2024年7月25日木曜日

電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

ヨゼフ・ヘンリー(1797~1878)は有名な電磁気学の大家である。ニューヨーク州立大学の教授であり、1820年頃から電磁石の原型をつくって実験を繰り返していた。1830年にファラデ-より先に電磁誘導現象を発見していたが、その発見の栄誉は1831年のファラデ-の発表に譲っている。しかし、1832年に彼は電磁石の自己誘導現象を発見し、彼の功績を称えて、電磁誘導係数(インダクタンス)の単位はH(ヘンリー)になっている。

              ヨゼフ・ヘンリーの肖像

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Joseph_Henry_(1879).jpg

彼は、1835年には電信機の発達に不可欠な電気信号の増幅器(リレー)を発明した。その後、画家モールスによる電信機の研究を技術的に支援した。ヘンリーによる支援がなければ、モールスによる電信機の実用化は不可能だったかもしれない。ヘンリーは、電磁気に関する多くの発明を行ったが、それらを一切特許化せず、他の人間がこれらを使って製品化することを大いに援助した。彼の電磁気学における功績を記した本は多い。

ところが、彼は気象学においても忘れることが出来ない大きな功績を残している。ワシントンにスミソニアン協会が設立されることになったとき、その理事長に、世界の著名な科学者であるフランスのアラゴ、イギリスのファラデー、デイビッド・ブルースターなどがヘンリーを推した。1846年にヘンリーは、米国スミソニアン協会の理事長となった。

実は、彼は稲妻を含む電気の性質と大気の謎にも大なる興味を持っていた。彼は、若い頃にニューヨーク州立大学で気象データのとりまとめに携わった経験があり、気象について優れた理解力も持っていた。そして当時の米国での気象学における暴風雨論争にも関心を抱いていた。

彼はスミソニアン協会の理事長になった際に次のように述べている[1]。

我々は新しく興味深い結果が必ず期待できる観測に、十分な科学的精度で我々の注意を向けることができる。北アメリカ大陸を覆う可能な限り広い観測システムを設立することを提案する。

スミソニアン協会は、気象学に関する二つのプログラムを立ち上げた。一つ目のプログラムは、観測者たちによる大陸規模の気象観測ネットワークの設立だった。この観測者たち(スミソニアン オブザーバーと呼ばれた)は、毎日気象観測を記録して毎月ワシントンのスミソニアン協会宛てに郵送した。

これには生物季節情報も含まれており、当時西へ西への拡大しつつあったアメリカ合衆国領土の地誌解明にも貢献した。

二つ目のプログラムとして、彼は1849年に米国国内の電報交換手たちからなる気象情報ネットワークを立ち上げた。彼は、電信による即時的な情報伝達における、気象学への意義を正確に理解していた。

電報交換手たちは現地の気象を電信を使って報告し、それはスミソニアン協会本部にリアルタイムで集められた。スミソニアン協会のロビーには、国内各地の現在の気象状況を表している大きな地図が展示された。これは、現在のナウキャストの原型ともいえる。

この展示物はスミソニアン協会来訪者たちの評判となった。ヘンリーはこの気象状況を見て、嵐になりそうな場合は自身の講演を中止したりしている。後にこの天気概況図はワシントンの新聞に掲載された。

ヨーロッパでは、パリ天文台のルヴェリエが、初めて電信を用いて各地の気象報告の発行を開始したのが1856年だった。それと比べると米国でのヘンリーの先進性がよくわかる。

しかし1861年から始まった南北戦争によって、電報交換手たちが出征したり、南北間の電線が切断されたりしたため、スミソニアン協会による気象ネットワークは、中断した。さらに1865年には、スミソニアン協会本部で壊滅的な火災が発生し、貴重な較正機材や記録が消失した。また、その凝った装飾の建物を修復するための費用によって、この気象プログラムの再建は困難になった。

スミソニアン協会本部の建物 

https://commons.wikimedia.org/wiki/Smithsonian_Institution_Building?uselang=ja#/media/File:Smithsonian_Institute,_New_York,_America._Coloured_steel_eng_Wellcome_V0014025.jpg

スミソニアン協会による気象ネットワークが再開されることはなかった。しばらくの中断の後、アメリカの気象ネットワークは、1871年に米国陸軍の通信部内で国営事業として新たに設立された。その事業を軌道に乗せたのは元シンシナティ天文台長だったクリーブランド・アッベだった。

