2022年8月4日木曜日

前線を伴った低気圧モデルの100周年

1. ヤコブ・ビヤクネスの前線を伴った低気圧

ヤコブ・ビヤクネスが前線を伴った低気圧を発見したのは1919年である。発見というよりは、多くの低気圧に当てはまる新しい概念を作り上げたといった方が良いかもしれない。2019年はそれから100周年だったが、日本ではその後コロナが流行ったりしてそれどころではなく、それほど話題にならなかったようである。

気圧が低くなると天候が悪くなることは、1660年にマグデブルグ市長で技術者でもあったゲーリケによって発見されていた。この低圧域が大陸規模の大きさを持っていることを、ドイツのブランデスが1820年に発見した。しかしその後、本書の「8-2  低気圧の研究」で述べているように、ビヤクネスが新しい低気圧構造を唱えるまでは、気圧の低い領域の回りを風が比較的同心円状に回っており、そのどこかで天気が悪くなるとしか知られていなかった。

アーバークロンビーが19世紀後半に唱えた低気圧の構造。起こりそうなさまざまな現象が書き込まれているが、体系的なものではない。

ドイツのライプチッヒ地球物理学研究所で、所長として気象の研究を行っていたヴィルヘルム・ビヤクネスは、第一次世界大戦中に母国ノルウェーへ帰国するように要請を受けた。戦火によってドイツでの研究環境は悪化しており、彼はノルウェーへ帰国したが、海上貿易の途絶によりノルウェーは食糧危機に瀕していた。頼みの自国の農業も風上のイギリスからの気象情報が暗号化されてイギリス頼みの気象予測が出来なくなったため、農業や漁業に深刻な影響が出ていた。ヴィルヘルム・ビヤクネスは、本書の「9-2-1  ノルウェーの危機とヴィルヘルム・ビヤクネス」で述べているように、それまでにない高密度の気象観測網を構築して、息子のヤコブ・ビヤクネスを初めとする物理学の素養を持った予報者たちを育成して、気象予報を行った。

その結果、本書の「9-2-2  前線の発見」で述べているように、1919年にヤコブ・ビヤクネスは低気圧が非対称な温度構造を持っていることを発見し、気温などの性質が異なる気団の境目で雲が発達し、風が急変し、雨が降ることを唱えた[1]。そして第一次世界大戦直後であったため、その二つの異なる性質を持つ気団の境目を軍事用語から取った名称である前線(front)と名付けた(当初は戦線(battle front)と呼んでいた)。また、それまで2次元平面的だった低気圧構造に、彼は寒冷前線と温暖前線のそれぞれに鉛直方向に特有な構造を持ち込んだ。

これによって天候や風向きの変化を予測するのに、どこに注目すれば良いかが明確になった。また、上層の雲の変化を観察することによって、天候の崩れをある程度予測することが可能になった。 さらにビヤクネスがいた気象学のベルゲン学派(ノルウェー学派)は、その低気圧の概念を発展させて、低気圧が進行するとともに発達と衰弱することも明らかにした(「9-3-2 寒帯前線論」参照)。 


ヤコブ・ビヤクネスが唱えた前線を伴った新しい低気圧構造。[1]より

この前線と低気圧を中心としたベルゲン学派気象学は、アメリカでは1930年代後半に採用されたが、日本の中央気象台がこれを採用したのは戦後である。ただし、このブログの「キスカ島撤収-「ケ」号作戦(4)」で述べたように日本海軍は一部でベルゲン学派気象学を使っていたようである。

2. パルメンによる低気圧の鉛直構造

ヤコブ・ビヤクネスが鉛直構造に注意を払ったのは前線で、低気圧そのものではなかった。本書の「8-2-4 低気圧の上部構造の推定」で述べているように、実は19世紀後半から、イギリスのクレメンテ・レイ、ドイツのケッペンやメラーらによって、高度における低気圧の構造の違いが少しずつわかっていた。1931年にパルメンは低気圧の鉛直構造を高層気象観測から体系的に分析した[2]。これによってヤコブ・ビヤクネスが提唱した前線の鉛直構造が確認されただけでなく、低気圧の前部での高い圏界面と低気圧後部での低い圏界面という構造が明確になった。これは低気圧が発達するメカニズム解明の手がかりを与えた。

1931年にパルメンが示した低気圧の鉛直断面図。 [2]を改変。

3. 低気圧の発達構造

1919年にビヤクネスが発表した前線をともなった低気圧構造は、低気圧は同じ構造を持って移動するだけで、その発達や消滅についてはわからなかった。1928年にゾルベルグは地表の前線付近の波との相互作用によって低気圧が発達するという説を唱えた。1944年にパルメンとホルンボーは、低気圧が発達するメカニズムについて全く異なる仮説を提唱した。それは上層での風の発散が大きい、すなわち大気の鉛直運動が最大となる所では、鉛直方向の風速シアが大きくて水平温度勾配が強くなり、低気圧が発達しやすくなるというものだった[3]。これは低気圧の発達のために低気圧の中心軸が高度が高くなるにつれて西に傾く必要があることを明確にした。

