2024年7月2日火曜日

雨が降るメカニズム

このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。

雨が降るためには水蒸気が必要になる。そのため、最近は豪雨になると気象学の歴史から見た大気の川」で解説したような、水蒸気がどこそこから流れ込んでという解説がよくなされる。では、水蒸気の多さが豪雨の原因の全てかというと、事はそう簡単ではない。

歴史的に見ると、19世紀頃から雲粒の生成については凝結によることがわかっていた。しかし、雲粒同士の衝突だけでは、落下するほど大きな雨滴になるには相当な時間が必要となり、簡単には雨滴にならない。落下するほど大きな雨滴が、雲の中でどうやってできるのかは、1930年頃まで謎だった。

この謎を最初に解いた一人は、ノルウェーのベルゲン学派の気象学者、トル・ベルシェロンだった。彼は、幼い頃から雲のような気象要素の綿密で巧みな観察が得意だった。

ベルシェロンは保養のためによく訪れたオスロ近くの山腹で、1922 年にモミの森の散歩道を何度か歩いている間に、気温によって霧のパターンが異なることに気がついた。暖かかった時は、霧は散歩道の路面一帯に立ち込めていたのに、気温が氷点より十分に下がると、霧が晴れて路面がはっきり見えた。

彼はすぐにこの理由に対する仮説を思いついた。それは風上にあったモミの木の枝に付いていた霧氷が、-10℃程度の十分に低い気温下で水蒸気を吸収してしまったのではないかということだった。その結果、風下の散歩道では湿度が下がり、霧の液滴が蒸発して霧が晴れたのではないかというものだった。

ベルシェロンが考えた低温下で霧が晴れるメカニズムの模式図。
上が温かい場合、下が寒い場合

彼は、この考えを発展させて、雲の中で雨滴ができるメカニズムを考察した。それは水と氷の飽和蒸気圧の違いによって、十分に寒い高度にある雲では、雲粒から水蒸気が蒸発して氷晶核の方に付着する。こうやって氷晶核が十分に大きくなると落下し始める。これが暖かい大気層まで落下すると、溶けて雨滴となる、というものだった。

彼は、1933年のリスボンの国際測地学・地球物理学連合の会合でこの説を発表した。この氷晶核による雨滴の生成理論は、ベルシェロン過程(またはベルシェロン・フィンダイセンの説)とも呼ばれている[1]。この説はその後の飛行機による観測などによって確かめられ、中・高緯度の並雨以上の強さの雨の機構を説明するものとして広く受け入れられた。また人工降雨実験のための科学的な根拠となっている。

つまり、この説によると、雨が降るためには水蒸気だけではなく、雨滴の核となる氷晶核を作る固体の微粒子も必要となる。この微粒子には地表からのダスト、海からの海塩粒子、大気汚染(二酸化硫黄)からの硫酸粒子などがある。最近はこれらに加えて、微生物が生成する微粒子も関係しているのではないかとも言われている。

降雨のメカニズム(気象庁、数値予報解説資料、第4章、2012)
ベルシェロン過程は、主に中高緯度での右側の流れを解説している。雲氷は融解して左側に移って雨となる。下層が冷たければ、そのまま雪や霰として落下する。

(次は「フェーン現象の解明」)

参考文献

[1] J. D. Cox, (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

2024年5月9日木曜日

国際政治における気象観測網

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

インフラストラクチャとしての気象観測網

現在、気象観測は世界中で行われ、その結果はほぼ即時的に見ることが出来る。正午のニュースで午前中の最高気温や最低気温が報じられることもある。また大雨が降るとどこでどの程度の雨量があったかがすぐにわかる。世界で起こった異常気象も報じられることがある。もちろん、観測結果は天気予報(数値予報)にも用いられており、我々の生活基盤としてのインフラストラクチャの一部となっている。

これは当たり前のように見えるかもしれないが、実は画期的なことである。各地に気象測定器を置いただけでは、観測網にならない。それらは統一的な測定基準で運用され、同時に観測され、何らかの即時的な通信手段で結ばれなければならない。また測定器の故障の際の修理や維持管理のための定期的な保守も必要となる。気象観測は今では防災のための重要な情報となっており、気象台の職員は、気象台内で予報や観測を行っているだけでなく、アメダスなどの観測所を定期的に巡回して、測定器だけでなくその観測環境も含めて点検している(地震計の維持管理も行っている)。

しかし、本当にすごいのは、ここから先である。気象観測地点は世界各地に展開され、観測網を構築している。この世界中を結んだ気象観測網は、歴史的に見てグローバルなインフラストラクチャの最初の一つとなった。そのため、当初は種々の問題にぶつかり、それを一つ一つ解決して行った。そして、それはインターネットを初めとする現代の様々なグローバルなインフラストラクチャの構築にも貢献した[1]。加えて気象独自の問題として、統一されたグローバルな観測が必要という問題があった。

この共通の統一的な測定基準による同時(同期)観測は、今では世界中のほとんどの国々で行われている。世界中が統一された規範に基づいた同一の作業を一斉に(つまり決められた世界標準時に)行っている。世界中の観測結果は各国の気象機関で瞬時に共有されている。それは、アメリカやヨーロッパだけでなく、ロシアでも、ウクライナでも、北朝鮮でも、中国でも、アジアやアフリカの諸国でも同じである。

現代社会における国家間のさまざまな軋轢やいざこざを見れば、これは驚くべき事である。別な見方をすれば、17世紀のウェストファーリヤ条約以来、最高主権をもっているとされている国家をも、その規範に従えていることになる。 こんなことが出来ている分野は他にないだろう。

これは一夜にして出来上がった仕組みではない。100年以上かけて少しずつ関係者が努力を積み重ねていった結果である。なぜこうことが可能になっているのか、簡単に経緯を述べておきたい。

 気象観測網の発展

気象はただ1か所で観測しても、その意義は薄い。他の地点の観測値と比較することで、他の観測地点との違いやこの観測地点の特徴がわかる。いくつかの測定器の開発や実験的なものを除いて、組織的な気象観測網の構築は、17世紀から始まった。それはそのための測定器の開発も並行して行ったものだった。それには、イタリアの実験アカデミー、イギリスの王立協会が気象観測を行った、そして、パリだけではあったがフランスの王立科学アカデミーなども気象観測を行った。

