2026年6月4日木曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(9)アンツィオ上陸作戦の予報

   (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

9.         アンツィオ上陸作戦の予報

194211月の北アフリカ上陸作戦と翌年のシチリア島上陸作戦の後、連合国軍の戦線が地中海域で拡大していた。雪上車の開発を終えて((8) 雪上車の開発参照)イギリスに戻ったペターセンに、194311月に英国気象局長のネルソン卿から、ペターセンが地中海戦域の米英共同予報サービスのチーフを務めるという提案があった話をした。そこでは英軍と米軍がそれぞれ独自の予報で動いており、それを一元化しよういう考えだったと思われる。しかし、ペターセンは一元化は容易ではないと感じ、ネルソン卿にもできればペターセンに英国気象局に留まって欲しいという希望があったため、ペターセンはこの話を断った。

しかし、この話はこれでは終わらなかった。翌年1月初めに再び別な話があり、今度は約1か月間、英米空軍の地中海での気象中枢があるイタリアのバーリへ行って欲しいということだった。これは上層部で政治的妥協として持ち上がった話のようだった。ネルソン卿を困らせたくないこともあり、ペターセンはこの話を引き受けた。

バーリにて 

ペターセンは早速アルジェ経由でバーリへ到着した。バーリはナポリとほぼ同緯度であるが、アドリア海に面した都市である。そこにある予報センターへ行くと、何か変わったことがあったことがすぐにわかった。前夜にブルガリアの首都ソフィアを爆撃した際に、その爆撃隊10機が未帰還になっていた。地上天気図によると、バルカン半島を東に向かって平坦に伸びる、風が弱い高気圧域があった。ペターセンにはイギリスで爆撃隊の予報を行っていた経験から、思い当たる節があった。

ペターセンは周囲に手伝ってもらって上層500hPaの天気図を描いた。この高度はほぼ爆撃隊の飛行高度と同じだった。大陸北側の大気と地中海沿岸の暖かく湿った空気の間には、明らかに大きな温度差が存在した。この気温分布では、この高度付近に強い偏西風が存在するはずだった。これは今でいう「温度風」の原理である。

ペターセンは、予報センターの人々に爆撃隊搭乗員に対して上空での強い西風が警告されていたのかどうかを尋ねた、しかし予報センターでは地上天気図だけ見て、上空の高気圧の立体構造を考慮していなかった。これからペターセンが得た結論は次のようなものだった。爆撃部隊は強い追い風を受けながらイタリアから東のソフィアに向かったため、目標をはるかに超えてしまった。乗組員はこれに気づいて積荷を下ろして機体を軽くして帰途についたが、向かい風での帰路のための十分な燃料が残っておらず、どこかに不時着した[1]というものだった。

ペターセンはバーリでは米国の気象センターでその時間の多くを過ごした。そして英国気象局の上層大気部門で既に標準的な手順となっている上層大気での技術をそこで教えた。

ナポリにて 

1944115日に、英国海軍地中海艦隊司令のジョン・カニンガム提督からナポリの司令部で会いたいというメッセージが届けられた。海軍から空軍の人間に会いたいという申し入れは珍しいものだったが、ペターセンはカニンガム提督とバーリに赴任する途中にアルジェで面会していた。その際に、1939年にオスロ大学で教えていた時に英国海軍から派遣されていたトレンデル中佐が参謀として気象関係の業務を統括していることがわかった。また、カニンガム提督は敬虔なカトリック信者だけでなく、科学にも興味を持ち、ペターセンが書いた著書の一つ「気象学入門」を読んでいることを知った。 

ジョン・カニンガム提督の肖像画
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Admiral_Sir_John_Cunningham_(1885%E2%80%931962),_GCB.jpg