1944年にパルメンとホルンボーが示した低気圧の鉛直構造図。 [3]を改変 。

4. ストームトラック

第二次世界大戦後、世界各地の観測データがそろってくると、低気圧が発達しやすい地域があることがわかってきた。1956年にスウェーデンの気象学者スヴェール・ペターセンが北東太平洋と北大西洋、地中海で低気圧が発達しやすいことを示した。このうち北東太平洋(三陸沖から千島列島沖)と北大西洋は、多くの低気圧が発達しながら通過するストームトラックと呼ばれることがある。またここは俗に言う「爆弾低気圧(北緯60度で24時間に24hPa以上中心気圧が深まる低気圧)」が急速に発達する場所ともなっている。

5. 成層圏大気の影響

1950年代に高空での大気中核実験が盛んに行われるようになった。そのため、それによって生成される放射性物質を追跡することにより、大気の動きがわかるようになった。1964年にダニエルセンは対流圏上層と成層圏下部の大気が、低気圧後面の上層ジェットの曲率が大きいところで場合によっては境界層の上端まで下降してくることを発見した。

この成層圏起源の乾燥した大気は低気圧の西側から中心部に向けて細く巻き込まれるように流入することがある。この乾燥大気は雲や水蒸気を伴わないため、衛星赤外画像では暗い部分として確認できる。その場合は、暗域と呼ばれることがある。一方で、大気化学から見るとこれによって成層圏オゾンを含む大気が対流圏へ下降することが知られている。この成層圏下部・対流圏上層大気の対流圏下部への侵入は、トロポポーズ・フォールディング(圏界面の折れ込み)と呼ばれることもある。

低気圧後面での乾燥大気の流入例(2022年3月28日)気象衛星「ひまわり」水蒸気画像による。北千島で暗域が渦巻いているのがわかる。気象庁の衛星観測による。(https://www.gpvweather.com/jmagms.php?y=2022&m=3)

6. 前線に沿った地表大気の上昇

大気境界層上端では、その上の自由対流圏と境界層内の大気の交換は極めて制限されている。大気境界層上端で発達する大規模な積雲などによる輸送は、空間的・時間的に見て、輸送量は限られている。1971年にブラウニングは温暖前線の上に沿って、地表大気が大気境界層を超えて上層まで上昇することを発見した[4]。これはウォーム・コンベヤー・ベルトと呼ばれている。例えば大気汚染物質は大気境界層内での輸送は遅くて範囲が限られている(逆に高濃度に溜まりやすい)。しかしウォーム・コンベヤー・ベルトがあると、広域の大気が数日にわたって自由対流圏にまで上昇する可能性がある。そのため、大気境界層内の大気が一気に数千キロメートル先まで長距離輸送されるメカニズムの可能性の一つとなっている。

ウォーム・コンベヤー・ベルトの概念図

7. 低気圧と前線の新しい概念

近年になって、衛星観測や細かな観測網が充実してくると、ビヤクネスの低気圧モデルは必ずしも実態とは異なる場合があることがわかってきた。1980年にシャピロとカイザーは、寒冷前線が温暖前線と直角に交わり(その形からTボーンと呼ばれることがある)、さらに低気圧が発達すると、中心部で暖域が切り離されて隔離(seclusion)される新しい低気圧構造を唱えた[5]。これはシャピロ・カイザーモデルと呼ばれている(このブログ「前線のその後」を参照)。これはまた実際の低気圧は、単一の簡単な概念モデルでは表現できないことも示している。

その後も、前線に関して大気の川(大量の水蒸気の通り道)や湿舌などの新しい概念も生まれてきている。このように低気圧構造の解明はこの100年間で大きく進歩してきた。低気圧や前線の概念は集中豪雨などの防災にも重要な役割を果たしており、研究が進むにつれて、今後も前線や低気圧の構造に関する新しい概念が出てくるかもしれない。


8. 前線の実例(2022年8月18日に追加)

2022年8月18日に発達した低気圧が前線を伴って北日本を横断した。この時期に発達した低気圧が日本を通過するのは珍しいのではないか。ちょうどTボーン型になりかけの前線と西から流入する乾燥域が見えるので、16時の衛星画像をここに掲げておく。すべて気象庁のホームページから取得したものである


2022年8月18日15時の天気図。

2022年8月18日16時の可視画像。
寒冷前線が温暖前線と直角に交わっているように見える。

2022年8月18日16時の赤外画像。

2022年8月18日16時の赤外画像。
暗域(乾燥大気)が西側から中心部に巻き込まれているのがわかる。


参考文献

[1]Bjerknes J. 1919: On the structure of moving cyclones. Monthly Weather Review, 47, 2, 95-99.
[2]Palmén E. 1931: Die beziehung zwischen tropospharischen und stratospharischen temperatur-und luftdruckschwankungen. Beitr. Phys. fr. Atmos 17: 102-116.
[3] Bjerknes J, Holmboe J. 1944. On the theory of cyclones. J. Meteorol. 1(1): 1-22.
[4] Browning K. 1971. Radar measurements of air motion near fronts. Weather 26(8): 320-340.
[5] Shapiro MA, Keyser D. 1990. Fronts, jet streams and the tropopause. In: Newton C, Holopainen EO, eds, Extratropical Cyclones. American Meteorological Society & Springer, 167-191.




