2019年11月10日日曜日

気温のトレンド(長期変化傾向)把握のためのデータセットについて(Data sets for temperature trend)

 気温のトレンド(temperature trend)は、地球温暖化の指標となるため、近年その重要度が増してきている。しかし、どの程度気温が上昇してきているのかを、きちんと算出することは難しい。それは、長い期間の間に測定器や測定環境が変化してしまう場合があるからである。特に観測初期の古い観測データについては、観測に関する情報(測定器の較正手法や頻度、観測場所の変遷、観測手法など)が十分に残されていない場合があり、そうなると気候変動を捉えるための1/10 ℃以下という観測精度を長期にわたって確保することは容易でない。

 標準化された温度体系を用いた定量的な気温観測は18世紀から始まっており、教養があり裕福な個人が残した気象日記(weather diary)の中には定量的なデータが含まれている場合がある。そのような初期のデータは気候変動の研究に利用できる場合がある。

 「気候学の歴史(5) 気候データの保管」では、世界気象記録(World Weather Records: WWR)に触れた。これは世界各地の気象観測データをまとめたものであるが、地点を限ればもっと古い系統的な気温データがある。

 そのような例として1600年代からイギリスで行われたいくつかの個人による測定値がある。それらによってブリストル、マンチェスターとロンドンに囲まれているほぼ三角形の地域の長い一連の気温データが残された。それらは観測に関するさまざまな情報を総合し、精度をクロスチェックした上で、Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) datasetと呼ばれるデータセット[1]に編集された。この記録は月平均気温は1659年1月から始まっている。1722年からは日平均気温も整備されている[2]。

Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) dataset

 単に残されたデータをデジタル化しただけでないことに注意していただきたい。測定手法や観測環境の変化もできるだけ考慮して、かなり手間をかけて科学的な品質評価を行った上で作成されている[3]。気温の長期トレンドの算定には、観測場所の移動や、測定器の交換、較正方法、観測頻度の変化などあらゆることを定量的に評価しなければならない。それでも、都市化などの周囲の観測環境の変化を厳密に考慮することは難しい。

 これらの影響を受けにくい気温トレンドの把握方法がある。それは高度が異なる2地点の気圧を利用するものである。それは本の4-8「測高公式の発見」で解説している層圧温度(thickness temperature)を用いる方法である。これは層圧温度なので、点ではなく層内の平均温度となる。これは逆に局地的な気温変化ではないというメリットにもなる。気圧計は、原理上温度計より較正を含む測定器の精度管理を行いやすく、観測誤差も一般に小さい。また気圧を見ているので、都市化や風通しの変化などの周囲の観測環境の変化の影響を受けにくいのでより正確な気温が算出できる。ただし、高度が異なる比較的近い2地点での観測結果が必要となる。


層圧温度の概念図(Concept of Thickness Temperature)
Tc<Tw
 世界で初めて層圧温度を用いた気温トレンドは、1965年から2016年までの富士山山頂とその近傍の地上観測所の気圧を用いたものである。地上の気温トレンドとも概ね整合しており、層圧温度を用いた気温トレンドの有用性が示されている[4]。

参照文献

[1]https://www.metoffice.gov.uk/hadobs/hadcet/
[2] D.E. Parker, T.P. Legg and C.K. Folland. 1992. A new daily Central England Temperature Series, 1772-1991. Int J Clim, 12, 317-342.
[3] G. Manley. 1974. Central England Temperatures: monthly means 1659 to 1973. Quart four Roy Meteor Soc, 100, 389-405.
[4]Tsutsumi,Y.-2018-Multidecadal Trends in Thickness Temperature, Surface Temperature, and 700 hPa Temperature in the Mount Fuji Region, Japan, 1965-2016, Journal of Climate, 31,20 , 8305-8312.

2019年11月5日火曜日

気温測定の難しさ (Difficulty of atmospheric temperature measurement)

 温度計の目盛りの較正と標準化は18世紀から始まった。本書の4-3 「温度計の発達とその目盛りの変遷」で述べているように、例えばその統一された目盛りには、摂氏、華氏、レオミュール温度計などが使われるようになった。しかし、気温の正確な測定はそれだけで十分なほど簡単ではない。測っている気温がその地域を十分に代表しているかという問題もあるが、測っている値そのものが大気の温度なのかということにも十分な注意を要する。