 カニンガム提督は当然経験したさまざまな気象を熟知していた。ナポリの司令部に行くと、カニンガム提督はペターセンに彼の気象学理論が地中海で通用するかどうか質問した。彼は「物理学理論は普遍的でどこでも通用するものです。」と無難に答えた。しかしカニンガム提督は「いや、そうではない。地中海では、神がいろんなことに手出しするのだ。」と畳みかけてきた。相手は提督である。ペターセンは慎重に「神様は数学者や物理学者にはいつも優しいのです」と答えた。カニンガムはペターセンの答えによって彼に信を置いたようである。

カニンガム提督は1週間後に予定されているローマ南部のアンツィオ上陸作戦の話を切り出した。当時ローマの南で戦線が膠着していた。この事態を打開するために、ドイツ軍の背後に奇襲上陸しようというのがアンツィオ上陸作戦である。この作戦が成功するためには、海上からの部隊上陸と物資輸送、海岸での防衛線の確立のため、上陸時に4日間の凪が必要だった。さらにドイツ軍の増援を阻止するためにはアンツィオにつながる橋と鉄道を晴天時に爆撃する必要があった。これらの攻撃の要点は奇襲であり、それを可能にする天候が実現するかどうかが最大の懸案事項だった。そのためにわざわざイギリス空軍に属するペターセンをナポリに呼んだのだった。

当時のイタリア南部の連合国軍とドイツ軍の状況(クリックすると拡大します)

 ペターセンが行った気象解析による見立ては次のようなものだった。地上天気図を見ると、大西洋からノルウェーに向かって移動してくる一連の低気圧により、大西洋の高気圧は傾むいていた。このような状況では、極域の大気が西ヨーロッパに流入し、西地中海で大きな嵐の発生を引き起こす可能性があった。しかし、上層の300hPaの天気図では強い高気圧が対流圏の循環を支配しており、この高気圧は経験上1週間程度は続くと見込まれた。つまり上陸作戦は可能ということだった。

 1944122日アンツィオ上陸作戦の日の500hPa天気図。地中海上空に安定した高気圧があることがわかる。ECMWFERA)による再解析。https://www.wetterzentrale.de/en/reanalysis.php?model=era

 カニンガム提督は満足そうだったが、唐突に悪天の前兆となる上空での巻雲の発生と上陸作戦を危険にさらす西風の可能性を尋ねてきた。ペターセンは、なぜカニンガム提督がこのような質問をするのか心当たりがないために当惑した。やがてペターセンは、作戦の気象予報に別な所から非公式な情報が入ってきていることを知った。それは米国陸軍航空隊気象局(JWC)が出している5日予報だった(これをペターセンは「ワシントン情報」と呼んでいる)。

この気象予報を監督しているのは、カルテックで一緒だったクリックだろうと推測した(クリックについてはこのブログの「実践の予報学者スベール・ペターセン (5) 米国のMITへ 」を参照)。クリックは米国陸軍航空隊気象局に属し、そこで米国陸軍航空隊アーノルド司令長官の庇護を受けていた。アーノルドがクリックのアナログ手法による延長予報(およそ36時間先以降の予報)を承認していることは十分に考えられた。

気象情報にまつわる組織体制の複雑さは、地中海に来る前にペターセンが予想したとおりだった。作戦に関する気象情報は一元化されておらず、米国陸軍航空隊の気象予報はなぜか米国海軍に伝わっていた。そして、それはイギリス軍海軍主導下の作戦であるアンツィオ上陸作戦にも影響を及ぼしていた。この情報がカニンガム提督が懸念していた原因だと推測された。

ペターセンが予想していた作戦に理想的な気象条件とは異なり、「ワシントン情報」は、グリーンランドから寒気が流入して、海岸で高波を引き起こす低気圧の発生を予測していた。しかもクリックらはワシントンにいて、ペターセンが彼らと状況を議論することは不可能だった。

しかし、ペターセンは地中海上空を覆っている大規模な高気圧の持続を疑うことはなかった。もし寒気が流入してもこの高気圧が跳ね返してくれるだろう。この自信は、地中海の特性を知らずにクリックがアナログ手法という一種の統計に近い手法に定型的に依っていたことを知っていたためでもあった。このクリックとはノルマンディー上陸作戦でも対峙することになる。