しかし、当時は観測手法や結果の比較に関する科学的な概念は確立されておらず、測器較正や観測環境を含む観測手法が異なる、あるいはわからないため、現在データは残っていても、その結果を同一の観測網の中といえども正確に比較することは出来ない。また、気象観測は長期間の継続が重要であるが、1日に何度も観測することを毎日継続するための労力は大変なものだった。そのため、王立協会を除いて観測は長くは続かなかった。

観測手法の統一をおそらく初めて唱えたのは、王立協会のロバート・フックだった。彼は1663年に王立協会で行っていた気象観測に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案した。これは観測手法の統一のために画期的なものだったが、いくつかの要因により王立協会内でも徹底しなかったようである。

各国では、やがて自国の農業、経済、健康などに気象(気候)データが重要であることに気づいて、18世紀頃から、いくつかの地域で気象観測を行うようになった。その中で、測定器や観測手法を統一した本格的なものは、ドイツのマンハイムにあったパラティナ気象学会によるのものだった。この気象観測網では測定器やその較正方法、観測方法を統一した。それにヨーロッパ、地中海、アメリカ、ロシアなど37か所の観測所が参加し、気圧、気温、湿度、風向、雨量などを測定した。この測定結果は、後にフンボルトの気候図や、ブランデスによる初めての天気図の作成に用いられた。

当時、気象の観測結果は製本されて出版された。気候値として使うためには当然だったのだが、この結果を公開する伝統は今でも続いており、気象の観測結果は、世界中でほとんどがインターネットを通じて無料で公開されている。そしてそれには、衛星による観測や温室効果ガスやエアロゾルなどの環境関連物質の観測結果も同様に扱われることが多い。これもこの分野の特筆すべきことである。

気象観測の目的に大きな革新が起こったのは、電信の発明によってである。 それまで月単位で集計して郵便で運ばれていた各地の観測結果は、電信によって中央でリアルタイムに把握できるようになった。これによって嵐の来襲に対して港湾のなどの船に事前に警報が出せる可能性が出てきた。フランス、イギリス、オランダなどでは観測所を電信で結んで、警報体制を構築した。これが近代的な気象観測網の原型となった。警報と行っても予測理論があるわけではなく、天候や気圧、雨・風、気温変化などの経験則に基づいた、発想からすると現在のナウキャストに近いものだった。

ところが、各国が自国内で整備した気象観測結果だけでは警報を出すのに十分でないことがわかってきた。そのため、1873年に世界気象会議が開催され、その議題の一つが観測網の標準化だった。気象観測の調整のための国際気象機関(IMO)が設立されたが、データの共有は進んでも標準化はなかなか進まなかった。IMOを政府間機関とせず、各国が自国の観測手法を優先したためである。 他国のデータを用いようとすると、観測手法の調査やデータの変換に多大な手間がかかった。また各国の気象関係者も、国の政策的な制約を受けることを避け、科学的に独立した立場を優先した。第二次世界大戦まで、一部の関係者は標準化のための努力を行ったが、その進展はわずかずつだった。

国際政治と気象観測網

それが、進展し始めたのは、第二次世界大戦後に世界気象機関(WMO)が設立されたためである。 WMOは、国連の専門機関として政府間組織となった。つまり、決定事項は政府代表が集まって討議し、その結果には拘束力が付与された。

そして、コンピュータの発明と人工衛星の打ち上げによる数値予報と気象改変の可能性が、1961年のケネディ大統領による国連総会での各国の気象観測網をつなげた構想の演説を後押しした。これは各国から歓迎され、それを受けてWMOは「世界気象監視(World Weather Watch:WWW)」プログラムを設立した。この実施によって各国の気象観測網は一つにつながり、調整された規範に基づいた同一の作業による気象観測が実現された。

これには技術や社会制度の調整だけでなく、東西冷戦(衛星を利用した気象観測は宇宙からの軍事偵察を気象という平和利用で包んだ面があった)、長年の気象学の伝統と関係者の工夫・熱意が関係している。それが上記の世界中で統一された気象観測をもたらしている。

スタンフォード大学教授のエドワーズは、「気候変動社会の技術史」の本の中で、WMOなどの国連の組織自体が、各国政府の正統性に挑む権限を持っていたためにその主権を制限した、と述べている[1]。「世界気象監視」プログラムはまさに国家主権を超えたグローバルな通信インフラストラクチャという面を持っていた。さらに技術的にも後年のインターネットなどの先導役を務めた面があった。エドワーズは世界気象監視プログラムを現在のWorld Wide Webと対比させて、「最初のWWW」と呼んでいる。

(次は「雨が降るメカニズム」)

参照文献

[1]エドワーズ、(訳)堤 之智、2023:気候変動社会の技術史(日本評論社)

2024年3月31日日曜日

グローバルとは?

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

グローバルという言葉

グローバル経済やグローバル社会など、現代ではグローバルという言葉が使われることが多い。意味は概ね世界規模ということになる。しかし、我々がグローバルという言葉の真の意味を、突き詰めて考えているだろうか?

我々の日常生活で、グローバルであることを直接実感することは、あまりないと思う。もちろん、ニュースやインターネットはグローバルな情報を提供しているが、それは世界各地の点や一部の情報がほとんどで、グローバルとしてきちんと一つにまとめたものは少ない。ましてや身の回りのものでグローバルであることを感じることができるものは多くない。

われわれの帰属意識は、通常は身近なものから構築されていく。それは家族だったり、友人だったり、職場や団体だったり、ご近所だったりする。それが拡大していくと、住んでいる市町村や県、あるいは国となる。江戸時代までは出身の国を問うことは、ほぼ藩を指していた。それは、その後国家という概念に置き換わっていった。

それでも、現在一人一人が地球人というグローバルな帰属意識を持っているとは言いがたいと思っている。しかし、概念としてはグローバルという考えは広く共有されて使われているようである。特に地球温暖化のような気候変動問題では、この考えや意識が重要になる。ここでいうグローバルとは、何をあるいはどういう状態を指しているのだろうか?

       我々はグローバルというまとまった意識を持っているだろうか?

