2019年7月28日日曜日

「気象学はこうして生まれ発展してきた」

月刊「望星」(東海教育研究所)は8月号で「天気は悪くありませんー気象予報の2000年」という特集を組んだ。私は編集部から取材を受けて、その内容はその特集の中で「気象学はこうして生まれ発展してきた」というタイトルの記事になった。

記事の中身は特集の中の「天気予報ことはじめ」とあわせて「気象学と気象予報の発達史」の概要を知るには格好の内容となっている。(一部は立ち読みコーナー参照)。「望星」編集部には感謝を申し上げたい。

また、この特集には他にも田家 康氏が「そのとき、天気は動いた?」という題でやはり記事を出されている。同氏は人類と気候との関係に多数の著書を出されている専門家で、人間と気候との関係に興味深い記事を書かれている。また他にも天気と病の関係などの記事もあるので、興味のある方には参考になると思う。

 (次は「気候学の歴史(1) 気候(気象)観測の始まり」)


2019年7月13日土曜日

雪の観察 (Observation of snow crystals)

雪の結晶(snow crystals)は美しいものが多いが、6角形(hexagon)になっているものが多い。そのことに最初に気づいたのは中国の前漢の詩人韓嬰(Han Ying, ~BC200-BC130)とされている。彼が紀元前135年に書いた詩集「韓詩外傳(Han Shi Wai Chuan)」には雪の花には6つの花弁があることが記されている [1]。しかしながら西洋においては、少なくとも記録に残っている限りでは雪が6角形であることに気付くのは遅かった。ドイツのケルンの神学者アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, 1193-1280)は、1260年頃に雪片について星形の記述を残し、スウェーデンの聖職者であったオラウス・マグヌス(Olaus Magnus, 1490-1557)は、1555年に6方の雪のスケッチを残した [1]。

西洋の文献において雪の結晶が6角形であることを初めて主張したのは、1611年にヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)が書いた「6角形の雪片について(Strena Seu de Nive Sexangula)」とされている。彼はその観察の際にレンズを使った拡大鏡を使ったようである[1]。また、1665年にはロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)が「顕微鏡図譜(Micrographia)」において六方晶系の雪の結晶を精密に描いて、軸から分岐した小枝はすべて隣の軸と平行していることを発見した(彼については「ロバート・フックと気象観測 」を参照)。1681年にはイタリアの数学者ドナト・ロセッティ(Donato Rossetti, 1633-1686)が初めて雪を5種類に分類した [2]。

日本においては室町時代後期の公卿である三条西 実隆(Sanjonishi Sanetaka, 1455-1537)が肉眼で観察した雪の結晶を記録して六花と表現した[3]。また江戸時代の蘭学者で浮世絵師でもある司馬江漢(Shiba Koukan, 1747-1818)は顕微鏡を使って絵を描いたが、その中に雪の結晶もある。さらに江戸後期にヨーロッパの訳書から雪の結晶に興味を持った大名がいた。それは私の本の3-6-3「ヘンリー・ピディントン」で紹介した古河藩主土井利位(Doi Toshitsura, 1789-1848)で、天保8年(1837年)に「大塩平八郎の乱」を鎮定したことでも知られている。彼はオランダの教育者ヨハネス・マルチネット(Johannes Florentius Martinet, 1729-1795)が書いた「格致問答(Katechismus de Natuu)」という子供向けの教科書に書かれた雪の結晶図を、通訳である猪俣昌之の訳で知った。それを参考にして自ら雪の結晶を顕微鏡で20年間観察して描いたものを、天保3年(1832年)に「雪華図説(Sekka Zusetsu)」、天保11年(1840年)には「続・雪華図説(Zoku-Sekka Zusetsu)」として刊行した [4]。


