2022年3月5日土曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(6) 航空機の事故とダウンバーストの観測

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です

 

イースタン航空66便の事故

1975年6月24日午後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港の近くでは時折雨が降っていたが、空港の風速計は風速毎秒3 mと穏やかな風を示していた。ニューオーリンズを飛び立ったイースタン航空66便は同空港に着陸しようとして高度を下げていた。高度150mまで降下したときに、突如豪雨と突風に見舞われ、滑走路の800 m手前に墜落した。乗員113名が亡くなった。これは当時としては最大の航空機事故となった [1]。

イースタン航空66便の事故現場
https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=67&LLTypeID=2

ところが、この事故の30分以内に10機以上の航空機がこの滑走路に無事に着陸していた。66便だけに何が起こったのか?実は66便の直前に数機がウィンドシアと呼ばれる風向の急変を報告していた。しかし、それがこの事故に関連しているのかどうかはわからず、操縦ミスも疑われた。イースタン航空はシカゴ大学の藤田にこの原因究明を依頼した。

藤田はこの時の状況について、各便のパイロットが管制塔といつどこでどういう無線交信を行ったかを分析した[1]。ウィンドシアが疑われたが、前線通過時の比較的広域で起こるこのような現象が、こんなに短時間のごく狭い領域起こり得るのか?直前に着陸した航空機にはウィンドシアを報告した機もあったが、そうでない機もあり、管制官も混乱していた。

藤田は、前年に竜巻の調査を行った際に木々が狭い範囲で回転せずに放射状に倒れていたことを思い出していた。それは竜巻による旋回風ではなく、規模こそ異なるが原子爆弾の爆発調査を行った際に見た下向きの強い風によって放射状に木々が倒れるパターンと同じだった。

彼はレーダー画像などによる気象状況の調査から、この事故が起こった前後に付近に雷雲があったことを突き止めた。彼は背振山での観測を思い出したのかもしれない。彼はレーダー画像に写った雷雲の槍型の穂先のような狭い部分に、強い下降気流があるに違いないと直感した。彼はそれをダウンバースト(下向きの突風)と名付け、イースタン航空66便だけがその雷雲の狭い部分を通過して、強い下降気流で揚力を失い墜落したとする説を1976年に発表した [1]。

ダウンバーストの発見

彼は下降気流の証拠を直接示したわけではなく、状況証拠からそう結論した。しかし、これまでそういった現象は全く知られていなかった。航空関係者にはこれに賛同した人が多かったが、多くの気象学者たちがこの新理論に疑念を呈して、論争を引き起こした。通常の風は気圧の差によって吹く。しかし、ダウンバーストは蒸発熱などによって冷却され収縮した自身の重さによって空気塊が地表付近の物体に衝撃を与えるほどの速さで落下する。藤田は当時の気象学界は誰もこの説を信じなかったと述べている [2]。

ダウンバーストの写真。これはウェットと呼ばれるもので、驟雨を伴っている。雨を伴わない乾燥したドライなダウンバーストもある。
https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=67&LLTypeID=2

彼の説は、昔からある下降気流に名称をつけただけだとか、突風前線(ガストフロント)を見誤っただけだなどと非難を受けた。またこの非難は、自説を発表までに時間がかかる査読付きの論文誌には投稿せず、自費出版の形で直ちに論文を公表した彼の研究スタイルとも関連していた。彼は多くの経験や分析結果から来る自分の直感を信じていた。

しかし、彼は直ちにそれを証明することはできず、葛藤に苦しんだと思われる。しかし彼は決して傲慢な人間ではなく、論争に動揺して悩んで眠れない夜もあったと述べている [1]。慎重な科学者であれば、証明のための証拠を集めるだけに10年はかけたかもしれない。当初、彼はこの結果発表は慎重に行おうと思っていた。しかし、事態の解明とその対策は緊急であり、彼は少しでも早く発表する方を選んだ [3]。

ダウンバーストの観測

藤田の説が正しいことを証明するには、ダウンバーストを実際に観測するしかなかった。そこへ強力な助っ人が現れた。国立大気研究センター(NCAR)のロバート・セラフィン博士である。彼は工学者でドップラー・レーダーという最新機器を開発したばかりだった。ドップラー・レーダーはそれまでのレーダーとは異なり、風速を測定することが出来た。また複数台組み合わせることで風向も判断できた。この機器でダウンバーストによるウィンドシアを捉えられるかもしれない。

ドップラー・レーダー原理(気象庁ホームページより)
https://www.jma-net.go.jp/fukuoka/kansoku/radar_kansoku.html

