2021年8月28日土曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(3) 

3. 噴煙の大気への影響 

3.1 ヘイズ(ドライフォッグ)や火山ガスによる大気汚染


ヘイズと硫黄性ガスの発現時期

ラキ火山噴火の噴煙は、割れ目の南と南東にあるアイスランドの農村地帯に対してヘイズ、降雨、酸性雨をもたらし、太陽の色を真っ赤にし、気温を低下させた。そして噴火した6月8日からおよそ2週間以内に北ヨーロッパの大部分で細かい灰の降下と、二酸化硫黄の火山ガスが変化したエアロゾルによる煙霧をもたらした。当時のヨーロッパの人々が驚いたこの持続的で広範囲に広がる硫酸エアロゾルによる煙霧は、「(グレート)ドライフォッグ(乾いた霧)」などと呼ばれた。ここではこれ以降ヘイズという呼称を用いるが、この現象は他にも「煙った太陽(スウェーデン)」、「上空の煙(ドイツ)」、「煙霧(アイスランド)」 [4]、「黄色や硫黄色の霧やヘイズ」と呼ばれたりすることもあった [7]。

火山灰の降灰は、まず噴火2日後の6月10日にイギリス北方のフェロー諸島とノルウェー北部で観測された [4]。6月14日頃から20日頃までにはスコットランド東部で大気中に浮遊する細かな火山灰が観測された [7]。スコットランド東部では、その後6月24日頃から火山灰ではないヘイズが観測された [7]。

ヨーロッパでは濃い持続的なヘイズが観測される前に、薄いヘイズが観測された。それは遅くとも6月13日にはロンドン近郊に、6月14日にはフランス東部のディジョンに、6月16日にはローマに現れた [8]。最初の濃いヘイズ(ドライフォッグ)は、6月16日にドイツ中部とチェコスロバキア西部で発生した。これを記録したのは、1780年に気象学会(パラティナ気象学会)による世界で最初の本格的な気象観測網を構築したヨハネス・ヘンメルである。彼は本書の「3-3-5 気象を専門とする学会による気象観測網」で述べたように、本職は司祭であったが気象学者、物理学者でもあり、気象学の農業への適用に興味を持っていた。6月17日には大規模な濃いヘイズがスイスとドイツのバイエルンに到達し、北東にはポーランドに出現した。 6月18日にはフランス全土とイタリア北部および中央部、6月19日にはイングランドとスコットランドに到達した。これらは当時の多くの書物に記録されている [8]。

この発生時期の地域による違いは、その時の気象状況の違いによって起こったようである。後述するように、この時期にヨーロッパで発達した高気圧内の下降流が上部対流圏か下部成層圏に滞留していた硫酸エアロゾル(ヘイズ)を地上に輸送して各地でヘイズを発生させたと考えられている [5]。この濃いヘイズは6月22、24、25日にオスロ、ストックホルム、モスクワに、6月23日にブダペスト、6月30日にシリア、7月1日にバグダッドと中国西部のアルタイ山脈に到達した [8]。

6月中旬以降、局地的な風の変化の結果として、ヘイズは西のアメリカに向かってもゆっくりと移動した。当時フランスにいたベンジャミン・フランクリンは、カナダ東北部のラブラドルの住人の日記やハドソン湾会社からの出版物を調査し、1984年5月以降に北アメリカの大部分でヘイズ(ドライフォッグ)が発生したという報告をしばしば引用している [9]。またアフリカ北西部のアゾレス諸島より北の大西洋やニューファンドランドでも目的された記録がある [10]。またヘイズはアルタイ山脈を越えて中国河南省にも到達し、正確な日時は不明だが煙霧で何度も空が曇ったという記録が残っている [10]。このように、ラキ火山噴火によるエアロゾルはおよそ35N°以北の地球の大半を覆ったようである。

ヘイズの光学的特徴

太陽や星の明るさと色の記録は、ヘイズの光学的厚さ(濃さ)に関する情報となる。アイスランドでは、1783年の夏には、太陽が正午でも光線がなく青みがかった白に見えたり、時にはおかしな「赤い球」のように見えたりした [8]。当時のヨーロッパの書物では、太陽は正午でもほとんど見えず、その後直接肉眼で見ることができるほどの光量になったと述べている [11]。7月4日にはパリでは熱いヘイズが大気を覆い隠し、太陽は冬季に霧が時々作り出すような鈍い赤い色となった。 霧はパリだけではなく、ローマやスペインからやってきた人たちも同様に濃くて暑かったと認めている [11]。ベンジャミン・フランクリンも、凸レンズで光を焦点に集めても、茶色の紙を燃やすことがほとんどできないほど太陽の光が弱かったと述べている [9]。