2022年6月13日月曜日

19世紀の環境問題と現代のエネルギー問題

 18世紀にイギリスから産業革命が起こった。この動力源は徐々に石炭に移っていった。19世紀半ばになると、イギリスでは石炭は産業のエネルギー源としてだけではなく、暖炉などの家庭のエネルギー源ともなっていった。その大量の石炭の幅広い使用は、19世紀のイギリスを典型として大気汚染を引き起こした。経済思想家の桑田学によると、19世紀のイギリスの評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin)は(彼は気象学者でもあった)、1884年に50年間継続した気象の記録に基づいて当時大気汚染と認識されていなかった気象現象を嵐雲(Storm Cloud)と表現した[1]。

彼は、嵐雲は空を瞬時に暗くする「暗黒の風」であること、コンパスの東西南北のどの方向とも無関係に吹く「きわめて有害な質の風」であること、「独特の暗黒をもたらすとき、太陽を赤くするのではなく、漂白する」という徴候をもつこと などを示して、「かつては日のけっして没することのなかったイングランド帝国も、いまでは日のけっして昇らぬところになった」と述べている[2]。

ジョン・ラスキン(John Ruskin)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:John_Ruskin.jpg

これが大気汚染を示していることは、ラスキンの研究者たちが「産業統計が嵐雲は、イギリスと中央ヨーロッパの産業地域で石炭消費が飛躍的に増大したまさにその時期に、嵐雲はいっそう濃くなった」と指摘している[3]ことから間違いない。これは第二次世界大戦後まで続き、1952年には有名なロンドンスモッグ事件を引き越し、2週間で4000人、さらにその後2か月でさらに8000人が亡くなったとされている[4]。

アメリカでも、工場からの排煙だけでなく、1950年代に車の排気ガスによる光化学スモッグが問題となった。

この大気汚染は、昭和30年代の戦後の日本でも起こるようになった。当初は工場からの煙は産業振興のシンボルとも受け取られ、煙突から出る様々な色の煙を「虹色の煙」などの表現で肯定的に受け取られることもあった。しかし、四日市ぜんそくや車の排気ガスによる光化学スモッグなどにより、その後大気汚染への反対運動が高まっていった(ここでは汚染を大気だけに絞る)。

その後、反対運動の効果もあってか大気汚染防止法が整備され、日本国内では大気汚染の問題は徐々に沈静化していった(全くなくなったわけではない)。しかし、今度は2000年頃から中国で家庭から出る煤煙(中国では家事や暖房に石炭などを使っていた)、車の排気ガス、発電所からの排出などによる大気汚染が問題となった。北京オリンピックで大規模な対策がとられたことは記憶に新しい。中国でも対策がとられつつあり、2010年頃から徐々に沈静化しているようである。そして現在、今度はインドでPM2.5などの大気汚染問題が起こりつつある。

つまり、「歴史は繰り返す」という格言どおりに、大気汚染について人類は所を変えながら同じ歴史を繰り返しているといえる。

19世紀のイギリスでもう一つ注目しておくことがある。それは当時の経済学者スタンレー・ジェボンズ(William Stanley Jevons)によるイングランドで見え始めた石炭枯渇の懸念である。彼は雨量計による計測時の風による影響を初めて示した人物である(本書の4-6「雨量計」参照)。この石炭枯渇の問題はジェボンズが初めて言い出したものではなく、それまでも議論されることがあった。しかし、ジェボンズは初めて市場の作用と合わせて議論した。ジェボンスは産業化した都市の機能全体が化石燃料の複雑なシステムに依存しきっていることを指摘した[1]。ジェボンズはこう述べている。

われわれの富と進歩とが優位な石炭支配に依存するかぎり、かつてのような進歩が停止するだけでなく、退歩の道を歩み始めるに違いない。[5]

その後、世界各地から石炭を輸入できるようになるとともに、石油への転換が始まったため、イングランドの石炭枯渇問題は先送りされた(より大きなエネルギー問題として)。しかし、化石燃料が世界的に見て有限の資源であることは、19世紀にジェボンズイングランドに対して心配したのと同様に変わっていない。彼の「石炭」が「石油(と天然ガス)」に変わっただけである(原子力発電のウラン鉱も有限である)。むしろ農業も含めて化石燃料への産業の依存度は極めて高まっている。このような天然資源を用いた爆発的な産業発展は、有名な1972年のローマクラブによる「成長の限界」などでもこれまで部分的に議論されている。