藤田はセラフィンからドップラー・レーダーの利用提供という支援を受けて、狭い領域での風の急変(ウィンドシア)の観測を行うことになった。このための資金50万ドルはアメリカ国立科学財団(NSF)が提供することになった。NFSでもこの資金提供に難色を示す人たちがおり、このとき藤田は、もしダウンバーストが観測されなかったら自分でこの資金の責任をとると考えていたようである [3]。

1978年5月19日からシカゴ空港近くに3台のドップラー・レーダーを設置して、観測を開始した。しかし、最初の10日間は何も起こらず、観測者たちに焦りの色が濃くなってきた。ところが5月29日に小さいが雷雲が発生し、小さかったにもかかわらず高度70 mで風速31 m/sという台風並みの風を捉えて、初めてダウンバーストと思われるものの観測に成功した [4]。航空機が着陸直前にこの風に遭遇すると危険なことは明らかだった。8月までに50個のダウンバーストを観測したが、彼らはこれがこんなに頻度が高い現象とは思っていなかった。まず現象を捉えることを優先していたために設置したレーダーの間隔は粗く、現象を捉えることはできても、そのメカニズムなどの詳細は得られなかった。

またこの観測結果などから、彼はダウンバーストを数キロメートル以上の比較的広い範囲で起こる「マクロバースト」と、数キロメートル以下の狭い範囲で起こる「マイクロバースト」に分けるようにした [4]。5月29日に観測したものは、強いがマクロバーストだったと判断された。狭いが強いマイクロバーストの方が航空機にとっては脅威だった。



マイクロバーストの概念図。地面にぶつかった下向きの風は放射状に広がる。(図はNASAによる) 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Microburstnasa.JPG

1982年6月にコロラド州デンバーの空港付近に今度はドップラー・レーダー3台を密に配置して観測を行った。このとき藤田は、ドップラー・レーダーを真上に向けるという突拍子もないことを提案した [2]。ドップラー・レーダーは電波を発射する方向の風の動きを観測する。真上に向けると言うことは、上下方向の風の動きを捉えるということだった。これまでレーダーを真上に向けるという発想をした者はいなかった。そして6月12日、このドップラー・レーダーは風が下降しているマイクロバーストの鉛直断面を捉えるのに見事に成功した。これはマイクロバーストの存在の決定的な証拠となった。このとき併せて186個のマイクロバーストが観測された [1]。

日本で観測されたマイクロバースト(気象庁ホームページより)

https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/23_draw.html#doppler

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.

2022年2月27日日曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(5) 子竜巻論争と藤田スケール

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子竜巻論争

また、藤田は自ら軽飛行機のセスナ機に搭乗して上空から竜巻の痕跡を調査した。それまで航空機を用いて上空から竜巻調査を行った気象学者はいなかった。総飛行距離は4万kmにもなった [3]。しかもパイロットに指示して、必要な箇所は低空で入念に何度も飛行を行った [3]。

彼は1967年に航空写真を用いた解析から、竜巻が通った後に小さな螺旋が残されていることに気づいた。こういった竜巻後の小さな螺旋跡はそれまでも知られていたが、竜巻に捉えられた物体が地面をひっかいた跡と思われていた。彼は現地に赴いて調査し、螺旋を描いているものはひっかき傷ではなく、瓦礫が集まった小高い丘であることを発見した。普通に考えると、こういった瓦礫は竜巻の強風で吹き飛ばされて散逸してしまう。そういったことから、彼は大きな竜巻の内部や近辺のそれほど風が強くない領域に小さな子竜巻が複数個あって、その風が瓦礫を集めて丘を築いていると主張した。

しかし当時、子竜巻などは全く知られておらず、これだけの証拠によるこの子竜巻理論は、10年以上にわたってあちこちから猛烈な反論や非難を受けた。しかし1974年にはTV局のカメラが子竜巻らしい姿を撮影した。1979年にはある人が竜巻の中に子竜巻がある明瞭な写真を送ってくれたため、彼の主張が正しいことが証明された [4]。子竜巻の存在がわかったため、これによって住民に周知する竜巻の風に備える対策方法が大きく変わった。

 2011年4月14日にオクラホマ州タッシュカを襲ったEF3の強度の多重竜巻の写真。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tushka,_Oklahoma_tornado_April_14,_2011.jpg

 

衛星観測に対する貢献

藤田は1962年7月にシカゴ大学のパーマネントの准教授に就任した。大勢の研究者がひしめくアメリカの大学でパーマネント(任期が切られていない)の職を得ることは容易ではなく、異例の抜擢といってもよかった [3]。アメリカは1960年4月に実験用気象衛星タイロス1号を打ち上げていた。衛星は極軌道衛星であり、地球を斜めに周回する。ところがこの衛星の姿勢制御に問題があって、撮影した写真を緯度経度に対応したものに変換できなかった。これは衛星写真の位置を特定できず、気象解析に使えないことを意味した。これは国の威信に関わる大問題だった。これを藤田は衛星の姿勢制御の方法を工夫することによってデータ解析が行えるようにした[3]。

