2023年2月14日火曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(5)

 6.    クニッピングの帰国

クニッピングはまじめで温厚な性格だった。またうまく人脈を築くことも得意だったようである。当初外国人を嫌っていた地理局長の櫻井勉とも良い関係を築いて信頼を得た [3]。ワグネルなど他の御雇い外国人たちと多くの交流を持っただけでなく、海外視察の際には外国の各地で知人を作った。

そして、クニッピングは休まずに驚くほどよく働いた。彼は明治15年(1882年)に採用されてから3年間毎日一日も欠かさず1日3回の観測と天気図の作成、警報と予報の発表を続けていた。中央気象台長となった中村精男はクニッピングを次のように評している [16]。

「クニッピング」氏は非常の勤勉家にて夙夜此の準備に没頭し,出ては全国を巡回して新設すべき測候所の位置を撰定し,入ては気象電報の符号,天気図の様式等を作製し、1ヶ年内に諸準備を完成し,事業開始後も毎日3回の天気図は必ず自ら調製して,予報,警報を発し病気又は公私の宴会等の場合に於ても天気図調成の時刻には必ず事務所に出頭し,在職中殆ど欠勤したこと無し。(原文はカタカナ)

当時気象台の日本人は「クニッピングは病気にもならずに、毎日絶え間なくずっと何年間も仕事を続けることがどうして可能なのだろうか」と話していた [3]。クニッピングは日本人の助手たちに1週間ずつ交代制で1日3回の気象観測を行うことを提案したことがあったが、とても耐えられないとの理由で彼らに断られた [3]。

明治18年(1885年)2月に今の皇居本丸にあった彼の宿舎が火事になり、10か月間築地のホテルへ住まいを移した。築地から気象台までは簡単には往復できないために、その時に初めて観測を助手たちに代わってもらった。

また、明治20年(1887年)9月には、クニッピングはアメリカの天文学者トッドとともに富士山に登って、気象観測を行っている。なお、富士山では明治14年(1880年)にアメリカの天文学者メンデンホールが東大の田中館愛橘らと既に気象観測と重力観測を行っていた。

クニッピングによる警報と予報は、クニッピングの御雇い契約が満期となる明治24年(1891年)3月まで続き、同年3月31日に退職した。これにより、以降暴風警報と気象予報は日本人のみで行うようになった。

彼は日本の気象事業を立ち上げたことに満足していた。彼は「この国にとってある全く新しくて必要なものを生み出すことができたのであり、私の持てる力を出し切り、最善を尽すのに骨身を惜しまなかったのである」と述べている [3]。彼は明治24年3月に勲三等瑞宝章が授与され、天皇陛下への内謁も賜った [17]。日本の気象事業に携わって9年、日本政府に初めて雇用されてから19年が経っていた。

クニッピングは帰国してハンブルグのドイツ海洋気象台に就職し、大正11年(1922年)にキールで79才の生涯を閉じた。ちなみに、クニッピングの娘は気象学者ケッペンの息子と結婚している。そして、ケッペンの娘は探検家であり気象学者だったウェゲナー(大陸移動説でも有名)の息子に嫁いでいる(このブログ「ケッペンについて2」l参照) [18]。

ハンブルグにあったドイツ海洋気象台
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kersten-Miles-Bruecke_1900.jpg)

(このシリーズ終わり:次は「世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(1)」)

参照文献

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.
12. 岡田武松. 本邦天気予報事業の今昔. 気象庁, 測候時報, 19, p 311-315, 1952.
13. 気象庁. 第4章 気象事業の確立. 気象百年史 Ⅰ 通史.  : 気象庁, 1975.
14. 気象庁. 第5章 明治期の天気予報. 気象百年史 Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
15. 気象庁. 第5章 中央気象台沿革記録. 気象百年史 資料 I 来歴文書. 気象庁, 1975.
16. 中村精男. 中央気象台沿革概要. 中央気象台, 1925.
17. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(10). 気象庁, 測候時報, p 171-175, 1955.
18. 岡田武松. 気象学の開拓者. 岩波書店, 1949.