環境問題はエネルギー問題とも関連している。太陽光のエネルギーは熱帯でも最大で1kW/m2であり、大気による反射、雲、エネルギー変換率などを考えると、太陽光発電として使えるのは最大でもそのうちの数パーセントだろう。そのエネルギー利用には限界がある。また、近年古い太陽光発電パネルの寿命が問題視され始めている。風力発電も故障や老朽化が始まっている。持続可能な脱化石燃料化とは、非化石エネルギーで生活・産業エネルギーと次世代の非化石エネルギー生産装置の製造エネルギーの両方を賄っていかなければならない。日本の化石燃料以外によるエネルギー供給量は全体の4分の1強でしかない(2021年)。我々は残された化石燃料をどう使うのであろうか?

もし化石燃料を使い続けるだけだと、例えば100年後に石油が枯渇するとすると、その時は(石油使用の少なった)100年前の世界に、200年後に石炭が枯渇するとすると、(石炭使用が少なかった)200年前の世界に戻るのかもしれない(これらの数値に根拠はない。使い方によってはもっと早いかもしれない)。それらはそれほど遠い未来ではない。ただし、世界で残った化石燃料争奪の最終戦争が起こらなければの話である。100年前、200年前とは違って、エネルギーが食料生産などを通して大勢の人間の命と直接関連していることも忘れてはならないと思う。

参照文献

[1]桑田学-2020-思想史の中の気候変動, 現代思想, 3,青土社
[2]Ruskin, The Storm-Cloud of the Nineteenth Centry
[3]The Works of John Ruskin Vol. 34. xxxvi
[4]環境省、大気汚染の歴史, https://www.env.go.jp/earth/coop/coop/document/apctm_j/02-apctmj1-02.pdf
[5]William Stanley Javons, The Coal Question. An Inquery Concerning the Progress of the Nation, and the Probable Exhaustion of Our Coal-Mines. 1865, (second edition, 1866). London: Macmillan and Co.



2022年5月7日土曜日

大規模核戦争の場合の影響

はじめに 

このブログの「大気圏核実験に対する放射能観測」では、主に1950年代からの大気中核実験の影響と観測について述べた。当時はキューバ危機などの核戦争の恐怖が実感としてあり、また各国の核実験によって、それから放出された放射能が実際に観測されていた。そのため、冷戦がエスカレートして大規模核戦争が起これば人間やその生活にどのような影響があるのかに関する総合的な研究も行われていた。

その後、部分的核実験禁止条約などにより、大気中の核実験は行われなくなった。また冷戦の緊張緩和もあって、核戦争の恐怖は薄らいでいったのではないかと思う。ここに来て、再び核戦争の恐怖が再来するとは誰しも思わなかったと思う。たとえ核爆発による脅しや戦術核の使用でも、いったん始まれば徐々にエスカレートして大規模核戦争にならないという保証はない。

では最悪のシナリオとして大規模核戦争が起これば、具体的に我々の生活はどうなるのだろうか?1970年代までそういう研究が真剣に行われていた。その後科学が大幅に進歩したが、一方で冷戦の緊張も緩和した。1980年代以降、核戦争による影響の包括的な研究はあまり聞かないので、近年はそのような研究はあまり行われていないのかもしれない。そのためかなり前になるが、1975年に全米科学アカデミーが行った調査報告書「Long-Term Worldwide Effects of Multiple Nuclear-Weapons Detonations(核兵器の大量使用による世界への長期的影響)」[1]を調べてみた。これは当時権威ある報告書だったものの一つである。

これはあくまで核戦争による世界的な影響を、「大気への影響」、「自然陸上生態系」、「人間が管理している陸上生態系」、「水生環境」、「人体への影響」、「人間の遺伝子」の6つの分野にわけて、56名の科学者たちが検討したものである。核爆発が起こった付近の影響ではなく、核爆発が世界中に及ぼす影響の検討である。

これは当時の最新の科学を反映したものであるが、今日から見ると科学がもっと発展している部分があると思われる。この報告書の内容が過小評価だったり、対象とした以外の部分で新たな脅威が加わっているかもしれないが、科学が発展しても物理法則が変わったわけではないので、少なくともここに書かれている脅威が全くなくなったとは思えない。そのため、この報告書の結果を定性的に捉えることは可能だと判断して、気象学の範囲を一部超えるかもしれないが、その概要を紹介する。なお、この報告書では核戦争によって合計で104Mt(TNT火薬100億トン)相当の核爆発が起こることを想定している。

