象学教室はなく、彼は中央気象台(現在の気象庁)に就職した。

中央気象台で彼は、地震波に関する知識を活かして大気波の擾乱の研究を行った。1944年に東京帝国大学に気象学講座が開設されると、彼は中央気象台職員の身分を兼務したままその助教授に就任した。ちなみに当時の教授は中央気象台長の藤原咲平だった。

本の「10-3-2 傾圧不安定理論の確立」で述べたように、アメリカのジュール・チャーニーが、低気圧の発達の仕組みと関係が深い大気擾乱の傾圧不安定についての理論化を行い、1947年に論文として発表した。この論文は遅れて1949年に日本に入ってきた。この論文を見て、彼は地球物理学教室の研究室に駆込んできて、「見ろ!この論文は気象学を近代化している!」と興奮して叫んだ [2]。チャーニーによる成果は、コンピュータを使って気象予報を行う数値予報への新たな扉を開くものだった。それは正野が目指していたものでもあり、チャーニーに先に達成されてしまって彼は深く落胆した。しかし、彼は1949年に専任の教授となり、1950年に大気擾乱に関する一連の研究によって学士院賞を授与された。また1961年にはアメリカ気象学会の名誉会員にも選出されている。また現在、日本気象学会では正野賞を設けて「気象学及び気象技術に関し貴重な研究をなした若手研究者に対する顕彰」を行っている。

大気擾乱の理論化については先を越されてしまったが、本の「10-6日本での数値予報の開始」で述べたように、彼は日本の気象学のリーダーとして数値予報のために、大学や気象庁の有志による数値予報グループ(NPグループ)を組織して日本での数値予報の実現を推進した。そしてそれは日本での数値予報の実現に大きな役割を果たした。彼はそれらの活動を通して、気象力学に関連した多くの研究を体系化、総合化して気象力学を数理物理学に匹敵する数学的秩序と厳密な学問にしようとした [2 ページ: 505]。また、多くの若手と関わりを持つことによって、多くの優秀な気象学者を育てることにもなった。


3 正野スクールのメンバー

ここでは正野スクールのメンバーを [3]に従って紹介する。彼らは気象学界の中では有名な方々ばかりである。ただし、ひとえにメンバーと言っても正野との関係は様々である。

  • 磯野謙二(雲物理学):名古屋大学
  • 藤田哲也*(トルネード):北九州工科大学→シカゴ大学
  • 井上栄一(乱流):農業技術研究所
  • 小倉義光*(大気乱流):MIT→東京大学→イリノイ大学→東京大学→海洋研究所
  • 岸保勘三郎*(気象力学):プリンストン高等研究所→気象研究所→気象庁→東京大学
  • 増田善信(数値予報):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 村上多喜雄*(気象力学):気象研究所→ハワイ大学
  • 荒川昭夫*(大気大循環):気象研究所→カルフォルニア大学
  • 大山勝道*(ハリケーン):気象庁→ニューヨーク大学
  • 松本誠一(気象力学):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 森安茂雄(海洋学):気象庁→気象研究所→気象庁
  • 伊藤宏(数値予報):気象研究所→気象庁
  • 佐々木嘉和*(トルネード):テキサスA&M大学→オクラホマ大学
  • 笠原彰*(気象力学):クーラン研究所→テキサスA&M大学→シカゴ大学→米国大気科学研究所(NCAR)
  • 駒林誠(雲物理学):名古屋大学→気象大学校→気象庁
  • 加藤喜美夫(航空気象学):全日空
  • 栗原宜夫*(気象力学):気象庁→気象研究所→GFDL→海洋科学開発研究機構
  • 都田菊郎*(気象力学):シカゴ大学→東京大学→GFDL
  • 相原正彦(気象力学):気象研究所→気象大学校
  • 真鍋淑郎*(大気大循環):GFDL→海洋科学研究機構→GFDL
  • 武田喬夫(雲物理学):名古屋大学
  • 新田尚(気象行政):気象庁→WMO→気象庁
  • 柳井迫雄*(熱帯気象学):気象研究所→コロラド州立大学→東京大学→カルフォルニア大学
  • 松野太郎(気象力学):九州大学→東京大学→北海道大学→海洋科学開発研究機構
  • 廣田勇(気象力学):気象研究所→京都大学
  • 田中浩(気象力学):電波研究所→名古屋大学
  • 山岬正紀(熱帯気象学):気象研究所→東京大学→海洋科学開発研究機構
  • 近藤洋輝(気象力学):気象庁→世界気象機関(WMO)

*はアメリカに一時的でも移住した人たちであり、その多くはいわゆる頭脳流出組と呼ばれることがある。ただし岸保勘三郎については、研究拠点をアメリカに移したというよりも、2年間アメリカの気象プロジェクトに参加したため*印がつけられていると思われる。

