2025年4月16日水曜日

フィッツロイと天気予報(1)

    (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

概要

ロバート・フィッツロイ(1805-1865)はイギリス海軍の提督であり、気象学者でもある。彼については本書の「6-2-4 フィッツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報」で解説した。しかし、彼が行ったイギリスで初めての天気予報の位置づけについて少し補足しておきたい。

フィッツロイは1831年から1836年にかけて行われた「ビーグル号」の探検航海時の船長であり、多くの人々にとっては、後に「進化論」を提唱したダーウィンをこの探検航海に同行させたことの方が有名かもしれない。フィッツロイは、「フィッツロイと天気予報(2)」で述べるように商務省貿易委員会の気象統計官(後のイギリス気象局)として、船が観測した気象データの統計を行っていた。しかし1859年に、嵐によって大きな海難事故が起こったことで、暴風警報の発表を思い立った。

 彼は政府の事業として1861年に防災のための暴風警報の発表を開始した。しかしそれだけでなく、合わせて天気予報も発表するようになった。これは画期的なことだったが、当時の天気予報にはっきりした理論や法則があるわけではなく、科学界からは科学の信用を傷つけるものとして非難を浴びた。1865年に彼は自殺したがその理由はわかっていない。

ロバート・フィッツロイの写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Robert_Fitzroy.jpg

 

警報と天気予報が始まるまでの背景

19世紀初め頃までの科学は、ほとんどが純粋な真理の探究を目的としていた。しかし、19世紀中頃から技術の発展に伴って科学の実用性を探る人々が出来た。気象学でもその学究的な知識を実用的に適用できないかと考える人々が出てきた。

1830年頃からアメリカを中心に「暴風雨論争」が起こった。これは嵐の構造とその原因についてのものだった。この論争には、嵐からの被害を避けるという気象学の実用的な利用も関連するとともに、アメリカだけでなくヨーロッパにも影響を与えた。イギリス陸軍工兵隊のウィリアム・レイドは、カリブ海のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めた。この資料は暴風雨論争の当事者であるレッドフィールドに提供されて、レッドフィールドは嵐の研究を推進した。この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となって、嵐による遭難防止に貢献した。

またレッドフィールドはさらにハリケーンに関する研究を進め、その研究らは航海の安全に寄与した。マシュー・ペリー提督はそれを嵐による被害を軽減するものとして賞賛し、レッドフィールドの研究成果「太平洋のサイクロン」を日本遠征時の公式報告書の中に含めた (「ペリーとレッドフィールド」参照)。これらは実用に使える科学的な知識であるが、いわゆるリアルタイムでの防災情報とは異なっていた。

気象を広く実用的に用いるには、まずその観測が重要となる。米国のモーリーは、「気候学の歴史(2」で述べたように、1853年に海上での気象観測に関する初の国際会議をブリュッセルで開催した。ここでの合意により、海上での軍艦による気象観測が統一・標準化された。これに基づいた観測結果は、今でも地球温暖化問題などにおいて、当時の気象を知る重要な情報となっている。

さらに電信の発明が気象学を変えた。気象を観測しても、それまでの徒歩や馬車による郵便では気象の移動に追いつけなかった。そのため、気象観測は気候目的が主だった。ところが電信の発明によって、初めてほぼリアルタイムで各地の観測結果を1か所に収集できるようになった。

嵐でまず被害を受けるのは船舶である。そのため嵐が襲来したことを警報として進行先に周知する、という試みがオランダ、フランスなどいくつかの国で始まった。そして、その一つがイギリスだった。後述するように、イギリスで気象警報の音頭を取ったのがフィッツロイだった。

科学と実用気象学

気象警報や天気予報というのは、ある意味で気象工学である。工学という言葉は学問分野以外にもその技術の利用者がいるという意味で使っている。19世紀までの気象学を含む科学(自然科学)は、学問で閉じていた。つまり科学は真理の発見に重きを置いていた。科学による発見が有用であるかどうかは重要ではなく、そこに学問分野以外の人々が入り込むことは例外的だった。科学界の学者とは、自分たちの専門家集団の知識を評価し、それを利用してさらに探求を進めようとする人々である。科学評論家である村上陽一郎は、それを科学者集団の自己閉鎖性と自己充足性と呼んでいる [1]