人類最初の核実験の様子(1945年7月)
https://ww2db.com/image.php?image_id=12725

1. 大気への影響


放射性降下物

地球上のどこかで大規模な核爆発が起これば、放射能を含んだ塵や雨によって放射性物質が世界中に降下してくる。北半球での爆発では北半球における降下物による放射線量は90Sr(ストロンチウム)で平均37000ベクレル/m2と推定されている(南半球は北半球の3分の1)。そして、その90%は降水によるとされている。そしてこれは平均値であり、爆発地点から数千キロメートル離れた地点でも、この数倍の濃度のホットスポットが生じる可能性があるとしている。90Sr以外の放射性降下物については報告書に書かれていない。

大気圏核実験に対する放射能観測(2)」で、大気中核実験時の日本での観測値を記しているが、最大の月別値で数万ベクレル/m2である。しかし1000ベクレル/m2以下の月も多い。平均値として37000ベクレル/m2は決して低い値ではない。

オゾン層破壊

大規模核爆発で窒素酸化物が生成される。これは成層圏まで上昇してオゾン層を破壊する。オゾン層破壊の程度は30〜70%とされている。後述するように、それに伴って紫外線が大幅に増える。窒素酸化物は自然落下により、この減少分の約60%が2〜4年以内に回復すると予想されている。

また、成層圏のオゾン減少は成層圏の気温に影響するため、その結果地上気温が低下するとも予想されている。しかしこれは不確定さが大きく、逆に気温が上がる可能性も指摘されている。

エアロゾルによる寒冷化

核戦争で成層圏に放出される塵の量は、1883年のクラカトア火山噴火で放出されたと推定される量と同程度である。1〜3年間にわたって地上の太陽放射量を平均で数%低下させると予想されている。これによって当然ある程度の寒冷化が起こると考えられる。また地域によっては何らかの異常気象が起きるかもしれない。

核戦争による寒冷化については、その後1983年に「核の冬」という考え方で詳しい研究が行われている[2]ので、そちらの方が信頼性が高いと思われる。

2. 自然陸上生態系

爆発後1週間から30年の間に植物が受ける電離放射線の総外部被ばくは、植物群落によって感受性に大きな差があるが、ホットスポットを除いて広範な影響はないとされている。ただしオゾン層の減少によって紫外線が増えるため、植物種によっては紫外線曝露量の上限を超える(つまり枯れる)可能性が指摘されている。また放射線のレベルは少なくても紫外線増加との相乗効果の可能性も指摘されている。

3. 人間が管理している陸上生態系

90Srの放射性降下物により、家畜の飼料が汚染されることが考えられる。直後は牛乳1リットルあたり約7.4ベクレル、3年以内に37ベクレルに増えると見積もられている。

また、オゾン層破壊による有害紫外線の増加により、エンドウ豆やタマネギは葉に火傷を負い、場合によっては枯死する。家畜の悪性皮膚腫瘍も増加すると考えられている。

寒冷化が起こると、植物の生育期間が短縮し栽培地域の移動が起こる。肥沃でない土地や水が少ない土地へ移動せざるを得ない可能性もある。一方で、寒冷化は収量を増やす可能性もあると述べている。しかし「先進国を巻き込んだ大規模核戦争は世界の農業に与える影響は甚大である。世界の食生活のパターンの調整が必要になるかもしれない。」と述べている。1975年当時と比べると、今日の食料事情の脆弱性ははるかに高くなっていると思われる。

4. 水生環境

水生生物への線量は自然放射線より大きくないと考えられる。放射性核種に汚染された魚介類を摂取することによる人への影響、及び電離放射線による水生生物への影響は重大でない。

 核爆発後の紫外線の増加は、紫外線に敏感な水生生物に不可逆的な傷害が発生する可能性がある。

気候変化が水温に及ぼす影響は±1℃以下と推測されている。気候変動に伴う水生環境の平均気温の1℃の変化は、水生生物の感受性個体群の地理的分布の範囲を縮小させる可能性があるが、ほとんどは大きな影響を受けないと考えられている。

5. 人体への影響

放射性降下物による線量増加は、北半球では爆発後20-30年で0.04~0.08シーベルト。この上限での自然がん死亡率は約2%増となっている。プルトニウムの吸入による癌の長期的な増加はよくわかっていない。

オゾン層破壊による紫外線増加によって、中緯度地域では爆発後約40年間、皮膚がんの発生率が約10%増加。オゾン層破壊がもっと大きければ、この3倍になる可能性がある。またその場合、10分の日焼けで重度の水ぶくれを引き起こす可能性がある。影響が小さくなるのに90年かかる。

6. 人間の遺伝子

平均して親世代が0.05シーベルトの放射線量に被ばくすると、子孫の遺伝性疾患の発生率が約0.2〜2.0%増加すると推定している。この遺伝性疾患の発生率の増加は、被爆した世代の子供だけにとどまらず、何世代にもわたって続くと思われる。影響の半減期は4世代としている。