輸送のメカニズム

ヨーロッパ各地で目撃されたヘイズがラキ火山の噴火によるものであることを示すには、

  • アイスランドからヨーロッパへ輸送されるメカニズム
  • 高層ではなく低層(大気境界層内)にヘイズが存在するメカニズム
  • その濃度が十分に高かったこと(つまり拡散されていない)

を示す必要がある。

夏季にヨーロッパの広域でヘイズが観測されたメカニズムの一つの可能性としては次が考えられている。1783年の夏はヨーロッパで高気圧が発達したことが気圧の観測記録として残っている。ラキ火山噴火による火山ガスは上空の西風に乗ってヨーロッパ上空に到達し、輸送途中で生成された硫酸エアロゾルの一部はこの高気圧内の沈降する気流によって地表に向かって輸送された。 エアロゾルはヨーロッパ上空の高気圧内で渦巻き状に下降して、高度約1 kmの大気境界層上端に蓄積した。大気境界層内とその上の自由対流圏は一般的には容易には混合しない。しかし、日々の地表面の加熱と冷却によって駆動される空気の垂直混合によって、エアロゾルが大気境界層内へと輸送されていった可能性がある [4]。 これが、6月21日以降にヨーロッパ各地の広範囲にわたって地上で観測されたヘイズのメカニズムとして考えられている。 

ヨーロッパにヘイズをもたらしたメカニズム

3.2 人体や生物への影響

火山ガス

ヨーロッパ北西部でのヘイズによる青みがかったまたは赤みがかった色合いガスは、地上で硫黄臭、苦味、目と喉への不快感、2 km程度の視程の低下、植物や銅の表面での酸化による損傷を引き起こした。また、当時始められていた湿度計の測定により、非常に乾燥していることが示された。 当時既にヘイズは部分的に硫酸や硫黄のガスからなっていることが認識されていた [8]。

最初の3回の噴火エピソード(6月8~14日)では、ジェット気流の高度に十分な二酸化硫黄が流入し、そこで約60 Mtの硫酸エアロゾルが生成された [4]。これは、10 km以上の高度で積分すると、35°N以上の北半球全体の平均で約60 ppbの濃度に相当する。

ちなみに現在の日本の環境基本法による二酸化硫黄の健康基準は、1時間平均値で100 ppbを超えず、かつその1日平均値が40 ppbを超えないこととなっている。当時の記録によると、数か月間の長期にわたって地上の二酸化硫黄濃度は1000 μgm-3(350 ppb)を超えたかもしれないと推定されている [5]。また各地で記録された二酸化硫黄臭は、およそ500 ppbから1500 ppbに相当するといわれている [6]。これは明らかに呼吸器疾患、循環器系疾患に影響を与えて死亡率を上げた可能性が高い。また後述する1783年夏の高温(熱波)も人々の健康状態に影響を与えたと思われる。

エアロゾルなど

アイスランド南東部は、火山の爆発の際に「ペレーの毛」と呼ばれるマグマの一部が吹き飛ばされ空中で急速冷却し髪の毛のようになった細かい灰で覆われた。これは肺の奥にまで入る可能性があり、噴火の開始後8日から14日以内に大勢の人々が亡くなった [4]。

ラキ火山の噴火によって放出された二酸化硫黄は、その酸化によって大気中でかなりの量の硫酸エアロゾルに転化したと考えられている。その場合、細かいエアロゾル粒子(いわゆるPM2.5)の生成が主体となる [6]。これは肺の奥まで届くので、大きなエアロゾル粒子(PM10)より人体に有害とされている。

この二酸化硫黄のガスと硫酸エアロゾルを含んだヘイズは、人々に衰弱、息切れ、心臓の動悸を引き起こした。人を不快にさせただけで無く、眼の痛みや呼吸器系の問題を引き起こした [2]。フランスの記録に残っている症状は近年の大気汚染の症状と酷似しており、二酸化硫黄の濃度が人体に有害な濃度を超えたと思われている [5]。オランダでは、ヘイズが非常にはっきりとした硫酸臭をもたらし、6月23日から25日まで特に顕著だった。 同時に、多くの人が厄介な頭痛、呼吸困難、喘息発作を引き起こした [4]。ドイツのライン川下流ではシーツに硫黄臭が染み付いて取れなかったため、大勢の住民が家を離れたという記録もある [2]。