近代産業技術は、19世紀に入って目覚しい発展を見せた。産業革命におけるが繊維産業だけでなく、蒸気機関などの機械、鉄鋼、化学合成などの産業技術が、19世紀末からは、通信、自動車、電力・電気産業もこれに加わった。しかしこれらはいわゆる工学であり、当時のアカデミックな科学とはあまり関係がなかった。工学はその分野の専門家以外の利用を前提としている。当時、そこが根本的に科学と工学の発想が異なる部分だった。近代技術を開拓して巨大企業の始祖となった人々、鉄鋼王カーネギー、自動車王フォード、発明王エディソン、電信の発明家モールス、自動車開発のパイオニアであるダイムラー、無線の発明家マルコーニなどが、アカデミックな専門教育を必ずしも受けていないことは、そのことを示している。

19世紀のそういう風潮の中で、電信という瞬時の情報伝達技術を利用して、科学を実用気象学として用いて人々に貢献したい、つまり科学(観測結果の解析)を用いた気象情報を人々の暮らしに直接役立たせようとした人々が出てきた。その一人がイギリス人のフィッツロイだった。フィッツロイが行った気象警報と天気予報について見てみる。

( 次は「フィッツロイと天気予報(2)」)

参照文献

[1] 村上陽一郎(2000, 現在の科学を問う, 講談社現代新書.

 

2025年4月11日金曜日

19世紀の暴風雨論争

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

  はじめに

17世紀から、嵐などの暴風雨は気圧が下がることと関係していそうだということは良く知られていたが、19世紀中頃までその現象がどういう仕組みを持っていて、どのように振る舞うのかは謎だった。嵐に今でいうハリケーンや低気圧などの違いがあることさえもわからなかった。そのため、嵐については、ストーム以外にも、ゲール(強風)やハリケーンなど、さまざまな呼び名があった。

このブログの「嵐の構造についての発見」のところで述べたように、当時ニューヨークの実業家だったウィリアム・レッドフィールド(1789-1857)は、1821年にアメリカ東海岸を襲ったグレート・セプテンバー・ゲールの際に、ニューイングランド一帯を広く歩く機会があった。彼はその際に見た倒木の方向に、場所によって異なる大規模なパターンがあることに気づいた[1]。彼は、嵐の風が回転している、つまり大規模な旋風なのではないかという考えを持った。彼は科学者ではなかったが、気象学者にその話をしたことがきっかけで、1831年に「嵐の風が大規模に回転している」という論文を発表した。当時広域にわたる嵐の形態は知られておらず、嵐が組織的な風系を持っているという考えは画期的だった。彼は蒸気船を運航する実業家であったが、まじめで向学心に富んだ人物だった。彼は1848年にアメリカ科学振興協会(AAAS:サイエンス誌の出版などで知られる)の初代会長となることとなる。

ところが、このレッドフィールドが主張する嵐の構造についてアメリカで大きな論争が起きた。1841年に嵐に関して異なる説を発表したのは、フィラデルフィアにあったフランクリン研究所のジェームス・エスピー(1785-1860)だった。彼は、水蒸気が凝結して雨になる際に潜熱を放出することによって上昇流が起きて、それが周囲から大気を集めて嵐(低気圧)が発達すると唱えた。当時熱力学理論は完全には確立されておらず、熱力学を用いたエスピーの考えは画期的だった。ただ彼は、嵐の風は低気圧の中心の回りに回転するのではなく、中心に向かってあらゆる方向から直線的に吹き込むのだと主張した。

 


エスピーによる熱力学的収束説(左)とレッドフィールドによる回転説(右)