 例えば、テレビなどで屋外で温度計を持って気温を示していることがあるが、厳密には気温といえない場合がある(体感としては近いかもしれないが)。屋外で直接人間が気温を測定すると、温度計感部が人間の体温の伝導熱、太陽光の放射熱、付近のアスファルト・建造物などの輻射熱などいろんなものを感部自身やその周りで拾う可能性がある。それらが合わさった温度は少なくとも気温ではない。

 17~18世紀当時は、気温は室内で測定されているものも多かったようである。暖房のない部屋が選ばれたようだが、それでも外気温とは異なるし、部屋が南向きか北向きかでも温度は異なったであろう。

 大気温度の測定方法の標準化、つまり測定環境への配慮がきちんと行われるようになったのは、19世紀に入ってからである。それでも問題は山積していた。屋外で測定されるようになって大きな問題となったのは、まず昼間の太陽放射の影響をどう防ぐかだった。当時は気温の測定者が各自それぞれ独自の工夫をしていたようである。

 18世紀前半に特にイギリスで広く使われたのが、イギリスの気象学者グレーシャー(James Glaisher, 1809-1903)が開発したグレーシャー・スタンド(Glaisher stand)と呼ばれる日よけ用の屋根がついたオープン型スタンドである[1]。これは彼がグリニッジ天文台の気象部長の時に考案した物で、温度計はスタンドの遮光板の裏側につけられていた。

グレーシャー・スタンドは
 http://www.waclimate.net/temperature-screens.html
の下段図を参照 )

 ただし北側といえども太陽光が射す場合があるので、このスタンドを回転させて温度計を常に太陽と反対側にしておく必要があった。そのため、一定時間ごとに人手で回転させねばならず、それを忘れるとあるいは位置をセッティングして次の観測までの間隔が長すぎると、太陽光が回り込んで誤データを観測する可能性があった。また、屋根はあるものの温度計は大気に暴露しているので、雨、霧、露の影響を受け、また地面からの太陽光の反射や熱輻射を受ける恐れがあった。

 それで考えられたのが、1863年にスコットランドの灯台設計者トーマス・スティーブ
ソン(Thomas Stevenson, 1818-1887)が発明した、スティーブンソン・スクリーン(Stevenson Screen)である。これは一種の2重のよろい窓を持った木箱で、太陽光を遮蔽しながら風通しも考慮された。日本では百葉箱と呼ばれている。スティーブソン・スクリーンは窓や換気法が順次改良されていった。イギリス気象学会(Britain’s Meteorological Society)で1873年に各種の遮光板や気象観測箱が比較検討された結果、スティーブソン・スクリーンが気温観測のための使用が推奨された[2]。それ以来世界で長年使われている。

 ところが、スティーブ
ソン・スクリーンの測定値に疑問を持ったのがスコットランドの気象学者ジョン・エイトケン(John Aitken, 1839-1919)で、彼はティーブソン・スクリーンを綿密に調査して、箱が持つ熱慣性の影響に気づいた(論文は死後の1921年に出版された)[3] 。箱の内部では壁の熱から出る長波放射によって温度計感部が影響を受けるのである。

 現在ではティーブンソン・スクリーンの利用は減って来ている(気象庁では百葉箱を既に使っていない)が、世界各地ではまだ使われている所も多い。現在では、放射の影響を小さくするために、内外の放射の影響を与えにくいハウジング材の利用、ハウジング本体の小型化、センサーの小型化、通風量の増大などが図られている。本書の4-5-3「乾湿計」や「リヒャルト・アスマン(その1)」で述べたようにアスマンが開発した通風式乾湿計もその一つである。
 
ティーブンソン・スクリーン(百葉箱)の外観
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stevenson_screen_exterior.JPG

 なお、昔の気象学者は本書でもしばしば出てくるように、多くの専門を持っていることが多く、ここで出てきたイギリスの気象学者グレーシャーは、イギリスの王立気象学会の会長で気球観測における瀕死の冒険でも有名である。トーマス・スティーブソンは有名な灯台設計者である。エイトケンは、エイトケン粒子にその名を留めるエアロゾルや雲物理の高名な気象学者でもある。

[1] J. Glaisher-1868- Description of thermometer stand. Symons's Meteorol Mag, 3, 155.

[2] S. NAYLOR-2018-THERMOMETER SCREENS AND THE GEOGRAPHIES OF UNIFORMITY IN NINETEENTH-CENTURY METEOROLOGY, Notes Rec. (2019) 73, 203-221.
[3] J. Aitken-1921-Thermometer screens. Proc Roy Soc Edinburgh, 40, 172-181.