このアッベの優れた指導の元で、米国の気象事業は大いに発展していく。しかし、その基礎を築いたのは、ヨゼフ・ヘンリーといえるかもしれない。

 参照文献

[1]Cox, J. D. (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

 

2024年7月6日土曜日

フェーン現象の解明

最近、異常高温になると、「フェーン現象により」などの解説がなされることがある。昔からフェーン現象という言葉は使われてきたが、最近は昔より聞く機会が多くなったようである。

フェーンの語源は、ギリシャ語のファヴォニウスとも言われており、意味は暖かい西風だった[1]。このように、フェーンはある種の風を指す言葉である。ドイツ南部などでは、ときおりアルプスから高温の乾燥した南風が吹き下ろすことがあり、この風は昔からフェーンと呼ばれていた。

本書の「8-1-3 フェーンの解明」で解説しているように、フェーンを有名にした事件は、1704年に起こった。1月28日にスイス軍が、ミュンヘンの約60 km南にあるベネディクトボイアーン修道院を攻撃しようとした。冬季であり修道院へ続く沼地は凍っており、進軍を容易にしていた。

ところが、スイス軍が進軍を開始した正午頃から、フェーンによる高温の南風が吹き始めた。沼の氷が急速に溶けてぬかるんで、兵士たちが足をとられるようになったため、スイス軍は修道院の攻撃を断念した。この修道院を守った高温のフェーンは、聖アナスタシアの祝祭日の前日に起こったため、「アナスタシアの奇跡」と呼ばれて知られることとなった。

19世紀後半まで、どうして高温で乾燥したフェーンが吹くのかは謎だった。フェーン現象の仕組みを解明したのは、オーストリアの有名な気象学者ユリウス・ハンである。彼は幼い頃から身近にフェーン現象を経験してよく知っていた。彼はグリーンランドで起こる似たような高温の風について、その付近に熱源がないことに注目した。このこととヨーロッパでのフェーン現象を熱力的に吟味して、彼は1866年に、フェーン現象は風がアルプスを吹き下ろす際に断熱圧縮されて高温になって乾燥したもの、と結論した。

また総観気象の調査から、アルプス南方に高気圧、ヨーロッパ北部に低気圧があってアルプス南斜面で雨が降っているような時にフェーンが起こることもわかった。これらの一貫した説明から、フェーンの原因は、アルプス南斜面で上昇した空気が降雨によって潜熱を放出して乾燥して暖められ、北斜面に到達して下降する際に断熱圧縮によりさらに気温が上昇するため、であることがわかった。この考え方は、当時確立され始めた熱力学の、気象学における有用性を示すものだった。

風によって山に沿って空気が上昇すると、断熱膨張によって冷却され、尾根を越えると下降して断熱圧縮によって加熱される。しかしこれでは、原理的には風下の気温は風上の気温と同じである。しかしながら、フェーン現象では、上昇時の断熱膨張によって水蒸気が凝結して雲や雨となって潜熱を放出するため、下降すると風下では風上より気温が上昇する。

雲を伴いながら山頂を越えてフェーンが吹き下ろすと、山の風下側では上空の雲が切れて青空になることがある。ヨーロッパでは、これを「フェーンの穴」と呼ぶことがある。また下降流となって雲が切れる山脈の尾根の上には、雲が断崖のように連なることがある。これを「フェーンの壁」と呼ぶことがある。地上に降りてきた風は反動で上空へ跳ね返ることがあり、そうすると上空で上下する波となって、高積雲と青空が交互に線状に現れることもある[1]。

フェーンの壁(スペイン、カナリア諸島のラ・パルマ島)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_Palma_-_El_Paso_-_Cumbre_Nueva%2BFoehn_(Mirador_Llano_del_Jable)_01_ies.jpg

冬季の暖かいフェーンは、雪解けを早めたりして農業に有用なこともあるが、乾燥しているので、大火をもたらすこともある。もちろん、夏季のフェーンによる異常高温は、熱中症などの多発をもたらす。

上述したように、フェーン現象による高温は、風上での潜熱放出が原因と考えられていたが、近年は変わってきている。低層の空気が山を越えるより、むしろ上層の空気が山に沿ってそのまま風下に吹き下ろす場合がある。上空の大気は、一般に温位が高いので、地上に降りてくると高温になる。これは風上での降水を伴わない。このタイプのフェーン現象が日本では8割を占めるという研究もある[2]。

