1. 生涯
アリストテレスは古代ギリシャ時代最大の哲学者あるいは思想家である。万学の祖と呼ばれるほどに彼の考察した分野は広い。ここでの解説は彼による自然哲学における気象学とそれに関連したものに絞る。ただし彼の気象についての考察には、現代から見ると明らかに間違っているものもある。ここではその正誤について一つ一つ評価しない。ただ彼が気象を、自然哲学の中でどのように一貫した説明を行おうとしたのかをわかってもらえれば良いと思う。
アリストテレスは、紀元前384年にギリシャのテッサロニキから東に55 kmほどスタギラで生まれた。彼はアテネに移り、17歳でプラトンが設立したアカデミーに入った。そこで学者としての名声が高まった彼は、後にアレクサンダー大王となるマケドニアの若き王子アレクサンダーの家庭教師に任命された。これには、アリストテレスの父親がマケドニアの君主の侍医であったことが、この任命につながったと考えられている。
紀元前335年、アレクサンダーがマケドニア王となると、アリストテレスは再びアテネに移り、紀元前323年にアレクサンダーが亡くなるまで、彼はそこで教鞭と執筆活動を行った。その後、彼は神々を侮辱したとされてアテネでの立場が悪くなった。彼はアテネからの退去を余儀なくされてカルキスに移り、翌年そこで62歳で亡くなった[3]。
アリストテレスの大理石製の胸像。紀元前330年頃のリシッポス作ギリシャ青銅原型に基づくローマ時代の複製品。マントは後世の追加品。
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アリストテレスは帰納的、体系的、実践的思考の偉人であり、出来事や証拠を整理する能力において比類のない人物だった。彼はアカデミーでプラトンの思想に多大な貢献をし、哲学体系の開発、進化、応用において決定的な影響を与えた。後述するようにアリストテレスは、「気象論(メテオロロジカ)」を書いた。これは気象学を体系的に論じた最古の文献であり、その後2000年以上にわたって気象理論の権威としてとして揺るぎない地位を保った。西洋文明における気象学の教科書は、17世紀末までアリストテレスの「気象論」に全て基づいていたと言っても過言ではないほどである[1]。
なお「気象論」を含むアリストテレスの著作の変遷について述べる。アリストテレスの多くの著作は、エジプトのアレクサンドリア図書館に所蔵されていた。西暦641年にアレクサンドリアがアラブ人によって占領されると、それらはトルコのアンティオキア図書館に移された。アンティオキアも征服されると、アレクサンドリア出身の古代ギリシャ哲学の研究者のほとんどはイスラム教に改宗し、その多くが当時イスラム圏だったスペインに移住した。そこで彼の著作はアラビア語に翻訳された。
レコンキスタなどによってスペインが徐々にキリスト教圏に戻ると、彼の著作は今度はラテン語に翻訳された。12世紀以降、ヨーロッパ各地に大学が設立されると、アリストテレスの「気象論」は教科書として採用された。このためアリストテレスの気象論は、体系的な知識として権威を持って普及した。彼の見解はキリスト教とイスラム教の両方によって取り入れられ、長きにわたって自然科学の研究の基礎となった [3] 。
2. 宇宙モデル
アリストテレスの気象学は、彼の宇宙モデルとも大いに関連している。彼はエウドクソスの球形の宇宙体系を受け入れていた。彼が書いた「気象論(メテオロロジカ)」の基礎は、宇宙体系から導かれる基本理論に基づいている。アリストテレスの宇宙体系は、星や惑星の動きを同心円の球体で説明するものである。地球はそれら同心円の天体運動の中心とされ、それによって地上から見える天体の動きを説明した。
アリストテレスは地球を含む宇宙を大きく2つの領域に分けた。これは二元的宇宙像と呼ばれる(「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)。つまり月とそれから先の永久不滅の「天上界」と、月より内側の万物が流転する「地上界」である。そして学問を、天上界のことは天文学、地上界のことは気象学という領域で区別した。そのため、彼の気象論では、海や地震に関する考えも含まれている。