 エスピーが低気圧の中心部に向かって風が直線的に吹き込むと考えた理由は、風が回転する必然性が知られていなかったからだった。嵐の風が回転するのは「コリオリ力」によるものだが、コリオリの論文は1835年に出版されていたものの、フランス科学アカデミーによる有名なフーコーの振り子実験をきっかけにそれが再発見されたのは、1859年だった。論争当時、コリオリ力はほとんど知られていなかった。 

パリのパンテオンにあるフーコーの振り子

 この暴風雨に関する二つの説は、本書の「6-1-6 アメリカ暴風論争」で述べたように、レッドフィールドが本拠地としているニューヨークの学者たちとエスピーが本拠地としているフィラデルフィアの学者たちの間で大論争に発展し、暴風雨論争(The Storm Controversy)と呼ばれた。この論争において、レッドフィールドは、嵐の風は回転による遠心力で中心部から外側に引き出され、下降した上層の冷たい大気が暖かい大気と混じって雲や雨になると反論した。

レッドフィールドの説は、倒木などを実際に観察した結果による帰納的な考えをもとにしていたが、エスピーの説は力学や熱力学理論を用いた演繹的な考察に基づいていた。この論争の背景には、科学は観測に基づく帰納的にあるべきか思考に基づく演繹的であるべきかという当時の思想的論争も絡んでいた。

ヨーロッパでの暴風雨論争

この論争はヨーロッパに飛び火した。イギリスでは天文学者のジョン・ハーシェルや物理学者で数学者のブリュースター卿らはレッドフィールドの帰納説を推した。一方でフランスでは、天文学者フランソワ・アラゴや物理学者で数学者のジャック・バビネらがエスピーの演繹説を支持した。大西洋を挟んだ世界をまたにかけた論争に発展した。

ハーシェルによる大気波の観測

気象に関心があったイギリス天文学者ジョン・ハーシェル(天王星を発見したウィリアム・ハーシェルの息子)は、この論争に啓発されて1836年にロンドンを襲った嵐の時の気圧変化は、嵐が大気の波が交差することによって引き起こされるのではないかと考えた。帰納的な観測によってその波を検出できれば、暴風雨論争に決着をつけて嵐を予測できるかもしれないと考えた。それには天文学からの類推もあった。

ハーシェルは、それまで行われていたように観測結果をやみくもに蓄積するのではなく、波の検出という目的を絞った観測する必要性を感じた。彼は気象観測者たちに、夏冬至点と春秋分点の前後に限って毎時観測を集中して行うように提案した。

この観測結果は、アメリカの気象学者ルーミスによって、初めての詳細な天気図のデータとなった[1]。ハーシェルは政府に気象観測所を多数設置するようにも要望した。これは受け入れられなかったが、後にフィッツロイによる電信を用いた気象観測網の下地となった。

ハーシェルは、同僚のバートに各地の観測結果の解析を続けさせたが、想定された大気の波は観測されなかった。彼は気圧変化の周期に解析を絞ったが、やはりそのような波は確認できなかった[2]。彼の帰納的な考えは、気象学の場合は結実しなかった。ハーシェルの研究は、その後防災などの実用を目指す気運が気象学に高まったこともあって、断念された。

ハーシェルの波の交差という考えは、ドイツの気象学者ドーフェが1831年に示唆していた大規模な気流の境目[3]として見れば全く見当外れなものではなかった。しかし、それは後にヤコブ・ビヤクネスが前線を発見するように、周期性のある気圧波のようなものではなかった。なおこの約100年後に、上層ではロスビー波という大気波が発見されることになる(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)」参照)。この場合は、ロスビーによる演繹的な理論が先行し、その後に観測によって実際に波が確認されている。

暴風雨論争と光の波動説

暴風雨論争は当時イギリスなどで行われていた光の粒子説波動説の議論にも影響を与えた。17世紀にホイヘンスが提唱し始めた波動説は、波動性そのものは実験で確認されたものの、波を媒介する物質として未確認のエーテルの存在という演繹的な仮説から出発していた。18世紀にはニュートンが主張した帰納的な粒子説が主流になったものの、19世紀に入るとイギリスの物理学者ヤングが光の波の干渉を示す実験を行い、その結果を約30年後にフランスの物理学者オーギュスト・フレネルが数学的に理論化した。そのため、エーテルを仮定する演繹的な波動説が有利となっていた。暴風雨論争が始まると、レッドフィールドの説は、帰納的な粒子説を力づけることとなった。