(次は電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

参照文献

[1] 吉野正敏、風と人びと、東京大学出版会、1999.
[2] Kusaka et al., Japan's south foehn on the Toyama Plain: Dynamical or thermodynamical mechanisms?, International Journal of Climatology, 2021, https://doi.org/10.1002/joc.7133

2024年7月2日火曜日

雨が降るメカニズム

 雨が降るためには水蒸気が必要になる。そのため、最近は豪雨になると気象学の歴史から見た大気の川」で解説したような、水蒸気がどこそこから流れ込んでという解説がよくなされる。では、水蒸気の多さが豪雨の原因の全てかというと、事はそう簡単ではない。

歴史的に見ると、19世紀頃から雲粒の生成については凝結によることがわかっていた。しかし、雲粒同士の衝突だけでは、落下するほど大きな雨滴になるには相当な時間が必要となり、簡単には雨滴にならない。落下するほど大きな雨滴が、雲の中でどうやってできるのかは、1930年頃まで謎だった。

この謎を最初に解いた一人は、ノルウェーのベルゲン学派の気象学者、トル・ベルシェロンだった。彼は、幼い頃から雲のような気象要素の綿密で巧みな観察が得意だった。

ベルシェロンは保養のためによく訪れたオスロ近くの山腹で、1922 年にモミの森の散歩道を何度か歩いている間に、気温によって霧のパターンが異なることに気がついた。暖かかった時は、霧は散歩道の路面一帯に立ち込めていたのに、気温が氷点より十分に下がると、霧が晴れて路面がはっきり見えた。

彼はすぐにこの理由に対する仮説を思いついた。それは風上にあったモミの木の枝に付いていた霧氷が、-10℃程度の十分に低い気温下で水蒸気を吸収してしまったのではないかということだった。その結果、風下の散歩道では湿度が下がり、霧の液滴が蒸発して霧が晴れたのではないかというものだった。

ベルシェロンが考えた低温下で霧が晴れるメカニズムの模式図。
上が温かい場合、下が寒い場合

彼は、この考えを発展させて、雲の中で雨滴ができるメカニズムを考察した。それは水と氷の飽和蒸気圧の違いによって、十分に寒い高度にある雲では、雲粒から水蒸気が蒸発して氷晶核の方に付着する。こうやって氷晶核が十分に大きくなると落下し始める。これが暖かい大気層まで落下すると、溶けて雨滴となる、というものだった。

彼は、1933年のリスボンの国際測地学・地球物理学連合の会合でこの説を発表した。この氷晶核による雨滴の生成理論は、ベルシェロン過程(またはベルシェロン・フィンダイセンの説)とも呼ばれている[1]。この説はその後の飛行機による観測などによって確かめられ、中・高緯度の並雨以上の強さの雨の機構を説明するものとして広く受け入れられた。また人工降雨実験のための科学的な根拠となっている。

つまり、この説によると、雨が降るためには水蒸気だけではなく、雨滴の核となる氷晶核を作る固体の微粒子も必要となる。この微粒子には地表からのダスト、海からの海塩粒子、大気汚染(二酸化硫黄)からの硫酸粒子などがある。最近はこれらに加えて、微生物が生成する微粒子も関係しているのではないかとも言われている。

降雨のメカニズム(気象庁、数値予報解説資料、第4章、2012)
ベルシェロン過程は、主に中高緯度での右側の流れを解説している。雲氷は融解して左側に移って雨となる。下層が冷たければ、そのまま雪や霰として落下する。

(次は「フェーン現象の解明」)

参考文献

[1] J. D. Cox, (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

2024年5月9日木曜日

国際政治における気象観測網

インフラストラクチャとしての気象観測網

現在、気象観測は世界中で行われ、その結果はほぼ即時的に見ることが出来る。正午のニュースで午前中の最高気温や最低気温が報じられることもある。また大雨が降るとどこでどの程度の雨量があったかがすぐにわかる。世界で起こった異常気象も報じられることがある。もちろん、観測結果は天気予報(数値予報)にも用いられており、我々の生活基盤としてのインフラストラクチャの一部となっている。

これは当たり前のように見えるかもしれないが、実は画期的なことである。各地に気象測定器を置いただけでは、観測網にならない。それらは統一的な測定基準で運用され、同時に観測され、何らかの即時的な通信手段で結ばれなければならない。また測定器の故障の際の修理や維持管理のための定期的な保守も必要となる。気象観測は今では防災のための重要な情報となっており、気象台の職員は、気象台内で予報や観測を行っているだけでなく、アメダスなどの観測所を定期的に巡回して、測定器だけでなくその観測環境も含めて点検している(地震計の維持管理も行っている)。