120日の作戦の責任者である多くの将軍たちが集まった席で、ペターセンは気象のブリーフィングを行うことになった。カニンガム提督はブリーフィングの席で、シチリア上陸作戦では受けた気象予報が芳しくなかったので、今回は専門家の意見を聞くことにした、とペターセンを紹介した。ペターセンは今後3日間の作戦に理想的な気象予報とその理由を簡潔に説明した。作戦に必要な4日目については、一般的な理論に従って、まだわからないとだけ説明した。

ところが、この作戦のイギリス軍の最高司令官ハロルド・アレキサンダー将軍が、4日目の気象状況について敢えて個人的にと前置きして尋ねてきた。ペターセンは観念して自分の信念に基づいて、「かなり良いと思います」と答えた。多くの将軍たちは作戦の成功に自信を深めて解散した[1] 

アンツィオ上陸作戦の様子。凪の中を舟艇から歩いて上陸している様子がわかる。
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/SC-185000/SC-185796.html

 1月22日に開始されたアンツィオ上陸作戦が成功したことは、歴史に記録されているとおりである。その一端はペターセンによるものかもしれない。イギリス空軍のペターセンは、海軍が主導するアンツィオ上陸作戦へ助言することを意図して派遣されたものではなかった(少なくとも事前に指示されてはいない)。しかし気象学への深い造詣と責任感の強さから、この複雑な状況の下でこの作戦に対して現地で重大な責任を負うことを自ら選択した。ここにもペターセンの誠実で実直な性格が表れているのではなかろうか。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(10)ノルマンディー上陸作戦」)

参照資料  (このテーマ共通) 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

2026年6月2日火曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン (8) 雪上車の開発

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8.  雪上車の開発

 

ジェフリー・パイクについて

ペターセンは第二次世界大戦中に、世界初となる雪上車の開発に携わった。これはイギリス人のジェフリー・パイクが大きく関わっている。パイクは科学者、発明家、ジャーナリスト、スパイとも言われており、アメリカの偽造パスポートで記者としてベルリンで活動しながらドイツの状況をイギリスの新聞社へ送ったり、ドイツで逮捕されると統計学を駆使して看守の癖を見破って脱走したりするなど、一言では説明できない独創的なユニークな人間だった。

第二次世界大戦が始まると、パイクはイギリスが戦争に勝つための方策を考えた。その一つが雪を利用して、雪の中で物資や人員を輸送する手段(雪上車)の開発だった。このためには、敵よりも速い速度で雪上を移動し、敵の追跡できない場所に行くことができ、また急な勾配や森林の中も走破できる必要があった。これは当時としては奇跡に近い性能を持ったものだった。

 プラウ・プロジェクト

この案にイギリスのコマンドー部隊(奇襲や後方撹乱、偵察などを目的とした比較的小規模な特殊部隊)を率いるマウントバッテン卿が目を付けた。ノルウェーやスイスの水力発電所を、コマンドー部隊で破壊できれば、ヒトラーに大打撃を与えられることができる。また、コマンドー部隊の活動は連合国軍の大陸侵攻「ボレロ作戦」の際の陽動作戦にもなると考えられた。「ボレロ作戦」とは当初1943年春にも計画されていた欧州大陸への上陸作戦である(最終的にはいくつかの経緯を経て「オーバーロード作戦」でのノルマンディー上陸へと変わった)。マウントバッテン卿は米国のマーシャル参謀長が19423月にイギリスに来た際にこれを伝え、米国での雪上車の共同開発に快諾を得た。これはプラウ・プロジェクトと呼ばれることとなった。