正野重方はどちらかというと控えめで物静かな性格だったとされているが、誠実で親しみやすいだけでなく、弟子の研究テーマについては自由に考えさせて個人の自発的興味を大切にしていた [2]。正野の弟子への対応について、前述のアメリカの気象学者レウィスは藤田哲也の例を挙げている [2]。藤田は北九州の明治専門学校(現在の九州工業大学)を出ており、正野の学生ではない。藤田は自分の強い興味から明治専門学校で助教授をしながら雷雨の研究を行っていた。彼は自分の研究報告を自分で英訳してシカゴ大学の気象学者ホレス・バイヤースに送り、彼から招聘を受けた。しかし、留学のためには博士号が必要だった。彼はそのために毎週週末に正野の指導を乞うて、博士論文を完成させて博士号を得た。これはいわゆる通常の大学院の博士課程を出て博士号を取るコースではなく、当時としては異例のことと思われる。これは正野の懐の深さと面倒見の良さを示している。

その後、藤田哲也はアメリカで竜巻強度のスケールであるフジタスケールを作っただけでなく、ダウンバーストというそれまで知られていなかった全く新しい現象を発見して、世界の空港にドップラーレーダーを配備するきっかけを作った。これによってダウンバーストによる航空機事故はほぼ根絶され、藤田は航空機の安全な運行に対して絶大な貢献をした [4, 27章 ダウンバーストを見抜く]。

正野はこのように誠実かつ親身に接しながら弟子たちの自主性を活かして育てた。また数値予報のような大規模かつ複雑な問題については、個人がそれぞれ研究するのではなく、グループで討論しながら研究した方が良いと考えて前述のようにNPグループを設立して指導を行った。これらが上記のような大勢の有名気象学者を育てたことにつながったと思われる。


4 正野と頭脳流出組

昭和30年頃から日本人若手気象学者がアメリカに渡り始めた。彼らはアメリカで素晴らしい成果を上げたため、「頭脳流出組」と呼ばれることがある。戦後すぐの日本は食べるだけでも精一杯で、優秀な若手研究者が大勢いても十分な研究環境が整っているとは言い難かった。当時アメリカは冷戦でソビエト連邦と科学技術を競っていた。その中でアメリカは気象改変という思惑もあり、気象分野にも多くの資金が投入されて研究環境が整えられていた。そういった政治の面は別としても、アメリカの豊かな研究環境は当時の日本の研究環境と比べると格段の魅力があった。

正野は若い研究者が海外へ出て研究することを後押しした。彼は若い研究者たちに対して、自分なりの経験をして独自の道を行って欲しいという思いと、日本人の気象学者たちに国際的な広い世界の中で育つことを期待していた [2 ページ: 508]。ちょうどそういう時期に正野は1954年に東京でユネスコによる台風に関するシンポジウムを開催した。これで出来たつながりなどをきっかけに小倉義光はジョン・ホプキンス大学へ行き、笠原彰と佐々木嘉和はテキサス A&M大学へ行った。

1960年にやはり東京で「国際数値予報シンポジウム」を開催した。このシンポジウムは数値予報の実現に向けて大きな進歩をもたらした。これに大勢の日本人の若手研究者が参加した。このシンポジウムは、日本人の若手研究者に初めて世界的なレベルの研究者たちと交流を持つ機会を与えただけでなく、アメリカの研究者も日本人研究者の優秀さに気付き始めた。

この国際数値予報シンポジウムの前後に、このブログの「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」で述べたように、大循環モデルの開発のために、地球物理学流体力学研究所(GFDL)のスマゴリンスキーは真鍋淑郎を招聘し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のイェール・ミンツは荒川昭夫を招聘し、国立大気研究センター(NCAR)のフィリップ・トンプソンは既にアメリカにいた笠原彰を招聘した。他にも上記*印の大勢の日本人研究者がアメリカへと渡った。そして彼らは真鍋を初めとして気象学史に残る顕著な成果を上げている。

真鍋博士は米国国籍の取得理由の一つとして、「私には(他の多くの日本人のように?)協調を重んじる生き方はできない」とインタビューなどで述べられているが、私はこれを額面通りには受け取っていない。真鍋博士が渡米した頃のアメリカの研究所は、GFDLを含めて世界各地からいろんな人々を受け入れていた。アメリカのもともとのそういう風土もあって、研究所は厳しい競争社会だったのではなかろうか。しかし、GFDLのスマゴリンスキーは、真鍋博士を含む日本人研究者について、その勤勉さだけではなく研究者相互の協力や協調をGFDLで広げるのに貢献したと述べている [1]。日本人気象学者たちは、アメリカの研究所で他の研究者に協調性などについて影響を与えた。アメリカに渡った日本人気象学者たちは、気象学に対して国際的な貢献をしただけでなく、アメリカの研究所の雰囲気にも好影響を与えたのかもしれない。