 気候の場合

例えば、地球温暖化で問題になっているグローバルな気候を考える。しかし、我々が住んでいるのはその地の気象なり気候であり、「グローバルな気候」に住んでいる人は一人もいない。つまり個人が実感や経験で「グローバルな気候」を理解することは出来ない。科学的に処理した情報を使って、グローバルな気候の議論が行われているのである。

しかも、現在地球温暖化で問題となっているのは、例えば気象庁ホームページによると、この30年間の世界平均気温で0.54℃の上昇である。ところが、我々は毎年季節によって30~40℃という気温の年較差(冬の最低気温と夏の最高気温の差)にさらされている。それにもかかわらず、我々は30年間で0.54℃という平均気温の上昇を議論し、それを懸念している。

では、我々はどうやってこの過去のグローバルな気温の上昇に関する情報を得ているのだろうか?これは、実はなかなか深い問題である。スタンフォード大学教授のエドワーズは、[1]において我々がグローバルな気候情報をどうやって知っているのかについて、根源的かつ詳しい説明を提供している。

グローバルな気象観測網

近代なって気象観測網が世界各地に張り巡らされて、それによって気象が観測されている。では、その過去の気温などの気象データを集めて合計して、地点数で割れば、過去を含めて平均気温が出るだろうか?残念ながらそれは正確なやり方ではない。

最初の問題として、気象観測網の観測所は世界各地に等間隔で設置されているわけではない上に、海上など観測の広い空白域もある。つまり、観測値の地域代表性が問題となる。これは気象予報にも影響するため、気象予報者は、長い年月をかけて客観解析、あるいは再解析という手法で、この問題を克服してきた(これについては、本書の10-5「数値予報の現業運用化」で解説している)。

しかも第2の問題として、長期間の観測の間に、厄介なことに観測環境の変化や観測所の改廃や移転、観測機器や観測基準の変更などが起こっていて、これらは気象観測結果を通して気候値に影響を与える(固有の偏差を含めて、実際の気候の変化ではないものを示すことがある)。また観測は正しくても、初期のうちはそれを伝える通信・通報の際にエラーや間違いが起こり、それをそのまま記録として残したこともあった。

気象観測は、長い間気象予報を目的とした観測所が多かった。第2の問題については、気象予報の場合は影響が小さいか、人間が見てデータを取捨することで解決できた。しかし、長期的な気候目的で観測結果を使おうとすると、第2の問題は大きな障害となる。

そのため、メタデータと呼ばれる観測環境や手法に関する過去のデータを掘り起こして、観測データの信頼性を確認して、場合によっては補正することが行われている。これをインフラストラクチャの遡及と呼んでいる[1](これは現在でも過去データについて行われている)。

世界平均気温については、この値を用いて、地域代表性を加味した加重平均を行って平均気温の算出が行われている。具体的な手法については、気象庁ホームページの世界の平均気温偏差の算出方法を見ていただきたい。

なお現在、多くのグローバルなインフラストラクチャが社会を支えているが、[1]は気象観測網が100年以上かけて、悪戦苦闘しながら世界的な規模で発展をしてきた結果、社会制度を含む技術史的な観点で、気象観測網がグローバルなインフラストラクチャの先駆けの一つとなったと述べている。

また、気温の長期トレンドにはまだ用いられていないが、近年ではもっと数理学的なコンピューターモデルを用いて、物理学的に一貫した手法(再解析)で過去を含めた全世界の気象の計算が行われている。

グローバルな統計とは

世界平均気温を例にとって話をしたが、例えばグローバルである世界平均気温は、過去100年以上にわたって、系統的なデータを用いて一貫した手法で算出されている(インフラストラクチャの遡及の余地はまだあるかもしれないが)。

現在「グローバル経済」などの言葉は普通に使われているが、それらが本当にグローバルになったのは、東西冷戦の終結以降である。それ以前にも、経済統計などはあったが、国が限られていたり、国ごとに算出方法が異なっていたり、包含分野が限られていたりしていた。

例えば過去の長期的なグローバル経済統計については、空白域がなく、メタデータを遡ることが出来て、長期にわたって真の意味で一貫したグローバルなものになっているのだろうか?かつて「100年に一度」と言われた経済危機は、本当にグローバルな統計上で100年に一度だったのだろうか?

比較的しっかりしたインフラストラクチャの上で観測された気象と気候のデータは、おそらくあらゆる物の中で、信頼できるグローバルな統計を長期にわたって行えるものの一つであるということが出来る。そして、それが地球温暖化などのグローバルな気候変動問題の基礎となっている。グローバルな気象観測網というインフラストラクチャは、現代では人類の存続のための重要な基盤になっているといえるかもしれない。

(次は「国際政治における気象観測網」)

参照文献

[1]エドワーズ、気候変動社会の技術史(原題:A Vast Machine、訳:堤 之智)、日本評論社、2024.




2023年12月17日日曜日

元寇と神風(3)弘安の役

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

 4. 弘安の役

4-1 軍の構成

フビライは、1279年2月に南宋を下すと、南宋に艦船600隻の建造を命じ、6月には高麗にも900隻の船の建造を命じた [4]。そして、征東行省の左丞相(総司令官)として忠烈王を、右丞相にモンゴル人のアラハン(阿剌罕)を、そしてその下に、南宋の范文虎、ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶を配して日本への遠征を命じた。この時は、ヒンドゥと洪茶丘はどちらも征東都元帥という同格の肩書きだった [1]。

日本で弘安の役として知られる第2回目の侵攻は、1281年に行われた。元軍は東路軍と江南軍の2つの軍団から成った。東路軍は、蒙・漢・女真を主力とする兵士15000名と高麗軍兵士10000名の合わせて25000名、それに水手17000名、軍船900隻からなった。これを蒙・漢・女真軍をヒンドゥと洪茶丘が、高麗軍を金方慶が率いた。

江南軍は旧南宋の軍を主力とする約10万名と水手42000名と軍船3500隻から成った [4]。これをアラハンと范文虎が率いた。これは当時史上最大の艦隊と言われている。両軍は陰暦の6月15日に壱岐で合流することになっていた [4]。しかし、出撃の直前にアラハンが病気となり、司令官はアタハイ(阿塔海)に替わった。これが江南軍が寧波を出港するのが遅れた原因の一つとなった。

4-2 日本への侵攻

東路軍は陰暦の1281年5月3日に朝鮮半島の合浦を発ち、「新元史」によると5月26日以前に世界大明浦へ到達した。この地点はどこかわかっていないが、一応対馬のどこかではないかとされている。対馬では、激戦となったが多勢に無勢で占領された。5月26日には壱岐に到達した [3]。ここでも武士団は善戦したが、全滅した。そこでヒンドゥが陽動作戦を提案し、100隻からなる小部隊が、6月4日に以前使節が上陸した長門沖に姿を現した [4]。しかし、彼らは日本側の強固な構えを見て上陸をあきらめて引き返した。