しかも、これを来春の作戦に間に合うように生産してコマンドー兵士たちを訓練するためには、車両が秋までには完成している必要があった。この開発を引き受けた米国政府の科学研究開発局OSRD)は5つの条件を出した。その一つはペターセンを英国気象局から引き抜いてこのプロジェクトに参加させることだった。想定された作戦地域の一つにノルウェーが入っていたこともあっただろうが、彼の名声は既に米国では高かった。「5. 米国のMITへ」で述べたように、米国陸軍に対する情報提供により、米国での気象技術者の大量養成が始まったことなどが評価されたのかもしれない。プロジェクトにはもう一人ブルックリン工科大学のハーマン・マーク博士が協力者として入ることも条件になっていた。

ペターセンは、194263日にワシントンに到着した。その際に、このプロジェクトに円滑に関わることが出来るように軍服姿の写真が撮られた。これが「実践の予報学者スベール・ペターセン(1」で示した写真である。彼はこの制服は旅行用としてだけしか使わなかったと述べている[1]

雪は捉えどころのない物質である。ペターセンは、この開発のためにはまず雪の力学特性をよく知らなければならないと考えた。そしてそのためには、まず雪を分類し、タイプごとに物理特性を把握し、その気象条件による変化を明らかにしなければならなかった[1]

ペターセンはその実験のためにアラスカを選び、シアトルからアラスカへ向かおうとした。空港にいたちょうどその時に日本軍がアラスカを攻撃し(日本軍によるアリューシャン作戦)、軍事的緊張が高まったアラスカでの実験は中止された。代わりにアンデス山脈で実験することにし、ペターセンはチリとアルゼンチンと向かった。両国でアンデス山脈の状況を聞くと、山脈の西側でも東側でも実験には不向きであることがわかった。

プロジェクトは極秘である。しかし国際的に複雑な貸借関係を持つペターセンは、米国以外での自分の行動をイギリスとノルウェーにも報告しなければならなかった。彼はイギリスとノルウェーにはスキー休暇で南米を訪れたことにした。また、中立国アルゼンチンではドイツから狙われた。米国以外では政府のプロジェクトに携わっているという特権は通用しない。彼はなんとかアメリカ大使館を通じて米国参謀本部に連絡し、マイアミへ脱出して戻ることができた。

結局実験は、カナダのブリティッシュコロンビアの氷河で行うことになった。その際にはかつてベルゲンに留学していたトムソン博士(「5. 米国のMITへ」参照)がカナダ気象局長なっており、スキー場の調査を行ってくれた。アメリカ軍と雪上車の開発企業であるスダッドベーカー社などが、実験のための立派な施設をたちまち氷河の上に建設した。相棒のマーク博士は雪の性質を測定し、それをもとに空中投下可能な小型の雪上車の設計図を作成した。これに基づいて製作された雪上車は「ウィーゼル」と名付けられ、26度までの斜面を登ることに成功した[1]

 プラウ・プロジェクトと開発した雪上車のその後

雪上車の開発には成功したが、その後のプラウ・プロジェクトに触れておく。中立国や敵占領国でのコマンドー部隊を用いた破壊活動には、戦後のことを含めた当該国政府の理解が必要となる。これは軍事だけでなく、国際政治でもある。また、実際に作戦を実施しようとすると、空中投下や物資補給のための空軍の協力、実際のコマンドー部隊を作戦が失敗した際を含めてどう扱うか、などの組織間の複雑な要素が絡むこととなる。結局プラウ・プロジェクトは、現地レジスタンスによる小さな破壊工作にとって代わられることとなった。開発した雪上車がコマンドー活動に使われることはなかった。

しかし開発された「ウィーゼル」は水陸両用だった。そのため一部の改良型は、武器や人員を輸送船から陸上まで途中の積み替えなしに一気に運搬する水陸両用車として大量に製造され、太平洋を含めて上陸作戦で使われた。またこれは戦後に大型の雪上車に発展した。この発展型は雪だけでなく泥や砂、硬い道も走破することができ、北極や南極だけでなくスキー場などでも活躍している。

 

  プラウ・プロジェクトによって開発されたM29 ウィーゼル
https://en.wikipedia.org/wiki/M29_Weasel#/media/File:M29_Weasel_3.jpg

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(9)アンツィオ上陸作戦の予報」)