ヨゼフ・スマゴリンスキー
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Smagorinsky

いわゆる頭脳流出組と呼ばれる人々について、正野重方は自身が第二次世界大戦とその後の研究環境の困窮を経験して、若い研究者にはそういう思いをさせたくないということと、若い貴重な時期にアメリカの自由な研究環境で思いっきり彼らの能力を開花させてあげたいと思ったのではなかろうか?正野重方は戦後期の東京大学の気象学講座の教授及び日本の気象学界のリーダーとして、自身の研究を発展させただけでなく、大勢の日本人研究者に機会を与えることによって世界の気象学の進歩に貢献したといえる。

今回の真鍋淑郎博士のノーベル賞受賞が、正野重方の再評価にもつながれば良いと思っている。

参照文献
[1] John Lewis (1993) Meteorologists from the University of Tokyo: Their Exodus to the United States Following World War II. Bulletin of the American Meteorological Society, 74, 7, American Meteorological Society.
[2] John Lewis (1993) 正野重方―The Uncelebrated Teacher― , 天気, 気象学会, 40, 503-511.
[3] 古川武彦 (2012) 人と技術で語る天気予報史. 東京大学出版会.
[4] 堤之智 (2013) 嵐の正体に迫った科学者たち. 丸善出版.

2021年10月8日金曜日

近年の秋の気温上昇について

 歴史とは異なるが、近年の気温状況を少し見てみる。

10月7日に気象庁は、2021年の10月9日から10月15日までの予想気温を発表した。それによると、平年と比べて気温が高くなる可能性を、以下の図のように全国どこでも紫の70%以上と予想した。しばらくまだ平年より暑い日が続きそうである。

気象庁が2021年10月7日発表した10月9日~10月15日の予想気温(平年より高くなるか低くなるかの確率)
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=temperature&pattern=P1M&term=1&contents=season(2021年10月8日現在)

地球温暖化が叫ばれているが、近年秋になってもなかなか涼しくならないと実感されている方はいないだろうか?それで最近56年間(1965~2020年)の日本の15地点の季節別の気温上昇率を調べてみた[注]。これらの地点は気象庁が発表している日本の平均気温の計算に用いられている地点である。

最近46年間(1965~2020年)の季節別の日本の15地点の気温の上昇率(℃/10年)
赤矢印は15地点の平均

その結果、図に示すように各地点で気温は確かに上昇しているが、秋の気温だけ上昇率が高い地点が多いことがわかる。また、それぞれの季節の右端の赤色の「平均」の赤の棒グラフ(矢印)を見ると、平均の気温上昇率は他の季節は0.25℃/10年程度であるが、秋だけ0.31℃/10年であることがわかる。これは秋の時期に夏に近い気温の期間が長くなってきていると言えるかもしれない。また体感的にはいろいろな感じ方があろうが、一つの感じ方として秋が短くなってきているということになるかもしれない。皆さんはそう感じたことはないだろうか?

実はこれを裏付けるように、Urabe and Maeda (2014)も1999~2012年の平均で見て9月と10月の気温が、平年値より0.2~0.3℃高くなっていることを示している[1]。この高まりは6月を除いて他の月では見られない。彼らの論文はこの期間に「夏と秋の気温」と「冬と春の気温」の差が大きくなっていると指摘している。これは日本付近だけの状況のようである。

この気温差が大きくなる原因について、Imada et al. (2017) は、数値モデル計算のアンサンブルによって、12月から5月までは東ユーラシアから日本にかけての低気圧が気圧をより下げることによって寒気の流入が増えて温暖化を抑え、6月から11月までは東アジアから北アメリカにかけての高気圧がより発達することによって温暖化を高めている可能性を示唆している[2]。これらは他の様々な要因の一部である可能性もある。

いずれにせよ、近年秋がこれまでより涼しくなくなってきていることは事実のようである。

[注]計算には気象庁がホームページで公表している月平均気温を用いた。規定の観測要件を満たないためにフラグがついたデータもそのまま用いている。上昇率の計算にはnon-parametric Sen’s slopeを用いた。

参照文献

[1] Urabe, Y., and S. Maeda, (2014) The relationship between Japan’s recent temperature and decadal variability. SOLA, 10, 176−179, doi:10.2151/sola.2014-037.
[2] Imada Y., et al., (2017) Recent Enhanced Seasonal Temperature Contrast in Japan from Large Ensemble High-Resolution Climate Simulations. Atmosphere, 8, 57; doi:10.3390/atmos8030057.