江南軍の到着が遅れることを知った東路軍は、単独で博多へ向かい、6月6日に到着した。しかし、湾内の海岸の石築地や河口の逆茂木(川に入れなくするくい)を見て、防備の薄い志賀島(しかのしま)と湾内の能古島(のこのしま)に上陸した。志賀島は博多湾の北に位置する海の中道と呼ばれる砂州とつながった陸繋島である。

 [3]は、それを迎え撃った日本武士団を約3万名と推定している。志賀島では武士団が小舟で夜襲を繰り返した。そのため東路軍は壱岐に撤退し、7月2日には武士団が壱岐まで攻めて合戦が起こった。7月3~4日頃に、東路軍は平戸に撤退して江南軍と合同した [4]。

一方、江南軍は、上記の理由の遅れで6月18日に寧波(舟山)を出発し、6月末に平戸に着いた。そこで1か月滞在している間に壱岐の東路軍と合流し、7月27日には全軍で鷹島を占領した。平戸には20万名近い大軍が1か月滞在したことになる。その理由は不明だが、 [4]は元軍の偉容を見せつけて、日本側が軟化するのを期待したのではないかとしている。

4-3 台風との遭遇

鷹島で軍を進める準備をしている最中の、閏7月1日(陰暦では7月の次に閏7月が来る。この日は太陽暦の8月23日)に嵐が襲った。これは時期や規模からして、明らかに台風である。元軍は海が荒れ始めると、鷹島の北方や西方の玄界灘に面した海に停泊させていた船を、鷹島の南西の湾内に避難させた [4]。波は風が海上を吹く距離(これを吹走距離という)に応じて高くなる。そのため、玄界灘に開けた島の北岸を避けて、外海からの波が直接は来ない島の南方に船を避難させたことは妥当である。

この台風は九州に南西から近づき、鷹島の西側を通って北東に進んだと考えられている。この台風に関する記述は、「一代要記」の「甚雨大風」、「勘仲記」の「終夜風雨太(はなはだ)し」など日本各地で見つかっている。またマルコポーロも「日本国といふ島の・・・彼れ兵を起こして此島を取らんと思へり。・・・北風強く起こりて吹くこと甚だ烈しく彼の島に大害為せり。」 [6]と記述している。これらの記録から見て、これは相当に強い台風だった。この台風により鷹島の江南軍は大きな被害を出した。

おそらく台風が通過するまでは陸側から吹く東の風で、それほど波が高くなくても、通過後は強い北西風によって、開いた北西側から湾に高波が侵入し、それが島の南の海に伝搬したり反射したりした可能性がある。波だけでなく、強い風によって船が流されて海岸にぶつかったり、船同士がぶつかったりする可能性もある。台風によって江南軍の多数の船が沈没し、元軍は大損害を被った。一部の難破船は九州北岸を北西に漂流して、西日本の日本海沿岸一帯に漂着した [6]。八幡愚童記によれば、次のようになっている。

七月晦日(8月22日)夜半より乾風夥しく吹出でて閏七月朔日(8月23日)賊船悉く漂蕩して海に沈みぬ・・・残る所の船共は皆吹破られて磯に上げられ沖に漂ひ、海の面は草を散すに異らず。死人は岸に積み重ねたるが如し。鷹島に打ち上げられたる数千人 船なくして疲居たりしが、破船ども取り繕いて、蒙古高麗七八艘に打ち乗りて逃んとするを・・・ [6]。(注:晦日は末日で朔日は1日のことである)

元軍は大損害を受けたことがわかる。日本側も損害を被ったであろうが、日本は台風に慣れている上に、比較的小さな船が多く、台風の間は船の多くを陸に引き揚げていたかもしれない。

また、鷹島付近の海底から元軍の沈没船も発見されている。これら鷹島沖海底の沈没船2隻の様子から判断すると、風向が南から南東、そして東へと変わる時間帯に、次々に船が沈んでいったとされている [3]。とすれば鷹島の南~東はすぐ陸に面しているので、沈没原因は高波ではなく、強風そのものだったかもしれない。風向きから判断すれば、台風の鷹島の北、直近を通過したようである [3]。

この台風は2004年の18号台風(Songda)と、九州付近では似た経路を進行したと考えられている。そのため、1281年の台風もこの経路に沿って進んだと仮定して、台風のシミュレーションが行われた。それによると、九州北西部での最大風速は50m/sに達した。波高は鷹島で2~3.5 m、博多湾で1.5~2 mと計算されたが、実際はこの高さの2倍近い波が起こったと推測されている [7]。

台風200418号(Songda)の経路(黒線)。 [8]より

高麗史では、高麗軍の兵士と水手27000名の内、帰り着いたのは19397名となっている。また、元軍では、7月5日に范文虎らの諸将は残った船で逃走し、残された十数万名ともいわれる元軍は、鷹島で船を新造したり、修理したりして帰還しようとした。

しかし、7月7日に日本武士団は鷹島で掃討戦を開始した。これは日本武士団による鷹島への逆上陸戦となったはずである。江南軍は司令官が逃亡したとはいえ、残った将の中で司令官を立てて、頑強に抵抗して激戦となった。しかし、地形や潮の流れなどの知識による地の利は日本側にあった。最終的に日本武士団が江南軍を打ち破り、兵士2~3万名が捕虜となった [3]。捕虜の中で、蒙・漢・女真の兵士は処刑されたが、南宋の兵士は奴隷とされた。

しかし、 [3]は実際に処刑された兵士はそれほど多くなかったのではないかとしている。特に南宋出身の一部は、大陸の高度な軍事技術、兵器の用法を日本に教え、高給を得て経済的にも恵まれた生活をしたようである。また、高麗人もそれなりに保護されていたようである。11年後に高麗国王から、日本は戦役によって戻らなかった高麗人を聖徳に従って生かしているようで幸いなことである、という書状を受け取っている [3]。

4-4 東路軍は博多湾で台風と遭遇した?