参照資料 (このテーマ共通)

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

2026年5月30日土曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン (7) 戦艦ティルピッツ爆撃のための予報

 7. 戦艦ティルピッツ爆撃のための予報

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 ドイツ戦艦ティルピッツは、ビスマルク級戦艦の2番艦であり、排水量は43000トンもある大型の戦艦である。本来は戦艦ビスマルクと組んでの通商破壊作戦が想定されていたようだが、ティルピッツが竣工した時には戦艦ビスマルクは沈んでいた。いくつかの小さな通商破壊作戦に参加した後、ティルピッツは、1942116日にノルウェーのトロンヘイム付近のフィヨルドに入って停泊した。この単艦だが強力な戦艦の存在は、北海に輸送航路を持つイギリスにとっては依然脅威だった。

 

戦艦ティルピッツ
https://en.wikipedia.org/wiki/German_battleship_Tirpitz#/media/File:Tirpitz_altafjord_2.jpg

 ある日、ペターセンは爆撃隊司令部部長のボールドウィン元帥に呼ばれた。元帥はペターセンにトロンヘイム付近のフィヨルド付近の拡大写真を渡して、何か変わったものが見えるかどうか尋ねた。トロンヘイムは幼い頃過ごした地域の一つで、ペターセンにとっては庭のようなものである。ペターセンは直ちに半島の近くにある小さな島を思い出せないと答えた。それが厳重にカムフラージュされた戦艦ティルピッツだった。

イギリスではこのフィヨルドに停泊している戦艦ティルピッツを攻撃する計画を立てていた。ただし強力な防御甲板を持つティルピッツを上から普通に爆撃しても損傷を与えることは困難である。そのため、まずランカスター爆撃機を使った夜間爆撃によって対空砲を破壊し、その後直ちにハリファックス爆撃機が超低空で爆雷と魚雷を投下して、魚雷防御網をくぐって柔らかい船体下腹部を狙うことになっていた。

ランカスター隊の任務は高度5000mからの正確な爆撃だった。そのためには、空は晴天でなければならず、夜間なので船や岬の近くに影が落ちないほど高い満月でなければならなかった。高緯度のトロンヘイムでは、近いうちにこの条件を満たすのは42527日夜の3日間だけだった。

ペターセンはフィヨルドの複雑な気象を誰よりも熟知していた。スコットランドの北に高気圧があることがわかっていた。彼の解析によって気温の鉛直分布からこの安定した晴れの状況は今後も持続すると予想された。また、4月のトロンへイムフィヨルドは気温と水温との差が少なく、海霧が発生する可能性は低かった。その一方で、雪に覆われた陸地の冷たい大気が流れ出して暖かい海の大気と出会うと、低い雲や霧が発生する可能性があった[1]。

攻撃予定日が近づくと航空偵察が行われたが、トロンヘイム付近は風がなく霧に覆われていたため、25日と26日の攻撃は断念された。27日昼間の偵察では少し海風が出てきたことがわかった。霧が海風によって陸側へ後退することによってティルピッツが露出する可能性が高くなったが、ドイツ軍が人工の霧を発生させるかもしれなかった。

ペターセンは、軍幹部に気象状況を説明するとともに、ランカスター隊とハリファックス隊の攻撃時刻の間隔を短くした方が良いのではと提案した[1]。しかしこれは却下された。高空と低空では風の向きや速度が複雑に異なるので、両隊が予定時刻通りに到着するという保障はなかった。

4月27日の夜に作戦は開始された。ランカスター隊は予定通り理想的な天候での爆撃に成功した。しかし、その後ハリファックス隊が突入した時には陸風が吹いており、ティルピッツの姿は陸から流れ出した霧でぼんやりとなっていた。しかも対空砲火は激しく、ランカスター隊の効果はあまりなかったようだった。ハリファックス隊はぼんやりした目標に対して爆雷と魚雷を投下した。ハリファックス隊は5機を失ったが、ティルピッツは少し傾いたものの大きな被害を受けなかった。

