(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
「気象学と気象予報の発達史」(丸善出版)のこぼれ話など気象学の歴史に関連する話を補足、説明していきます。
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2020年2月17日月曜日
フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2
参照文献
2020年2月10日月曜日
フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1
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一方で、膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのために人々にとってわかりやすい目的が必要だった。彼は実用的な気象予測と気象制御をその目的の一つに据えた。[1]。彼は例えば北極の氷を染めて反射するエネルギー量を減少させれば、アイスランドの気候をハワイのような暖かな気候に変えることができると考えていた[2]。もちろん、現実には気候はさまざまな要素と相互作用をするので、話はそう単純ではない。しかし、そういった気象の複雑性がわかってきたのは、もっと後のことである。
しかし、本の「9-3 リチャードソンによる数値計算の試み」で述べたように、これはイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン(Lewis Richardson, 1881-1953)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗した予報の数値計算を、電子コンピュータに置き換えただけでうまくいくわけではないことははっきりしていた。そのためには本の「10-3-3数値予報の課題解決」で述べているように、解決すべき難問が横たわっていた。
参照文献
[2] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.
2020年2月5日水曜日
フォン・ノイマンについて(8) 原子爆弾の開発
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「5 戦争への協力」のところで爆弾の爆発のさせ方によって、爆弾の威力に大きな違いが出ることを述べた。アメリカは原子爆弾を開発するに当たって、その威力を最大限発揮させるにはどうすれば良いかを研究した。特にプルトニウムを用いた原子爆弾は、核分裂させて核爆発を起こすためにプルトニウムを適時に臨界量に持って行く必要があり、爆発させるには爆薬を用いて絶妙なタイミングでプルトニウムを圧縮するために、爆縮という困難な爆発制御を必要とした。
「5戦争への協力へ」のところで述べたように、フォン・ノイマンは非線形の流体力学と衝撃波の専門家でもあり、指向性爆薬の爆発研究ではアメリカ(おそらく世界でも)で随一だったから、爆縮の開発に彼は最適任者だった。彼は原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画を指揮していたオッペンハイマーに1943年にスカウトされて、開発拠点の一つであるロスアラモス研究所へ行った。当時は使える核物質の量や機密保持の観点から、原子爆弾の爆発実験を重ねるわけにはいかなかったので、彼は爆発の数値実験(シミュレーション)という考え方を用いた。
フォン・ノイマンは1943年から1945年にかけて数学者のウラム(Stanisław Ulam)とIBM社のパンチカード集計機を用いて、爆縮の設計のため偏微分方程式の数値計算を行った[1]。本の「10-2-1気象計算の機械化」で述べたように、パンチカード集計機は、簡単な加減演算が手計算よりかなり速く正確に行えたため、気候統計などの大量計算にも用いられていた。彼は最終的に火薬と点火装置を32面体に配置して同時に点火し、内部のプルトニウムを圧縮するという「爆縮レンズ」という手法を編み出した。これによって、プルトニウムの圧縮は可能という目途がついた。
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爆縮レンズの原理 |
フォン・ノイマンはロスアラモスで爆縮の計算だけでなく、原子爆弾開発のいろいろな問題にも関与していた。当時原子爆弾の開発や製造には問題が山積していたが、問題解決に行き詰まった人々は、忙しいフォン・ノイマンが部屋から出たところをつかまえて廊下を歩きながら話を聞いてもらっていた。彼が行き先である会議室に到着するころには、問題の答えか、答えに行き着く道筋が見えていたという[1]。
なお、広島に落とされたウラン型の原子爆弾は、爆発が確実なため実験は行われなかったが、長崎に落とされたプルトニウム型の原子爆弾は、爆縮の効果を確認するため1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで実験的に炸裂させて、核爆発することが確認された。それでも長崎で爆発したプルトニウム型の原子爆弾は、爆発のさせ方によっては威力はもっと大きかったとも言われている。