当時の死亡者数のきちんとした統計は少ないが、フランスの教区毎に記録された埋葬数でみると、前年の1782年の月埋葬数と比べて1783年8月から10月の埋葬数は、多い月は2倍程度となっている。一部イギリスを含めた総教区数で見ると、1783年8月から10月の月平均埋葬数は前年平均の1.38倍、1783年8月から1784年5月まで見ると1.25倍となっており、その増加数はフランスだけで16000人を超えると推測されている [5]。また、その影響のためか、1784年のその後の月平均埋葬数が1782年の月平均値より下がっていることも特徴となっている。これは弱者から死亡したとみることが出来るかもしれない。イギリスでも1783年8月から9月と翌年1月と2月に死者数が増加した。その増加は約3万人とされている [6]。

また火山ガスで有毒なのは二酸化硫黄だけではない。この噴火では7 Mtの塩素ガス、15 Mtのフッ素ガスが放出されたとみられている [5]。アイスランドでは噴火によって草類が火山性のフッ素に汚染されたため、家畜の牛の53%、羊の80%、馬の77%が死んだ。この結果家畜により生活している住人にも影響が出て、アイスランド住民の19~22%、約1万人が死亡したとされている [2]。そのため、アイスランドでは1783年から1784年にかけては「霧飢饉(famine of the mist)」と呼ばれている。

酸性雨

放出された二酸化硫黄は雨に溶けて酸性雨を引き起こした。降雨中の酸性度は、エゾノギシギシの葉を焦がし、動物や人間の皮膚に火傷を負わせるほどだった [4]。オランダでは6月25日の朝には、土地は荒廃して植物の緑は消え、葉はどこでも乾燥したようになり、葉の色は緑色から茶色、灰色、黒色へと変わった [11]。イギリスのノーフォークと南部のセルボーンでは、トウモロコシが枯れ、小麦の穂が黄色に変わり、霜で焦げたようになった [4]。同じくイギリス南部では、7月30日にエムズ川の木々の緑が一夜にして枯れてしまった。フランスのパドカレーでは一部でトウモロコシが枯れてしまった 。ノルウェー中部のトロンハイムでは、酸性雨のため木々の葉は一部焦げたようになり、ヘイズに触れた草はほとんど真っ黒になるほどだった [2]。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland,SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P.J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the european palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.


2021年8月22日日曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(2)

 2 ラキ火山噴火の特徴

2.1 一般的な火山噴火の大気への影響

2010年にアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル氷河の火山が噴火し、欧州を中心に世界中で航空機の運用がストップして、航空機を用いた旅客輸送に大きな影響を与えたことを覚えておられる方も多いのではなかろうか。しかし、これは火山噴火が引き起こす大気への影響のごく一部に過ぎない。

火山噴火の中で、最も長期にわたる影響が考えられるのが、気候への影響である。ちなみに、どんなに大規模な噴火でも噴火で噴煙が成層圏に入らなければ、それによる大気への影響はせいぜい数週間か1~2か月である。噴煙から放出された対流圏中の灰やエアロゾルは重力沈降で大気中から除去され、火山ガスも雲や雨や他の沈着過程で除去される。

しかし、二酸化硫黄などの火山ガスがいったん成層圏に入ると、そこで硫酸エアロゾルなどへ変質し、数年にわたって滞在する場合がある。そうなると成層圏の硫酸塩エアロゾルは、地表への太陽放射を反射や散乱して、地上へ到達する日射量を減らして気候へ影響を及ぼす。そのため、噴火によるさまざまな短期的な影響は別として、長期にわたる気候への影響が起こるかどうかは、火山ガスを含む噴煙がどの程度成層圏に入ったかが一つの目安となる。

火山噴火による気候への影響として、1991年のフィリピンのピナトゥボ火山噴火がある。それによる気候変化は冷害による平成のコメ騒動を引き起こし [1]、日本の食卓に大きな影響を与えたことを覚えておられる方も多かろう。

2.2 噴火の状況

ラキ火山の噴火は、1873年5月中旬にアイスランドのグリムスヴォトン火山による比較的穏やかな噴火活動から始まった。そのグリムスヴォトン火山の一部であるラキ火山の大噴火は1783年6月8日に始まった。これは27 kmという長さを持つ割れ目からの大噴火だった [2]。ヨーロッパではその直後から異常な大気状態が起こっていたが、当時は情報網が確立しているわけではなく、ヨーロッパ中心部から外れたアイスランドでのこの噴火の発生が、初めてヨーロッパに伝えられたのは9月1日になってからだった [2]。

ラキ火山と割れ目の一部(提供:Wikipedia)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lakagigar_Iceland_2004-07-01.jpg?uselang=ja

ラキ火山の溶岩は流動性が強く、それほど圧力を貯めないので噴火による爆発の威力はそれほど大きくなかったようである。この火山噴火による噴煙の到達高度は最大でも15 km程度と考えられている [3]。これから放出された噴煙は、多くの火山噴火がそうであるように大量の灰、塵、およびエアロゾルを生成する火山ガス(特に二酸化硫黄)を含んだ。