攻撃の状況は完全に記録されて、有益な教訓を得ることができた。作戦は天候の予測も含めて全体として非常にうまく運営された。しかし、夜間爆撃は小さな目標への精密爆撃には向いておらず、またティルピッツの強靱さに比べて、攻撃側の兵器と技術の不十分さが原因とされた。

ティルピッツはその後何度も新型の大型爆弾で攻撃され、大きく破壊された。ティルピッツはトロムソ近海で座礁させられて要塞として使われていたが、最後は19441111日に大型爆弾により横転して着底した。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン (8) 雪上車の開発」)

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

2026年5月25日月曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン (6) ドイツ爆撃のための予報

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

  

 6. ドイツ爆撃のための予報 

英国へ

19404月、ノルウェーはヒトラーの軍勢に侵攻され、ペターセンにとってノルウェーへの帰国は不可能となった。ノルウェーのハーコン国王はロンドンに亡命政府を樹立し、英国国内にノルウェー陸軍航空隊(後の空軍)およびノルウェー気象局が編成された。

北極探検時にペターセンが気象情報を提供したノルウェーの士官ライザ=ラーセンも、1940年にドイツ軍のノルウェー侵攻とともにイギリスに亡命し、ロンドンでノルウェー空軍司令官を務めていた。そのラーセンから、19418月にMITにいたペターセンに、イギリスに来て欲しいという至急電報が来た。ノルウェー空軍はロンドンに司令部を置いて、英国空軍の協力を得てノルウェーの地下運動に必要な物資を空中投下していた。当然その空輸には気象予報が必須だった。

ただ、状況は複雑である。ノルウェー空軍の立場でイギリスに行っても、英国気象局は受け入れてくれないかもしれない。そうなれば何が出来るのかという疑問がペターセンにはあった。また、MITで親切にしてくれた同僚などの人々への恩義をどうするかという問題もあった。 

ライザ=ラーセンの写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Hjalmar_Riiser-Larsen.jpgCC BY-SA 4.0

 しかし、再びラーセンから至急電報が来て、ペターセンには選択の余地がなかったようである。またMITのムーアランド学部長やコンプトン博士は、MITでの無期限の休職と経済的損失の補償に同意した。これでペターセンのイギリス行きが決まった。

しかし海軍のキング提督から、行く前に海軍気象士官向けの特別講義を行って欲しいという要請を受け、10月初めからこの講義と実習を約1か月海上において行った[1]。これは数か月後に太平洋で直ちに役に立ったのではないかと思われる。

ペターセンは講義が終わった118日にアメリカを出発することになった。彼は軍が用意したイギリスへ輸送される爆撃機に搭乗した。同乗者には数学者・哲学者で有名アルフレッド・ホワイトヘッド教授が同乗していることに気づいた。80歳の彼は、ハーバード大学を離れて英国経済戦争省で働くことを志願していた。 ペターセンはホワイトヘッドに刺激を受けたらしく、会話している間に、彼が師匠に見えてきたと述べている[1]

イギリスに到着したペターセンには、ノルウェー空軍が行っている空輸の支援のための気象情報をどうするかという課題があった。輸送ルートを拡大する必要があったし、頻度も増やす必要があった。スカンジナビアと北極圏の経験を持つ予報官の増員が不可欠だった。ペターセンはイギリスに逃れてきているノルウェーの優秀な予報官を知っていた。

また中立国スウェーデンにいるノルウェーの予報官も知っていたので、彼をイギリスへ優先的に脱出されるとともに、ノルウェーに残っている予報官数名をスウェーデンに脱出させてイギリスへ向かわせることにした。これでノルウェー空軍支援の問題は一段落した。

その上で、ペターセン自身の立場についても、ラーセンからノルウェー政府に雇われた上で、英国空軍下の英国気象局に貸し出されるという説明を受けた。これで英国気象局の中で働けることになった。これにペターセンは全く異存がなかった。

