2025年11月14日金曜日

別な科学で有名な気象学者-グレゴール・メンデル

 初めに

グレゴール・メンデル(1822-1884)は、現在のチェコのモラヴィア地方の科学者で、遺伝に関する「メンデルの法則」で世界的に有名である。しかしご存じの方も多いと思うが、メンデルの法則を記した論文は生前は評価されず、彼は生物学者とはほとんど見られていなかった。彼が行った遺伝に関する研究の価値が認識されたのは、死後16年以上経ってからである。

彼の人生の大半は気象を研究する修道士であり、その後修道院長になったものの、自分のことを気象学者だと名乗っていた(モラヴィア大学設立請願書に気象学者としてサインしている)。もしメンデルの遺伝の研究が有名にならなければ、チェコのローカルな気象学者として位置づけられていただろう。逆に「メンデルの法則」が後にあまりにも有名になったので、彼の気象学者としての業績はあまり知られることがなくなってしまったようである。

 グレゴール・メンデルの写真

メンデルの生涯

幼少期から学生時代

ヨハン・メンデル(「グレゴール」は司祭職に就いてから名乗った)は、1822年にオーストリア領シレジア地方(現在のチェコ共和国ヒニツェ)のハインツェンドルフの農家の家庭に生まれた。彼は父の傍らで農業(植物の栽培、樹木の接ぎ木、養蜂など)を学び、小学校で自然科学を修めた。彼は小学校で最高の成績を修めて優秀であったため、農家の少年としては異例なことに教育の継続を勧められて、中等教育機関であるギムナジウムに進学した[1]

ただ彼は、16歳の時からストレス、絶望感、圧倒感を感じ、集中力の欠如、食欲不振、睡眠障害などを伴う精神的な病をときおり発症した。一種の「適応障害」だったのではないかという説もある[2]。同年(1838年)に彼の父親が事故に遭い、経済的に苦しくなったことも関係していたかもしれない。

彼は1840年にギムナジウムをともかくも卒業し、オロモウツにある大学付属の高等教育機関である哲学研究所で2年間学んだ。ここでも優秀な成績を上げ、ほとんどすべての学問で優秀と評価された。ギムナジウムでの教師の一人と、哲学研究所での物理学教授2人は気象観測を行っており、それが彼が気象学に興味を持つきっかけとなった可能性がある[1]。哲学研究所では精神的な病が再発し、彼はいったん退学したが、翌年復学した。その際の学費は妹のテレジアが、相続した父の財産をメンデルに譲ることによって都合した[2]

聖トーマス修道院とのつながり

哲学研究所で物理学を教えていたフランツ教授が、メンデルの優秀さに目を付けて、シレジア地方中心都市ブルノにあるアウグスチノ会の聖トーマス修道院の修道士に推薦した。21歳の彼はアウグスチノ会の修道士修練生となり、「グレゴール」と名乗った[1]。ここから彼の聖トーマス修道院との一生涯となるつながりが始まる。修道士は修行専門の修道僧とは異なり、説教や奉仕、教育活動の役割を担っていた。

聖トーマス修道院の教会。https://en.wikipedia.org/wiki/St_Thomas%27s_Abbey,_Brno#/media/File:Bazilika_nanebevzet%C3%AD_panny_Marie.jpg

 聖トーマス修道院長ナップは彼を買っていたが、彼が宗教的な仕事に向いていないことに気づき、彼を近くの高校の臨時教師として派遣した。彼は教師の仕事には向いていたようである。生徒からは慕われ、校長からは賞賛された。メンデルは常勤の教師となるため、1850年に教員試験を受けた。物理学の問題は見事な答えを書いたが、口頭試験で精神的な問題により不合格になってしまった[1]

ところが、この時試験委員をしていた元ウィーン大学物理学教授が、メンデルをウィーン大学に送るように進言し、メンデルは1851年から2年間ウィーン大学で学んだ。この時、ウィーン大学には「ドップラー効果」で有名な物理学者ドップラー植物学者フランツ・ウンガーがおり、メンデルに大きな影響を与えた[1]。この時彼は、ウィーン動物植物学会の会員に選ばれ、後に終身会員となっている。