熱帯であれば、噴煙の高度がこの程度の火山噴火で世界規模の気候変動を起こすことは少ない。しかし、このラキ火山の噴火が世界的な気候変動を引き起こした原因は2つ考えられる。一つはラキ火山が北緯65°付近と高緯度に位置していたことである。熱帯では高度18 km程度の圏界面(成層圏と対流圏の境界)は、この緯度だと高度10 km以下であり、噴煙に含まれる二酸化硫黄などのガスが容易に成層圏下部まで達したと考えられる。もう一つの原因は、この噴火が1784年2月まで長期にわたって大量の火山ガスを放出し続けたことである。

この噴火は、14.7 km3(4 Gt)の玄武岩質の溶岩流を放出し、その広がりは580 km2に及んだ [2]。これは東京都23区の面積よりやや狭い位の広さである。ちなみに1991年のピナトゥボ火山の噴火による噴出物量は10 km3程度と考えられている。また、ラキ火山噴火による落下した火山灰の体積は0.4 km3(110 Mt)と考えられており、これは1980年のセントヘレンズ山の爆発的噴火による量の2倍である [4]。

そして、6月から8月にかけてのラキ火山の噴煙柱の各地からの観測で得られた当時の推定では、噴煙の高さは9 kmを超えていたことが示されている [4]。その結果、ラキ火山の噴煙は成層圏下部に達するとともにジェット気流の高度にまで到達し、蛇行する北ヨーロッパ上空の風に乗って各地に拡散したと考えられている。しかし、噴煙は成層圏の中・上部までは達しなかったと考えられている。

2.3 放出された火山ガスの状況

ラキ火山噴火において、大きな噴火は一度だけでなく何度か起こった。最初10日間で起こった3回の大規模噴火で 40 Mt、次の3回の噴火で33  Mtの二酸化硫黄が放出されたと考えられている [5]。これらを含む初期の合計で10回にわたって起こった噴火によって98.5 Mt [4]または122 Mt [5]の二酸化硫黄、7 Mtの塩酸と15 Mtのフッ化水素 [6]が噴火で放出された。

初期の噴火の一部は高度13 kmを超えたと推定されているが、噴煙柱の観測によって最初の3か月間の噴火の大部分は9~13 kmの高度に到達した [4] [5]。アイスランド付近の圏界面は高度8~9 kmなので、噴煙の大部分は成層圏下部へ入ったと考えられている。この二酸化硫黄のガスは同時に放出された大量の水蒸気によって、成層圏で180 Mtの硫酸エアロゾルに転化したと考えられている [5]。このエアロゾルが、後述するように1783年6月から7月にかけて、気象状況に応じてヨーロッパ各地の地上でヘイズをもたらしたと考えられている。

噴火の威力がそれほど強くなく、火山ガスと火山灰の噴出物の注入は高度9~13kmと対流圏上部と成層圏下部に限定されたため、成層圏中のエアロゾル滞留時間の推定はおそらく1年未満だろうと推定されている。しかしその間に、継続的な噴火による二酸化硫黄の供給によって、25~30 Mtという大量のエアロゾルが成層圏下部で存在しつづけたと考えられている [4]。これは1991年に噴火したフィリピンのピナトゥボ火山の噴火による二酸化硫黄の放出量に匹敵する。ただしピナトゥボ火山噴火の場合は亜熱帯域であったために噴煙で生成されたエアロゾルは全球へと広がったが、ラキ火山噴火の場合はほとんど北半球に留まって、その分濃度が高くなったと考えられている [4]。

一方で噴火によるものだけではなく、ラキ火山から流れ出した溶岩からの脱ガスによって、25 Mtの二酸化硫黄が8か月間にわたって徐々に放出された。それらも1783年6月から10月にかけて北半球に広範囲のヘイズを引き起こしたと考えられている[4]。しかし、このガスは境界層内に直接放出されたので、高い乾性沈着率とレインアウト(雲中の除去)のために二酸化硫黄ガスとそれから生成されたエアロゾルの大気中の滞留時間は短かったと思われる。

ラキ火山の噴火の噴煙の移動イメージ図

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史, 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.

