2020年5月23日土曜日

富士山における気象観測(2)野中夫妻による観測

 明治28年(1895年)に高山での気象観測に注目したのは野中到(1867-1955)である。彼は福岡で生まれたが、父は東京の裁判所の判事で東京で暮らしていため、福岡藩の武士だった祖父に育てられた。到は優秀で大学予備門(今の東京大学教養学部)に進んだ。

 在学中に中央気象台の和田雄治技師と知り合いになり、彼から欧米での気象観測の話を聞いて、高山での気象観測に興味を持った[1]。当時は地上気象観測の限界がわかりつつあり、気球などを使った高層気象観測が始まりつつあった(「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要」参照)。しかし、世界的にも高山での連続観測の例は稀であり、富士山での通年での気象観測が実現できれば、それは世界的な快挙だった。また、彼は富士山での高層気象観測の有用性を実証しようとも考えていた。まだ各国が国の威信を競っていた時代だった。

 豪胆で一途だった彼は、そのために大学予備門を中退した。彼は1894年に次のように決意を述べている。「余不肖ナリト雖モ将ニ明年ヲ期シ先ス一家屋ヲ最高ノ地ニ構へ二三ノ観測機器ヲ携ヘ越年ヲ山上ニ試ニ以テ聊カ志士仁人ノ奮起ヲ促サントス」[2]。この時代には南極探検を志していた白瀬 矗などもおり、当時の人々の私欲に囚われないスケール大きさには驚かされる。

 彼は1895年の冬を含めて何度か富士山への登頂を試み、自分の計画実現への確信を得た。彼は1895年夏に私財を投げ打って富士山頂に長期滞在用の石造りの小屋を建設した。それには父も福岡の家を売り払って資金協力した。観測には中央気象台も協力することになり、観測機器が貸与された。

 彼は同年の10月1日から富士山頂に滞在して1日12回の気象観測を開始した。ところが10月12日に山頂を尋ねてきた一行がいた。それは到の妻、千代子だった。千代子は到の姉の子である。二人は従兄弟同士で幼なじみであり、おしどり夫婦だった。到は山頂で一人で観測するつもりだったが、実は千代子は観測の準備段階から山頂で夫の観測を助ける決意を固めていた。これ以降、山頂での気象観測は到と千代子が交代で行った[1]。こうやって夫婦による高山での観測という世界でも類を見ない気象観測が始まった。

野中到と千代子
                   
 しかし、当時の技術や資材などの状況では、厳寒期の山頂での観測は過酷というより無謀だった。気圧が低い上に新鮮な野菜がなかった。特に寒さは想像を絶しており、多くの毛布を重ねても寒さで眠れない日が続いた。観測もさまざまなトラブルに見舞われた。例えば11月になると、湿球と風速計は低温のため凍結したり、予想外の低圧のため水銀が水銀槽からあふれ出して気圧が測定できなくなったりしたことがしばしばあった[3]。

 過酷な環境の下で二人とも浮腫を生じて健康を害した。まず千代子が喉が腫れて発熱した。彼女が回復すると、今度は到が発熱して寝込んだ。到は起き上がれなくなった。麓への連絡手段もなく、一時は死も覚悟した。たまたま12月12日に麓の村人が山頂に慰問に来て、二人の状況を見て驚いた。救援隊が組織され、12月22日に二人は救出された[1]。3か月間の山頂での観測だった。

 しかし、彼らの命を賭した観測は新聞で広く報道され、その志の高さは多くの人々の反響を呼んだ。それ以降、彼らの冒険に基づいた文学作品がいくつか作られた。その中の一つは、新田次郎の有名な小説「芙蓉の人」である。これは何度かテレビでドラマ化されて放映されたことでも有名である。

 新田次郎の本名は藤原寛人で、この後のブログで触れるように、彼は富士山レーダーの建設に気象庁担当者として大きな貢献を行った。ちなみに彼の叔父は有名な気象学者で中央気象台長も務めた藤原咲平である。

参照文献

[1]野中到・千代子 夫婦で打ち立てた不滅の金字塔、国際留学生協会、http://www.ifsa.jp/index.php?Gnonakaitaruchiyoko
[2] 中野至-1894-富士山頂氣象観測所設立ノ爲二敢テ大方ノ志士二告ク、氣象集誌、13 巻 11 号 p. 574-579
[3]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年

2020年5月17日日曜日

富士山における気象観測(1)明治初期まで

 富士山は古から信仰の対象とされており、そのため山伏などによって村山修験などの修行が行われていた。江戸時代になると富士講と称して、日本各地から地域を代表して祈願するために、大勢の巡礼者が富士山に訪れるようになった。また麓にはそのための宿泊施設が数多く開設されていた。