教師と研究者の時代

ウィーン大学を終えてブルノに戻った彼は、中等学校で物理学と自然史を教えた。ここでも彼は教員試験に挑戦したが、やはり精神的な問題から失敗した。しかし、教師の資格がなかったことは彼に大きな影響を与えなかった。彼は教師の仕事をそのまま11年間続けた。そして、彼はそこで本格的に科学研究に没頭した。

一つはエンドウ豆の実験である。メンデルは1854年にエンドウ豆の実験の第一段階を開始し、数百株を栽培してその形質が世代を超えて一定であることを確認した。1856年から1863年にかけて、メンデルは遺伝に関する先駆的な実験を行った。しかし、彼が書いた論文は、当時はほとんど評価されずに埋没した。

二つ目は上記と同じ1854年に、彼は聖アンナ大学病院の医師パヴェル・オレクシクと出会ったことである。オレクシクは町の気象観測者でもあった。彼はブルノ自然科学協会で1848年から行っていた気象観測結果を発表し、メンデルはそれに興味を持った。そしてメンデルは修道院で行っていた気象観測を改善した。後述するように、この観測はオレクシクの死後も継続されるとともに、彼のさまざまな気象研究の元となった。

聖トーマス修道院長時代

1867年にの聖トーマス修道院長のナップが死去すると、その後任の修道院長にメンデルが就任した。しかしこの職は多大な領地を管理する多忙を伴った。また修道院長は地元の名士でもあり、モラヴィア地方のさまざまな学会の会員になるとともに、当地の銀行の副頭取も務めなければならなかった[2]。彼は自分の科学的興味を徐々に放棄せざるを得なくなった。しかし、修道院での気象観測だけは継続した。

さらに、オーストリア帝国が修道院に課す税制を変更したため、メンデルはその反対運動にも身を投じた。当局との長い論争で多くの友人や同僚と疎遠となり、彼の健康状態は悪化した。1883年末には、彼は腎不全とうっ血性心疾患を患い、気象学的観測を行うことができなくなった。彼は188416日に61歳で息を引き取った。修道院長は要職でもあったので、その葬儀は政府の関係者も参列して盛大に行われた。葬儀の際に演奏されたオルガンは、有名な作曲家であるレオシュ・ヤナーチェクが弾いた[2] 

メンデルの気象学

気象観測

オレクシクの影響を受けて、メンデルは1857年に聖トーマス修道院で定期的な気象観測を開始した。それによって、オレクシクが行っていた観測網のデータを自身の観測で補完した。やがてメンデルの気象学者としての名声は高まった。1868年にメンデルが修道院長に選出されると、彼はオーストリア気象学会の会員となり、1878年には病になったオレクシクの代わりに、オーストリア帝国気象観測網のブルノ公式観測官の職務を引き継いだ。オレクシクとメンデルによるブルノの気象観測記録は、チェコ共和国で気温はプラハに次いで2番目、降水量は最も長いものとなっている[5]

メンデルは修道院の敷地内の様々な場所に測器を設置し、ウィーンの中央気象研究所の公式要件に従い、気温、降雨量、風向、気圧、日照時間、地下水位、地上オゾン濃度を記録した [1]。オゾン測定には「シェーンバイン法」を用いた。これはヨウ化カリウムを染み込ませた紙片で、オゾン存在下で色が青色に変化することを利用したものである。日本でも気象観測の初期にはこの手法でオゾン観測が行われている。

嵐や竜巻の解析

メンデルは有名な1866年のエンドウ豆に関する論文より前に、気象学に関する論文をいくつか発表している。その最初の論文は、18578月に87日にブルノで発生し、大雨を伴った雷雨の観察について述べたものだった[3]