2021年8月20日金曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(1)

1. はじめに

これまでこの「気象学と気象予報の発達史」ブログでは「ムンクの「叫び」とクラカタウ火山」で、火山噴火が絵画に与えた影響と「成層圏準二年振動の発見(1) クラカトア東風とベルソン西風」で火山噴火が成層圏の循環を解明するきっかけとなったことを述べた。これらに限らず大規模な火山噴火が広域の大気に影響を及ぼすことは多い。

1783年にアイスランドで起こったラキ火山噴火はこの千年間に起こった最も注目に値する火山噴火の1つである。その理由は、噴火によって1783年のヨーロッパの広域での持続的なドライフォッグと呼ばれる煙霧(ヘイズ)が起こり、下部成層圏に大量に注入された噴煙によると思われる翌年の冬の厳冬が起こったと考えられているためである。そしてヨーロッパではその気候変動によると思われる死者数の大幅な増加も起こった。そのため1783年は畏怖の年「Year of Awe」とも称されている。

アイスランドのラキ火山の位置

この火山噴火は、1815年のタンボラ火山噴火や1991年のピナトゥボ火山噴火のような短期間の噴火と異なり、大きな噴火が7か月間にわたって続いた。そのため、ラキ火山噴火は大規模火山噴火の長期にわたる人間への影響という観点から、現在においても貴重な事例となっている。そのためイギリスでは、2012年の「市民の緊急事態のためのイギリス国家リスク目録(UK National Risk Register for Civil Emergencies)」の中で、可能性のある最も危険性のあるリスクの中の一つにこのラキ火山タイプの噴火が登録されている。また、この噴火はエアロゾルによる地球温暖化の緩和という観点からも近年になってその研究が再び注目を集めている。

1783年は特異な年で、この噴火以外にもイタリア南部での大地震、アイスランド南西沖での海底火山噴火、流星の頻発、疫病の蔓延など自然の事象や災害などそれまでにない事象が多発し、人々に深刻な不安や影響を与えた。この噴火による気象や気候の変動も当時のヨーロッパの人々に強い印象を与え、この様子は各地の気象観測記録、出版物、科学論文、雑誌記事、日記に記録された。ヨーロッパではちょうど測定器による気象観測が始まっており、観測の質にはばらつきがあるものの、気温への影響に関する定量的な議論を可能にした。

またこの噴火は、大気汚染や異常気象による人間への直接的な健康被害だけでなく、飼料・農作物への被害を通してアイスランドでは飢饉の原因にもなった。この噴火後の1973年から1784年の冬に起こった厳冬を受けて、ベンジャミン・フランクリンは火山噴火による気候への影響とその予知、つまり季節予報についての初めての科学的考察を行ったことでも知られている。火山国日本でも大規模な火山噴火はいつでもどこでも起こりえる。そのためラキ火山噴火によって、当時ヨーロッパを中心とする世界各国で何が起こっていたのかを知っておくことは、日本でも何かの役に立つかもしれない。なお、同じ年に起こった日本の浅間山の噴火と気候への関係についても最後に述べる。

(つづく)


2021年7月17日土曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(4)

 4. 気象予測の作戦への利用

天候は西から変わることが多い。日本はアメリカから見てアリューシャン列島よりさらに西に位置している。また日本軍は北方や西方に位置しているソビエト連邦の気象観測所からの気象暗号電報を解読していた [6, p53]。気象予測という観点では西方の気象データを利用できる日本軍の方が有利であり、アメリカ軍は日本軍がその利点を活かした戦術をとっていると思っていた [9, p19]。キスカ島撤収作戦においては、日本軍は霧が継続することを予測して撤収を成功させた。しかし、それは最後になって霧に特化した例外的かつ集中的な研究を行ったからだと思われる。「アリューシャンでの戦い」でも述べているように、アッツ島、キスカ島への輸送が天候の変化によるさまざまな影響によってたびたび失敗していることから、きめ細かな気象予測が作戦に活用されていたとは言いがたい。

気象予測を作戦に利用しようとすると、少なくとも日頃から気象観測結果を利用した分析を蓄積して、当該方面の気象的特徴を把握する必要がある。気象予測を十分に活用できなかったのは、当時の気象部隊が用いていた気象学のレベルの問題と、それを利用する運用側の意識の問題があったと思われる。当時最新のベルゲン学派(ノルウェー学派)気象学による前線解析は、風向風速の変化や天候の急変をある程度予測できた(ベルゲン学派より前の天気図に前線はない)。そのため、その発祥の地の緯度に近いアリューシャンでそれを活用していれば気象の予測精度がもう少し向上していた可能性がある。そうすれば、キスカ島より東に位置するアメリカ軍基地での天候回復のわずかな時差を利用した輸送などのきめの細かい作戦が行えたかもしれない。

アリューシャン付近の天気の例。2021年7月9日の天気図(上)と気象衛星赤外画像(下)
北太平洋のアッツ島とキスカ島の間に前線がある。気象衛星画像からは前線に沿って雲が連なり、千島から西部アリューシャン列島付近の海上では、薄い灰色から霧が出ていることがわかる。前線はベーリング海でTボーンと呼ばれる形を採っているようである(「前線のその後」参照)。
出典:気象庁ホームページ。
天気図(https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/)
気象衛星画像(https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=ir&contents=himawari)