 

2023年2月11日土曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(4)

 5.    暴風警報と天気予報の開始

5.1    最初の暴風警報

日本で最初の暴風警報が発表されたのは、明治16年(1883年)5月26日だった。その時発表された気象状況は、全国的に気温が上昇したが気圧は下降し、四国南岸に中心を持つ低気圧によって、四国、九州方面は風が強いというものだった。

東京横浜毎日新聞は、この時の神戸港の様子を6月1日付けで次のように報じている。神戸においては東京気象台より予め海が荒れるとの電報があったので、西国向けの船舶は出港を見合せた。25日午後より風が強く折々雨が降って波が高くなったが、27日午後4時過ぎには風波全く静まったので人々は安心した [1]。

初めての暴風警報の際の天気図(1883年5月26日:気象庁提供)

8月17日には今度は台風が襲ってきた。クニッピングは、台風は九州南部を東に進むと予想していたようだが、台風は実際には九州西岸を北上して日本海に入った。暴風警報は南西部一帯に出されていた。

この時長崎測候所は、東京気象台からの電報を受けてまだ風が強くないうちに長崎県庁、佐賀県庁、福岡県庁、熊本県庁に暴風警報を通知した。県庁は警察署に暴風が来ることを掲示させ、新聞社は号外を出して市中の周知に努めた。その夜から翌日にかけて風は猛烈となった [1]。

長崎港では風が南に変わると波頭が高くなって多くの船に被害が出たが、警報に基づいた処置がなければもっと被害が生じたかもしれない。三菱郵便船東京丸は18日の午後に横浜に向けて出航する予定だったが、出航を翌日に延期した [1]。このように暴風警報によって事前に適切な措置を取ることができるようになった。

暴風警報の際は信号柱に標識が掲示された。当初は簡単な標識だったようだが、明治36年頃から徐々に改善されて、円や、円柱、円錐などの形の標識を用いて複雑な情報を掲示できるようになった。

クニッピングは、より正確な情報を出すために1日3回の気象電報を要求した。また彼は日本に於ける気象事業を完備するため望ましいこととして、観測網を広げるとともに気象電報入手のための電信路を延長して、日本の風上となるアジア大陸に気象電報のための組織を整備することを提案した。当時少しでも警報の精度を上げようとすれば、まず風上の観測を拡充させようとするのは自然の流れだった。

5.2    天気予報の開始

当初は荒天が予想される場合に暴風警報を発表するだけで、天気予報については行っていなかった。クニッピングの気象事業に関する考えは、あくまで防災のためだった。ところが暴風が来襲する頻度はそう多くないため、その合間に気象台は何をやっているのだという非難が生じたようである。実際は警報を出そうが出すまいが、気象台が日々行う作業量はほとんど変わらなかった。

当時は日々の天気を予測するための気象学は未発達で、日々の細かな気象の違いをもたらしているメカニズムはよくわかっていなかった。そのため、当時の予報技術では、典型的な低気圧や台風の移動を予測して暴風警報は出せても、日々の雨や晴れの予測はかなり不正確だった。しかし、政府の人々も含めて周囲の人々は全国の気象情報によって現在の気象状態を知り、今後の気象を推定して警報を発表するものであるから、警報も天気予報の一部なのではないかと考えたようである。

クニッピングは警報だけのつもりだったので、予報の発表をなかなか受け入れなかった。最終的に地理局長櫻井勉がクニッピングに対して、約束が違うとして天気予報も出すように申し渡したとされている [1]。当時、気象用語の訳に関する定義や概念が定まっておらず、通訳を通してやりとりしている間に、顕著現象の予測と天気予報との間に取り違えが生じたのかもしれない。

クニッピングは、明治17年(1884年)5月9日に要望していた1日3回の気象電報が承認されたため、それと引き換えに天気予報の発表を決意した。初めての天気予報の発表は明治17年(1884年)6月1日だった。暴風警報の開始の1年後である。午前6時の天気図に載せられた予報は次の通り。「全国一般風の向きは定りなし天気は変り易し但し雨天勝ち。」(原文はカタカナ表記) [1]。天気予報は、天気図に「Indication(予報)」として記述された。

初めての天気予報の際の天気図(1884年6月1日: 気象庁提供)