1863年には「ブルノにおける気象条件の図表による概観に関する所見」が、ブルノ自然科学協会の紀要に掲載された。これはオレクシクの観測による1848年から1862年までの気温、気圧、風向・風力、雲量、降水量、風向の記録とその解説を記載したものである。さらに郊外とブルノ市内の気温を比較して、ブルノの気温が都市開発による熱で高くなっていることを指摘した。これはオーストリア帝国において、ヒートアイランド現象を科学出版物で初めて発表したものとされている[1]

メンデルはブルノで起こった竜巻も分析した。18701013日の午後、竜巻が聖トーマス修道院の上空を通過した。メンデルは幸運にもその時に修道院の自室にいて、観測した。メンデルは竜巻の形状、進路、速度、そして特に注目すべきは回転方向を詳細に記録した。それによると竜巻は時計回りであり、北半球で通常見られるパターンとは逆だった。メンデルは竜巻の原因を二つの気流の衝突によると推測した。これは50年後の1917年にドイツの気象学者ウェゲナー(大陸移動説で有名である)が提唱した竜巻の成因と本質的に同じである[1](なお、ウェゲナーについてはケッペンについて2」を参照)

大気汚染の観測

また別の論文では修道院と郊外地域でのオゾン濃度を比較している。そしてブルノのオゾン濃度が低いのは、工場の煙などによる大気汚染による煙霧の影響だと結論している[1]。この時がどうであったかはわからないが、工場からの煙には一般にオゾンの発生源となる物質とオゾンを壊す粒子状物質の両方が含まれる。そのため、煙によってオゾンが減った可能性はある。

気象予報などへの関心

18771月にウィーンの中央研究所が電信による気象予報の発表を開始すると、メンデルはモラヴィアにおける農業のための気象予報の価値を熱心に推進するようになった。彼は農業協会を代表して州知事に提言書を提出したり、オーストリア農務省に同様の提言を送付した[1]。また自ら気象予報を行ってみたりしたが、これはあまり成功しなかった。彼は当時の知識では気象予報を出すには不十分であることを自覚していた[4]。そのほか、オーロラや太陽黒点の調査も行っている。

前述したように、晩年になると多忙や病気により科学的な活動は減っていった。その中で、気象観測だけは死ぬまでウィーンの中央研究所へ報告し続けた。

 

メンデルは農家出身であり、農業の振興を基本に考えていたと思われる。彼のエンドウ豆の遺伝実験も気象観測も、元をたどれば農業振興につながっていた。当時彼によるエンドウ豆実験の重要性は認識されなかった。しかし、聖トーマス修道院長としてブルノでは優れた市民指導者であり、主要な気象学者として知られていた。今日では彼は遺伝学の父として世界的に知られるが、反対に気象に関する緻密な分析や記録はほとんど忘れ去られており、現在その再発見が続けられている。

 

参照文献

[1] Mark Alvey, Weatherman Gregor Mendel Plant hybridizing was something of a sideline for this polymathic priest. https://doi.org/10.11118/978-80-7509-904-4-0158

[2] Daniel L. Hartla, Gregor Johann Mendel: From peasant to priest, pedagogue, and prelate, PNAS Vol. 119 No. 30, 2022.

[3] MICHAEL MIELEWCZIK, JANINE MOLL-MIELEWCZIK, MICHAL V. SIMUNEK, UWE HOSSFELD, A previously unknown meteorological publication of Gregor J. Mendel from 1857, FOLIA MENDELIANA 58/2, Supplementum ad Acta Musei Moraviae CVII, 2022

[4] Rožnovský, J., G.J. Mendel´s meteorological observations, Mendel a bioklimatologie. Brno, 3. – 5. 9. 2014, ISBN 978-80-210-6983-1

[5] Jarmila Burianová Kevin Francis Roche, Gregor Johann Mendel Meteorologist, https://www.sci.muni.cz/en/current-news/gregor-johann-mendel-meteorologist

 

 

 

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