 暴風雨論争の解決

レッドフィールドの説は観測結果に基づいた帰納的な考えに基づいていたが、観測によって回転する風が内側に収束しているのか外側に発散しているかを立証することは困難だった。一方で、エスピーの説は、熱力学理論を演繹的に正しく用いていたが、コリオリ力を考慮しなかったことと自身の頑迷で強引な性格が災いしてか、大勢の科学者を納得させることが出来なかった。この論争にさらにペンシルバニア大学のヘアによって当時最新の流行だった大気電気説が参入してきた。

暴風雨論争は結局論争者たちが生きている間には決着がつかなかった。約20年後にアメリカの大気力学の研究者ウィリアム・フェレルによる、「嵐の原因は、潜熱による熱力学的な上昇流であり、風は低気圧中心に吹き込む際にコリオリ力で回転する」という結論によって解決された。

人間が自分一人で取り扱うことが出来る現象の問題は解決しやすい。例えば繰り返し観察したり、実験したりすることが出来る場合もある。しかし嵐に関するこの論争は、人間が届く範囲を超えた広域の気象を正確に捉えることが、当時いかに困難だったかを示している。この論争は、こういった現象を捉えるには、広域の気象観測網による統一的な組織的観測が必要であることを、多くの人々に感じさせることになった。

 暴風雨論争の余波

イギリス工兵隊のウィリアム・レイドは、赴任先のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めてレッドフィールドに提供した。これはレッドフィールドによるハリケーンの研究を推進するとともに、この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となった。またレッドフィールドはさらに研究を進めて、その成果はペリー提督が日本遠征時の公式報告書の中に、「太平洋のサイクロン」という題で含まれている。

一方でエスピーの方は、熱力学を先取りした画期的な理論だったが、コリオリ力を考慮しなかったのと、彼の傲慢な態度が災いしてか、彼の説の価値自体が曖昧となってしまった。しかし、彼は自分の説を立証しようとアメリカ国内の気象観測網の設立に尽力した。当時アメリカ陸軍は兵士の健康問題などのため気象観測網を構築しつつあった。観測結果によって自説の立証はできなかったが、気象観測網構築に協力した彼は、アメリカ国家機関での初めての気象学者に任命された。

(次は「フィッツロイと天気予報(1)」) 

参照文献

[1] J. D. Cox (2013), 嵐の正体にせまった科学者たち(訳:堤之智)、丸善出版

[2] V. Jankovic, (1998), "Ideological crests versus empirical troughs: John Herschel's and William Radcliffe Birt's research on atmospheric waves, 1843-1850.", Cambridge University Press.

[3] 斎藤直輔(1982, 天気図の歴史、東京堂出版

2025年2月20日木曜日

世界初の女性気象学者 アンネ・ルイザ・ベック

 (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

 

当初、このタイトルを「女性初の予報官」にしようかとも考えていた。かつては気象事業は基本的に国の事業であり、予報は「官」の仕事だった。しかし、彼女は米国気象局には務めていない。後に軍で働いているため、広い意味では官かもしれないが、アカデミックな体制の下で教育を受けた研究者でもあり、気象学者というタイトルにした。

ここで出てくるアンネ・ルイザ・ベック(1896-1982)は、カリフォルニア生まれで、カリフォルニア大学優秀な成績で卒業した女性である。彼女が大学を卒業した頃は、ちょうどヴィルヘルム・ビヤクネスが気象学のベルゲン学派を組織した頃だった。ビヤクネスは前線という新しい概念を導入したベルゲン学派(ノルウェー学派)の気象学を世界に売り込むために、ベルゲンに留学生を受け入れていた。

 

アンネ・ルイザ・ベック(1896-1982)