天気予報の開始について、後年中央気象台長を務めた岡田武松はこう述べている [12]。

天気予報を出すのは暴風警報を出すよりもむずかしいものだから、クニッピング氏は暫らく様子を見ておられたのであろう。そうこうするうちに、予報はどうしたんだろうなんていう声が高くなったので、同氏も思い切って出す様になった。しかるに案の定、不中が度々あって評判がよくなかった。天気予報は簡単に当るものだと信じている世間も悪いが、無理やりに出す方も善くないともいえないこともない。しかし創業時代には、こんな無理をしなければ、事業が起こせないのだから仕方がない。

これは、当時暴風警報事業を天気予報と抱き合わせで行わなければならなかった状況をよく表している。明治20年(1887年)に東京に警報と天気予報を発表する中央気象台が設立された。

天気予報は明治21年(1888年)3月から官報の最後のページの欄外に掲載された。中央気象台は4月にいくつかの新聞社へ天気予報の新聞への掲載を依頼したが、ほとんど断られた。その中で福沢諭吉の主宰する「時事新報」だけが4月から天気予報を掲載した。すると人々は歓迎したようで、5月以降、順次報知新聞、朝野新聞、毎日新聞、読売新聞などの主要紙、続いて地方紙も掲載を開始した [13]。

天気予報はもともとがクニッピングが英文で書いたものを訳したもので、また当時の人々は天気予報に馴染みがなかったため、用語の理解がなかなか難しかったようである。天気予報で使われる「所により雨」、「天気変わり易し」、「天気不定(不安定)」などの用語は、今では当たり前であるが、当時は別途解説がつけられた [13]。

5.3    当時の天気予報の精度

以下に当時の天気予報の精度を挙げる [14]。ただし、的中と外れの定義ははっきりしない。明治21年4月から予報は1日1回の24時間予報になったので、精度は下がっている。またその頃クニッピングはヨーロッパ視察に出ているので、予報精度は代行した日本人による予報精度となっている。

期間

的中(%

外れ
(%)

 

明治176 月~185

71

3

8時間予報

明治186月~195

81

1

明治196月~205

81

4

明治203月~212

77

10

明治214月~223(クニッピング外遊のため、日本人による)

68

12

24時間予報

明治224月~233

69

13

 

人間の心理として、こういう情報は当たって当たり前であり、外れると厳しい評価となった。明治26年(1893年)6月7日に東京の「中央新聞」は、「中央気象台」と題する社説で天気予報の誤りが多いことを指摘し、虚実取り混ぜて罵倒して公職者としての責任はないのかと非難した。これに対して中央気象台の馬場信倫は、「氣象集誌」という論文誌で「中央新聞ニ答フ」と題して次のように反論している[14]。

天気予報とは翌日の天気はこうなると告げるものではない。晴天という予報は雨天 曇天よりはむしろ晴天の方が多く望めるという意味であって、決して雨天曇天でないことを保証するものではない。世界中のどの国のいかに優れた人でも予報の百発百中は望めないものである。(口語に訳している)

また「萬朝報」という新聞にいたっては、私設天気予報を明治29年(1896年)8月22日より紙上に掲載し、中央気象台の予報とどっちが当たるか読者に判断して欲しいという挑戦状を突きつけた [15]。気象台の予報のはずれたときに当ったことが時々あったので、評判は悪くなかったようである。

後年中央気象台長を務めた岡田武松は、この萬朝報による予報を、風向に重きを置き今でいう「気団」の移動に注意して、これを天気図による予想に加味するものだったと述べている [12]。

しかし、人々には天気予報が当たらないことが強く印象に残ったようで、日露戦争の頃には「測候所、測候所」と唱えれば弾丸に「当たらない」、いや「タマに当たる」からよくないなどと話題になった。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.
12. 岡田武松. 本邦天気予報事業の今昔. 気象庁, 測候時報, 19, p 311-315, 1952.
13. 気象庁. 第4章 気象事業の確立. 気象百年史 Ⅰ 通史.  気象庁, 1975.
14. 気象庁. 第5章 明治期の天気予報. 気象百年史 Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
15. 気象庁. 第5章 中央気象台沿革記録. 気象百年史 資料 I 来歴文書. 気象庁, 1975.