第五艦隊気象長竹永一雄少尉は、実はベルゲン学派の気象学を研究していた。ノルウェー出身のスベール・ペターセンというベルゲン学派気象学の新進気鋭の研究者が1940年に書いた「気象解析と予報(Weather analysis and forecasting)」という気象学の教科書を読んで前線解析を会得していた。彼は1943年2月に第五艦隊に赴任すると、それを用いた天気図を描いたが敵性天気図と叱責されてしまう。ところが、彼が乗った軽巡洋艦「多摩」は千島で時化に遭い、その時の天候の急変は竹永少尉が描いた天気図通りとなった。これを契機に彼はペターセンの本の解説書を作って海軍内に配布した [6, p14-25]。

なお、本書「9-2-4ベルゲンへの留学生」では、第五艦隊の気象長を前川利正少尉としたが、竹永一雄少尉の誤りである。前川氏は竹永氏と同様に中央気象台技術官養成所出身であるが、戦時中は樺太庁気象台や前橋測候所に勤務し、海軍に所属したことはない。

スベール・ペターセン
https://en.wikipedia.org/wiki/Sverre_Petterssen#/media/File:Sverre_Petterssen.png

ベルゲン学派気象学を用いた体系的な気象の研究がなされていれば、気象予測をもっと作戦に用いることが出来たかもしれない。ただし、この解析が当てはまるのは中高緯度なので、熱帯や亜熱帯の中部太平洋では利用できなかった。日本の中央気象台(気象庁の前身)が前線を用いたベルゲン学派気象学を利用し始めたのは戦後だったが、本書「9-6ロスビーの業績」で述べたように、アメリカ気象局でベルゲン学派気象学を導入したのは1930年代後半からだった。

ペターセンは、アメリカのマサチューセッツ工科大学の気象学科でロスビーの後継として教鞭を執っていたが、ドイツのノルウェー侵攻以降イギリス気象局へ移って、さまざまな作戦の予報に参加した。「10-1-1戦争中の予報」で述べたように、ノルマンディ上陸作戦での気象予報にも参加した。そこでは上陸日を延期させて、一つ間違えば荒天で破綻していたかもしれない上陸作戦を、見事に成功に導いたことに貢献したことでも知られている。

(このシリーズおわり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988.
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943.  Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018.
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943.  Drake University, 1983.


2021年7月11日日曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(3)

3. 第二期第二次キスカ島撤収作戦

3.1 第一次撤収作戦失敗の後

第五艦隊による撤収作戦の中止に、聯合艦隊司令部は強い不満を抱いた。そして督戦の意味をこめて7月20日に第五艦隊司令部に参謀副長小林謙五少将を派遣した [1, p627]。また、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた第五艦隊司令部も、第一水雷戦隊の慎重な行動を非難した [1, p628]。一方で、第一水雷戦隊では駆逐艦を多数失えば今後の戦局に重大な影響があるため自分たちの慎重な行動を当然と思っており、第五艦隊司令部による非難を心外と捉えていた [1, p630-631]。

第五艦隊と第一水雷戦隊では立場、考え方に違いがあり、そのため次回は第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で第一水雷戦隊に同行して、第五艦隊司令部が現場で突入の判断を行うことになった [1, p631]。なお突入の判断の後、「多摩」はキスカ島へ突入せずに幌筵へ戻ることになっていた。また特設巡洋艦「粟田丸」は撤収艦隊から外された。

軽巡洋艦「多摩」。北海用の迷彩塗装をしている。1942年撮影
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次の霧はなかなか発生しそうになかった。通常ならば北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が、この年は北緯42度付近にあったため霧が出にくかった [6, p65]。8月になれば霧の出現は期待できないと考えられていた。また重油も幌筵には艦隊行動でキスカ島までの往復1回分しか残されていなかった。竹永気象長は霧が出にくい原因まで叱責され、ノイローゼ気味となった。

1943年7月23日の天気図。太平洋高気圧が例年より北の三陸沖に偏っている。
原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」


3.2 第二次撤収作戦の発動

7月22日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵付近は霧となった。この低気圧が東進してベーリング海に入ると、プラス2セオリーから25日頃に南風によって霧がアリューシャン列島に発生することが期待された。7月26日のキスカ島突入を予定して第二期第二次撤収作戦が開始された。巡洋艦3隻、駆逐艦11隻と補給艦からなる艦隊は、22日夜に幌筵を出港した。

