2019年3月6日水曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(10) 成層圏存在の認知

テスラン・ド・ボールとアスマンの発表によって、上空で気温の下降が止まることが研究者たちに明確に意識され始めた。テスラン・ド・ボールとそれを支持するアスマンの結果は、1902年5月20日のベルリンでの第3回「科学航空国際委員会(the International Committee for Scientific Aeronautics)」の会合で発表された(Rotch, 1902)。この会合にはドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリア、スペイン、イギリスから約100名の航空学の専門家も参加していた。

この観測結果は驚きを持って急速に科学界に広がった。テスラン・ド・ボールの報告は、アメリカ気象局の気象学者アッベ(Cleveland Abbe)によって英語に翻訳されたものが同年のMonthly Weather Review誌に、オーストリアの気象学者ハン(Julius von Hann)によってドイツ語に翻訳されたものがMeteorologische Zeitschrift誌に直ちに発表された。同誌にはアスマンの報告も掲載された(Hoinka, 1997)。

おそらく、テスラン・ド・ボールの報告がアスマンの発表よりわずかに早かったことと、アスマンがテスラン・ド・ボールの結果を自分の結果の支持に使ったことから、成層圏の発見をテスラン・ド・ボールの功績に帰している著作物が多いようである。しかし、テスラン・ド・ボールとアスマンの二人の功績と記しているもの少なくなく(Hoinka, 1997)、国の威信をかけた思惑もあってか成層圏の発見者に関する記述は統一されていないようである。

成層圏の発見は、突然起こったことではない。当時有人や無人の気球観測が各地で行われて、その結果気球の構造や搭載測定器の改善が次々に行われることによって、困難な高層気象観測が安定して可能になっていった。当時の高層気象観測の問題として、測定器の安定した回収(発見は住民に依存した)、日射や放射の気温観測への影響、下層空気の持ち上げ、測定器感部の換気(応答の遅延)、記録器の凍結、着地状況によっての測定器や記録の破損などがあり、安定した正確な観測は容易ではなかった。

安定した観測を阻む上記のような要因があったため、高層での等温層はたびたび観測されていたものの、当初それらの結果は観測の誤りと考えられた。高層での等温層の発見を主張するためには、高層気象観測での誤観測を除いた安定した観測結果という質だけでなく、量によってその発見を確実に示す必要があった。

そういう面から見ると、テスラン・ド・ボールには最初の発表者というだけでなく、236回という注意深い多数の観測頻度にも発見の優位性があったと思われる。ただ彼の1902年の発表は、明瞭ではあるが文章による簡単な報告だけで、今日から見るときちんとデータを記載した3日後のアスマンの発表の方が説得力があるように思われる。テスラン・ド・ボールの功績には、その後の世界各地での精力的な観測や活動も大きく影響しているかもしれない。

さらに、ヘルケゼルの功績も評価する必要がある。彼はストラスブルクで自ら高層気象観測を行うだけでなく、科学航空国際委員会の委員長を務めて、国際的な確執-特にドイツとフランス-を緩和・仲裁した。そして、多数地点で一斉に観測を行う「国際高層気象観測日」を制定して、組織的な観測網としての高層気象観測を推進した。また、関係者を集めた会合を多数開催して、各地での観測の状況や結果などを集めるとともに報告書として後世に残した。


ロッチ
またアメリカの気象学者ロッチも1884年という早い時期にブルーヒル観測所を設立して、凧を用いた定常的な観測を行っていた。彼はテスラン・ド・ボールとアスマンの両者とも親しく、その経験から二人に対して高層気象観測に関する助言を行った。また彼はヨーロッパの高層気象観測結果や会合の内容を直ちに英語に翻訳して、アメリカの高層気象観測の発達にも大きく貢献した(Hoinka, 1997)。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1902-The international aeronautical congress, Science, Vol. 16, No. 399, 296-301.