ペターセンは英国気象局長官であるネルソン・ジョンソン卿と面会した。最初は互いの意向がわからずに慎重だった。ペターセンが気象学の技術的な奉仕にしか興味がなく、階級や地位にこだわらないことを伝えると、ネルソン卿の態度は和らいだ。その上でネルソン卿はペターセンにどのような仕事をしたいか尋ねてきた。ペターセンは、上層の気象観測を用いた予報はこれまで誰もやっていない上に、イギリスはこの観測でリードしているので、これに関する仕事を要望した。 

実は彼には、統計学を使っていた延長予報(23日先以降の予報)を改革したいという考えもあったのだが、その分野の状況や自分の力量を見てそちらは断念した。そのため、彼は戦争中は延長予報に関わらないというスタンスを固めていたようである。

ペターセンが要望した上層の気象観測を用いた予報は、戦争の状況を勘案した英国気象局の考えとも合致していたようである。ただ上層気象を使った気象予報の分野は確立されておらず、従来の地上天気図を用いたやり方ではなく、新たな手法の開発が必要だった。そのためにはペターセン自らがチームを作ってその開発に数か月間取り組むことになった。

ペターセンは、上層気象を使った気象予報の開発には従来の大量のルーチン的な気象業務に慣れた経験者よりは、潜在能力を持った「少し変わった人」の方が相応しいと考えたようである。ちょうどヨーロッパ各国の予報官が難民としてイギリスに流入していた。彼らをかき集めて非常に有望な多国籍のグループができあがった。このグループはすぐにダンスタブルにある英国気象局の上層気象部門となった。

さらに戦争の進捗に応じて優秀な人々が各国から集まった。戦争が終わるとこのグループは解散して、メンバーは各国へと散っていった。このため、上層気象部門で開発した上層大気のデータ処理方法とシステム解析手法は、世界的に戦後の標準的な手法となった[1]

 

ドイツ爆撃のための予報

英国気象局では、ペターセンの上層気象部門は航空作戦のための上層風の予報に大きく関わることになった。当時イギリスが行なおうとしていたのはドイツへの夜間爆撃である(当初はドイツ軍の防空体制が強力なため昼間爆撃は困難だった)。そのため、航空機(爆撃)と気象情報との関係を少し詳しく述べておきたい。

夜間爆撃を行うに当たって、大陸は広く目標はその中のほとんど点に等しかった。イギリスは19422月にGee Boxという無線航法支援システムを開発した。これは、マスター局とスレーブ局が発信する電波のタイムラグによって乗機の位置を測定するシステムだった。ただ電波の到達範囲はまだ短く、誤差も大きかった。

爆撃機はかなりの広さに分散し、距離をとって飛行しなければならないので、風をよく予測しなければ望ましい編隊を組むことはできない。風向や風速予測に大きな誤差が生じると、飛行中の編隊が乱れ、爆撃精度と部隊の安全性や防御に悪影響を及ぼした。そのため、爆撃機司令部は、予報精度に対する最も厳しい顧客となった。

またペターセンたちにとって、大陸での風向きの予報に加えて、帰投時の飛行場の夜霧の予報も重要となった。さらに飛行のための雲の予報に必要な大気の沈降速度も必要だったが、これは難易度が高かった。

194233日から428日までの間に、18回の夜間空襲が行われた。例えば1942328日夜のリューベック爆撃では4発爆撃機234機が、45日のケルン爆撃では、同じく263機が参加している。ペターセンらはこれらの爆撃に対して気象予報を提供したが、これらの爆撃成果に対して予報の質との関係はあまりないことがわかった。気象予報の質以外の要因(特に地上目標の判別)の影響がまだ大きかった。19425月にはさらに爆撃規模が拡大した。530日の夜、ミレニアム作戦と名付けた1050機の爆撃機がケルンに向かい、約100分にわたって爆撃を行った。このような大編隊による短時間での1つの目標に対する夜間爆撃という組織的な爆撃実施には、正確な風向・風速の予報が不可欠だった。