そして「地上界」の様々な現象は、「天上界」の天体の運行に影響されると考えた。潮汐が太陽や月の位置によって影響されたり、曇っていても太陽の方向を向く花があったりすることを考えると、これは当時極めて説得力があった。この地上界は天上界によって決まる、という考え方を私は「地上事象天因説」と呼んでいる。この天上界の地上界事象への影響は,後にプトレマイオスが書いた「テトラビブロス」によって占星学や運命論の元となった。プトレマイオスの占星術による運命論的な考え方は、「誕生日の星座による占い」や「~の星の下に生まれた」のような表現のように、現代においても広く浸透している。この考えは元を辿ると「地上事象天因説」から始まっている。
また天上界は永久不変とされたため、彗星や流星、オーロラなどの突然現れたり不規則な動きをしたりする現象は、地上界の気象に組み入れられた。この考えはそれらの正体がはっきりする19世紀まで続いた。一方で地上界の考えはエンペドクレスの「四元素説」に基づいており(「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学」の「5. エンペドクレス」参照)、地上界は4つの元素(地、水、空気、火)で構成されて、互いに入れ替わると考えられていた。
アリストテレスは、もう一つ「エーテル」という物質についても言及している(化学物質のエーテルとは別物)。これはアナクサゴラスの時代から唱えられていたもので、当時天体が存在する領域はエーテルで満たされていると理解されていた。古代ギリシャ語では「エーテル」は燃える、あるいは燃やすという語とも関連しており、当時のエーテルは火や炎とはっきり区別されていないという説もある[3]。当時、揺らめく炎は摩訶不思議な物体だっただろう。このエーテルは、性質を変えながら19世紀末まで物理学の中で存在の有無が議論された。
3. 気象論
アリストテレスは、紀元前340年頃に「気象論(メテオロロジカ)」という本を書いた。ギリシャ語の「メテオラ」は「空中に浮遊するもの」という意味であり[3]、このメテオロロジカが英語の気象学(メテオロロジー)の語源となっている。上述したように、彼の気象論に含まれるテーマは非常に幅広い。雨、雲、露、雪、雹、雷、稲妻、旋風、雷光、光輪、太陽柱、幻日などに加え、川や泉、海岸浸食や沈泥、地震、海の起源、場所、塩分などについても述べている。
アリストテレスは、自ら現象を考察した部分も多いが、自分自身の考察の限界も踏まえており、現象によっては他者の観測に頼ったり、他者の理論を用いてそれを吟味したりもしている[2]。そのため、彼の「気象論」は彼の理論だけでなく、かつての自然哲学者、歴史家、詩人、そして一般的な経験から集められた事実の集積でもある[1]。
彼の気象予報に関する考えはエジプト人に由来するものが多く、風の分類などは、バビロニアに由来すると考えられている。しかし、雹などの優れた独自の解釈や理論も多い。その際に、彼は類似性(アナロジー)を用いて現象を説明することも試みている。彼の類似で有名なものは、地球の働きと生物の働きの類似性である。生物が食べ物が消化されるときに呼気と熱が発生するように、地球が太陽の暖かさにさらされると熱と後述する蒸発気が発生すると考えられていた。
アナクサゴラスをはじめとする以前の自然哲学者たちは、気象現象に関する思索において、その手法の大部分は観察に基づいた帰納的なものだった。しかし、アリストテレスの気象学は、観察したものの説明に演繹的な手法を採用した。つまり、彼はあらかじめ気象学の演繹的な仮説理論を持っており、その理論に基づいて様々な気象現象を一貫するように説明した。その際に彼は、まず他人の理論を紹介して、それからそれに反論することで自分の理論を紹介する手法を好んだ[1]。最初に記したように、彼の気象論はその後近世に至るまで西洋社会で権威を広く持ち続けた。以下で彼の気象論による気象を説明する。