2019年10月14日月曜日

世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治 (Global meteorological observing system and international politics)


 現在、気象観測網は原則的に各国が国内を自前で観測し、その観測結果を世界中で共有している。そしてそのための共有の仕組みを世界気象機関(WMO)が調整している。WMOが世界中で観測を行っているわけではない。しかし、気象は地球規模の現象なので、統一された一つの組織が世界中を観測すれば良いようにも思える。もしそれができれば、本の111「国際気象機関の設立」で述べているように、観測についての細かで複雑な調整も不要でより効率的になろう。だがそうではなく、現在の形になっているのには政治的・歴史的な経緯がある。

 19世紀に気象観測を国際的に調整するための組織である国際気象機関(IMO)ができた当初は、何度か独自に世界規模の気象観測網を構築しようとたことがあった。その最初は1872年にオランダ気象研究所所長でIMOの総裁だったボイス・バロット(Christophorus Buys Ballot, 1817-1890)が行った「地表の遠隔地や島での気象台設立のための国際基金(the formation of an International Fund for the establishment of Meteorological Observatories on islands and at distant points of the Earth's surface)」の提唱だったが、多くの賛同を得ることはできなかった[1]

 1905年のインスブルックで開催されたIMOの長官会議において、テスラン・ド・ボールが、「世界規模観測網(Réseau Mondial: レゾー・モンディアル)」と命名した世界規模の気象観測網を提案した。当時でも国や地域毎の観測方法の違いは大きな課題となっており、世界中の約500の気象観測地点で統一した観測を実施し、電報で観測値を一か所に収集することが計画された。そのためにIMO1907年に「世界規模観測網の専門委員会」を設立した。しかし、おそらく費用や各国の意向によりこの計画は縮小され、一部の観測地点からの報告を後日気候値としてとりまとめることだけになった。これは「気候学の歴史(5)で述べているように世界気象記録(World Weather Records: WWR)として発行され、現在は地球温暖化問題に対する歴史的な検証データの一部となっている。

 当時、もしIMOの「世界規模観測網の専門委員会」が主導して、電報を使った気象観測データの収集が実現していたら、その後統一された一つの国際的な気象観測網が実現していたかもしれない。しかし、実際は各国の独立性、独自性の主張は強く、それを侵すような仕組みを各国は容易に認めようとはしなかった。それどころかIMOは非政府間組織であったため、各国間の気象観測結果の統一化と共有化さえ困難を極めた。交通や産業の発展に伴って、気象情報の重要性が増していた。そのため第二次世界大戦後に国際条約に基づいた政府間組織である世界気象機関(World Meteorological Organisation)が設立された。その辺の経緯は本の11章「国際協力による気象学の発展」に述べているとおりである。

 現在は、WMOで調整された合意に基づいて各国で行われている「統一的な」気象観測結果を国際的に「共有・交換」することが行われている。この典型的な例は、本の11-6「世界気象監視プログラム」で述べているように、戦後に始まったWMOの世界気象監視プログラム(World Weather Watch)である。これはアメリカのケネディ大統領(John F. Kennedy, 1917-1963)が1960年に国連総会で行った演説がトリガーになっている。これによって、世界各地の気象観測データが統一的な形でほぼ即時的に世界各国で交換・共有されることになった。このような各国に決まった作業を強いる国際協力は、考えようによっては国際政治上の特異な例かもしれない。これが可能になった背景には1960年頃の衛星による気象観測とコンピュータを用いた数値予報の発達、そして皮肉なことに当時の東西冷戦が関係している[2]

 何れにしても、本の10-2-3「数値予報への胎動」で述べているように、地域で閉じた数値予報は実質的に不可能であり、現在の数値予報の基本は全球モデルであるため、その計算には世界中の気象データが必要になる。世界気象監視プログラムにおいて各国が少し譲歩して気象観測データの共有を可能にしたことが、実は各国に気象に関しての莫大な利点や利益をもたらしている(もし他国の気象データが手に入らなかったら、現在の気象予報や気象ビジネス、気候問題がどうなるか考えていただきたい)。世界気象監視プログラムによる世界規模の気象観測網は、いまや気象災害や気候問題に対する人類の安心・安全のための基本的なインフラストラクチャーとなっている。

 そして、1905年の世界規模観測網(レゾー・モンディアル)の提案は、現在の世界気象監視プログラム(World Weather Watch)に至る第一歩だと考えられている。世界的な気象観測網とその観測に強く依存する気候問題は、昔から国際政治の最先端の部分でもある。

(次は「気温測定の難しさ」)

参照文献

[1] H. Daniel-1973-One Hundred Years of International Co-Operation in Meteorology (1873-1973), WMO Bulletin.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.