14C(炭素同位体:ゆっくり崩壊する)による放射線の後世代への影響については、この核種が生物圏の生物に取り込まれる可能性がある期間についての知識がないため、よくわかっていない。

まとめ

最初に述べたように、これは当時の限られた知識による検討結果である。それぞれの数値には大きな誤差幅があると考えるべきである。しかし、定性的には大きな間違いはないのではなかろうか。むしろ自然はあるゆる面でつながっているため、影響が連鎖して、当時考えられなかったもっと別な影響があるかもしれない。

この評価結果は世界平均的なものであり、逆に言えば日本を含めて世界中どこにいてもその影響からの逃げ場はない。いったん核戦争が起これば、放射線の増加、環境の変化、食料の不足を含めて現在の生活を維持するのは困難と思われる。政策決定者は「核戦争に勝者はいない(1985年のゴルバチョフとレーガンによる首脳会談での共同発表)」の意味をもっと真剣に噛み締めるべきだと思う。

参考文献

[1] NATIONAL ACADEMY OF SCIENCES (1975), Long-Term Worldwide Effects of Multiple Nuclear-Weapons Detonations, Committee to Study the Long-Term Worldwide Effects of Multiple Nuclear-Weapons Detonations, Assembly of Mathematical and Physical Sciences, National Research Council. 
https://nap.nationalacademies.org/catalog/20139/long-term-worldwide-effects-of-multiple-nuclear-weapons-detonations

[2] Turco, R.P.; Toon, O.B.; Ackerman, T.P.; Pollack, J.B.; Sagan, C. (1983) “Nuclear Winter: Global Consequences of Multiple Nuclear Explosions”. Science 222 (4630): 1283–92.







2022年3月12日土曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(7)

 マイクロバーストへの対策

藤田による1982年6月の観測の報告書を見た人々は、マイクロバーストの決定的証拠もさることながら、186個というマイクロバーストの発生数の多さに仰天した。これは決してまれに起こる現象ではなかった。しかもマイクロバーストが起こりそうな状況は15分から20分程度の継続時間しかなく、その中で実際にマイクロバーストが起こっている時間はわずか5分程度だった。1982年7月9日にはパンアメリカン航空機がマイクロバーストで墜落して、乗員だけでなく地上の人を含めて153名が亡くなった。1985年8月2日にはデルタ航空機がやはり墜落して、135名が亡くなった。マイクロバーストへの対策は緊急な課題となった。

マイクロバーストが航空機に与える影響のメカニズムは次のようなものである。航空機は、空港に近づくと滑走路にが着陸しようと低高度で速度を落とす。もしその時にマイクロバーストに遭遇すると、まずマイクロバースト周辺の向かい風が航空機の機首を持ち上げる。これを抑えようとパイロットが機首を下に戻したとき、下向きのダウンバーストにぶつかって機体の高度が下がる。その後マイクロバースト直下を出ると、すぐに強い追い風が機体の相対速度を下げてこの機の揚力を減じて、機体は地面へと落下する[1]。

ダウンバーストの航空機への影響(気象庁ホームページより)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/index8.html

対策は、マイクロバーストの早急な発見とそれに遭遇した際の操縦方法に絞られた。主要な空港にはマイクロバーストを監視するターミナル・ドップラー・レーダーシステムが設置された。万一遭遇した場合の緊急の操縦方法が訓練されるとともに、航空機には風の急変を知らせる警報装置が取り付けられた。それらにより、1985年まで平均して18か月に1回起きていたマイクロバーストによる航空機事故は、次は1994年まで起きなかった。

藤田は日本でもマイクロバーストの観測を行っている。1991年に台風19号が九州に上陸した際に、その直後に航空写真を撮って分析して、大分県で放射状に倒れた数千本の倒木を発見している[4]。

日本の空港気象ドップラー・レーダー(気象庁ホームページより)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/23_draw.html#doppler

藤田は1975年までアメリカのダウンバーストの数はゼロだったと述べている[4]。もちろん、それはその年に藤田がダウンバーストを発見するまで、それが知られていなかったかったためである。気象学がこれほど劇的な形で直接的に人命を救ったのは珍しい。藤田によるマイクロバーストの発見に疑問を呈する人はいなくなり、この発見はそうでなければ起こったかもしれない多くの航空機事故から人々を救うこととなった。

なぜミスター・トルネードなのか?

