2025年8月2日土曜日

アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学

古代ギリシャ文明は、それまであったバビロニア文明などの考え方を引き継ぐだけでなく、独自の気象学を発達させた。古代ギリシャ時代には詩人たちを知識人とみなす伝統があった。彼らは気象を説明するために神話を用いた。そのため、神話には気象に関する古代ギリシャ人の考え方や捉え方が含まれている。気象に関する神話は、現存する最古の古代ギリシャの作品であるホメロスの叙事詩とヘシオドスの叙事詩の中にも見出すことができる。その例としてホメロスの有名な物語を一つだけ挙げる。

オデッセウスはトロイア戦争の後、舟で帰還の途中にアイオロスが住む島にやって来た。アイオロスはゼウスから4つの風の守護者に任命されていた。アイオロスはオデッセウスに、北風、南風、東風を皮袋に詰めて贈った。オデッセウスは残った西風に乗って、イサカ島へ帰ろうとした。オデッセウスとその部下たちは西風の中を出航した。そしてイサカ島に到着しようとしたとき、オデッセウスは眠ってしまった。部下たちは袋の中に富が入っていると思い、自分たちだけで計略を練り始めた。彼らはアイオロスが贈った皮袋に富が入っていると思い、袋を開けてしまった。するとすべての風が吹き出して、彼らの舟はアイオロスの島へと吹き戻されてしまった。アイオロスはオデッセウスらが神々に呪われていると考え、さらなる協力をしなかった。

ホメロスやヘシオドスの叙事詩では、気象を神々の活動としばしば結びつけた。特にゼウスは気象を司る神と考えられた。ゼウスは雷を鳴らし、稲妻を放ち、嵐を引き起こすとされた。また、人間への示唆として雲に虹をかけた。しかし、他の神々も気象を引き起こすことができた。ヘラとアテネは共に雷を起こし、アテネは風を操ることも出来た [1]

また、詩人たちは気象を物語の中で使うこともあった。ヘロドトスの「歴史」は、エジプトの天候や気候、その他の気象学的トピックの記述に長い章を割いているし、アリストファネスの戯曲「雲」では、ソクラテスなどの学者(ソフィスト)たちが「いつも雲や物事の話をしている」と記している [2]

当時、将来の気象を予測するために予兆や前兆に頼ることは、文化の重要な一部でもあった。神話における定義によっては、伝統的な神々とその気象学的活動は、極めて合理的な説明の一形態として理解されることもあった。ヘシオドスは農民への実践的なアドバイスとして、天体気象暦の中で、星や星座などの天体の動きと農作業や航海に適した天候の時期とを関連付けた。しかし、その理由は神々とも関連していた [3]

古代ギリシャ時代における気象学の初期の段階では、多くの自然哲学者たちがこういった気象の研究に力を注いだ。それは、ある意味で気象の原因を神々の所業から引き離そうとした。例えば気象学者ではなかった有名な哲学者ソクラテスは、気象そのものをあたかも神のごとく崇めていたという説もある。気象学者たちは、特異な自然現象は神々の罰である、とする人々の恐怖を取り除こうとした面があった。一方で、気象学者は、怪しげな祈祷師や聖職者と混同される場合もあったようで、その偏見を取り除く必要もあった。

しかし彼ら自然哲学者たちの研究は、現象の観察から先はそれに基づいた推測であり、統一的な一貫した考えではあったが、演繹的で定性的なものだった。プラトンはそういった経験論的な気象学や気象学者たちに対して反感を抱いており、気象学者たちを非難・嘲笑していたという説もある [3]。いずれにしても、気象学が当時の自然科学の中で大きな位置を占めていたことは間違いない。

古代ギリシャ自然哲学の集大成はアリストテレスになろうが、彼の気象学に関する考察とその影響はあまりにも大きいので別な所で改めて述べたい。ここでは、アリストテレスを除いた古代ギリシャ時代の以下の気象学者と、その主張内容について述べる。なお、生没年については諸説ある場合があり、およその年であることに留意してほしい。 

ここで取り上げる古代ギリシャの自然哲学者(気象学者)たち 

1.タレス

古代ギリシャの都市は、地中海東部に点在しており、そのひとつであるイオニア地方のミレトスには、紀元前600年頃、イオニア人初の自然哲学者、数学者、気象学者であるタレス(紀元前624547年頃)が住んでいた。彼はいわゆる「七賢人」の一人であり、ミレトスのタレスと呼ばれている。ギリシャ初期の歴史家ヘロドトスは、紀元前585年頃にタレスが日食を予言したとしている。バビロニア時代から月食は周期的な計算(サロス周期)によって予測が可能だった。しかし月食と異なって日食の計算は複雑であるため、本当に計算のうえで予言が当たったのかは疑問視されている。