浮世絵の着物の柄に使われた
雪花模様

これは私家版として刊行されたためあまり知られなかったが、後に雪国の生活を描いて有名になった「北越雪譜」にその一部が取り入れられたため、広く知られるようになった。「雪華図説」に描かれた雪の模様は、土井家の着物や調度品の模様として使われただけでなく、描かれた雪の模様の美しさは当時の一般の人々の関心を引き、当時の着物や櫛の柄や千代紙の模様などに幅広く使われた。この雪の模様は、歌川国貞や歌川豊国などの浮世絵の中で女性の着物の柄などにも使われている。


セシリア・グレーシャーによる
雪の結晶のスケッチ
イギリスの有名な気象学者グレーシャーの夫人であるセシリア・グレーシャー(Cecilia Glaisher, 1828-1892)も、夫と協力して1855年に151種の雪の結晶を精巧にスケッチして「On the Severe Weather at the beginning of the year 1855: and on Snow and Snow Crystals(1855年初期の顕著気象について:また雪と雪の結晶について)」に発表したことで知られている。このスケッチの素晴らしさは、北海道大学理学部教授で雪の研究の権威だった中谷宇吉郎(Nakaya Ukichiro, 1900-1962)が、著書「雪」の中で触れている。


雪の観察には19世紀末から顕微鏡写真の技術が使われるようになった。雪の結晶に魅せられたアメリカの農夫ウィルソン・アルウィン・ベントレー(Wilson Alwyn Bentley, 1865-1931)はパーキンスとともに「雪の結晶の研究(A Study of Snow Crysitals)」で雪の写真を初めて広く紹介した[1]。彼は生涯に6000種類もの雪の結晶の顕微鏡写真を撮り、その一部は1931年にアメリカ気象学会から「雪の結晶(snow crystals)」という題で出版され、世界的に有名となった。
ベントレーが撮影した雪の結晶
(From A Study of Snow Crysitals)

ナカヤ・ダイアグラム

前述した中谷宇吉郎は、雪の研究で世界的に知られている。彼はベントレーの研究に啓発されて雪の研究を開始し、世界で初めて実験室で人工的な雪を作り出した。またさまざまな実験から、降ってきた雪の結晶の形からその結晶が成長した大気状態が推定できることを発見した。この大気状態と雪の結晶の関係を示した図はナカヤ・ダイアグラム(Nakaya Diagram)として知られている。雪の結晶から上空の大気状態を推定できることから、彼は有名な言葉「雪は天から送られた手紙である」を残した。しかし、この言葉は中谷自身も触れているように、1611年のケプラーによる「雪片は、天国から降りてきて、星のように見える」と述べた研究を踏まえたものである。

(次は「気象学はこうして生まれ発展してきた」

参照文献

[1] Nakamura and Cartwright-2016-De nive sexangula - a history of ice and snow - part 1., Weather, 71, 291-294.
[2] 中谷宇吉郎. 雪. 青空文庫. (オンライン) (引用日: 2018年1月18日.) http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/52468_49669.html.
[3]Nakamura and Cartwright-2017-Cultural history of the snow crystal, a history of ice and snow - part 3, Weather, 72, 272-275.
[4]. 雪の華-『雪華図説』と雪の文様の世界. 古河歴史博物館. 1995年.

2019年6月26日水曜日

気象観測と時刻体系 (Meteorological observation network and time system)

今では時刻は生活とは切っても切れない重要な役割を果たしているが、産業や物流が発達する前は、その精度は今ほど重要ではなかった。正午とは文字通り太陽がその土地での子午線を通過する時刻だったので、正午は経度によって異なっていた(地方時)。時刻は教会や寺の鐘、あるいは大砲などで知らせており、ほとんどの人にとってはその聞こえる範囲が同じ時刻を共有している範囲と言えた。

人や物の移動速度が遅い時代には、それぞれの地域が地方時を使っていてもそれでほとんど問題は起きなかった。しかし、19世紀半ばからのヨーロッパやアメリカでの鉄道網の発達は、地方時の問題に焦点を当てることとなった。当時はほとんど単線であり、列車は予め
決まった時刻に決まった地点で脇線に待避してすれ違う必要があった。それぞれの列車が出発地点の地方時を用いると、単線上で衝突する恐れがあった。鉄道網の拡大にともなって事故が多発するようになると、これが大きな問題となった。各鉄道会社は線路に発明されたばかりの電信線を引いて、独自の統一した標準時刻体系を整備して衝突を回避するようになった。