しかし、本当にすごいのは、ここから先である。気象観測地点は世界各地に展開され、観測網を構築している。この世界中を結んだ気象観測網は、歴史的に見てグローバルなインフラストラクチャの最初の一つとなった。そのため、当初は種々の問題にぶつかり、それを一つ一つ解決して行った。そして、それはインターネットを初めとする現代の様々なグローバルなインフラストラクチャの構築にも貢献した[1]。加えて気象独自の問題として、統一されたグローバルな観測が必要という問題があった。

この共通の統一的な測定基準による同時(同期)観測は、今では世界中のほとんどの国々で行われている。世界中が統一された規範に基づいた同一の作業を一斉に(つまり決められた世界標準時に)行っている。世界中の観測結果は各国の気象機関で瞬時に共有されている。それは、アメリカやヨーロッパだけでなく、ロシアでも、ウクライナでも、北朝鮮でも、中国でも、アジアやアフリカの諸国でも同じである。

現代社会における国家間のさまざまな軋轢やいざこざを見れば、これは驚くべき事である。別な見方をすれば、17世紀のウェストファーリヤ条約以来、最高主権をもっているとされている国家をも、その規範に従えていることになる。 こんなことが出来ている分野は他にないだろう。

これは一夜にして出来上がった仕組みではない。100年以上かけて少しずつ関係者が努力を積み重ねていった結果である。なぜこうことが可能になっているのか、簡単に経緯を述べておきたい。

 気象観測網の発展

気象はただ1か所で観測しても、その意義は薄い。他の地点の観測値と比較することで、他の観測地点との違いやこの観測地点の特徴がわかる。いくつかの測定器の開発や実験的なものを除いて、組織的な気象観測網の構築は、17世紀から始まった。それはそのための測定器の開発も並行して行ったものだった。それには、イタリアの実験アカデミー、イギリスの王立協会が気象観測を行った、そして、パリだけではあったがフランスの王立科学アカデミーなども気象観測を行った。

しかし、当時は観測手法や結果の比較に関する科学的な概念は確立されておらず、測器較正や観測環境を含む観測手法が異なる、あるいはわからないため、現在データは残っていても、その結果を同一の観測網の中といえども正確に比較することは出来ない。また、気象観測は長期間の継続が重要であるが、1日に何度も観測することを毎日継続するための労力は大変なものだった。そのため、王立協会を除いて観測は長くは続かなかった。

観測手法の統一をおそらく初めて唱えたのは、王立協会のロバート・フックだった。彼は1663年に王立協会で行っていた気象観測に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案した。これは観測手法の統一のために画期的なものだったが、いくつかの要因により王立協会内でも徹底しなかったようである。

各国では、やがて自国の農業、経済、健康などに気象(気候)データが重要であることに気づいて、18世紀頃から、いくつかの地域で気象観測を行うようになった。その中で、測定器や観測手法を統一した本格的なものは、ドイツのマンハイムにあったパラティナ気象学会によるのものだった。この気象観測網では測定器やその較正方法、観測方法を統一した。それにヨーロッパ、地中海、アメリカ、ロシアなど37か所の観測所が参加し、気圧、気温、湿度、風向、雨量などを測定した。この測定結果は、後にフンボルトの気候図や、ブランデスによる初めての天気図の作成に用いられた。

当時、気象の観測結果は製本されて出版された。気候値として使うためには当然だったのだが、この結果を公開する伝統は今でも続いており、気象の観測結果は、世界中でほとんどがインターネットを通じて無料で公開されている。そしてそれには、衛星による観測や温室効果ガスやエアロゾルなどの環境関連物質の観測結果も同様に扱われることが多い。これもこの分野の特筆すべきことである。

気象観測の目的に大きな革新が起こったのは、電信の発明によってである。 それまで月単位で集計して郵便で運ばれていた各地の観測結果は、電信によって中央でリアルタイムに把握できるようになった。これによって嵐の来襲に対して港湾のなどの船に事前に警報が出せる可能性が出てきた。フランス、イギリス、オランダなどでは観測所を電信で結んで、警報体制を構築した。これが近代的な気象観測網の原型となった。警報と行っても予測理論があるわけではなく、天候や気圧、雨・風、気温変化などの経験則に基づいた、発想からすると現在のナウキャストに近いものだった。