彼女は、アメリカ・スカンジナビア財団の奨学金で1920年にノルウェーのベルゲンに留学し、ヴィルヘルム・ビヤクネスの下で気象学を、ヘラルド・ハンセンの下で海洋学を学んだ。彼女は熱心にベルゲン学派気象学を修得した。当時ベルゲンには、ヤコブ・ビヤクネス、ベルシェロン、ロスビー、サンドストレームなど若くて個性豊かな人々が揃っていた。後に中央気象台長となった藤原咲平も同時期にベルゲンに留学しており、その留学記には、アメリカから留学しているミス ベックという人がいたとだけ記されている[1]。そして彼女は、ヴィルヘルム・ビヤクネスが1921年に出版したの論文の手伝いも行った。

彼女は1921年6月に米国に帰国した。トランクには天気図と海図がぎっしり詰まっていたという。米国気象局は彼女にワシントンD.C.にある中枢でのポストを用意した。しかし、彼女はカリフォルニア出身であり、独身ではあったがバークレーには親兄弟などの家族がいた。ワシントンはあまりに遠く、彼女は気象局の申し出を辞退した。この時、ワシントンに就職しておれば、ベルゲン学派気象学をマスターしていた彼女は、予報官になったと思われる。

しかし、「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学 」に書いたように、必ずしも米国ではベルゲン学派気象学は受け入れられておらず、しかも、ヴィルヘルム・ビヤクネスが1921年に出版したの論文は米国で激しい論争を引き起こしていた。予報官になっていれば軋轢もあっただろう。彼女がワシントンに行かなかったのはその影響もあったかもしれない。

彼女はカリフォルニアへ戻って、カリフォルニア大学バークレー校の地理学科で、総観天気図におけるベルゲン学派気象学の極前線理論の応用をテーマに修士号を得た。これは、一般的な流体力学的考察が、ベルゲン学派の極域前線やそれに沿って伝播するサイクロン家族という概念に、どのようにつながったかを説明した。

そしてベルゲン学派の手法を知ってもらおうと、当時気象局が出版していたマンスリー・ウェザー・レビュー誌に、ベルゲン学派の手法で実際に低気圧を解析した論文を送った。しかし論文は編集者によって改変され、しかもページ数制限を理由に分量を削られて出版された[2]。これは米国気象局によるベルゲン学派手法に対する抵抗だったとされている。

彼女は大学を卒業後、しばらくはカリフォルニアのサンタ・ローザの高校で、その後はそこの短大で数学や天文学を教え、その後航空学校で気象学と航空理論の講師をしていたようだが、大戦が始まると陸軍航空隊の気象学の講師となった。その後の経歴はよくわかっていない。

少し後にベルゲンで一緒だったロスビーもアメリカでベルゲン学派気象学を定着させようとした。どちらも航空気象学の方へと進み、ともに第二次世界大戦の気象教育プログラムに従事した。しかし、両者の道が交わった形跡はない[2]。いずれにしても、彼らは米国気象局の文化を大きく変えたプロセスの第一歩だった。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(6)戦争時代 」で述べたように、米国気象局長官にライケルデルファーがなり、彼がロスビーをMITから長官補佐に抜擢して強引に改革を進めた結果、やっと米国気象局でベルゲン学派気象学は受け入れられた。

おそらく彼女は、ベルゲン学派の気象学をマスターした最初の女性だったと思われる。しかしながら、当時のアメリカでは予測手法に対する保守的な状況と男女の役割に対する期待の違いから、十分な活躍はできなかった。米国で気象学の博士号を初めて取った女性は、時代が下った1949年のジョアン・シンプソン女史であり、彼女はベックより27才年下だった[2]。

(次は「19世紀の暴風雨論争」)

参照文献

[1]藤原咲平、現象の奥がを見つめる人(1950)、天文と気象、Vol.16、No.8、7-11.
[2]
James Rodger Fleming (2016)、Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology  (MIT Press, 312 pp.)