一方で、瞬時に情報を伝達する電信の普及も各地の時刻の違いをクローズアップするようになった。電信を使った電報によって起こるようになった問題の一つは、広域で行われる気象観測の時刻だった。19世紀半ばまでの気象観測は気候を目的としており、気候は主に日射によって駆動されることを考えると、気候のための観測時刻はむしろ太陽高度角同期(つまり地方時)の一定時刻の方が都合が良かった。ところが警報のために各地の気象観測の結果が電報で収集されるようになると、それに基づいた天気図の作成は同時刻の観測である必要があった。そうでないと例えば同じ低気圧が天気図上であちこちに現れることとなる。そのため、気象観測(地上実況気象通報)は共通の時刻を用いて各観測所で一斉に行う必要があった。


この問題に最初に取り組んだのはアメリカだった。本の「6-2-5 アッベによるアメリカでの国家気象機関の設立」で書いたように、アメリカの国家気象局であった陸軍信号部の気象学者クリーブランド・アッベ(Cleveland Abbe, 1838-1916)は、全米各地の気象観測所の観測時刻を統一することを考えた。しかし、彼は気象観測網内の時刻の調整ではなく、この際にアメリカ国内の時刻体系を整備しようと考えた。彼は鉄道会社や電信会社の協力を得て報告書を出し、1883年にはアメリカの総合時刻会議が開催されて、子午線を基準に1時間の時差を定義する全米の時刻体系が決定された。


さらに1884年にワシントンで国際子午線会議(International Meridian Conference)が開催され、イギリスのグリニッジ子午線を標準時とする1時間単位の時刻体系を全世界で採用することが決まった(世界標準時)。この時のアメリカ代表は陸軍信号部のアッベだった。これで全世界の時刻が子午線に基づいておおむね1時間単位で揃うこととなった。気象観測は世界の時刻体系の決定に大きな役割を果たした。ただし、肝心の気象観測は、アメリカ以外では20世紀に入ってもなかなか世界標準時に統一されなかったようである。

気象観測時刻の同期の問題は日本でも起こった。本の「7-3-3警報のための諸準備」の所で述べたように、1883年に日本で電報による気象観測の収集が始まると、それまで地方時で行われてきた各地の測候所の観測時刻を統一する必要が出てきた。日本で気象観測体制を作って暴風警報を開始したドイツ人エルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping, 1844-1922)は、統一した観測時刻に京都時を採用した。これは京都は経度的に見て日本の中央に近く、また江戸時代まで天皇が住んでいて日本人に馴染みがあったためのようである。


当時の気象観測は内務省が行っており、国際子午線会議に基づいて1886年に日本標準時の基準を明石市を通る東経135度に選んだのは、内務省の気象観測が京都時を採用していたことも一因となったようである。時刻制度は国の根幹となるインフラストラクチャーの一つである。気象観測は日本の時刻制度の構築にも影響を与えた。

 (次は「雪の観察」)

2019年5月29日水曜日

ヨーロッパでの竜巻研究についての補記 (Supplement for tornado studies in Europe )

20世紀初めの有名な気象学者ウェーゲナー(Alfred Wegener, 1880-1930)のヨーロッパの竜巻に関する調査に光を当てた論文[Antonescu et al., 2019]が出たので、それをもとにヨーロッパでの竜巻研究について補足しておきたい。気象学者ウェーゲナーについては、ケッペンについて2で述べたが、改めて紹介する。

彼はドイツの気象学者で北極圏の探検者でもあり(グリーンランドの探検中に遭難して亡くなった)、むしろ近年は大陸移動説(continental drift)を最初に唱えた人物として有名である。彼の専門は幅広く、その研究分野は気象学、地質学、地球物理学、古気候学、流星学にまで及ぶ。気象学もその中で雲物理、熱力学、大気成分の鉛直分布、大気光学の論文がある。さらに彼の竜巻に関する本(Wind- und Wasserhosen in Europa, ヨーロッパにおける竜巻)がこの論文[Antonescu et al., 2019]で紹介されている。