古代ギリシャ自然哲学の特徴の一つは、万物を何か根源的な物質(場合によっては複数)に還元しようとしたことである。タレスは万物の根源(アルケー)を「水」と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして、水が雨となって空から降り注ぎ、凝縮して再び空に戻るという循環という概念を持っていた [1]。また彼は、バビロニア人の書物を研究して、それに倣って気象をヒアデス星団などの天体の運動と関連づけようとした。さらに旅好きだった彼は、エジプトを訪れ、ナイル川の定期的な氾濫を、ギリシャでエシュアンと呼ばれる北風が吹くと、それによってナイル川の流れが堰き止められるため、と考察した [1] 

タレスの肖像。「E. ウォリス編『イラスト付き世界史』第1巻」からの挿絵
https://en.wikipedia.org/wiki/Thales_of_Miletus#/media/File:Illustrerad_Verldshistoria_band_I_Ill_107.jpg

2. アナクシマンダー

アナクシマンダー(紀元前610546年頃)もイオニア人で、タレスの友人だった。彼は現象を神学ではなく、自然科学的に説明しようとした。そのため、彼は初めての自然哲学者と呼ばれている [1]。彼は地球全体の形だけでなく、地球には対称域(南半球)があることにも気づいており、地球と星、太陽、月との関係も考えたとされている [3]。この考えは、古代ギリシャ自然哲学の中心テーマの一つとして発展していった。

アナクシマンダーは大気現象の鋭い観察者であり、地球はもともと水に覆われていたと考えた。すなわち、太陽によって水分のほとんどが蒸発し、残った塩分の多い部分が海となった。また雲に囲まれて圧縮された風は、やがて裂けて爆発、雷、稲妻を引き起こした [3]

アナクシマンダーは太陽が湿った地表に作用して「蒸気」または「蒸発気」を引き起こすという考えを明確にした。この考えは、アナクシメネスとヘラクレイトスによって、あらゆる気象現象を説明する基礎として発展していった [3]。特に万物の流転を説いたヘラクレイトスは、後にこの蒸発気を乾いたものと湿ったものとの2種類に区別し、この考えは後にアリストテレスによって採用された。

アナクシマンダーは風を初めて「空気の流れ」と定義したが、これは後のアリストテレスの定義と異なっていたこともあってか、2000年間にわたって一般的に受け入れられることはなかった。

 

紀元後3世紀前半にトリアーが描いた日時計を手にしたアナクシマンダー
https://en.wikipedia.org/wiki/Anaximander#/media/File:Anaximander_Mosaic_(cropped,_with_sundial).jpg

3. アナクシメネス

アナクシメネス(紀元前585年~525)もイオニア地方のミレトスに住んでいた。彼はタレスの万物の根源(アルケー)という考えを受け継いだが、それは水ではなく空気であった。羊毛が圧縮されてフェルトになると性質が変わるように、彼は希薄化と凝縮という相反する2つのプロセスを用いて、空気が一連の変化の一部であることを説明した。そしてこの空気が、さらに凝縮や希薄化することによって、火や水などのさまざまな様相に変化すると考えた [1]。彼は次のように述べている [4]

空気はその希薄さや密度によって本質が異なる。空気が薄くなると火となり、凝縮すると風となり、雲となり、さらに凝縮すると水となり、土となり、石となる。他のすべてはこれらから生まれる。

アナクシメネスはこの考えを用いて、稲妻や雷は、風が雲から吹き出すことによって起こり、虹は太陽の光が雲に降り注いだ結果であり、地震は、雨で湿った大地が乾いて割れることによって起こるとした。雹についてはそれを凍った雨水とし、それは現代においても正しい説明となっている [4] 

 
アナクシメネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anaximenes.jpg

4. アナクサゴラス

イオニア地方生まれのアナクサゴラス(紀元前499年427年頃)は、アテネの優れた自然哲学者である。そのため、アナクシメネスの後継者とも考えられている。彼はすべてのものの中にすべてのものの一部が存在することが可能である、と主張した。彼はアテネへの移住後に、彼は唯物論的な見解、特に太陽は燃える岩であるという主張が有名になったため、不敬罪に問われ、アテネの裁判所から死刑を宣告された。しかし彼は弟子のペリクレスの助けで小アジアへ逃れ、そこで残りの人生を送った。