2019年10月7日月曜日

気候学の歴史(10): モデル技術を用いた気候再解析 (History of Climatology (10): Reanalysis based on Data Assimilation)


 気候の将来予測に欠かせなくなった気候モデル、地球システムモデルであるが、そのベースとなっている気象モデルの技術はこれまでの歴史的な気候データに対しても大きな変革をもたらそうとしている。本の11-5-6「プリミティブモデルの発達」で述べているように、過去数十年間の既存地点の観測値から、その期間の気象要素の全球格子点での気象データを、数学的な手法(データ同化手法: Data Assimilation)を用いて物理学的に合理的に推測することが行われている。

 これはいってみれば過去の気候の数値的な再現であり「気候再解析(Climate reanalysis)」と呼ばれている。気候再解析はこれまで観測値がなかった地域や上空を含めて、全球の格子点上の気象データを時間的・空間的にシームレスに推測する。こうやって算出した再解析値を用いれば、過去の気象や気候のイベントをあたかもタイムマシンを使ったように詳しく分析することが可能になる。気候再解析は新たな気候学研究を支えるようになってきている。

なお、このブログの「データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和」で、データ同化と彼の功績を補足した。

(このシリーズおわり:次は「世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治」)

2019年10月4日金曜日

気候学の歴史(9): 気候モデルとコンピュータ (History of Climatology (9): Climate model and computer)


 気象学(数値予報)とコンピュータ発達の黎明期(ENIACなど)との関係は本の10-2-2「電子計算機(デジタルコンピュータの出現)」の所で記している。同様にコンピュータの発達は気候モデルとも密接に関連している。コンピュータ発達の初期段階では、一部の核兵器研究と高エネルギー物理学分野を除いて、気象モデルや気候モデルはコンピュータに一般的な利用者をはるかに凌ぐ計算能力を要求したため、それがコンピュータのさらなる発達を促した面がある。

 また当初のコンピュータは、ハードウェアとソフトウェアが一体となって開発されていたわけではなく、コンピュータ会社が納入したのはハードウェアだけの場合も多かった。そのため、気象や気候の研究者と研究所のスタッフは、場合によってはオペレーティングシステム(OS)を含めて必要なソフトウェア類を自らプログラミングする必要があった。気象や気候のモデル研究者は、気象や気候の専門知識だけでなく、コンピュータ動作の高度なプログラミング能力を求められることも多かった[1]。

NCAR Mesa Laboratory, Boulder, Colorado
 さらに気候モデルを走らせるためのスーパーコンピュータは、一時期日米のハイテク摩擦を引き起こした。1985年にアメリカの国立大気研究センター(NCAR)はスーパーコンピュータの入札を行い、NECSX-2が落札した。しかしアメリカ議会の圧力でSX-2を購入できず、NCARCray社のスーパーコンピュータCray-2を導入した。

 19941996年に、再びスーパーコンピュータを巡る日米のハイテク摩擦が再燃した。NCARは老朽化したCray社のスーパーコンピュータを更新するための入札を行ったが、落札したのはやはり日本のNECだった。NECのスーパーコンピュータSX-4は当時のどんなコンピュータよりはるかに高い性能を持ったベクトルマシンだった。この抜群の価格対性能比の高さは波紋を引き起こした。Cray社は米国商務省に対してNECが入札で「ダンピング」を行ったと訴えた。商務省はCray社に味方して、454パーセントの関税をNECに課した。このためNCARSX-4を購入することができなかった。

 この商務省の決定を、再び議会の圧力によるものと見た人も多かった。訴訟が起こされ、それは最高裁判所まで行ったが、1999年の最高裁判所の判決は商務省を支持した。NCARは、世界で最も高性能なベクトル・コンピュータを購入できないことを嘆いた[1]。気候科学といえども国際政治と無関係というわけにはいかないのである。

 ちなみに次世代のNECのスーパーコンピュータSX-5は、その圧倒的な価格対性能比にCray社はついていくことができず、Cray社は結局NECのSX-5OEM化して販売することになり、スーパーコンピュータを巡る日米のハイテク摩擦は終焉した。

つづく

参照文献

[1] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.