2023年2月9日木曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(3)

 4.    クニッピングによる暴風警報の準備(2)

4.1    気象電報の利用

クニッピングは前項の経緯で明治15年(1882年)1月から内務省地理局に採用され、暴風警報体制を整備することを任された。彼は測候所をさらに8か所(鹿児島、宮崎、下関、境、浜松、沼津、宮古、秋田)増やすように進言した。しかしそれだけでなく、日本全国の気象状況を把握するための組織的な観測網による「統一された観測」と、電報を使って観測結果を「速やかに1か所に集める体制」とその全国からの観測結果を「解析する組織」を新しく設立する必要があった。

暴風警報体制の構築にはいくつかの課題があった。最初の課題は電報の高額な使用料だった。気象状況を監視するためには、多数地点の気象状況を電報を用いて迅速かつ定期的に収集する必要があった。欧米でも組織的な警報や天気予報が始まったのは、電信の発明がきっかけであり、電信を用いた気象電報は警報体制の構築のために不可欠だった。

クニッピングは、多くの国では気象電報は無料であるから1日3回の電報を無料にすべきことを要望したものの、明治政府の理解を得られずに承認されなかった。そのため、クニッピングは明治15年(1882年)4月に、太政大臣へ電報使用料を予算要求した。しかし、これも費用が高額なのと財政逼迫のため却下された。

内務省としては暴風警報のための電報は重大な公益に関することなので、せめて1日1回だけでもと再び太政大臣三条実美に伺いを出した。これに前内務卿であった大蔵卿松方正義が賛成したことから、明治16年(1883年)1月に1日1回の無料(当時の表記では無税)の気象電報が認可された [1]。

グニッピングは,電文を短くして料金を削減するために、気圧、気温、雨量は数字2字をもって、その他の要素はすべて1字をもって表すという通報形式の工夫を行った [1]。

4.2    観測時刻の調整

次の課題は観測時刻だった。明治政府は明治6年(1873年)1月1日に、太陽太陰暦から太陽暦のグレゴリオ暦へと改暦した。また、暦だけでなくそれに合わせて時刻を、日出と日没との間を等分するそれまでの不定時法(つまり季節によって1時間の長さが変わる)から、年間通して1日を24等分する定時法へと変更した。

それでも時刻は、その地方の太陽の南中時刻を正午とする地方時が用いられた。暴風警報のために広域の状況を把握するには全国の気象現象を一斉に捉えることが必要となる。そのため、気象観測は全国統一時刻による一斉観測を行うことが基本となる。当時は地方時でも生活に支障を来すことはなかったが、電報を使った気象観測結果の収集は、地方時による各地の時刻の違いの問題をクローズアップした。

各測候所は、地方時で1日3回(午前6時半、午後2時半、午後10時半)の気象観測を行っていたが、全国での気象観測を一斉に行うため、明治15年(1882年)7月から京都時での観測(午前6時、午後2時、午後10時)が追加された [8]。京都時を用いたのは、京都は幕末まで天皇がいた場所であり日本人に馴染みがあることと、東西に分けると京都は日本のほぼ中央に位置しているためだった。

なお、明治17年(1884年)にワシントンでの国際子午線会議でグリニッジ天文台の子午線が世界の時刻標準に決まり、明治19年(1886年)には兵庫県明石市を通る東経135度を日本標準時とすることが決まった(実施は翌年の1月1日)。日本標準時の子午線が東京ではなく東経135度に決まったのは、日本標準時を決める際に、内務省が京都時を使って既に気象観測を行っていることが、その一因となったようである [9]。

4.3    観測単位の調整

さらに観測の単位の問題があった。当時日本では一般には尺貫法が使われていたが、気象観測については、当時観測開始時の指導がイギリス人であったり、測定器がイギリス製であったりしたため、観測単位にイギリス式のインチや華氏を使っていた。しかしクニッピングは国際気象会議で国際計量単位であるメートル法と摂氏の採用が決議されていること、ドイツを含む多くの国もメートル法を採用していること、イギリスとアメリカもいずれはメートル法に改めるであろうことを理由として、メートル法と摂氏を使うことを提言した [10]。

これは我が国の度量衡制度に関連する重要な問題であったから、内務、陸軍、文部、農商務、工部の各省代表をもって構成する委員会に諮り、気象観測に関しては明治15年(1882年)7月1日よりメートル法を採用することが決定された [1]。それを知ったイギリス公使から、イギリスの計量単位も使うように横やりが入ったようであるが、クニッピングはそれを拒否した [3]。