ところが、各国が自国内で整備した気象観測結果だけでは警報を出すのに十分でないことがわかってきた。そのため、1873年に世界気象会議が開催され、その議題の一つが観測網の標準化だった。気象観測の調整のための国際気象機関(IMO)が設立されたが、データの共有は進んでも標準化はなかなか進まなかった。IMOを政府間機関とせず、各国が自国の観測手法を優先したためである。 他国のデータを用いようとすると、観測手法の調査やデータの変換に多大な手間がかかった。また各国の気象関係者も、国の政策的な制約を受けることを避け、科学的に独立した立場を優先した。第二次世界大戦まで、一部の関係者は標準化のための努力を行ったが、その進展はわずかずつだった。

国際政治と気象観測網

それが、進展し始めたのは、第二次世界大戦後に世界気象機関(WMO)が設立されたためである。 WMOは、国連の専門機関として政府間組織となった。つまり、決定事項は政府代表が集まって討議し、その結果には拘束力が付与された。

そして、コンピュータの発明と人工衛星の打ち上げによる数値予報と気象改変の可能性が、1961年のケネディ大統領による国連総会での各国の気象観測網をつなげた構想の演説を後押しした。これは各国から歓迎され、それを受けてWMOは「世界気象監視(World Weather Watch:WWW)」プログラムを設立した。この実施によって各国の気象観測網は一つにつながり、調整された規範に基づいた同一の作業による気象観測が実現された。

これには技術や社会制度の調整だけでなく、東西冷戦(衛星を利用した気象観測は宇宙からの軍事偵察を気象という平和利用で包んだ面があった)、長年の気象学の伝統と関係者の工夫・熱意が関係している。それが上記の世界中で統一された気象観測をもたらしている。

スタンフォード大学教授のエドワーズは、「気候変動社会の技術史」の本の中で、WMOなどの国連の組織自体が、各国政府の正統性に挑む権限を持っていたためにその主権を制限した、と述べている[1]。「世界気象監視」プログラムはまさに国家主権を超えたグローバルな通信インフラストラクチャという面を持っていた。さらに技術的にも後年のインターネットなどの先導役を務めた面があった。エドワーズは世界気象監視プログラムを現在のWorld Wide Webと対比させて、「最初のWWW」と呼んでいる。

(次は「雨が降るメカニズム」)

参照文献

[1]エドワーズ、(訳)堤 之智、2023:気候変動社会の技術史(日本評論社)

2024年3月31日日曜日

グローバルとは?

グローバルという言葉

グローバル経済やグローバル社会など、現代ではグローバルという言葉が使われることが多い。意味は概ね世界規模ということになる。しかし、我々がグローバルという言葉の真の意味を、突き詰めて考えているだろうか?

我々の日常生活で、グローバルであることを直接実感することは、あまりないと思う。もちろん、ニュースやインターネットはグローバルな情報を提供しているが、それは世界各地の点や一部の情報がほとんどで、グローバルとしてきちんと一つにまとめたものは少ない。ましてや身の回りのものでグローバルであることを感じることができるものは多くない。

われわれの帰属意識は、通常は身近なものから構築されていく。それは家族だったり、友人だったり、職場や団体だったり、ご近所だったりする。それが拡大していくと、住んでいる市町村や県、あるいは国となる。江戸時代までは出身の国を問うことは、ほぼ藩を指していた。それは、その後国家という概念に置き換わっていった。

それでも、現在一人一人が地球人というグローバルな帰属意識を持っているとは言いがたいと思っている。しかし、概念としてはグローバルという考えは広く共有されて使われているようである。特に地球温暖化のような気候変動問題では、この考えや意識が重要になる。ここでいうグローバルとは、何をあるいはどういう状態を指しているのだろうか?

       我々はグローバルというまとまった意識を持っているだろうか?