気象学は彼の数多くの関心事のひとつであったが、気象学には彼の科学的な体系に関する考えがよく現れているとされる。彼は、高山での気温の低下を、高度の上昇によって地表から反射する太陽光の強度が徐々に低下するためと主張した。そして夏に降る雹やあられを、太陽の熱によって水分を含んだ雲が低温の高度まで上昇し、水分が凍結してあられの形で地上に落下するとした [1]

しかも彼は、ある高度以上になると「エーテル」という物質によって気温が上昇するとした。気温鉛直分布は現実の成層圏を考えると正しいものだが、理由は間違っている。彼は、雷や稲妻の原因を説明するためにエーテルを採用した。彼の説では上部大気のエーテルが下層大気に降下して、これが雲の中の火となった。そして、稲妻はこの火が雲の中を閃光を放つことによって起こり、雷は雲に含まれる水分によって火が鎮まるときに鳴る音と考えた [1]。このエーテルという物質の考えは、性質を少しずつ変えながら19世紀末まで残ることとなった。

 

アナクサゴラスの肖像画
https://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras#/media/File:Jose_de_Ribera_-_Anaxagoras.jpg 

5. エンペドクレス

アナクサゴラスとほぼ同時代を生きたエンペドクレス(紀元前492430年頃)は、シチリアの住民である。彼は宇宙には空気、土、火、水の4つの基本元素があり、これは熱さ、冷たさ、湿気、乾燥の4つの基本的な性質と関連していると主張した。エンペドクレスは雷や稲妻などの気象の原因に関心を持っていた。彼の説はアナクサゴラスと基本的に同じであったが、雲の中の火は雲に閉じ込められた太陽の光であると主張した。これは雷が雲の中で発生することを初めて示したものである可能性がある [1]

アナクサゴラスは、4つの元素の概念を応用して気候の成り立ちを説明しようとした。火と水の対立を利用して、夏と冬という異なる気候の原因を説明しようとした。火と水は大気の中で絶えず対立するものであり、高温で乾燥した火が優勢になると夏になり、湿った冷たい水が優勢になると冬になるとした [1]

 

トーマス・スタンレーのThe history of philosophy(1655)に描かれたエンペドクレス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Empedocles_in_Thomas_Stanley_History_of_Philosophy.jpg

6. デモクリトス

有名な原子論者であり幾何学者であったデモクリトス(紀元前460370年頃)は、他の古代ギリシャ自然哲学者たちと異なり、気象学の経験的・実践的側面と説明的・理論的側面の両方に関心があった。

デモクリトスは数日あるいは数時間先までの気象予報技術を開発し、成功を収めたと言われている。 ローマ時代のプリニウスによると、「デモクリトスは非常に暑い日に収穫をしていた弟のダマシオスに、収穫をやめてすでに刈り取ったものを集めて覆いの下に置くように促した。数時間後、彼の予報通りに大雨に見舞われた」とされている [3]

またデモクリトスは、長期的な観点からの気候や環境の変化の説明も行った。彼は世界の北方では夏至の頃に雪が溶けて流れ出ると主張した。そして、その蒸気によって雲が形成され、これがエテュシオンと呼ばれる北風によって南方、エジプト方面に追いやられると、湖やナイル川を満たす激しい嵐を引き起こすとした[1]。そういった観点での温暖化や乾燥化、海面水位の上昇下降の議論も行った。

デモクリトスもアナクシマンダーと同様に風は空気の流れとした。しかし、小さな空虚な空間に多くの粒子(「原子」)が存在するとき、風が生じると主張した。一方、空間が広く、粒子が少ない場合は、「大気の静止した平和な状態 」とした[1]。しかし、雲に覆われた大気に常に風が伴うとは限らないことがしばしば観察されたため、この説は否定された。雷と稲妻については、彼は原子論に基づき、雷と稲妻を粒子の不均等な混ざり合いによるものであり、雲やその内部で激しい動きを引き起こすものであると説明した[1]。彼は雷と稲妻の同時性を正しく理解していたが、これはその後の自然哲学者たちに長い間無視された。

デモクリトスの説は、そのような気象をすべて自然主義的な説明によって人々の驚きや恐怖を取り除き、神々の人々への浸透を防ぐようにするするためのものだった [3]