7月23日~24日

第一水雷戦隊では26日の予報を曇り時々霧で見通しは良いと考え、突入日の27日への延期を第五艦隊司令部に具申した。しかし第五艦隊司令部はこれを認めず、26日の突入を変えなかった [1, p633]。

ところが、この低気圧は予想より速く進み、24日にはキスカ島を通過してしまい、その後キスカ島付近は晴れてしまった。一方で艦隊付近は連日の濃霧で隊形が混乱し、7月24日にた補給隊の油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が隊列からはぐれてしまった。このため「多摩」の第五艦隊司令部は突入日の27日への延期を認めた [1, p633]。

この日の1500時に「木曽」は仮装備した陸軍の野戦高射砲の試射を霧の中で行ったところ、たまたまこの音を聞きつけた「日本丸」と合同することが出来た [1, p634]。作戦の途中で「日本丸」から重油の補給ができなければ、艦隊は作戦を継続できないところだった。しかし、補給隊のもう1隻である「国後」はまだ行方不明のままだった。

軽巡洋艦「木曽」1942年アリューシャン方面で撮影されたもの。
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7月25日

この日敵潜水艦のレーダーを艦隊のすぐ近くに逆探知したため韜晦行動を行った。この韜晦行動により、キスカ島への突入日は28日もしくは29日に変更された [1, p634]。第一水雷戦隊では東北沖にある低気圧が北東進すれば、29日以降にキスカ島付近の天候が悪くなると予想した [1, p635]。

この25日から突入日までの韜晦行動に関して、第五艦隊司令部と第一水雷戦隊では考え方に違いがあった。第一水雷戦隊ではいったん南下して敵潜水艦から離れ、突入日に間に合うように北上すれば良いと考えていた。しかし第五艦隊司令部の指示は、突入の即応体制を取るためその付近で待機(往復運動)するというものだった。第一水雷戦隊は敵潜水艦に接近したままの指示に釈然としなかったが、これに従った [1, p636]。

7月26日

早朝に水雷戦隊は突入日を29日に決定して、第五十一根拠地隊から了承を得た [1, p636]。艦隊付近は引き続き濃霧のため、はぐれた「国後」以外は単縦陣で航行していた。ところが1744時に「国後」が霧の中から突如艦隊付近に現れ、軽巡洋艦「阿武隈」の右舷中部に衝突した。このため隊形が混乱し、駆逐艦「初霜」は駆逐艦「若葉」と「長波」に接触した [1, p636]。「若葉」と「初霜」は最高速度が12ノットに低下したため、「若葉」は自力で幌筵へ回航、「初霜」は「国後」の護衛に回ることとなった [1, p64]。「若葉」に座乗していた第二十一駆逐隊司令は、「島風」に移乗した。

一方で、キスカ島付近では20日以降24日を除いて連日晴天が続いており、敵機や敵艦隊の活動が活発だった。キスカ島の第五十一根拠地隊は霧の季節が終わったのではないかと危惧したが、これを逃すと二度と撤収機会の見込みは無く、キスカ島への突入を要望した [1, p640]。

海防艦「国後」。アッツ島旭湾(マッサカル湾)にて
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_escort_ship_Kunashiri_1942.jpg

7月27日

この日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵は霧となった。これに基づいて、7月27日0600時に第一水雷戦隊ではプラス2セオリーからキスカ島付近の29日の天候を霧と判断した。しかし、第五艦隊司令部では薄霧で敵機の飛行は可能と判断した [1, p640]。なお後述するように、この日の夜にアメリカ艦隊はキスカ島南方海域においてレーダーで探知した幻の目標に夕方から砲撃を加えていた。

7月28日

キスカ島では昨日オホーツク海で発生した低気圧が近づいてきて、予想通り早朝から霧となった。第一水雷戦隊では29日の天候を「西の風で曇りときどき霧」と判断した。第五艦隊では「南西の風、曇りで淡霧だが敵機の飛行は困難」と予測した。しかし、軽巡洋艦「多摩」の第五艦隊司令部は突入するかどうかで迷った [1, p642]。第一次撤収作戦では第一水雷戦隊の行動を批判した第五艦隊司令部だったが、現場で当事者になってみると机上で考えていたようには行かなかった。迷った司令長官河瀬四郎中将は、座乗していた「多摩」艦長で積極果敢な神重徳大佐に意見を求めたところ、ぐずぐずしていたら突入の時期を失するという意見に押されて突入を決断した [1, p642]。

1600時には艦隊はキスカ島へとコースを向けた。なお、幸運なことにこの日1010時から30分間だけ霧が晴れて天測により艦隊の位置を確認するとともに艦隊の隊形を整えることが出来ていた。夜になると霧は一層深くなっていった。