 江戸時代に長崎の出島に滞在したドイツ人医師シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、そこで自ら気象観測を行っていた。彼は後に伊能忠敬が製作した日本地図などを国外に持ち出そうとして国外追放になった(シーボルト事件)が、持ち出そうとした目録の中に江戸幕府の気象観測結果も含まれていた。

 彼は出島滞在中に江戸に行くことになり、その途中で日本の象徴である富士山の高さを計測することを計画した。しかし、外国人の行動に対する幕府の監視は厳しく、1828年に本人の代わりに蘭学者で弟子の二宮敬作(1804-1862)が実際に富士山に登って高度を計測した。二宮敬作はおそらく気圧計と温度計を使ったと思われる。既に当時は高度を現地気圧と気温から推定できることがわかっていた[4-8測候高式の発見]。彼は富士山の高度を3794.5 mと算出したらしい。これは実際の高度との差はわずか約20 mという高い精度での測定だった。しかしこの観測は秘密裏に行われ、日本では正式な記録として残らなかった [1]。
晩年のシーボルト
(Unknown artist, "E. Chargouey", 
Naturalis Biodiversity Center - Siebold Collection - Philipp Franz von Siebold - Portrait, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons

 19世紀末から世界各国が高層大気への関心を高める中で、明治維新後に日本においても高山での気象観測が計画されるようになった。その中でまず注目されたのは、高度が高くて孤立峰のため直接高層の大気を捉えることができると考えられたのは富士山だった。

 富士山での気象測定器を使った初めての本格的な気象観測は、当時東大理学部教授のトーマス・メンデンホール(Thomas Mendenhall, 1841-1924)によるものだった。彼は土木学教授のチャップリンと当時学生で後に日本を代表する地球物理学者となる田中館愛橘(1856-1952)らとともに明治14年(1880年)8月3日から4日間富士山頂で重力等の観測を行った際に、気象観測も行った [2]。これが富士山頂での初めての気象観測と考えられている。なお、メンデンホールはアメリカに戻った後、アメリカの国家気象局である陸軍信号部で気象の研究にも携わっている。

 また明治20年(1887年)9月には、当時中央気象台で気象予報を行っていたドイツ人クニッピングらがやはり富士山頂で気象観測を行った。彼は政府に富士山頂での気象観測を提案したが、政府は認めなかった。


参照文献

[1]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年
[2] お雇い外国人(第3)自然科学、鹿島研究所出版会、1968年

2020年5月3日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(8)数値予報の発達

 第二次世界大戦後、フォン・ノイマンは電子計算機の開発の目的に気象予測を含めた。そして、電子計算機を使った数値予報のためのプロジェクトを立ち上げた[10-2-2 電子計算機(デジタルコンピュータ)の出現](このブログのフォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1も参照。このプロジェクトの中でチャーニーは、リチャードソンの失敗を回避する方策を考案した[10-3-4 準地衡風近似とその利点][10-4 実験的な数値予測の成功]

 観測データを用いた数値処理(数値予報)によって気象予測を行おうとすれば、予測をしようとしている日時より早くその処理を終えなければ意味がない。フォン・ノイマンによって開発されたコンピュータによって、気象予測のための大量の高速計算が可能になり(このブログの「フォン・ノイマンについて(9)と(10)」を参照)、コンピュータを使った気象予測の数値計算が始まった[10-5 数値予報の現業運用化]。これによって決定論に基づいた気象予測ができると考えられた。その予測をより長期先に向けるための改善に努力が払われるようになった。

 計算機や計算手法の発達とともに、複雑な気象も扱えるように物理過程が改善された気象予測モデルが開発された。計算を行う大気層の数は増え、計算格子は細かくなっていった[10-5-3 現業予報のための数値モデルの改良]。人工衛星が打ち上げられるようになり、それを用いた全球の観測も気象予測モデルの初期値として使えるようになった。この数値予報は、日食の予測のような決定論的な気象予測を実現するのではないかと思われた。さらに観測データや物理過程を細かくしていけば予報期間もどんどん長く延ばしていけると思われた。また同時に長期間の大気循環を計算して気候を調査、予測する大循環モデル(気候モデル)も開発された[10-7-2 大循環モデルの発明]。これは現在、地球温暖化などの地球環境問題の調査や将来予測に用いられている。