 

デモクリトスの半身
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%B9

7.ヒポクラテス

ヒポクラテス(紀元前460375年頃)は、イオニア地方南端のコス島に生まれ、医学を学びギリシア各地を遍歴したと言い伝えられるが、その生涯について詳しいことは分かっていない。彼は「医学の父」とも呼ばれ、病気を「呪術的で超自然的な力や神々の仕業によって起こるものではない」と考えた最初の人物とされている。そして初めて健康を気象と結びつけた人である。

ヒポクラテスは人間の肉体と魂を理解するためには自然、特に気象を理解する必要があると考えた[1]。彼は著書「空気、水、場所について」の中で、さまざまな気候、これらの気候が住民の健康に及ぼす影響やある種の風にさらされることで特徴づけられる地域で流行する病気について論じた[1]

ヒポクラテスの医学はコス派といわれ、生命体全体と季節や大気などの環境の病気への影響を重視し、人間は環境によって身体を構成する体液の調和が崩れることで病気になると考えた。そのため、彼は太陽の位置、風の向き、気候などの健康と病気への影響を重視した。ただし、彼は気候が年によって違うのは気候が天体の動きに依存しているためと考えていた。

ヒポクラテスの考えは長い間忘れ去られていたが、18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパで復活し、国民国家が国民の健康のために気候情報を集めるきっかけとなった。現在、気象病として体の不調を天候と関連付けられることが行われているが、その考えの元祖はヒポクラテスと言えるかもしれない。 

ヒポクラテスの胸像
https://en.wikipedia.org/wiki/Hippocrates#/media/File:Hippocrates.jpg

8.テオプラストス

テオプラストス(紀元前371年~287年はレスボス島生まれの哲学者で、アリストテレスの弟子である。しかし、彼は師であるアリストテレスの気象に関する考え方を引き継いでいない。テオプラストスは経験を重視した。彼は「気象の前兆について」と「風について」という本を残しており、その中で天気の前兆として、雨については80編、風については45編、嵐について50編、好天については24編、周期的な気象については7編を示した[1]

テオプラストスは気象の前兆を、星、太陽、月、彗星、雷、稲妻、虹、光輪、昆虫、鳥、クモ、ミミズ、カエル、哺乳類などによる様々な事象によって示した。これらは気象の前兆によって分類されるのではなく、事象毎に分類されているのが特徴である [3]。ただし、これらはテオプラストスのオリジナルではなく、アリストテレスやデモクリトスの失われた著作に基づいたものとされている [3]

これらのテオプラストスの著作が、天候の前兆をまとめたものとしては世界で初めてとされており、その後天気のことわざなどの形で後世に引き継がれるとともに広まっていった。 

パレルモ植物園にあるテオプラストスの彫
https://en.wikipedia.org/wiki/Theophrastus#/media/File:Teofrasto_Orto_botanico_detail.jpg

9. アテネの風の塔

人物の話ではないが、風の塔について記しておく。アテネには今でも風の塔が残されている。これは紀元前1世紀より前にマケドニアの天文学者アンドロニコスが建てたものと言われている。この塔上部の8つ方角の各面には風向の特徴を示した神々が彫られている。塔の天井には海の神トリトンのブロンズ像があり、それが風向計になっていた。その時吹いている風に応じて、その風向計についた杖で塔上部の風の名と神の顔を指し示すようになっていた。ただし、現在はその風向を示すブロンズ像は壊れて存在しない。

この塔の内部には水時計が設置されている。この塔がある場所は窪地であり、風の観測にはあまり向かないと考えられている。アンドロニコスは、この水時計が設置されている建築物の美しさと調和を重視して、この塔に風神の芸術的な紋章をあしらったのではないかとも言われている[2] 

背後にアクロポリスがそびえるアテネの風の塔
https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_the_Winds#/media/File:20211102_224_athenes.jpg

 

 参照文献

[1] Frisinger, "The History of Meteorology: to 1800," American Meteorological Societ, 1977.
[2] Taub, ANCIENT METEOROLOGY, Routledge, 2003. 
[3] Johnson M. R., The Cambridge Companion to ANCIENT GREEK AND ROMAN SCIENCE, Cambridge University Press, 2020. 
[4] Graham, "Anaximenes," Internet Encyclopedia of Philosophy.
[5] Hellmann, "The Dawn of Meteorology," Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, no. No.148, 1908. 


 

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