ウェーゲナーは、1906年からのデンマークによる北極探検隊に高層気象観測者として参加した。その際にグリーンランドのビスマルク岬(Cape Bismarck)から竜巻(watersprout)の集団発生を目撃して竜巻に興味を持ったようでである。ウェーゲナーはヨーロッパ各地の竜巻報告を収集して分析することにより、竜巻の気候学と一般的な性質の解明を行った。そして1917年に彼は上記の本を出版した。私は「気象学と気象予報の発達史」(以下、私の本)の中で、「ヨーロッパでは発達した低気圧による被害はあっても、ハリケーンや竜巻に直接襲われることは少ない。」と書いたが、不正確であったようである。ウェーゲナーは本の中で、ヨーロッパで毎年少なくとも100個の竜巻発生を推定している([Antonescu et al., 2016]によると2000-2014年のヨーロッパでの竜巻発生は平均すると毎年242個だそうである)。ヨーロッパの竜巻は決して少ないとはいえない。ここで訂正しておく。

ヨーロッパでの竜巻に関する最初の詳細な研究は、フランスの物理学者ペルチェ(Jean Peltier, 1785-1845)による。彼は異なる金属を接合して電流を流すと、接合点で熱の吸収・放出が起こる「ペルチェ効果」の発見者として知られており、この効果を使った機器は現在いろいろな所で使われている。ペルチェは1456年から1839年までの竜巻の報告を集めて研究し、1840年にこれを電気現象と結論した[Antonescu et al., 2019]。私の本の6-1-6 「アメリカ暴風雨論争」で述べたように、この頃、アメリカではペンシルベニア大学の化学の教授であるヘア(Robert Hare, 1781-1858)は、嵐の原因を電荷に対抗する電流が引き起こす現象と主張しており、大気現象に電気が関わっているという説は、特殊なものではなかった。

ちなみにペルチェが15世紀からの古い竜巻の記録を収集できたのは、私の本の2-2-3 「印刷技術などの発達とその影響」で書いたグーテンベルクによる活版印刷技術の発明(1445年頃)が関係していると思われる。読みやすい活字による本の大量印刷は、各地での知識の集積と保存を可能にし、図書館などを通した知識へのアクセスを劇的に改善することで、科学などの発達に大きく貢献した。ペルチエの研究の後、ドイツの数学者ライエ(Theodor Reye, 1838-1919)は、1872年に地表加熱が竜巻の原因と唱えたが、ウェーゲナーは、ペルチェとライエの説を否定し、竜巻はガストフロントの渦の一部(vortex filaments)であると主張した。

ウェーゲナーは第一次世界大戦に従軍しており、最初は歩兵として2度負傷した。1916年からは彼は気象士官となって西部戦線近くの軍の気象観測所で従軍した。戦況によって場所を移動しながらではあったが、気象観測所では落ち着いて調査と執筆が行えたようである。彼は上記の竜巻に関する本を1917年に出版した。

私の本の9-2-1 「ノルウェーの危機とビヤクネス」で書いたように、ノルウェーの気象学者ヴィルヘルム・ビヤクネス(Vilhelm Bjerknes, 1862-1951)は戦時の物資不足と多くの部下の戦死によりドイツでの天気予報の理論研究を断念し、ノルウェーに戻ってからは祖国の食糧危機を救うべく実践的な天気予報を開始した。9-3-2 「戦場下での数値計算」では、イギリスの気象学者リチャードソン(Lewis Fry Richardson, 1881-1953)は、やはり西部戦線で救急車を運転しながら、気象予測の数値計算を行ったことを書いた。リチャードソンは砲撃下の運転で戦後にストレス障害に悩まされた上に、イギリス気象局が軍の管轄に入ると、毒ガスへの利用を恐れて自身の気象研究を全て破棄した上で気象局を辞めた。戦争は当時の気象学者たちにも大きな影響を与えたのである。