2019年3月4日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(9) ドイツのアスマンによる発見


「リヒャルト・アスマン(その2)」で述べたように、ドイツの気象学者アスマンは1900年ころにはドイツのゴム会社と共同で薄くて軽くよく伸びるゴム製気球を開発した。しかし、ゴムの性能のためか当初は高度15~16 kmで破裂して、それ以上の高度にはなかなか上がれなかった。それでも定積気球よりは高度10 km以上まで安定して観測できた。後年には改良されて高度30 km程度までは、上昇できるようになった。
アスマンによる観測結果(Assmann, 1902)
に基づいて作成したグラフ

アスマンは1901年の4月から11月まで、ベルリンでゴム製の探測気球を用いて6回の高層気象観測を行い、それらは高度12~17 kmまで達した。そして1902年5月1日にベルリンの科学アカデミーの会合において、高度10 km以上で大気減率が急速にゆっくりとなって等温層に達するかむしろ昇温が起こっており、高度10 kmから12 kmより高い高度で暖かい大気の流れがあることは疑いようがないことを示した(Assmann,1902)。また、その際には彼はテスラン・ド・ボールがパリで500回以上の観測を行っていることを示し、アスマンはテスラン・ド・ボールの観測も同じような結果を示していることを付け加えた(Assmann,1902)。

なお、アスマンのベルリンでの発表はテスラン・ド・ボールのパリでの報告の3日後だった。アスマンとテスラン・ド・ボールは、それぞれ発表を行うにあたって相互に事前に情報を交換していたとも言われるが、はっきりとはわからない。

アスマンは、ベルリンの科学アカデミーの会合において「高層に暖かい大気の流れがある」と主張した。これは高層で気温が上昇する逆転層を、彼が静的なものではなく動的な大気の流れとして捉えていたためである。「テスラン・ド・ボール」のところで述べたように、1896年から1897年に行われたICYの観測結果では否定されたものの、当時赤道域で暖められて上昇した大気が、
高層で低緯度から高緯度に向けて定常的に流れているとまだ広く考えられていた。彼が「暖かい大気の流れ」と表現したのは、このような赤道域からの暖かい大気が、観測された高層での逆転層と関連している可能性を考えていたためである(Assmann,1902)。

つづく

参照文献
  • Assmann-1902-Über die Existenz eines wärmeren Luftstromes in der Höhe von 10 bis 15 km, Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss, Berlin 24, 495-504.Thomas Birner, 2014の英訳による)

2019年3月2日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(8) テスラン・ド・ボールによる発見

テスラン・ド・ボールの略歴については「テスラン・ド・ボール」に示したとおりである。彼は無人気球で高層気象観測を行っていたが、1898年4月の夜間観測で初めて高度10 kmで昇温する層を観測した。同年6月8日早朝の観測でも高度11.8 km以上で-59°Cの等温層を観測した。しかし彼は温度が下がらないという測定結果を疑って、科学アカデミーへの報告では高度13 kmで-71°Cに気温を下げる補正を行った(Ohring, 1964)。

彼は1899年1月8日の夜間の観測でも上層で等温層を観測した。彼は測定器カバーからの放射を疑い、温度計をカバーの外に移した。それでも結果は変わらずやはり等温層を観測した(Hoinka, 1997)。彼は同時に複数個の気球を上げて、確認のための比較観測を行ったりもした(Encyclopedia.com, 2008)。

テスラン・ド・ボールの紙製の気球は安価で観測頻度を稼ぐことができた。それにまだゴム製の気球がない時代に、彼の軽い紙製の気球は比較的高い高度まで達することができた。彼が1902年までにパリで行った観測では、236個が高度11 km以上に達し、そのうち74個が高度14 km以上に達した。ついに数多くの観測と注意深い確認により、彼は等温層を観測の誤りや一時的な現象ではなく、実在する定常的な現象であると考えた。

彼は1901年10月のベルリンでの飛行船協会の会合や1902年3月のフランス気象学会の会合でこのことに触れた上で、1902年4月28日パリの科学アカデミーの会合でこの等温層の発見を2ページの文書で報告した(フランス中央気象台長官マスカールが代読したことになっている)。彼は大気の状態によって、高度8 kmから12 kmの間で、温度勾配が極めて緩い等温層かむしろやや昇温する層の存在を明示的に示した。彼はこう記している。