こうして明治15年(1882年)7月1日から単位にメートル法と摂氏を使った気象観測が開始された [9]。これにより例えば気圧だと、水銀柱の高さに相当するミリメートル(mm)が単位となる。ちなみに1気圧の水銀柱の高さは760 mmである(760 mmHgと表記する)。このメートル法の採用は、明治19年(1886年)の日本でのメートル条約加盟の公布に先立つこと約4年、明治24年(1891年)に度量衡法として尺貫法にメートル法を併用したものが規定されることに先立つこと約10年だった。

4.4    観測手法の標準化

さらなる問題は各地で行う観測手法の統一だった。クニッピングは明治15年(1882年)8月に観測手順を統一した「観測要略」を作成した。そして、これを翻訳したものが印刷されて各測候所に配布された。これで全国の観測手法は統一されたものとなった。

また、測定器などの測候所で行う観測全般については、地理局観測課長小林一知(1835-1906)のもとで東京気象台の中村精男と和田雄治の両氏が編さんして、正式の気象観測法として明治19年(1886年)1月に東京気象台から刊行された [11]。

4.5    初めての天気図の作成

このようにクニッピングは、暴風警報を出すための統一的な気象観測と電報を用いた組織的な気象データの収集の仕組みを整えた。これらの取り組みの結果、明治16年(1883年)2月16 日に初めて天気図が東京気象台で作られ、3月1日から毎日発行された。

1883年3月1日に日本で初めて発表された天気図(気象庁提供)

フランスの天文学者ルヴェリエによってヨーロッパで初めて天気図が定期的に発行されたのは1863年(安政3年)であり、それに遅れること20年だった。当初の天気図は、左右2ページの見開きで,左は天気図,右は天気報告だった。天気報告は、各地の観測結果と英文と和文の全国天気概況を記したもので、暴風警報を発表する際もここに記入されていた。

天気図は、当初全国21地点の測候所から電報で報告された観測データをもとに、等圧線(と後に等温線)を記入したものだった。クニッピングが一人で天気図を描き、それに英文で天気概況を記入した。印刷する時には、天気図の等圧線や等温線は画伯が再描画し、文字は名筆家が清書した。英文の天気概況は和訳され、その時の訳語として作られた低気圧などの言葉は今日でも使われている。

この天気図は、気象資料の交換として海外にも送られた。明治16年(1883年)7月には、当時アメリカの国家気象機関だった陸軍信号局から、我が国の天気図の発行がアジアへの気象事業への拡大と気象学への発展に大きく貢献するとして、賞賛する手紙も送られて来た。

東京気象台に集められた各地の天気は、天気報告として公表された。これを同年4月6日から福沢諭吉が主宰して発行していた時事新報が掲載した。この新聞は天気報告を、「一目の下全国の天気を伺ふに足るべき頗る便利有益の報告なり」と評し、日本国を縮めて一つにして「小胆近親の弊」を救うかもしれないと述べた [1]。

当時の人々の国という意識はまだ藩の延長上にあり、日本全体を一つの国とする意識は途上だった。そういう時代に毎日各地の天気が新聞に掲載されるということは、地域ごとに排他的だった人々の意識を、同じ日本人とすることにも役立ったのかもしれない。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.


2023年2月6日月曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(2)

 3.    クニッピングによる暴風警報の準備(1)

 

3.1    クニッピングが日本に来るまで

ドイツ人であるエルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping)は1844 年4 月27 日にオランダとの国境に近いドイツのグレヴエ(Kleve)に生れた。ドイツの中等教育機関であるギムナジウムに学び、1862年8月から海員となった。その後、海員や海軍を経て一等航海士としてクーリエ号という汽船に乗り組んだ [5]。

エルヴィン・クニッピング(気象庁提供)


クーリエ号が東京に航海してきた時に、
大学南校(のちの開成学校)で教鞭をとっていた同じドイツ人化学者ワグネルを訪ねた。当時大学南校はドイツ語で講義が行われていたため、ワグネルは南校の教師募集があればクニッピングに連絡することを約束した [3]。大学南校では、イギリス人とフランス人の教師3名を増員を計画したが、普仏戦争でフランスが敗戦したためかフランス人の採用は見合わせることになった [1]。