 気候の場合

例えば、地球温暖化で問題になっているグローバルな気候を考える。しかし、我々が住んでいるのはその地の気象なり気候であり、「グローバルな気候」に住んでいる人は一人もいない。つまり個人が実感や経験で「グローバルな気候」を理解することは出来ない。科学的に処理した情報を使って、グローバルな気候の議論が行われているのである。

しかも、現在地球温暖化で問題となっているのは、例えば気象庁ホームページによると、この30年間の世界平均気温で0.54℃の上昇である。ところが、我々は毎年季節によって30~40℃という気温の年較差(冬の最低気温と夏の最高気温の差)にさらされている。それにもかかわらず、我々は30年間で0.54℃という平均気温の上昇を議論し、それを懸念している。

では、我々はどうやってこの過去のグローバルな気温の上昇に関する情報を得ているのだろうか?これは、実はなかなか深い問題である。スタンフォード大学教授のエドワーズは、[1]において我々がグローバルな気候情報をどうやって知っているのかについて、根源的かつ詳しい説明を提供している。

グローバルな気象観測網

近代なって気象観測網が世界各地に張り巡らされて、それによって気象が観測されている。では、その過去の気温などの気象データを集めて合計して、地点数で割れば、過去を含めて平均気温が出るだろうか?残念ながらそれは正確なやり方ではない。

最初の問題として、気象観測網の観測所は世界各地に等間隔で設置されているわけではない上に、海上など観測の広い空白域もある。つまり、観測値の地域代表性が問題となる。これは気象予報にも影響するため、気象予報者は、長い年月をかけて客観解析、あるいは再解析という手法で、この問題を克服してきた(これについては、本書の10-5「数値予報の現業運用化」で解説している)。

しかも第2の問題として、長期間の観測の間に、厄介なことに観測環境の変化や観測所の改廃や移転、観測機器や観測基準の変更などが起こっていて、これらは気象観測結果を通して気候値に影響を与える(固有の偏差を含めて、実際の気候の変化ではないものを示すことがある)。また観測は正しくても、初期のうちはそれを伝える通信・通報の際にエラーや間違いが起こり、それをそのまま記録として残したこともあった。

気象観測は、長い間気象予報を目的とした観測所が多かった。第2の問題については、気象予報の場合は影響が小さいか、人間が見てデータを取捨することで解決できた。しかし、長期的な気候目的で観測結果を使おうとすると、第2の問題は大きな障害となる。

そのため、メタデータと呼ばれる観測環境や手法に関する過去のデータを掘り起こして、観測データの信頼性を確認して、場合によっては補正することが行われている。これをインフラストラクチャの遡及と呼んでいる[1](これは現在でも過去データについて行われている)。

世界平均気温については、この値を用いて、地域代表性を加味した加重平均を行って平均気温の算出が行われている。具体的な手法については、気象庁ホームページの世界の平均気温偏差の算出方法を見ていただきたい。

なお現在、多くのグローバルなインフラストラクチャが社会を支えているが、[1]は気象観測網が100年以上かけて、悪戦苦闘しながら世界的な規模で発展をしてきた結果、社会制度を含む技術史的な観点で、気象観測網がグローバルなインフラストラクチャの先駆けの一つとなったと述べている。

また、気温の長期トレンドにはまだ用いられていないが、近年ではもっと数理学的なコンピューターモデルを用いて、物理学的に一貫した手法(再解析)で過去を含めた全世界の気象の計算が行われている。

グローバルな統計とは

世界平均気温を例にとって話をしたが、例えばグローバルである世界平均気温は、過去100年以上にわたって、系統的なデータを用いて一貫した手法で算出されている(インフラストラクチャの遡及の余地はまだあるかもしれないが)。

現在「グローバル経済」などの言葉は普通に使われているが、それらが本当にグローバルになったのは、東西冷戦の終結以降である。それ以前にも、経済統計などはあったが、国が限られていたり、国ごとに算出方法が異なっていたり、包含分野が限られていたりしていた。

例えば過去の長期的なグローバル経済統計については、空白域がなく、メタデータを遡ることが出来て、長期にわたって真の意味で一貫したグローバルなものになっているのだろうか?かつて「100年に一度」と言われた経済危機は、本当にグローバルな統計上で100年に一度だったのだろうか?

比較的しっかりしたインフラストラクチャの上で観測された気象と気候のデータは、おそらくあらゆる物の中で、信頼できるグローバルな統計を長期にわたって行えるものの一つであるということが出来る。そして、それが地球温暖化などのグローバルな気候変動問題の基礎となっている。グローバルな気象観測網というインフラストラクチャは、現代では人類の存続のための重要な基盤になっているといえるかもしれない。

(次は「国際政治における気象観測網」)

参照文献

[1]エドワーズ、気候変動社会の技術史(原題:A Vast Machine、訳:堤 之智)、日本評論社、2024.