3.3 キスカ島での撤収

7月29日は、キスカ島では霧のため視程は1500 m程度と突入には絶好の天候となった。0700時に第五艦隊司令部が乗った軽巡洋艦「多摩」は、予定通り第一水雷戦隊から別れて幌筵に向かった。キスカ島の北側を時計周りに回っていた艦隊は、近くの岩礁などを避ける必要があったが、霧に閉ざされて正確な位置が不明だった。11時半頃に一瞬霧が晴れてキスカ富士を視認でき、これで艦隊の正確な位置を確認できた。キスカ島の東に回り込むとキスカ島から発信されるビーコンにより一挙に突入することが出来た [7, p404] 。

当日、キスカ島では朝から電探が敵機を上空に捕え、9時頃までに2回対空戦闘があった。ところが1000時頃から霧が深くなったためか敵機は戻っていった。同じく午前中にはキスカ島付近を哨戒する敵駆逐艦の音も聴音されていたが、同様に戻って行ったようだった [7, p358]。第一水雷戦隊では、入港直前の1150時にキスカ島から敵艦船の聴音の報告があり、また駆逐艦「島風」も高感度の目標を探知したため、会敵を予期していたところ、1300時に艦影を発見したため「阿武隈」が咄嗟に魚雷攻撃を行った。しかし、艦影に見えたものはキスカ島付近の小島だった [1, p644]。

第一水雷戦隊は1340時に無事キスカ湾に入った [1, p644]。キスカ島周辺は深い霧に包まれていたが、湾内の視界は良好だった。撤収作業は島内に残っていた大発と艦隊が搭載してきた大発を使って順調に行われた。全将兵は1時間以内に船に収容された。

1430時頃には撤収を終わり、艦隊は出港した。ところが1627時に「阿武隈」が距離わずか約2 kmでアメリカ軍の浮上潜水艦を発見してこれを回避した。艦隊は発見されたと思われたが、アメリカ艦隊と誤認したのか潜水艦から無線は発信されなかった [1, p646]。これは、アメリカ軍の巡洋艦に似せるために軽巡洋艦の煙突1本を白く塗った効果だったかも知れない。また、北方部隊では7月29日に艦隊が大湊に在泊しているような偽電を発信していた [3, p320]。

艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして5186名が無事にキスカ島から撤収され「ケ」号作戦は成功した。この作戦の間幌筵の重巡洋艦「那智」で気象予測を行った竹永気象長は、それまでとは打って変わってみんなから感謝された。古賀連合鑑隊司令長官は、31日に慰労電を発信した。8月2日には大元帥である天皇陛下から撤収作戦に関して御嘉賞のお言葉を賜った [2, p492]。

3.4 キスカ島沖での幻の海戦

キスカ島からの撤収作戦の成功には、アメリカ艦隊の行動が大きく関係していた。哨戒していたカタリナ飛行艇は、7月24日にアッツ島南西150 kmに7隻の船をレーダーで感知した [8, p91]。北太平洋軍はこれを日本軍の増援と判断し、阻止するためにキスカ島の南西でキスカ島を封鎖していた駆逐艦2隻を含めて、艦隊をキスカ島南西の該当海域に向かわせた。7月27日の深夜、この艦隊の戦艦「ミシシッピー」、「アイダホ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「ポートランド」がキスカ島の南西150 km海域でレーダーの反応を認めた [9, p93]。艦隊は直ちに、この目標に22 kmまで接近して約30分間にわたって砲火を浴びせた。ただし星弾(照明弾)を用いてもその目標を視認できなかった。夜が明けた28日に偵察機を飛ばしたが、いかなる残骸や漂流物も認められなかった [9, p93]。


戦艦「ミシシッピー」。1943年3月ハワイにて
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艦隊のレーダー担当士官は、後にそのレーダーの反応が異常な大気状態による約180 km離れたアムチトカ島からの電波反射が原因だったかも知れないと示唆している [8, p91]。この戦いはピップスの戦い(The Battle of the Pips)とも呼ばれている。

このアメリカ艦隊の幻との戦いによって、日本艦隊がキスカ島からの撤収を行っていた29日頃、アメリカ艦隊はキスカ島付近には駆逐艦1隻だけを残して、キスカ島の南東200 kmの地点で消耗した砲弾や燃料の補給をしていた [2, p88]。これによって、この時だけアメリカ軍の封鎖網に隙が生じて、日本艦隊にキスカ島との航路が開けていた。もちろんアメリカ軍では、この一瞬の隙を突いて日本軍が撤収したことに全く気付かなかった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988. 
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943.  Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018. 
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943.  Drake University, 1983.