藤田は1990年にシカゴ大学を退職したが、それまでの功績から生涯大学に残って研究することが認められた。その後も精力的に研究活動を続けていたが、晩年に糖尿病が悪化し、1998年11月19日にシカゴの自宅で亡くなった。78歳だった。

「はじめに」のところで、「藤田哲也については、日本ではアメリカほどには知られていないのではないか」と述べた。その理由については、まず日本ではダウンバーストによる大きな被害が少ないためではないかと思われる。それまでは多少の被害があってもすべて強風による被害として処理されたのかもしれない(現在は強風被害について気象台が綿密な現地調査を行っている)。また、竜巻について彼が日本で調査を行ったことは少なく、そのためフジタスケールの名前は聞いたことがあっても、一般の日本人にとって彼の知名度は低かった。

藤田の活躍はそのほとんどがアメリカであっただけでなく、彼は九州にある明治専門学校の工学部出身だった。学位論文でお世話になった正野重方などのごく一部の人々を除いて、日本の気象界の中で彼のことに詳しい人が少なかったことも、彼の知名度が低かったことと関連していると思われる。しかしNHKがドキュメンタリー番組で取り上げたりしたので、彼の名前は近年知られるようになってきていると思う。

このブログのタイトルは「ミスター・トルネード 藤田哲也」である。最後に藤田がミスター・トルネードと呼ばれるようになった所以を述べておく。実はこれは友人たちによる彼の愛称ではない。彼がシカゴの地元の新聞記者から取材を受けた際に、自ら「ミスター・トルネードと呼ばれている」と述べたそうである。翌日、新聞には「ミスター・トルネード シカゴ大学藤田博士」という記事が載った [3]。彼はその記事を気に入って多くの人に配ったそうである。これは藤田の洒落たウィットではないかと思う。藤田はこういった自分のジョークが好きな自己演出的なところがあった。

彼の業績に対する表彰は以下の通りである [4]。

1959年 日本気象学会岡田賞
1967年 米国気象学会メイジンガー賞
1975年 アラバマ州民間防衛局特別貢献賞
1975年 局地性嵐会議視覚表現最良賞
1976年 アーカンサス州特別貢献賞
1977年 航空安全財団アドミラルルイスデプロレス賞
1977年 航空安全財団特別貢献賞
1978年 アメリカ気象協会応用気象学賞
1979年 アメリカ航空宇宙局特別貢献賞
1982年 アメリカ航空宇宙学会ローシー大気科学賞
1985年 アメリカ商務賞気象衛星25周年記念メダル
1988年 アメリカ気象学会応用気象学賞
1989年 フランス航空宇宙アカデミー金メダル
1990年 日本気象学会藤原賞
1991年 日本国政府勲二等瑞宝章

なお、以下のウェブサイトには藤田哲也についての詳しい対談が掲載されている。もっと興味を持った方には参考になるかもしれない。
・ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」 No.18 世界の竜巻博士 藤田 哲也

2022年4月19日の朝日新聞夕刊に、藤田博士が福岡管区気象台で講演した際の動画が、福岡管区気象台のホームページで公開されている旨の記事が載った。また、そのホームページでは藤田博士の貴重な資料もいくつか公開されているので、そのリンクを掲載しておく。
気象の知識 - 藤田哲也博士の講演動画

(このシリーズ終わり)

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.


2022年3月5日土曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(6)

 イースタン航空66便の事故

1975年6月24日午後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港の近くでは時折雨が降っていたが、空港の風速計は風速毎秒3 mと穏やかな風を示していた。ニューオーリンズを飛び立ったイースタン航空66便は同空港に着陸しようとして高度を下げていた。高度150mまで降下したときに、突如豪雨と突風に見舞われ、滑走路の800 m手前に墜落した。乗員113名が亡くなった。これは当時としては最大の航空機事故となった [1]。

イースタン航空66便の事故現場
https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=67&LLTypeID=2

ところが、この事故の30分以内に10機以上の航空機がこの滑走路に無事に着陸していた。66便だけに何が起こったのか?実は66便の直前に数機がウィンドシアと呼ばれる風向の急変を報告していた。しかし、それがこの事故に関連しているのかどうかはわからず、操縦ミスも疑われた。イースタン航空はシカゴ大学の藤田にこの原因究明を依頼した。

藤田はこの時の状況について、各便のパイロットが管制塔といつどこでどういう無線交信を行ったかを分析した[1]。ウィンドシアが疑われたが、前線通過時の比較的広域で起こるこのような現象が、こんなに短時間のごく狭い領域起こり得るのか?直前に着陸した航空機にはウィンドシアを報告した機もあったが、そうでない機もあり、管制官も混乱していた。

藤田は、前年に竜巻の調査を行った際に木々が狭い範囲で回転せずに放射状に倒れていたことを思い出していた。それは竜巻による旋回風ではなく、規模こそ異なるが原子爆弾の爆発調査を行った際に見た下向きの強い風によって放射状に木々が倒れるパターンと同じだった。

彼はレーダー画像などによる気象状況の調査から、この事故が起こった前後に付近に雷雲があったことを突き止めた。彼は背振山での観測を思い出したのかもしれない。彼はレーダー画像に写った雷雲の槍型の穂先のような狭い部分に、強い下降気流があるに違いないと直感した。彼はそれをダウンバースト(下向きの突風)と名付け、イースタン航空66便だけがその雷雲の狭い部分を通過して、強い下降気流で揚力を失い墜落したとする説を1976年に発表した [1]。