「(1) 低い層からの高度の増加による温度の減少は、すでに調査された高度域では、平均すると乾燥大気の断熱的な変動とほぼ一致する。この減少は、人々が想像するように上昇するにつれてそのまま続くのではなく、最大を通り過ぎるとそれから急速に緩やかになり、平均すると高度11 kmでほぼ止まる。(2) 大気の状況によって様々な高度(8 kmから12 kmまで)から、温度減少が極めて遅い、あるいはわずかに増加する特徴を持つ高度が始まる。この領域の厚さを特定することはできないが、現在までの観測によれば、それは少なくとも数 kmに達するようである。これはこれまで無視された事実であり、きわめて真剣に受け取られるに値する。」(Teisserenc de Bort, 1902)

つづく

参照文献
  • Encyclopedia.com-2008- Teisserenc De Bort, L?on Philippe, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/teisserenc-de-bort-leon-philippe
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Teisserenc de Bort-1902- Variations de la temperature de l' air libre dans la zone comprise entre 8km et 13 km d'altitude. - Compt. Rend. Seances Acad. Sci. Paris 134, 987-989.(フランス語から英語への翻訳にGoogle翻訳を利用した)

2019年2月28日木曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(7) ヨーロッパでの組織的観測

ヘルケゼル
1896年に、国際気象機関(IMO)の中に「科学航空国際委員会(International Commission for Scientific Aeronautics)」が設置され、ドイツの気象学者ヘルケゼル(Hugo Hergesell)が委員長となった。高層気象観測に関する情報を共有・交換するこの委員会の存在とそれを先導するヘルケゼルの影響は大きかった。当時同じように気球による高層気象観測に挑んでいたパリのテスラン・ド・ボールとベルリンのアスマンの間には、フランスとドイツの国家の威信をかけた競争と誤解による確執があったようである。しかし、国際競争には組みしないという委員長のヘルケゼルの強い姿勢によって、高層気象観測に対する各国の協調姿勢が高まっていった(Hoinka, 1997)。

この国際委員会によって、いわゆる「国際高層気象観測日(International Aerological Days)」が設けられ、本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べたように、1896年11月13日の夜にその第1回が実施された。この中でストラスブルグ、サンクトペテルブルグ、パリ、ベルリンなどで同一の測定器を用いた探測気球による一斉観測が実施された。これが総観規模での高層気象観測の最初となった。この中でパリで放球された探測気球Aérophile」だけが高層での観測に成功した。上昇するにつれて順調に気温が下がり、高度12.7 kmで-54°Cを記録した。ところがさらに上った高度13.7 kmでは-52°Cに温度が上がり、降下時には再び高度11 kmで-59.8°Cに温度が下がった。この結果は国際委員会で議論を引き起こした。その結果、この記録は国際委員会によって日射などの影響を受けた値とされ、高度14 kmで観測した-53°Cは-68°Cのような形で修正された(Rochas, 2003)。

第2回目の国際的な一斉観測は1897年2月18日に行われ、やはりパリの「Aérophile」が最も高い高度10 km以上に上がったが、着地時に電柱にぶつかったため、高度10 km以上の記録は使えなくなった。第5回目の観測は1898年6月8日早朝に行われ、パリ、ブリュッセル、ベルリン、ワルシャワ、サンクトペテルブルグ、ストラスブルグ、ミュンヘン、ウィーンから有人気球13個、無人気球8個による大規模な一斉観測が行われた。これによって、初めてヨーロッパの高層気象の総観天気図を描くことができた。しかし、この観測では既に高層での気温の関心はそれほど高くなく、総観天気図の作成以外では、大気サンプルの採取による高度15 kmでの大気組成や太陽定数(日射量)の観測などが主な関心だった(Rotch, 1900)。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • J-P Pommereau-2003-OBSERVATION PLATFORMS, Balloons,1429-1438.
  • Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52.(Google翻訳を利用した)
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge, pp. 184.


2019年2月27日水曜日

時代と民族を超えて気象の解明に尽力した人々の記録

本書「気象学と気象予報の発達史」は日経サイエンス誌2019年4月号の書評に取り上げられました。上記の表題で、科学一般に興味を持っておられる方々に対する的確な書評を書いてくださった東京大学名誉教授の木村龍治先生には、心から御礼申し上げます。