東路軍が博多湾から撤退して鷹島で江南軍と合同した点について、 [3]は別の説を提唱している。それは、「高麗史節要」にある世界村大明浦は、対馬ではなく志賀島というものである(江戸時代から300年間、それは通説だったとしている)。つまり、東路軍は5月3日の出発当日に対馬に到着して5月8日頃までに制圧し、15日頃までには壱岐を制圧し、そして5月26日に志賀島に到着したとしている(ほぼ同時に能古島も占領されていたとみている)。そして、東路軍は志賀島を基点に戦い続けながら、一部は長門へ偵察に行った。博多の防備が堅いので、長門を探ったのかもしれない。しかし、長門も厳重に防備してあったため、そのまま引き揚げた。

生の松原の武士団本営の様子。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

日本武士団は、博多湾南岸の生の松原に本営を置いて、志賀島周辺の東路軍を攻めた。「蒙古襲来絵詞」にも志賀海神社横の陣地の蒙古兵や志賀島と思われる場所での武士の様子が描かれている。同じく描かれている船での海戦の状況も、この時の様子かも知れない。

そして6月8日に最大の戦いが起こった。武士団は東路軍をかなり不利な体勢まで追い込んだようだが、志賀島を奪還できなかった。この時の戦いと思われる記述が、日本の「歴代皇紀」や朝鮮の「高麗史」にも残っている [3]。これ以降の戦いでは、日本側はゲリラ戦や夜襲を多用したようである。

東路軍によって占領されていた志賀島とされている絵。浜辺に柵も見える。入江にいるのは蒙古兵とされていたが、 [3]では日本人による偵察とされている。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

志賀島の元軍の防備が強固であったため、武士団は作戦を変えた。6月29日から7月2日にかけて元の補給基地となっている壱岐を攻撃した。そのため、そのため志賀島の東路軍の一部は壱岐に移ったが、志賀島での戦いは続いた。高麗史にある6月26日の東路軍船の遭難は、志賀島から壱岐へ応援に向かった船としている。

閏7月1日には両軍とも博多湾で台風を迎えたが、外海への開口が狭い博多湾内ということもあって、波高は鷹島の6割程度だったと見積もられている。そのため波による被害によって使える船は多少減ったものの、戦いは続いた。閏7月5日に武士団は生の松原の本陣にいた記録があり、その日に総攻撃を行って博多湾の東路軍を打ち破った [3]。それにより、東路軍は博多湾から撤退した。上述したように、高麗軍の兵士・水手は約7割が帰還している。

閏7月5日の博多湾での海上合戦とされている図 [3]。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

一方、江南軍は、7月始めに平戸へ到着し、15日頃鷹島へ移動した。27日頃に壱岐にいた東路軍の一部と鷹島で合同したとしている。そして、江南軍は閏7月1日に鷹島で台風と遭遇して大被害を被った [3]。上述したように、7月5日に范文虎らは残った頑丈な船で逃走している。この鷹島の状況の報告を受けて、日本武士団が閏7月7日に鷹島に進軍して、残った江南軍に攻撃をかけた。

当初は互角の激戦となったようで、日本側にも多数の死傷者が出ていたようである [3]。最終的には日本武士団が勝利したが、范文虎らが逃走しなければ、もっときわどい戦いになっていたかもしれない。しかし、江南軍は全滅したわけではなく、台風で沈んだのは主に老朽船か過剰積載の船だったようで、そうでなかった何人かの将軍が率いた船、数百隻はほぼ全部が帰還したことが記録されている [3]。

4-5 弘安の役の謎

4-5-1 なぜ志賀島を拠点にしたのか?

志賀島は全長約4km、幅2kmの砂州でつながった陸繋島である。島は小山になっており、北側は玄界灘に、南側は博多湾に面している。砂浜もあるが、全体に海岸にはごつごつした岩が多いというのが私の印象である。少なくとも北側半分は兵士や物資の上陸には不向きだっただろう

砂州である海の中道とのつなぎ目の南あたりが砂浜で小さな湾になっており、現在博多港と結ぶ渡船の港がある(砂州には道路も通っている)。東路軍は砂浜で波が穏やかなその付近に船を停泊させたのではないかと思われる。

しかし、300隻の大船やそれに伴う補給船を停泊させるには、そこだけでは狭過ぎると思われる。砂州に沿ってか、湾内北側の広域に停泊したのかもしれない。その付近は博多湾岸から海の中道を辿って襲撃しやすいため、武士団は襲撃を繰り返したのかもしれない。

その点では、占領した湾内の能古島は、地形がもっと穏やかで陸とつながっておらず、そこを拠点にする選択肢もあったと思われる。刀伊の入寇の際は、刀伊は博多湾岸からいったん能古島に退いている。元軍の場合は、能古島では北方の博多湾口を塞がれるとまずいと思ったのか、それとも博多湾岸に近くて日本武士団の攻撃を受けやすいと思ったのか、志賀島に拠点を築いた。

4-5-2 なぜ鷹島へ移ったのか?

江南軍は6月末か7月初めに、日宋貿易の経路となっていた平戸へ到達し、そこに1か月近く滞在した。事前の予定では壱岐で東路軍と合同する予定となっていたが、江南軍の出発が遅れた。そのため、平戸に着いた際には東路軍は既に博多湾の志賀島で攻撃を開始していた。そういう状況では、直ちにそれと合同するか、それを支援する行動を起こすのが普通と思われる。平戸での長期滞在の理由は何だったのだろうか?

そして、江南軍は平戸で東路軍と合同し、7月27日にわずか20km先の鷹島を占領して、そこへ移動した。この占領の意図は何だったのだろうか?平戸から博多まで約80kmある。わずか20km先に兵を進める利点は何だったのだろうか?常識的には、もし志賀島を確保しているのであれば、そこを拠点とした方が有利だと思われる。10万の大軍の拠点にするには、志賀島は小さいと判断したのだろうか?

平戸に長期滞在した理由の一つとしては、平戸の対岸から陸路をとろうとして、1か月かけてその付近の地理を調査した可能性もあるかもしれない。平戸から唐津までは、高さは低いが複雑な山岳地形である。それで陸路による進撃を断念したのかもしれない。そして、その代わりに鷹島を拠点として、そこからすぐ海を渡って、陸路で進軍しようという考え方はあり得ないだろうか。鷹島から唐津まではなだらかな丘陵地帯で、距離は約10kmしかない。ただし、唐津と糸島半島の間には比較的高い山が海岸まで迫っており、博多まで進軍するにはその狭い海岸を突破しなければならない。

もし地理を知り抜いていたら、別ルートとして鷹島から佐賀まで南下して、南から太宰府を攻める選択肢もあったかもしれない。博多経由より距離は1.5倍程度延びるが、太宰府の南には水城のような防衛施設はなかった。

いずれにしても、東路軍だけでも日本武士団は苦戦しているように見えるので、志賀島と鷹島の2方向から攻められれば、日本武士団はお手上げだったかもしれない。


九州北部の地形

4-5-3 元軍がもし志賀島で合同していれば?