ダウンバーストの発見

彼は下降気流の証拠を直接示したわけではなく、状況証拠からそう結論した。しかし、これまでそういった現象は全く知られていなかった。航空関係者にはこれに賛同した人が多かったが、多くの気象学者たちがこの新理論に疑念を呈して、論争を引き起こした。通常の風は気圧の差によって吹く。しかし、ダウンバーストは蒸発熱などによって冷却され収縮した自身の重さによって空気塊が地表付近の物体に衝撃を与えるほどの速さで落下する。藤田は当時の気象学界は誰もこの説を信じなかったと述べている [2]。

ダウンバーストの写真。これはウェットと呼ばれるもので、驟雨を伴っている。雨を伴わない乾燥したドライなダウンバーストもある。
https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=67&LLTypeID=2

彼の説は、昔からある下降気流に名称をつけただけだとか、突風前線(ガストフロント)を見誤っただけだなどと非難を受けた。またこの非難は、自説を発表までに時間がかかる査読付きの論文誌には投稿せず、自費出版の形で直ちに論文を公表した彼の研究スタイルとも関連していた。彼は多くの経験や分析結果から来る自分の直感を信じていた。

しかし、彼は直ちにそれを証明することはできず、葛藤に苦しんだと思われる。しかし彼は決して傲慢な人間ではなく、論争に動揺して悩んで眠れない夜もあったと述べている [1]。慎重な科学者であれば、証明のための証拠を集めるだけに10年はかけたかもしれない。当初、彼はこの結果発表は慎重に行おうと思っていた。しかし、事態の解明とその対策は緊急であり、彼は少しでも早く発表する方を選んだ [3]。

ダウンバーストの観測

藤田の説が正しいことを証明するには、ダウンバーストを実際に観測するしかなかった。そこへ強力な助っ人が現れた。国立大気研究センター(NCAR)のロバート・セラフィン博士である。彼は工学者でドップラー・レーダーという最新機器を開発したばかりだった。ドップラー・レーダーはそれまでのレーダーとは異なり、風速を測定することが出来た。また複数台組み合わせることで風向も判断できた。この機器でダウンバーストによるウィンドシアを捉えられるかもしれない。

ドップラー・レーダー原理(気象庁ホームページより)
https://www.jma-net.go.jp/fukuoka/kansoku/radar_kansoku.html

藤田はセラフィンからドップラー・レーダーの利用提供という支援を受けて、狭い領域での風の急変(ウィンドシア)の観測を行うことになった。このための資金50万ドルはアメリカ国立科学財団(NSF)が提供することになった。NFSでもこの資金提供に難色を示す人たちがおり、このとき藤田は、もしダウンバーストが観測されなかったら自分でこの資金の責任をとると考えていたようである [3]。

1978年5月19日からシカゴ空港近くに3台のドップラー・レーダーを設置して、観測を開始した。しかし、最初の10日間は何も起こらず、観測者たちに焦りの色が濃くなってきた。ところが5月29日に小さいが雷雲が発生し、小さかったにもかかわらず高度70 mで風速31 m/sという台風並みの風を捉えて、初めてダウンバーストと思われるものの観測に成功した [4]。航空機が着陸直前にこの風に遭遇すると危険なことは明らかだった。8月までに50個のダウンバーストを観測したが、彼らはこれがこんなに頻度が高い現象とは思っていなかった。まず現象を捉えることを優先していたために設置したレーダーの間隔は粗く、現象を捉えることはできても、そのメカニズムなどの詳細は得られなかった。

またこの観測結果などから、彼はダウンバーストを数キロメートル以上の比較的広い範囲で起こる「マクロバースト」と、数キロメートル以下の狭い範囲で起こる「マイクロバースト」に分けるようにした [4]。5月29日に観測したものは、強いがマクロバーストだったと判断された。狭いが強いマイクロバーストの方が航空機にとっては脅威だった。



マイクロバーストの概念図。地面にぶつかった下向きの風は放射状に広がる。(図はNASAによる) 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Microburstnasa.JPG

1982年6月にコロラド州デンバーの空港付近に今度はドップラー・レーダー3台を密に配置して観測を行った。このとき藤田は、ドップラー・レーダーを真上に向けるという突拍子もないことを提案した [2]。ドップラー・レーダーは電波を発射する方向の風の動きを観測する。真上に向けると言うことは、上下方向の風の動きを捉えるということだった。これまでレーダーを真上に向けるという発想をした者はいなかった。そして6月12日、このドップラー・レーダーは風が下降しているマイクロバーストの鉛直断面を捉えるのに見事に成功した。これはマイクロバーストの存在の決定的な証拠となった。このとき併せて186個のマイクロバーストが観測された [1]。

日本で観測されたマイクロバースト(気象庁ホームページより)

https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/23_draw.html#doppler

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.