なお、ケッペンについて2 で書いたように、ウェーゲナーは1925年にオーストリアのグラーツ大学の地球物理学と気象学の教授となったが、1930年に3度目のグリーンランド探検の途中で遭難し消息不明となったままである。

(次は「気象観測と時刻体系」)

参照文献

  • Antonescu et al.-2019-100 YEARS LATER Reflecting on Alfred Wegener’s Contributions to Tornado Research in Europe, BAMS, DOI:10.1175/BAMS-D-17-0316.1
  • Antonescu et al.-2016-Tornadoes in Europe: Synthesis of the observational datasets. Mon. Wea. Rev., 144, 2445.2480, https://doi.org/10.1175/MWR-D-15-0298.1.


2019年4月9日火曜日

ウィリアム・ダインス(5)高層気象学への貢献 (William Dines 5: Contribution to aerology)

19世紀半ばまで、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) で述べたように、ジェームス・グレーシャーなどイギリスが高層気象観測を先導していた。19世紀末には、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)で見てきたように、ドーバー海峡を隔てたヨーロッパ大陸でも高層気象観測が盛んに行われるようになった。ところがウィリアム・ダインス(2)で述べたように、1879年のイギリスのテイ鉄道橋の大惨事によって、イギリス気象学は、その努力をそれまでの高層気象学ではなく、風力・風速の正確な測定努力へと向かわせた。そのため、19世紀末にはイギリスが主導する高層気象観測はほとんど行われなくなった。

その状況を変えたのが、ダインスだった。彼は19世紀末から20世紀初めのフランスやドイツの高層気象観測を見て、イギリスでも行うように当時のイギリス気象局長官ショー(Napia Shaw)に提案した。彼は1902年から凧を用いた高層気象観測を蒸気船などを用いて行うようになった。1906年からは自宅を人口密度の高いロンドン南西部のオクスショット(Oxshott)からロンドン西方のパートン(Pyrton)に移して、そこで観測を行った。さらに気球観測を行うようになるとパートンでは手狭になり、1913年には高層気象観測のために自宅を数キロメートル南西のベンソン(Benson)に移した。

ダインスのメテオログラフ
彼は得意の製図技術を用いて、自ら箱形の凧などの機器の開発や改善を行った。特に彼が開発した自記記録器は安価(欧州製の1/20)で(Cave, 1928)、小型軽量(60g)であり(Pike, 2005)、高頻度の高層気象観測に大きく貢献した。

それらの高層気象観測による結果から、低気圧域では対流圏内で低温であるが圏界面が低く、成層圏内では逆に高温となっていることなどがわかった。これは今日ではダインス補償(The Dines compensation)と呼ばれることがある。ところがこの結果から、本の8-2-5「異なる気流の接触という考え方の復活」で述べるように成層圏の暖気が地上の低気圧の動きを決定しているという考えが出てきた。これによってショーなどは、研究していた後の前線という考えにつながる気流の衝突という概念を断念したようである。このような紆余曲折は科学にはつきものである。

ウィリアム・ダインスは、1901~1902年に王立気象学会(Royal Meteorological Society)の会長を務めた。1905年には王立協会のメンバーに選ばれ、1914年にはサイモン金メダルを授与された。1905年から1922年までイギリス気象局の高層観測部門の責任者(Director of Experiments on the Upper Air for the Meteorological Office)を務めた。

ただし、彼は気象局から報酬を受けずに、活動は全てボランティアだった(Cave, 1928)。彼は最後のアマチュア気象学者の一人とも言われている。アマチュアというのは、彼の研究内容を指しているのではなく、気象学の研究を報酬をもらう職業として行った人ではなかったという意味である。彼は傑出した気象学者であった。

(このシリーズ終わり。次はヨーロッパでの竜巻研究についての補記
 

 参照文献

  • Cave-1928-MR. W. H. DINES, F.R.S., Nature, 121, 3037, 65-66
  • Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927),Weather, 60, 308-315.