アリストテレスの気象論(メテオロロジカ)の表紙
4. 蒸発気
アリストテレスの気象に関する考えには、アナクシマンダーによる「蒸発気(exhalation)」という概念を用いている部分がある(「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学」の「2.アナクシマンダー」参照)。これは太陽によって暖められた大地から湧き出す(大地が吐き出す)もので、2種類ある。ひとつは「湿った蒸発気」で、これは水蒸気として雲や雨などの現象をもたらす。「湿った蒸発気」(地表の水分)は太陽からの熱によって暖まって上昇する。すると上空で冷えて凝結して雲となり、雨となって地球に戻ってくる。これは太陽熱による水循環を意味する。一方で「乾いた蒸発気」は、天上界の星々の影響を受けて、後述するように風や雷の元となる。
5. 風
アリストテレスは、アナクシマンダーらによる風は空気の流れである、という意見に強く反論し、風を空気の流れとはしなかった。アリストテレスは風の起源(始原)は乾いた蒸発気であると主張した。そして次のように述べている。
われわれ一人一人のまわりに散っているこの空気が、ただ動くことによって流れるものとなり、運動の始まりがどこからであろうと風となる、という言い方はまちがっている。われわれは、水が流れているということだけでそれを川と呼ばず、またそれがどんなに大量であろうとそれだけで川と呼ばず、むしろ源泉から流れるものを川としなげればならない。そして風についてもこれと同じことである [4]。
彼は風を、山から下へ徐々に蓄積された水の流れを表す川になぞらえて、次のように説明した。
風は、大地が濡れると川ができるのと同じように、少量の蒸発気が徐々に集まって形成される。というのも、風はその発生地では最も弱いが、発生地から遠ざかるにつれて強く吹くからである。極のすぐ近くの地域は、冬には穏やかで無風であり、この風は、そこではわからないほどに穏やかに吹くが、遠くへ行くにつれて強くなる[1]。
またアリストテレスによれば、乾いた蒸発気は、「地上事象天因説」によって天上界の影響を受けて風の元となった。そのため、天上界の影響により風は上空から発生しなければならないとした。このことは、風を地表で感じる前にその存在が上空の雲の動きによってわかる、という事実で裏付けられるとしている。
さらにアリストテレスは風向を12等分した。そして彼は、風はほとんど北か南から吹いてくるとした。
アリストテレスによる12の風向。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aristotle_wind_rose_%2845-degree%29.jpg
彼によると風の説明は次のようになる。太陽の日周運動の北側と南側は放射を受けにくいため寒くなり、そこで雲ができる。したがって降水は、太陽の日周運動の北側と南側で降る。そこで地球と太陽からの熱が地表を乾燥させて、乾いた蒸発気が出来る。その乾いた蒸発気が風の元となるため風は北か南から吹いてこなければならない。そして、天上界の自転の影響を受けて、実際の北風や南風は多少斜めになるとも述べている[3]。
6. 雲と霧
湿った蒸発気と乾いた蒸発気の2つが結合して雲が発生し、結合の際に乾燥した蒸発気の一部は雲の中に閉じ込められるとした。そして、この閉じ込められた蒸発気は雲が衝突すると騒音を出しながら絞り出され、この騒音が雷鳴であるとした。この絞り出された蒸発気は風となり、薄くかすかに燃える。これが稲光であるとした。もし絞り出された乾いた蒸発気が大量で急激であれば暴風となった [3]。
アリストテレスは、大気の下層と上層では雲は出来ずに、中層でのみ発生すると主張した。つまり、上層では星からの熱や地面で反射された光線から比較的離れており、寒冷のため雲は生成されない。そして地面での反射光線は熱で雲を溶かしてしまうため、地表近くの下層では雲ができない。そのため彼は、雲は地表からの光線が分散された中間の層で形成されるとした。