1942年後半には、英国空軍爆撃機司令部は爆撃精度を上げるためパスファインダーを導入し始めた。これは熟練した搭乗員が乗った爆撃機によってまず焼夷弾などで目標を正確に爆撃し、発生した火災を後続する主力爆撃部隊による爆撃の目印にする方法である。しかしパスファインダーの到着が早すぎると、爆撃の予告となるため十分な迎撃態勢が取られる上に、目印となる火災は消される可能性がある。遅すぎると主力部隊は目標を見つけられずに、うろうろしている間に迎撃機の餌食になる恐れがあった。パスファインダーが計画通りに正確に目標に到着するためには、飛行高度での正確な風向・風速の予測が重要だった。

パスファインダーに対する航法の精度を上げるために「オーボエ」と呼ばれる電子航法支援装置も開発された。これは原理はGee Boxに似ているが、こちらは多数機ではなくパスファインダーのみを追いかけて情報を提供するので、目標への到達誤差は数百メートルと精度が高かった。

さらに「H2SHome Sweet Home」という装置が開発された。これは航空機から真下にレーダー波を発射して、その反射波を平画位置表示機(PPI、現在のレーダー画面に近いもの。それまではオシロスコープの画面のようなものだった)で表示されることにより、下方の地形がわかるという装置である。一定時間後の地形の動きと飛行機の向きと対気速度を照合すれば、飛行中の風向・風速がわかるという原理だった。しかし、爆撃機がまっすぐで水平な飛行を維持し、目的の地形上で厳密に垂直なビームを発射できるとは限らず、誤差を伴うこともあった。

 

イギリス空軍のハリファックス爆撃機に搭載されたH2S。胴体下部の膨らみ。
https://en.wikipedia.org/wiki/H2S_(radar)#/media/File:Halifax_V9977.jpg

これらの装置は気象予報の作業を緩和するどころかより厳しくした。まず海上は地形がないので、陸地に達するまでは正確な航法のための風予測が必要だった。その後は、爆撃機に搭載されたH2Sで測定された風は、英国気象局中枢に無線によってリアルタイムで報告され、解析された風向・風速の情報は1時間に6回、正確な航法のために飛行中の各爆撃隊へ提供された。ペターセンは、これらによって風予報以外の誤差要因は徐々に排除され、風予報の精度と爆撃部隊損失との関係が明らかになったと述べている[1]。その結果、損失が増強した戦力を上回らないように、予報に細心の注意が払われた。

これらによって航空機の運用だけでなく、大規模爆撃を成功させるには気象予報がいかに重要であり、イギリスがそれに苦心していたかがわかったと思う。ある爆撃機部隊司令が「自分の仕事は気象学が90%で、戦略は10%しかない」と言ったそうである。ペターセンは、これは誇大であるが真実を多く含んでいると言っている[1]。このような爆撃隊が信頼を置ける予報は、ペターセンがいてこそできたことだった。

また、これらの爆撃のためにペターセンらが上層大気(高度約9 km)の気流を解析した結果、比較的狭い幅を持った強い偏西風がロッキー山脈からソ連にかけて存在していることが確認された。この気流は日本を含めてこれまでも断片的に観測されており、地球を周回していると考えられた。これは今日でいうジェット気流である。しかし、英国気象局はすべての気象資料を機密扱いにしたため、ペターセンらはこの結果を公開することが出来なかった。

ペターセンは、日々の予報を元に気づいた点を技術資料や研究資料として準備した。これらはラフノートであったが、戦後彼が研究生活に戻った後にこれらを整理した。これは「5. 米国のMIT」で述べた1940年に出版した天気予報の教科書の改訂版のための資料となり、1952年に改めて「天気解析と天気予報」という題で出版された。「(1) 紹介理由」の所でも記したように、この本は日本を含めた世界中で標準的な気象予報のための教科書の一つとなった。

(次は「実践の予報学者スベール・ペターセン  (7)  戦艦ティルピッツ爆撃のための予報 」) 

参照資料 (このテーマ共通)

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.