あるいは、江南軍はあくまで東路軍と合同して、博多湾から一気に太宰府まで攻め上りたかったのだろうか。もし平戸を早期に撤収して、7月中頃に鷹島ではなく志賀島で東路軍と合同していれば、どうなっていただろうか?

博多湾に大型船だけで1000隻を超える船団が入ってくれば、日本武士団はそれらを徹底的に攻撃する手段はなかっただろう。博多湾南岸は石築地があるので、元軍は湾岸からの上陸を避けたかもしれない。しかし、江南軍が拠点である志賀島に上陸し、そこから東路軍と合わせて十数万名からなる元軍が、海の中道を抜けて博多に入れば、3万+α程度の武士団では、太宰府を守る水城や大野城があっても元軍の進軍を防ぐ手段はなかっただろう。

あるいは、玄界灘に出れば、砂州である海の中道北岸から津屋崎海岸まで、20kmにわたる長大な砂浜が続いている。地理に詳しければ、天候を見計らって、そのどこかに大軍を一気に上陸させて、そこから太宰府に向けて進軍する手もあったかもしれない。

元軍は、鷹島から先どのような作戦をとる予定だったのかはわからないが、いずれにしても、台風が来なければ、その迎撃は困難で長期的なものになっていたかもしれない。

5. 弘安の役後

これだけ大敗した元軍だったが、その元での影響は大きくなかった。その理由を、もともと江南軍の大半は旧南宋の兵士たちで、中国大陸での置き場がないので日本に植民させようとしたとしている [4]。つまり、もともと兵士たちの帰還を想定していなかったというものである。事実、鍬・鋤などの農具や種籾などの植民のための物資が船に積まれていたとされている。

あるいは、日本侵攻は辺境の出来事の一つに過ぎず、フビライの関心は高くなかったという説もある [1]。そのため、フビライは敗戦に怒って罰したかもしれないが、帰国した司令官たちを処刑しておらず、元による日本侵攻の記録もそれほど多くない。そして [1]は、元による日本侵攻を、元の組織の一部である「征東行省」の官僚が、組織拡大や自分たちの利権のためにフビライを熱心に説得したプロジェクトだったとしている。

しかし、フビライは日本侵攻を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年に元は征東行省を廃止し、その役割を上部組織である遼陽行省に統合した。つまり、より上位の組織が日本侵攻に乗り出したともいえた。そして第三次日本遠征計画を企画し、高麗を当てにせず、1282年にはその省自ら艦船の建造にも乗り出した [1]。そして、1283年には再び征東行省を設置し、その右丞相にアタハイを再任した。

日本にもまたまた使節を送ろうとした。1284年に国書を持った使者が対馬まで到着した。しかし、随行者の一員によって使節の一人が対馬で殺されたため、残りの使節は帰った(ただし、そのときの国書の写しは日本に残っている)。

1283年に広東と福建で反乱が起き、翌年にはベトナムで反乱が起きた。この鎮圧に日本侵攻用の軍勢を投入せざるを得なかった。しかも、ベトナムでは台風の影響もあって鎮圧に失敗した上に、元の皇室内の内紛もあった。1286年8月に、日本侵攻軍は朝鮮半島の合浦に結集することになっていた [4]が、日本侵攻は中断された。そして同年に家来の漢人である劉宣が進言し、フビライはこれを受け入れて最終的に日本侵攻は中止された [1]。

6. おわりに

人間は不安を抱えた弱い生き物である。何か心の支えを必要とする。神頼みをしたり、誰かを英雄視したりすることで、それを払拭しようとしているのではないだろうか?それが集団で行われるようになると、国によっては、選民思想になったり、多くの英雄を祭り上げたり、人間を超えるスーパーパワーを想像で生み出したりという願望になるのかもしれない。

文永の役はともかく、江南の役では、確かにたまたまやってきた台風によって日本が救われた面がある。しかし、それをどう解釈するかは、その民族の心持ち次第であろう。

元寇に際して、武士たちは実際に戦い、当然それを自分たちの手柄にしたいので、天候に関する記述をあまり残さなかった。

一方で、武士団による準備と戦いと並行して、神社、仏閣、陰陽師による加持祈祷も盛んに行われた。神官や僧侶は、台風という人知を越える力を自分たちが引き出したと、ことあるごとに主張した。弘安の役では、実際に台風が元軍を追い払うきっかけとなった。神仏を信じる力や恐れる心は現代の比ではなかったろう。これが偶然と重なって神風になったと思われる。

神風を受け入れる、あるいは受け入れたいという心的要素が、大勢の日本人の中にあったということだろう。すくなくともそう願った人々が少なくなかったということである。それは日本人の心の支えに利用され、また、徐々にそれを強化するような言い伝えがなされた面もある。それがだんだん発展していって、一時期日本は神国ということにまでなってしまった。人間が自国の優越を信じたいのは自然の感情であり、その発露の仕方がさまざまな経緯を経て、日本の場合はそうなったのだろうと思っている。

(このシリーズおわり。次は「グローバルとは?」)


参照文献(このシリーズ共通)

1. 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 出版地不明 : 扶桑社, 2022.
2. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
3. 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
4. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
5. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
6. 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
7. Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
8. Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.


2023年12月11日月曜日

元寇と神風(2)戦いは1日ではなかった?

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です )

2-3 戦いは1日ではなかった?