2025年1月12日日曜日

低気圧発達の解明(2)傾圧不安定とは

 (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
 

低気圧発達の解明(1)歴史的経緯 」では、低気圧の発達が傾圧不安定によることが解明されるまでの経緯を説明した。「傾圧不安定」は気象学の専門用語であり、低気圧の発達を説明する際にしばしば使われるものである。気象学を勉強しようとした人は、目にしたことがあるかもしれないが、実はこの概念は直感ではわかりづらい。

気象学の教科書では、傾圧不安定について多くの数式を用いて説明されていることが多いが、これを理解するのは簡単ではない。そのため、ここでは正確さにこだわらずにざっくりと説明したい。詳しい理解を目指す方は教科書の方を見ていただきたい。 

まず「不安定」という言葉であるが、これはよく使われる「大気が不安定」のような言葉の使い方とは少し異なっている。傾圧不安定の「不安定」は、低気圧のような大気擾乱が「発達する」ことに重みが置かれている。中緯度では緯度が高くなるほど気温が下がり、偏西風(ロスビー波)が高度とともに強まる。これはいわゆる「温度風」のメカニズムである。このような大気を「傾圧大気」と呼んでいる。 この傾圧大気において、気圧の中心軸が高度とともに西に傾いていると傾圧不安定が起こる。

なぜ低気圧などの気圧の中心軸が高度とともに西に傾くことがあるかというと、寒気が西から流入してくると、西方では大気密度が高まる。気柱量全体は変わらないため、寒気が流入した西側ほど上層の気圧が低くなる。その結果、低い気圧の中心軸が西に傾くことになる。そして、このような状態が低気圧の発達に大きく関連する。

この低気圧の発達には偏西風(ロスビー波)が大きく関与している。式を使わずに記述的に言えば、温度風が卓越している(つまり、南北間の気温勾配で上空ほど西風が強まる)状態で、上層の気温の谷が気圧の谷より西に位置すると低気圧性渦が強まる。そのため、寒気が西から流入すると、上層の気圧の谷で低気圧性の渦が強まる。そして気圧の谷の上流側では大気が収束して上昇流が発生し、気圧の谷の下流側で大気が発散して下降流が発生することになる。

  傾圧不安定が発達する状況。偏西風の中での上層の等温線と等圧線の分布のずれによる上昇流域と下降の発生を上から見た模式図。青色の実線は等圧線、橙色の破線は等温線。図中のHとLは、それぞれ地上の高気圧と低気圧を示す。ベクトル解析の知識が必要になるが、等圧面の傾き∇Pと等温面の傾き∇Tの外積(∇P×∇T)をとったものが、下向きになる場所が高気圧性の渦(下降域)になり、上向きになる場所が低気圧性の渦(上昇域)となる。これからその場所における等圧線と等温線の曲率のずれが、重要であることがわかる。

傾いた気圧の中心軸によって、上層の偏西風の発散域が地上の低気圧の真上にあり、そこの発散が下層での収束を上回れば、気圧が下がって低気圧が発達することになる。このため、上空の気温の谷(低温域)が地上の低気圧の西から近づくと、低気圧上層の発散が強まって低気圧が発達する。このように、西から寒気が流入することが、傾圧不安定によって低気圧が発達するポイントの一つとなる。

典型的な傾圧不安定のパターンの模式図
「気象学と気象予報の発達史」(丸善出版)の図10.4

なお夏場などに、寒気の流入によって「大気が不安定になる」など予報が出ることがよくある。この場合は局地的な積乱雲による雷雨になる。夏季は偏西風帯(亜熱帯ジェット)が北上して北海道かそれよりもっと北に位置することが多い。そうなると、日本付近は背の高い一様な太平洋気団(小笠原気団)に覆われて、温度風による傾圧状態にならない。

こうなると寒気が流入しても傾圧不安定が起きず、組織的な低気圧は発達しない。下降する上空の寒気と上昇する地上付近の暖気によって局地的な積乱雲が発達して、狭い地域での雷雨などになる。

(次は「世界初の女性気象学者  アンネ・ルイザ・ベック」)