 気象予報モデルを用いた正確な気象予報には全球の一貫した観測データが必要である。気象観測データの交換や気象観測の国際協力のために、1951年に国連の専門機関として世界気象機関(World Meteorological Organization: WMO)が作られた[11-4 WMOの発足]。これは政府間組織であり、このことはIMOの時と異なり加盟国が世界気象会議の決定に拘束されることを意味している。これによって、ようやく迅速で円滑な観測データの交換が可能になった。

 このWMOと国際科学会議(ICSU)などは地球をよく調べるために、1957年から1958年にかけて国際地球観測年(International Geophysical Year)を設定し、世界各国が参加して地球規模での観測を実施した[11-5 国際地球観測年の開催]。これによってエルニーニョが熱帯太平洋全域に広がった大規模な現象であることがわかり、その原因解明に貢献した[11-5-2 エルニーニョと南方振動の発見]。またこの時に始まった二酸化炭素濃度の観測と南極でのオゾン層の観測は、温室効果ガスが増加していることの発見と後のオゾンホールの発見に貢献することになった。


国際地球観測年を記念して発行された切手

 1961年にアメリカのケネディ大統領の提唱により、世界各国の協力による衛星気象観測を含む世界中の気象観測データのリアルタイムでの交換のために、WMOによる世界気象監視(World Weather Watch)プログラムが始まった[11-6 世界気象監視プログラム]。これによりIMO時代から取り組んでいた観測データの内容や形式の統一は一応実現された。これは主権を持つ各国が、世界気象機関条約下のこのプログラムに沿って、決まった時刻に決まった観測を行い、決まった様式で世界にリアルタイムで報告するというユニークな国際協力になっている(強い主権を主張することが多い各国が、WMOの規定に従って細かい統一的な作業を日々行い続けているのは珍しいことである)。現在の気象予測(数値予報)は、この国際的枠組みの下で機能している。

 ところが1963年にアメリカの気象学者ローレンツが、ある大気モデルを計算している際に偶然にカオスを発見した。これは、非線形の現象の中で(つまり非線形方程式の中で)微小な差が、時間が経つにつれて大きく発達することがあるというものである。気象観測の結果には微小な誤差が不可避的に含まれており、この発見はその誤差を含んだ気象の時間発展について、ある一定時間以上は予測不能であることを意味した。
 
カオスを表すローレンツアトラクタの例。線は位相空間での解の時間発展を示している


 このカオスの発見は、決定論的な気象予測に原理的な限界をもたらした[10-8 カオスの発見]。それでも現在ではこの困難を克服するために、初期条件の異なる「決定論的」な計算を多数行って、予測結果の信頼範囲を「決定論的でない」確率などの形で予測するアンサンブル予報などが研究されている。

(このシリーズ終わり。次は「富士山における気象観測(1)」)

2020年4月24日金曜日

気象予測の考え方の主な変遷(7)気象学の近代化

 天気図を見て主観に基づいて行う気象予測は科学とは言えず、アメリカの気象学者アッベなどは物理法則を用いた科学的な気象予測を唱えたが、当時の観測技術や未成熟な気象学では困難だった。

 20世紀に入ると、ノルウェーの物理学者ヴィルヘルム・ビヤクネスは気象を物理法則に基づいて定式化すれば、「観測データの整備によって客観的にかつ決定論的に気象予測ができる」という考え方を提唱した。彼は気象学者に転向して実際に気象予測のための物理方程式(プリミティブ方程式)を定式化し、高層気象観測データを用いた予測手法を構築しようとした。これは決定論的な手法だった。気象予測のための方程式は解析的には解けないため、彼は所長となったライプチッヒ地球物理学研究所において、解析天気図を組み合わせていく視覚的な手法を検討した[9-1ヴィルヘルム・ビヤクネスによる気象学の改革](このブログの「大気力学でのソレノイド」も参照)。

 一方で、イギリスの気象学者リチャードソンは、気象予測の物理方程式(プリミティブ方程式)を高層気象観測データと差分法を用いて、直接的に数値計算することを考えついた。そのためには膨大な計算が必要なるが、彼は第一次世界大戦中に志願して戦場で救急車を運転する役目を果たしながら、その試行的な予測計算を実践した。しかし、当時は気象を引き起こしている波と数学的な差分法の特性が十分理解されておらず、この野心的な挑戦は非現実的な予測結果となって失敗に終わった。しかし、この手法は原理的には現在の数値予報の考え方を先取りした革新的なものだった[9-3リチャードソンによる数値計算の試み]

 一方で、予測技術の行き詰まりの打開のために、高層の気象観測による新たな発見に期待が寄せられた。また第一次世界大戦において、高層を飛ぶ長射程砲弾のための軌道修正と発達し始めた航空機の運行に対して、地上天気図が役に立たないことがわかり、それらが高層気象観測の充実を加速した[9-1-7第一次世界大戦の気象学と収束線]