7. 雨など
地面の「湿った蒸発気」は主に太陽からの熱のために蒸発して上昇する。しかし、地面での太陽反射熱が高空で届かなくなると、上昇する空気中の湿った蒸発気は結合して液体の水となり雲を作る。この雲が形成される領域が冷却されると、雨、雪が発生して落下する。
このような水の相の変化は、太陽の周期的な日周運動に従っている。太陽の位置が高いか低いかによって、蒸気の流れが変動する。太陽が近い(頭上にある)と湿った空気の流れは上に流れ、太陽が遠い(一日の後半)と下に流れる。このような現象をアリストテレスは、周期的に上昇・下降する川のようなものと考えていた[3]。
8. 露と霜
日中に発生する大量の水蒸気は、多すぎて熱がそのすべてを上昇させることができないため、高層に達しない水蒸気は地表近くに留まるとした。そして夜になると冷やされて、地表にできる液体の水を露とした。冬のように非常に寒いと、水蒸気は液体になる前に凍ってしまう。それが霜となった[3]。
雨は大量の水蒸気の冷却によるもので、広い面積に長時間蓄積される。対照的に、露は少量の水蒸気が短時間で凝縮して形成される。その量の少なさからも明らかなように、露は通常は狭い面積を覆う。霜や雪についても同じことが言える。雲が凍れば雪になり、地表の水蒸気が凍れば霜になると考えた。露ができるのは、水蒸気が乾かないように気温がそれほど高くなく、水蒸気が凍るほどには寒くない場合である[3]。
9. 雹(ひょう)
アリストテレスは、雹について議論の余地のない事実と逆説的に見える事実を含める必要があると断っている。雹が降るのは主に春と夏であり、冬に降ることは稀である。一般的に、雹は温暖な気候で発生し、雪は寒冷な気候で発生すると正しく指摘している。
アナクサゴラスによる「雹は、熱が高まると、雲は通常よりもさらに上層の寒冷な層に押し上げられて形成される。そのため、雹は夏や温暖な地域に多く発生するのである」という説を、アリストテレスは否定している。アリストテレスは氷の結晶同士は水滴のように結合できないので、小さな水滴が浮遊している間に結合して、大きな塊となってから凍ったと考えたようである。アリストテレスは、雹が信じられない大きさなりまた球形ではないことから、それが地表の近くで凍った証拠であるとした。
10. 雷
アリストテレスによると、雷は雲に閉じ込められた乾いた蒸発気によって引き起こされる騒音である。雲が凝縮するときに風(乾いた蒸発気)が雲から放出され、周囲の雲に衝突して音を発すると主張した。雲の組成が均一でないため、さまざまな種類の音が発生した[1]。雷は風が突然当たったときに丸太の火がパチパチと音を立てるのに似ていると、彼は例えを用いて説明している。雲の凝縮によって放出された風は、その後細かく穏やかな火で燃えて稲妻となった。このように、それまでの意見に反して、アリストテレスは雷の後に稲妻が起こると主張した[1]。
11. 気候とその変動
アリストテレスは地球を宇宙の中心にある球体とみなし、ピタゴラスとその弟子パルメニデス(紀元前6世紀)が以前に提唱した概念を用いて、太陽の傾きに従った5つの気候帯を定義した[3]。このギリシャ語の傾き(クリマ)が、気候(クライメイト)の語源となっている。そして、北回帰線より南は暑すぎて、ある緯度(北極圏のことと思われる)より北は寒すぎるから人が住めないと考えていた。アリストテレスによる単純な気候区分は、最良ではないことが認識されながらも大航海時代を超えて19世紀まで使われた。この気候区分を覆した一つはフンボルトによる気候図である。
アリストテレスによる5つの気候帯
また彼は、太陽の進路による寒さと暑さの影響を受けて、特定の場所で気候変化が起こるとした。暑くなって乾燥するとその地域では、湧き水が干上がるのは宿命であり、大きな川はどんどん小さくなり、やがて完全に干上がってしまう。このような変化は海にも影響する。「陸と海は空間的に固定されているのではなく、かつて陸であった場所に海があり、海があった場所に再び陸がある」とし、「私たちは、これらの変化が何らかの秩序と周期性を持っていることを認める必要がある」と述べている[3]。