本人の回想によると、明治4年(1871年)にクニッピングが上海にいた時にワグネルから教員採用の連絡が入った[3]。クニッピングは、フランス人教師が徐々に締め出される中で1870年以降もドイツ人が大学南校の教師で居れたのは、普仏戦争の勝利のおかげと述べている [3]。

クニッピングが気象学の専門教育を受けたという記録はない。しかし彼はクーリエ号で気象日誌を見つけた1968年から気象観測を行い、ハンブルグのドイツ海洋気象台へ結果を送っていた [3]。長年船員をしている間に気象に興味を持っていたようである。また天気図の解析や利用法も同様に習得していたと思われる。


3.2    明治政府によるクニッピングの雇用

明治政府は当初大勢のお雇い外国人を雇ったが、当時は人材不足もあってか、雇用された外国人には適切とはいえない者もいたらしい [6]。当時クニッピングは一船員で、一等航海士という肩書きだけで全くの無名だった。ワグネルのつてではあったが、まじめで使命感に燃えたクニッピングの雇用は日本にとって幸いなこととなる。

彼は明治4年(1871年)5月から大学南校で教鞭をとり、ドイツ語で算術から地理、幾何、作文、体操まで教えた [6]。そして、これが彼が明治政府に延べ19年にわたって雇われるはじまりとなった。

その後大学南校から変わった開成学校の講義の主流は英語となり、クニッピングはドイツ語で行う講座が狭められたため退職した。明治9年(1876年)に今度は内務省駅逓局に船員となるための試験である海技試験の試験官として雇用された。

彼には学究的な気質もあったらしい。彼は開成学校の教師時代から、妻がベルリンから持ってきた測定器を官舎に設置して気象観測を行っていた。しかし、上述したように、ジョイネルが明治8年(1875年)から東京気象台で観測を開始したためクニッピングは明治11年(1878年)に観測を中止した [3]。しかしその途中で、結果を明治9年(1876年)10月に「江戸における気象観測」と題してドイツ語の論文誌に発表している [7]。

また、彼は駅逓局の在籍時の明治12年~13年(1879年~1880年)にかけて、燈台での気象観測と船舶の航海日誌を用いて、それまでに日本に襲来した3つの台風について、それらの中心位置、経路、風向、風力分布などを調査し、それぞれドイツの論文誌に発表した。このうち2つの論文は明治15年(1882年)に海軍水路局で翻訳され、「颶風記事」という題で出版された [6]。


3.3    クニッピングの暴風警報事業化への建白書

内務省は各地で気象観測を開始したものの、それをシステム化して暴風警報の事業化を実現するにはほど遠い状況だった。彼には海技試験の試験官を務めながら、日本での警報体制の事業化に対して期するものがあったに違いない。クニッピングは雇用が満期になる直前の明治14年(1881年)に、太政大臣三条実美に対して暴風警報事業化に関する建白書を出した。この建白書は残っていないが、彼が明治11年(1878年)に書いた「毎日の気象観測に基づいて東京の天気予測を行う試み」という論文には、つぎのように書かれていた [1]。

「最近、欧米に於て各地の気象観測報告を電信によって中央機関に収集し、之に基き広範囲にわたる天気の一般状態を勘案し、来るべき天気状態を予測することが行はれている。このような予言が暴風警報として多くの船舶を沈没の危険から庇護していることは、ーつに電信と気象学の進歩によるものである。陸上および港を出た船舶に対する天気の警告は、悲しいかな十分ではない。彼等は頼りとするものがなく、荒天にいかに対処すべきか自分自身で判断しなければならない。来るべき天気状態を予測して彼等に知せるようにできるだけの努力をすることが切望される。」(元はカタカナ表記)

クニッピングの建白書はほぼこれに沿った趣旨であったと考えられている。クニッピングは明治14年(1881年)5月に契約満期により海技試験の試験官を退職した。クニッピングは、提出した建白書に対して政府からの反応に期待するものがあったのだろう。彼は解雇後も無職のまま東京に留まり、臨時の船長の仕事の依頼を断ってまで政府からの返答を待った。