これまで最初の侵攻での戦闘は、11月26日の1日だけと思われていたが、近年あらたな説が出てきた。 [3]は九州から京都への報告の日付から、戦いは10日間ほど続いて、元軍が退却したのは12月6日頃としている。また「関東評定伝」に、11月30日に元軍が太宰府近くまで攻めてきたが撃退したという記録が残っていることも、この理由に挙げている。

確かに、26日に今津に上陸して、20km先の博多で夕方まで戦って、また当日のうちに今津へ退却するのは、暗くなることもあってほぼ不可能である。 [3]は、元軍は日本側の拠点となっていた警固山(今の福岡城趾)を落とすことができず、夕方には陣を構えていた西新のすぐ南の祖原山(麁原山)に引き揚げたとしている。元軍の行動として、これは十分に考えられる。そしてしばらくそこを拠点として博多で戦い続けた。

なお、祖原山は現在祖原公園となっており、元寇古戦場跡という碑が残っている。また同書は、別に箱崎付近に上陸した部隊があった可能性も指摘している。これも十分に考えられる。

警固山付近での合戦推定図(燈線は元軍の進路)。合戦は、警固山の北側だったかもしれない。なお、点線は昭和40年頃の海岸線を示している。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに地名や経路を追記して使用)

[3]が指摘しているように、上陸戦では海岸に近い山に海岸堡を確保することが重要である。海岸堡は海からの補給の拠点になり、また攻撃や防衛の拠点にもなる。元軍が拠点とした祖原山(標高33m)は海岸や川から離れた内陸にあり、しかも狭い丘で大規模な軍勢が恒久的な陣を敷くには向かない(祖原山から百道浜までの一帯に布陣していた可能性はある)。

もし本格的に海岸堡を築くならば、もっと大きな小山で、かつ船との往来が容易な川沿いの海岸にある、西公園(荒津山:標高40m)や愛宕山(標高70m)の方がよかったのではないかという疑問は残る。ただ、西公園は日本軍の拠点である警固山に近すぎ(距離約1km)、愛宕山は出撃のたびに大きな室見川を渡らなければならず、それで避けたのかもしれない。

2-4 嵐は起こったのか?

上記の八幡愚童記の記述だけでなく、高麗史(東国通鑑)の記録によると、「たまたま夜大風雨。戦艦巌崖に触れて多く敗る」となっている。さらに元史によると、朝鮮半島にたどり着いたのは400隻で、兵士の損害は、合戦での死者2000名を除くと、13500名が溺死したとされている [5]。

八幡愚童記には合戦当時の夜に雨が降った記述があるが、嵐そのものやその痕跡に関する記述はない。もし嵐に遭遇したとすると、それは博多湾から朝鮮半島へ戻る途中の出来事である可能性が高い。八幡愚童記にあるように、一部の船は難破して志賀島近くまで漂流したのかもしれない。

11月末なので、嵐が台風とは考えにくいが、発達した低気圧と遭遇した可能性は十分にある。この時期は冬季季節風が始まる時期であり、通常西風が卓越する。すると東に戻れないので、たまたま南を通り過ぎようとした低気圧による東風を中国や朝鮮半島へ引き揚げるために利用しようとしたのかもしれない。結果、帰還途中の海上で低気圧に遭遇した可能性はある。

本当に夜間に嵐が起こったのならば、数多くの避難民が松明を利用したり、それに遠くから気づいたりするのは困難である。元史には文永の役の記事に風雨に関するものはない [6]。少なくとも博多での戦いの帰結に、嵐のような気象が関係したとは考えにくい。

いずれにしても武士団は善戦し、元軍は簡単には勝てそうにないことを悟った。冬の北西季節風が卓越するようになると、朝鮮半島との間には簡単には船を回せなくなり、元軍は補給が難しくなる。そのため [3]は、嵐に遭遇したことを、戦闘を中止して撤退するための理由として挙げたとしている。しかし、元史にあるように、帰途時に実際に低気圧に遭遇して、多くの船が難破した可能性がある。その漂流した船を日本側が発見して、嵐による撤退という記述になったのかもしれない(もちろん、元史そのものの信憑性の問題もある)。

2-5 文永の役の考察

2-5-1 上陸に博多湾を選んだ謎

当時、船は軍隊の移動にとって大きな利点があった。大量の兵士や物資を陸上より速く輸送できた。そして、防衛側はあらゆる所を防衛することはできないので、船上の軍は敵の防備の薄いところを見つけて上陸できる。ちょうど同じ頃、ヨーロッパ各地でバイキングが猛威を振るったのは、そういった利点を活かしたからだと考えられる。

しかし、船を使った上陸には欠点もある。海岸は、陸という固体と海という液体と大気という気体が混ざり合う所で、それらがぶつかると大きな衝撃が発生する。船は脆弱であり、そうなるとそれらによる影響をまともに受ける。立派な港湾施設などない時代では、上陸は波が凪いだ砂浜にしかできなかっただろう。

また、大型船は直接陸につけることができないので、上陸は少人数ごとに小舟にわけて行う必要があった。これには時間もかかる。もし上陸場所が事前に知られてしまい、そこで迎撃されれば、少人数にわかれた上陸軍は個別撃破されてしまう。そのため上陸戦の要諦の一つは、敵の意表を突いた奇襲である。

元軍は大きな間違いを犯した。事前に対馬と壱岐を征服して襲来を太宰府に予告した。対馬と壱岐の征服には、九州上陸と同時に小部隊を送れば十分だったのではないか?また、迎撃する武士団が待ち構えている本拠地に近い博多湾に上陸した。

確かに博多湾は太宰府に近く、通商の要衝で砂浜を持った大きな湾である。湾は穏やかで、船の停泊にも都合が良いだろう。そこに上陸しようと考えるのは当然ではあるが、防衛側も当然そこを重点に守ることを考える。上陸地点に博多湾を選んだことから、元軍は奇襲上陸をあまり重視していなかったことがわかる。

2万名以上の兵士を沖合の大船から岸へ小舟で上陸させるのは、容易なことではなく、また時間がかかる。本当に11月25日の夕方に到着して、26日の早い時間から進軍を開始したのならば、船にいた兵士や物資の全てが上陸できたわけではなかったかもしれない。元軍は、兵士や馬や物資を十分に上陸させて、その上で戦う準備を整えてから進軍するための時間を稼げなかったのではないか?