フォン・ノイマンと一緒に核の連鎖反応のための中性子拡散の計算を行っていたウラムは、1946年に休憩時にゲームのソリティアをしていた。彼はソリティアを成功させるために、残ったカードの組み合わせの数を推定するより実際に成功する場合を計算機を使って数えた方が速いことに気づき、フォン・ノイマンに相談した。これは多数の確率実験を電子コンピュータを使って行うことによって、統計学的に答えを出すことができるというやり方だった。彼らは中性子拡散の計算にそのやり方を適用することにした。そして、ロスアラモス研究所の物理学者メトロポリス(Nicholas Metropolis)が、1947年にENIACを用いてこのやり方で連鎖反応を初めて計算することに成功した[2]。
この多数回の試行から解の分布を求めるようなやり方は、カジノで有名な都市名に因んで「モンテカルロ法」と命名された[2]。現在、モンテカルロ法は物理現象の数理解析だけでなく、多重処理方式の電子計算機システム、交通・通信サービス施設のシステム設計や運用のためのシミュレーション、生産ライン、人員配置、在庫管理、建設計画等の生産企業諸部門の設計や運用など広範にわたって使われている。
参照文献
[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書[2]Gass S. I. (2006) IFORS' Operational Research Hall of Fame: John von Neumann. International Transactions in Operations Research、 13 (1): 85-90
2020年1月28日火曜日
フォン・ノイマンについて(7) 電子コンピュータの開発
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本の10-2-2「電子計算機の出現」で述べているように、アーサイナス大学の物理学教授ジョン・モークリーは電子工学に強い興味を持っており、1941年頃に太陽黒点周期の気象への影響を調べるために、調和解析機(Harmonic
Analyzer)という一種のアナログコンピュータを開発していた。彼はペンシルバニア大学電気工学科のムーア校にいた優れた電気技術者だったプレス・エッカートと知り合いになった。彼らは相互のアイデアを交換して電子式微分解析機を共同で開発することにした。
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エニアック |
ところが、フォン・ノイマンは名誉や金銭的な欲得に薄く、科学の進歩のためには新しい情報を多くの研究者と共有すべきと考えていた。そのため、電子コンピュータの開発を自負して特許を取得しようとしていたエッカートとモークリーとは袂を分かつこととなった。エッカートとモークリーはムーア校を去って会社を興してUNIVACの開発を開始し、ゴールドシュタインは、高等研究所のフォン・ノイマンの元へ行った。
そして1951年に完成した高等研究所の電子コンピュータ(IASマシン)は、既に開発されていた他のどのコンピュータより速かった[3]。後述するように、ENIACで実質24時間かかった順圧モデルを用いた予報のための数値計算は、このIASマシンだと5分以内に終わる計算だった。この高速の計算は、気象学の分野では数値予報と気候モデルという全く新しい分野をもたらした。
フォン・ノイマンの人望に基づいた説得力によって、電子コンピュータプロジェクトに必要な高額の開発資金を得ることができ、彼の数理学的能力によってこのプロジェクトで新しい論理回路を開発することができた。現在のコンピュータは、この「フォン・ノイマン・アーキテクチャー」と呼ばれている基本構成の延長線上にある。
参照文献
2020年1月25日土曜日
フォン・ノイマンについて(6) 経済学への貢献
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この分野でのフォン・ノイマンの業績は、大きく分けて二つが知られている。一つは1932年にプリンストンの高等研究所での数学セミナーで行った「経済学の方程式いくつかと、プロウェルの不動点定理の一般化について」という講演が端緒となったものである。それは1937年にウィーンでの経済学セミナーの論文集の中で出版され、1980年代になって線形計画法・非線形計画法などの数理経済学を開花させた。
もう一つは、ドイツ生まれでアメリカで活躍した経済学者オスカー・モルゲンシュテルンと1944年に書いた大著「ゲームの理論」である。これは、彼が1928年に書いた「社会的ゲームの理論について」でのミニマックスの法則が発端となっており、経済学で「意思決定理論」と呼ばれている最も利潤を出すための行動を、ゲーム戦略や組み合わせ理論などを使って定量的に考察するものである。
しかしフォン・ノイマンは、経済学の理論については既存の数学を不十分・不適切につかったところで、その根本にあるあいまいさは追放できないと考えていたようである。数理経済学を深めるには、ニュートンによる微積分の考案に匹敵するような新しい数学の言語が必要であるというのが彼の考えだった[1]。