彼は気候変動について極めて長期に及ぶ考え方をしており、「地球の物理的な変化は、徐々に、そして私たちの寿命に比べてかなり長い時間をかけて起こる。そのため、これらの現象は気づかれることなく過ぎ去り、国全体がこれらの変化の始まりから終わりまでの記憶を保持する前に失われてしまう。」と述べて、かつてそのとき土地がどのような状態だったのか、誰も覚えていないとも述べている。ただし現代では、地層などの研究から過去の気候の復元が行われている。
もし海がある場所では後退しているが、別の場所では前進しているのであれば、地球全体において、常に同じ地域が海であったり陸であったりするわけではなく、時代によってその地域的な様相が変化する。そしてこのような変化を一定の時間間隔で周期的に起こると考えていた[3]。
アリストテレスが、気候とその変動について、長期的な地球規模の視点と比較的短期間での地域的視点の両方を提示していたことは、特筆に値する。
12. 虹などの光学現象
アリストテレスの気象論の論考の多くは、目視による観察に基づき、一貫した説明を演繹的に推論したものである。虹の説明のために光学理論を構築した。その中心の一つは光の反射である。彼はそれらの現象を鏡との類似性で考えている。太陽などからの光線は、空気や滑らかな表面を持つ物体から、鏡のように反射されると結論づけた。しかし、反射された光線に太陽などの元の形(像)でない。それは反射する物体のサイズが非常に小さいため、人間が元の形を知覚できないと考えた。そして反射されたものの中で人間が知覚できるものは、色であると考えた[3]。
そのため、アリストテレスによる光学現象の論考を述べるには、まず彼の色彩論を踏まえる必要がある。アリストテレスの色彩論の中心は光と闇、つまり白と黒を混合すると他の色が生まれる。そして、その色の変化は、反射、距離、反射物の不透明度または暗さの3つに依存すると考えた。彼は虹を赤、緑、紫の3色を基本としていると考えた。そしてこの3色は黒と白の比率のハーモニーによって生まれる。そしてそれ以外の黄色などはコントラストによってそう見えるとした[3]。このアリストテレスの色彩論は、19世紀にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの色彩論に強い影響を与え、その影響は現代においても続いている。
さて虹であるが、アリストテレスは太陽からの反射が見ている人の目に入るために、反射における一様性、規則性を考慮した。そして、背の太陽を頂点とした円錐の底辺で反射が起こり、虹が円形(実際には半分は地平線に隠れる)になると考えた。実際には太陽光線は虹の部分で42°で反射して人間の目に入る(人間を頂点として見ると、虹は頂点が42°の円錐を描く)。アリストテレスは反射角度については触れていないが、虹が太陽光の反射で円状に見える仕組みは正しく推測していた。 色については光の反射、距離、反射鏡の不透明度または暗さによって、色の強弱が変わる。そのために虹の色は赤、緑、紫が基本であり、残りは白と黒の混ざり合い、あるいは視覚や光の弱まりによって、さまざまな虹の色になると考えた。
アリストテレスによる虹の反射の理論。ただし彼は虹の反射角を42°と特定はしていない。
彼は、ハロー、サンドッグ(幻日)、光柱、二重の虹が起こる仕組みも全て共通だと考えて、反射と色彩論で説明している。色はともかくとして、反射によって円または半円の虹ができる説明は現代でも通用するものである。
参照文献
[3]Zerefos, Aristotle's Μετεωρολογικα? Meteorology then and now, Archaeopress Publishing Ltd, 2020.
[4] アリストテレス. 気象論. (訳) 泉治典. 岩波書店, 1969.
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