一方で日本武士団も、上陸直後の元軍を迎え撃とうと考えていたようには見えない。日本武士団は、進軍する元軍を、今津を含めたあちこちで小勢ではあるが迎え撃っている。しかし、上陸場所が早めにわかれば、逆に日本武士団は上陸中で数が揃わない元軍に対して、先に本格的な攻撃をかけるという考え方もあったはずである。文永の役では、両軍は博多の中心部で、あたかも内陸での対峙戦のように戦ったように見える。両軍ともそういう戦い方しかないと思っていたのかもしれない。

ところで、5回目と6回目の使節であった超良弼は、数か月間博多に留め置かれた間に、付近を偵察していたという説がある。本人にそういう意図があったかどうかはわからないが、帰国後に博多の地理について、いろいろ尋ねられたことは想像に難くない。

 [3]は、博多湾の浅い水深から、元の大船は岸から2kmほど沖合に停泊したのではないかとしている。手漕ぎ船で2kmを何度も往復するのには時間がかかるだろう。上陸場所については、砂浜だけみれば博多湾内だけでなく、博多より北部には津屋崎や神湊付近にも大規模な砂浜がある。唐津湾には虹ノ松原という砂浜がある。

これらの砂浜の沖は水深が深いので、大型船が博多湾より岸近くに投錨できたかもしれない。そうすれば、より速やかな上陸が行えただろう。また、日本は襲来に気づいてからそこまで武士団を派遣するのには時間がかかるので、元軍は海岸で十分に体勢を整える時間が稼げたかもしれない。

もちろん、当時と今とでは戦闘の常識や考え方が異なるので、今の考えをそのまま当てはめることはできない。しかし、ひょっとすると日本は危なかったのかもしれない。もし元軍が周到に準備して、どこかの海岸を奇襲し、拠点となる強力な海岸堡を築き上げてから、太宰府に向けて全軍で一斉に進撃していたら、その撃退は容易ではなかったろう。

2-5-2 撤退時の謎

ところで、別な大きな疑問の一つは、元軍の浜からの撤退時の記録がないことである。八幡愚童記では、元軍は夕方退却を開始して、翌朝には博多湾から姿を消したことになっている。一夜にして元軍が撤退したと読めるような書きぶりとなっている。

今津に上陸したとすれば、夕方に博多から今津にまで撤退することは困難であることは既に述べた。元軍は、事前に祖原山に近い百道浜まで小舟を回して、そこから撤退したのだろうか?それだけでなく、夜間に大勢の兵士を海岸で小舟に乗せ、沖合の大船まで撤収して出航しなければならない。しかも捕らえた住民も連れて行ったようである。当時の状況では、夜間に短時間でしかも隠密裏にこれを行うことは事実上無理があると思われる。

[3]の説のように、博多周辺で10日程度戦ったとしても、元軍の撤退時の記述がないのは不思議である。元軍は不利だったために退却したのだろう。すると、日本武士団は、徐々に浜へ向けて元軍を追い詰めていったとしても不思議ではない。軍事常識では撤退戦は難しい。しかも、最後に兵士を船に収容するとなれば、なおさらである。通常ならば、浜に元軍を追い詰めて、一部の兵士は船に逃れたかもしれないが、日本武士団は多くの兵士を討ち取って大勝となるはずである。そうなれば、日本側はなにがしかの記録を残さないはずがない。

今まで書いた上陸方法は、元軍は沖合の大船から兵士や物資を小舟に積み替え、岸まで漕いで降ろし、また大船に戻ってこれを繰り返すことを前提にしている。しかし、元軍は上陸用に持ってきたパートル軽疾舟300隻に1回で乗れる数の兵士だけを上陸させた可能性もある。

その場合、1隻に漕ぎ手とは別に兵士20名が乗れるとすると [3]、上陸した兵士は多くても6000名程度となる(馬や当座の食糧の輸送を考えれば、実際はこれよりはるかに少ないだろう。 [3]は第1波を約3000名とみている)。それらの船は海岸で待機しており、戻ってきた兵士を乗せてすぐに沖合の大船に戻るというやり方である。しかし、このやり方は後続の兵士や物資をほとんど揚陸できないので、上陸戦というよりは威力偵察に近くなる。

いずれにしても、日本武士団が元軍の撤退を、去る者は追わずとじっと眺めていなかったとすれば、元軍がどうやってほとんど混乱なく陸上から撤退できたのかは謎である。


3. 文永の役の後

3-1 その後の使節

1275年4月、杜世忠を正使とする5名が元使として日本にやってきた。彼ら一行十数人は、博多ではなく長門の室津に到着した。鎌倉幕府は急いで長門の警備を固め、使節全員を鎌倉で斬首した。現在彼らの墓は鎌倉の常立寺にある。この時難を逃れた使節一行の一部が逃げ帰ったが、フビライが使節が斬首されたことを知ったのは5年後だった。

1279年に南宋を滅ぼした元は、前の使節が斬首されたことを知らずに、再び使節を送った。彼らも太宰府で斬首された。

3-2 防衛の強化

翌1275年、執権北条時宗は防衛を強化した。2月に異国警固番役を制度化した。異国警固番役とは、九州の御家人が交替で一定期間、要所の警護をするものである。

一方で異国征伐として、元の日本侵略の基地となっている高麗を、先制攻撃しようという計画が持ち上がった。いわゆる防衛のための敵基地攻撃である。実際に西国の水夫を集めたが、国内の争乱に疲弊していたためかこの計画は実現しなかった。一方で、元は1276年に南宋の首都臨安を陥落させた。

同年に幕府は、九州各国の守護、地頭などを集めて防衛協議を行ない、その結果、石築地の造築が決まった。石築地とは現在元寇防塁と呼ばれているものである。これは高さ約2m、幅3mの石垣で、海岸から50mほど内陸に作った。範囲は博多湾内の東は香椎から西は今津浜まで約20kmにわたった。約半年で作ったとされている。ただ博多湾は全てが砂浜ではなく、岩場もあるので、石築地が範囲内の全てに連続してあったわけではない。

3-3 総司令官を巡る争い

1280年に再度の日本侵攻を決意したフビライは、そのための政府機関「征東行省」を朝鮮に近い満州に設置した。そして高麗に対して日本へ侵攻するために、兵士10000人、水夫15000人、米11万石を用意するように命じた。

高麗内では、高麗の忠烈王とモンゴルに帰順した高麗人である洪茶丘との間に、日本侵攻の主導権争いが起こった。洪茶丘は元の高官であり、高麗内で元寄りの政策をとっていた。一方で忠烈王はフビライの娘と結婚し、妃が王女を出産したことから、皇帝の娘婿を指す「駙馬」の印を得ていた。

忠烈王は、このままだと洪茶丘が総司令官になることを危惧し、自分を征東行省の長にしてほしいとの要望をフビライに出した。フビライはそれを認めて「征日本軍元佩虎符(げんばいこふ)」の割り符を与え、高麗の忠烈王が日本侵攻の総司令官となった [1]。

元寇と神風(3)弘安の役 につづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.