18世紀にイギリスから産業革命が起こった。この動力源は徐々に石炭に移っていった。19世紀半ばになると、イギリスでは石炭は産業のエネルギー源としてだけではなく、暖炉などの家庭のエネルギー源ともなっていった。その大量の石炭の幅広い使用は、19世紀のイギリスを典型として大気汚染を引き起こした。経済思想家の桑田学によると、19世紀のイギリスの評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin)は(彼は気象学者でもあった)、1884年に50年間継続した気象の記録に基づいて当時大気汚染と認識されていなかった気象現象を嵐雲(Storm Cloud)と表現した[1]。
彼は、嵐雲は空を瞬時に暗くする「暗黒の風」であること、コンパスの東西南北のどの方向とも無関係に吹く「きわめて有害な質の風」であること、「独特の暗黒をもたらすとき、太陽を赤くするのではなく、漂白する」という徴候をもつこと などを示して、「かつては日のけっして没することのなかったイングランド帝国も、いまでは日のけっして昇らぬところになった」と述べている[2]。
これが大気汚染を示していることは、ラスキンの研究者たちが「産業統計が嵐雲は、イギリスと中央ヨーロッパの産業地域で石炭消費が飛躍的に増大したまさにその時期に、嵐雲はいっそう濃くなった」と指摘している[3]ことから間違いない。これは第二次世界大戦後まで続き、1952年には有名なロンドンスモッグ事件を引き越し、2週間で4000人、さらにその後2か月でさらに8000人が亡くなったとされている[4]。
アメリカでも、工場からの排煙だけでなく、1950年代に車の排気ガスによる光化学スモッグが問題となった。
この大気汚染は、昭和30年代の戦後の日本でも起こるようになった。当初は工場からの煙は産業振興のシンボルとも受け取られ、煙突から出る様々な色の煙を「虹色の煙」などの表現で肯定的に受け取られることもあった。しかし、四日市ぜんそくや車の排気ガスによる光化学スモッグなどにより、その後大気汚染への反対運動が高まっていった(ここでは汚染を大気だけに絞る)。
その後、反対運動の効果もあってか大気汚染防止法が整備され、日本国内では大気汚染の問題は徐々に沈静化していった(全くなくなったわけではない)。しかし、今度は2000年頃から中国で家庭から出る煤煙(中国では家事や暖房に石炭などを使っていた)、車の排気ガス、発電所からの排出などによる大気汚染が問題となった。北京オリンピックで大規模な対策がとられたことは記憶に新しい。中国でも対策がとられつつあり、2010年頃から徐々に沈静化しているようである。そして現在、今度はインドでPM2.5などの大気汚染問題が起こりつつある。
つまり、「歴史は繰り返す」という格言どおりに、大気汚染について人類は所を変えながら同じ歴史を繰り返しているといえる。
19世紀のイギリスでもう一つ注目しておくことがある。それは当時の経済学者スタンレー・ジェボンズ(William Stanley Jevons)によるイングランドで見え始めた石炭枯渇の懸念である。彼は雨量計による計測時の風による影響を初めて示した人物である(本書の4-6「雨量計」参照)。この石炭枯渇の問題はジェボンズが初めて言い出したものではなく、それまでも議論されることがあった。しかし、ジェボンズは初めて市場の作用と合わせて議論した。ジェボンスは産業化した都市の機能全体が化石燃料の複雑なシステムに依存しきっていることを指摘した[1]。ジェボンズはこう述べている。
われわれの富と進歩とが優位な石炭支配に依存するかぎり、かつてのような進歩が停止するだけでなく、退歩の道を歩み始めるに違いない。[5]
その後、世界各地から石炭を輸入できるようになるとともに、石油への転換が始まったため、イングランドの石炭枯渇問題は先送りされた(より大きなエネルギー問題として)。しかし、化石燃料が世界的に見て有限の資源であることは、19世紀にジェボンズがイングランドに対して心配したのと同様に変わっていない。彼の「石炭」が「石油(と天然ガス)」に変わっただけである(原子力発電のウラン鉱も有限である)。むしろ農業も含めて化石燃料への産業の依存度は極めて高まっている。このような天然資源を用いた爆発的な産業発展は、有名な1972年のローマクラブによる「成長の限界」などでもこれまで部分的に議論されている。
環境問題はエネルギー問題とも関連している。太陽光のエネルギーは熱帯でも最大で1kW/m2であり、大気による反射、雲、エネルギー変換率などを考えると、太陽光発電として使えるのは最大でもそのうちの数パーセントだろう。そのエネルギー利用には限界がある。また、近年古い太陽光発電パネルの寿命が問題視され始めている。風力発電も故障や老朽化が始まっている。持続可能な脱化石燃料化とは、非化石エネルギーで生活・産業エネルギーと次世代の非化石エネルギー生産装置の製造エネルギーの両方を賄っていかなければならない。日本の化石燃料以外によるエネルギー供給量は全体の4分の1強でしかない(2021年)。我々は残された化石燃料をどう使うのであろうか?
もし化石燃料を使い続けるだけだと、例えば100年後に石油が枯渇するとすると、その時は(石油使用の少なった)100年前の世界に、200年後に石炭が枯渇するとすると、(石炭使用が少なかった)200年前の世界に戻るのかもしれない(これらの数値に根拠はない。使い方によってはもっと早いかもしれない)。それらはそれほど遠い未来ではない。ただし、世界で残った化石燃料争奪の最終戦争が起こらなければの話である。100年前、200年前とは違って、エネルギーが食料生産などを通して大勢の人間の命と直接関連していることも忘れてはならないと思う。
参照文献
[1]桑田学-2020-思想史の中の気候変動, 現代思想, 3,青土社
[2]Ruskin, The Storm-Cloud of the Nineteenth Centry
[3]The Works of John Ruskin Vol. 34. xxxvi
[4]環境省、大気汚染の歴史, https://www.env.go.jp/earth/coop/coop/document/apctm_j/02-apctmj1-02.pdf
[5]William Stanley Javons, The Coal Question. An Inquery Concerning the Progress of the Nation, and the Probable Exhaustion of Our Coal-Mines. 1865, (second edition, 1866). London: Macmillan and Co.
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