 さらに戦争中の食糧危機に対して、気象情報を使って農業、漁業の増産を図ろうとしたノルウェーでは、ヴィルヘルム・ビヤクネスがドイツから帰国して、高密度の気象観測網を展開した。このこれまでにない密な観測網から、寒帯前線論や気団という気象予測のための新しい概念が生まれた[9-2ベルゲン学派の気象学]。これらは決定論的な手法ではなかったが、それまで予測できなかった天候の急変などをある程度予測できるようになり、また高層雲の変化から悪天候の接近を予測するという新たな手法にも結びついた。

 1930年頃からは、ラジオゾンデの発明により高層気象観測はゾンデ回収の必要がなくなり、観測と同時に結果がわかるようになった。これによって高層気象観測の密度と頻度が向上した[9-4-3世界でのラジオゾンデ観測の発達]。この観測による高層大気の広域的な把握は、ロスビーによる高層の長波の発見につながった。またこの長波と地上の低気圧や前線との関係もわかってきた。そのため、地上の気象予測のために長波の動きを予測する手法が開発された[9-5高層の波と気象予測]。さらにアメリカのチャーニーにより大気の立体構造から低気圧が発達する原因に関する理論(傾圧不安定理論)が生まれ、高層の地球規模の大気循環と地上の天気が結びつけられた。これらにより気象予測は初めて科学に立脚するものとなっていった[10-3-2傾圧不安定理論の確立]
ラジオゾンデ

つづく

2020年4月19日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(6)近代の始まり(18~19世紀)

 18世紀後半から国家という概念が明確になってくると、産業、経済、健康、植民地経営のための地理情報という観点から、気象・気候が重要視されるようになってきた。気象データの蓄積だけでなく、気象観測網を各地に展開しての気候の把握が重要となった(このブログの気候学の歴史(1) (10)参照)。観測結果を用いた気候統計が行われて、各地の地誌学的な気候情報が整備された[5-1気候学の発展]。過去の観測値を用いた総観天気図も作られたが、それはまだ試験的なものだった。

 電信が発明されると、各地の気象状況をリアルタイムで把握しようという革新的な考えが起こった[6-2-1電信の発明]。気象観測所に電報が整備されるようになり、そこから中央の気象台などに電報で収集された気象状況は、「警報」という形で港湾などに伝えられ、船舶被害を嵐から未然に防止する実用技術となった。これは今でいうナウキャストのようなやり方である。一方でフランスなどではリアルタイムに近い形で総観天気図が作られるようになり[6-2-3ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行]、イギリスなどでは気象予報も行われたが、気象予報は確固とした科学法則に裏打ちされたものではなかった(このブログの科学と技術参照)。そのため、イギリスでは混乱が起こって気象予報は一時中止された[6-2-4フィツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報]

 しかし、天気図を用いた気象予報は各国に広がっていった。天候は広域を移動するため、自国の気象観測網だけでは天候をカバーしきれず、観測データの交換を可能にするために国際気象機関(International Meteorological Organization)が作られた。観測様式(例えば単位)の統一化の交渉が始まったが、国際気象機関は政府間組織にならなかったため、決定事項に拘束力がなく、統一化の進展は遅々としたものだった[11-1国際気象機関の設立]

 また、19世紀を通して各地で気象観測結果の蓄積が行われ、多くの気象学者が分析を行ったが、他の科学分野と異なって気象予報のためのめぼしい法則性は見つからなかった。天気図(気圧分布)を用いた気象の予測技術は、各自の経験や主観に基づいた職人芸となり、同じ天気図を用いても気象予測結果は予報者の数だけ異なった[8-8気象予測技術の行き詰まり]。20世紀に入ると、気象学の主な研究は一時的に気候統計や気象の周期性や相関へとシフトした。ただ、19世紀末に気象熱力学[8-1気象熱力学の定式化]や低気圧の熱構造に関する気象学に関する発見[8-2低気圧の研究]が相次いだ。
イギリスの気象学者アーバークロンビーによる7種の気圧分布の分類。
彼の著書「Weather (1887)」より。

 また19世紀末から気球を用いた高層気象観測が行われるようになり、ゴム気球の発明(このブログのリヒャルト・アスマン(その2)参照)や成層圏の発見(このブログの高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1(12)参照)などが起こった。しかし高層気象観測は、気球による大気の持ち上げや日射の測定器への影響の問題に加えて測定記録の回収が必要であったため、20世紀に入ってもまだ定常的な広域観測は困難だった[8-4高層大気の気象観測]

つづく