当時、農商務少輔の品川弥二郎と内務省地理局長の櫻井勉は、暴風警報の整備にかねてから熱心であった。クニッピングの提言は彼らの方針に合致しており、また日本人単独での暴風警報の事業化は困難に直面していたため、彼らはクニッピングによる提案に大いに賛成した。

しかし、クニッピングの政府への再雇用はなかなか決定しなかった。どうも地理局長の櫻井勉が、元いた量地課で御雇い外国人だったイギリス人にいやな思いをしたため、外国人の雇用に反対したようである [3]。

当時地理局測量課の課員には、中村精男(後の中央気象台長)と和田雄治がいた(課長は荒井郁ノ助だった)。中村と和田はクニッピングの教え子ではなかったが、南校時代にクニッピングと顔見知りだった。中村精男は元地理局長だった品川弥二郎の親戚だった。どうも中村がそのつてで品川にクニッピングの採用を後押したようである [1]。そうした人間関係の妙もあった。

12月のクリスマスの頃になって、ようやくクニッピングに内務省地理局測量課に雇い入れることが伝えられた。なお、クニッピングは政府からの返答を待っている間に貯金を使い果たし、あきらめて帰国する寸前のことだった [3]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4.
鯉沼寛一. 初期の日本気象業務史(4)  . 気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.



2023年2月4日土曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(1)

 1. はじめに

日本での暴風警報と天気予報などの気象事業は、他の政府の制度や産業と同様に明治時代に開始された。それらそれぞれの発達に物語があるように、気象事業の生誕と発達にも物語がある。ただ気象事業の場合は、明治政府の当初の制度設計に組み込まれていたものではなかった。外国人による提言を新規に採用する形で始まった。

また、その事業の性格からして、まず点で設立してそれを面的に広げていくという形は取れなかった。つまり、最初から日本全土を対象としたシステムが必要であったため、まずその構築を迫られた。そして当時の日本にはそのシステム設計を行える人がいなかったため、一人の御雇い外国人にその構築を全面的に頼ることから始まった。

明治期の気象事業については、まず当時の海運の状況から始まる。幕末まで大船の建造は禁止されていた日本は、島国ということもあって、明治維新後に当時の産業振興によって海運が急激に増加した。しかし、船の安全な運航のための知識を持った人だけでなく、多数の船のための港のインフラや情報網も追いつかなかったと思われる。船舶の遭難は少なくなかった。明治7年には船舶数431,983艘のうち、難破または漂流した船舶は1199艘に上った [1]。

御雇い外国人によって日本の近代化が進められていくと、それらの人々の中から欧米のように電信を用いた船舶向けの暴風警報体制の構築を進言する者が出てきた。ところが、日本では幕府が19世紀初めから天文観測の補正のために気象観測を行っていたものの、船舶の遭難防止のための組織的な気象観測と警報体制の構築については全く経験がなかった。

幕府の天文方で行われていた気象観測のような1か所での観測は、測定器を整備してその取り扱い方さえわかれば行うことができる。しかし、暴風警報体制という組織的な気象事業には、各地の気象観測地点を設立し、それらを結んでその観測結果を瞬時に1か所に収集するためのネットワークと観測結果を定期的に分析する中心施設というインフラストラクチャの構築を必要とする。

しかもそれだけではなく、各地で行う観測時刻の同時性や観測単位などの一様性を確保するために、当時未発達だった統一された時刻や度量衡という社会インフラストラクチャの整備の一部も合わせて行う必要があった。さらに統一された測定方法という全国の多くの従事者への指示・教育も必要だった。そう考えると、組織的な気象事業を行うためのそれらの整備は、国家を挙げた一大事業であったことがわかる。

明治政府は、とりあえずいくつかの測候所を設立したものの、そこから先に具体的に何をすべきかのグランドデザインを描ける人はいなかったようである。それを行ったのはドイツ人のエルヴィン・クニッピングだった。

彼の日本の気象事業に対する熱意あるまじめで誠実な取り組みによって、日本の気象事業は比較的早期に実現したと言っても過言ではないだろう。そのことはあまり知られていないのではなかろうか?

日本での気象事業の開始については、本書の「7.近代日本での気象観測と暴風警報」に記述した。ここではそれらの設立に大きな役割を果たした御雇いドイツ人エルヴィン・クニッピングによる明治期の日本の気象事業の立ち上げについて補足する。

2. 明治初期の日本の気象観測を巡る状況

日本では、明治6年5月にイギリス人技師ジョイネルの建議により、東京で気象観測を行うことが決まった。そして工部省測量司によって気象測器一式(地震計を含む)のイギリスへの発注が行われ、それらは赤坂の葵町3番地に設置されることになった。

ところがこの観測の目的はよくわからない。そもそも気象学そのものが知られていなかった。突然にこの話を聞かされ、後にこの気象観測の主任となった三等技手の正戸豹之助は、当時出張先で「初めて気象学なる語を耳にしたるは京都出発の際にして、何の事やら解する能はず。当時之を同僚の先輩に問ひたるも亦知る人なかりき(元はカタカナ)」と述べている [1]。

そういう中で始める気象観測は、欧米と同じようなことをやっているという国家としての体裁を整える意味があったのかもしれない。欧米のように、気象情報はいずれは産業や国民健康のための基礎情報になるという考えもあったかもしれない。ともあれ、明治8年(1875年)6月1日に組織改編された内務省測量司で気象観測が開始された(東京気象台とも称された)。そして、観測結果は横浜の英字新聞に掲載された。

赤坂葵町(現在の東京都港区虎ノ門2-10 ホテルオークラのあたり)の気象観測施設
(気象庁提供)

当時の日本は蒸気船を持つのが一種の流行になっていたようである。そして、日本人の所有者や乗組員が機関の取扱いを習得し、航海術を体験したと自信を持って乗組んだ船が、いざ海へ出ると直ちに暗礁や砂州で座礁したりすることが多かったらしい [2]。クニッピングも測候所設立のために後に日本各地を海路で旅行した際、「小さくて蟻装もお粗末、そのうえ拙劣な操舵術によって導かれた沿岸航路の船旅は、今までに経験した最も危険なものであった。」と述べている [3]。

いずれにしても周囲を海に囲まれた日本では、海運の安全確保は最重要事項の一つであり、それには気象も大きく関係している。まず御雇い外国人から、「電報を使ってまだ暴風が到達していないところに暴風の到来を知らせることができれば船舶とその人命の被害を軽減できる」という海難の防止、軽減のための欧米のような暴風警報の必要性の声が上がった。

最初に声を上げたのが、政府が雇い入れて地質や鉱山の調査を行っていたアメリカ人アンチセルで、明治5年(1872年)9月に暴風警報必要性の提言を行った。明治7年(1874年)11月には同じアメリカ人ライマンが、そして明治9年(1876年)5月にはイギリス人のジョイネルも暴風警報の必要性の提言を行った [1]。

しかし、必要性がよく理解されなかったのか、政府組織がまだ十分に固まっていなかったためなのかはよくわからないが、彼らの提言は受け入れられなかった。もしこの時彼らが主導する体制整備が行われていれば、日本の気象事業は全く異なった形になっていたかもしれない。

明治10年(1877年)に、組織名を測量課に変えて気象観測を行っていた内務省測量課課長の荒井郁之助は、内務卿大久保利通の承認を得て、内務省直轄の測候所を各地に設置して暴風警報の発表を行う方針を打ち出した [4]。これらの地点選定に当たっては、電信線が近くに来ていることと海から来る台風などの暴風を捉えるために海岸に近いことが条件だった。

ちなみに、この測候所の「測候」という名称は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェル(彼は天王星を発見した天文学者ウィリアム・ハーシェルの息子である)が書いた「Meteorology(気象学)」という本をアメリカ人が中国で翻訳した際にこの字を充て、それが日本に入ってきたとされている [1]。

明治11年から明治15年(1878年から1882年)にかけて内務省地理局は長崎、新潟、野蒜(宮城県)に直轄の測候所を設置した。地理局の呼びかけに応じて、県などの地方政府も広島、和歌山、京都、青森、金沢、高知、大阪に測候所を設置し、北海道開拓使も既にある函館、札幌に加えて留萌、根室、増毛に測候所を開設した。

しかし、暴風警報の実現には他にも様々なことが必要だったにも関わらず、暴風警報の体制整備は測候所開設だけで行き詰まってしまった。そういう状況の日本において暴風警報体制の設立を提言し、実際にそれを実現させたのはドイツ人クニッピングだった。

つづく

参照文献

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.