これにより衛星関係者内で藤田は有名となった。衛星の予算は桁外れに大きい。藤田の下には莫大な衛星予算が付くようになり、キャンパス内に3階建ての専用の家が建ち、藤田強風研究室が創設されて大勢のスタッフを雇えるようになった [3]。そしてそのわずか3年後には教授に就任した。また衛星データの一部は国家機密であり、それを扱うには外国籍のままだとさまざまな制限があった。日本は国籍を一つしか認めていない。彼はどちらをとるか悩んだ末に、大きな決断をして1968年にアメリカ国籍を取得した。もちろん米国が彼に国籍を与えたのは、彼の貢献を大きく評価していたからだった。

竜巻強度 藤田スケール

当時、アメリカでは竜巻の発生数を数えるだけで、その強さについては調査していなかった。彼はその後も竜巻についての綿密な調査を重ねて、1971年に初めて竜巻の強度を考案した。その際には竜巻による被害と海洋で使われているビュフォート風力階級を参考にした [3]。彼が考案した竜巻の強度は「フジタスケール」と名付けられ、竜巻の強度に応じてF1からF12まである。ただし、F7以上は風速が強すぎて事実上地球上では存在しないといわれている。

実は竜巻の中で風を測定した記録はなく、フジタスケールでの風速の定義は推測である。そのため、科学者の中にはこの定義に疑問を呈する人たちもいた。しかしそれまでなかった竜巻の強さを定義した実用上の意義は大きく、原子力発電所、建設業界、保険業界などの設計基準に大きな影響を与えた。この指標は現在修正されて改良フジタスケール(The Enhanced Fujita Scale (EF Scale))となっているが、それも元のフジタスケールがあってこそのことである。

フジタスケール(https://www.weather.gov/oun/efscaleを和文に改変)。現在はこれではなく改良フジタスケールが用いられている。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.

2022年2月23日水曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(4) 竜巻の研究と竜巻経路の図示化

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竜巻の研究

藤田は1957年からバイヤースの勧めで竜巻の研究にとりかかった。これはメソ気象学といって、当時主流だった総観気象学より一回り以上スケールが小さい、数十 kmから200~300 kmの大きさの雷雨や集中豪雨を研究する分野だった。メソ気象学の分野には先駆者が多数おり、この時バイヤースは、藤田がこの分野で研究成果を上げられるか心配だったようである [3]。 

藤田は徹底した現場主義、実証主義者だった。広いアメリカではピンポイントで起こる竜巻の発生を把握して、直ちに被害の実態をつかむことはたやすくない。竜巻発生から時間がたつと、竜巻による被害は片付けられてしまい、実態把握のための痕跡がなくなることも多い。そのため彼は地元テレビを利用することを思いついた。彼はテレビ通じて呼びかけて竜巻の写真や目撃情報を集めた [3]

測量による竜巻経路の図示化

1957年6月にノースダコタ州のファーゴ市に竜巻が起こった。彼は呼びかけによって集まった197枚の写真からカメラの位置と撮影方向を割り出し、三角測量の手法で竜巻の時々刻々の位置を特定した。そしてそれをもとに写真の撮影位置を含めた正確でわかりやすい竜巻経路図を作成した [4]。それまで誰もそういう手法を行ったものはおらず、これは極めて異色なやり方だった。そのため、彼は気象学のシャーロック・ホームズと呼ばれたりした [2]。

 

 6月20日のファーゴ市で撮影された竜巻の写真。アルファベットは撮影者名 [7]。番号は次の図と対応している。

このファーゴ市の竜巻発生時に、回転する不気味な低い雲が撮影されていた。藤田はこれを竜巻の親となる雲ではないかと直感的に判断し、その親雲(回転雷雲)の位置と発生した竜巻との位置関係を三角測量から特定した [4]。この写真測量の論文は一般市民の大きな反響を呼び、論文としては珍しいことに政府が3000部印刷して1冊45セントで販売した。これは直ちに売り切れた。また彼は1961年に航空機を用いての上空からの回転雷雲の写真撮影に成功している。彼の本には、1996年時点でこの論文に掲載された写真が上空から撮影された唯一の回転雷雲であると述べられている [4]。

6月20日のファーゴ市における回転雷雲の通過軌跡図 [7]。写真番号毎に撮影者の位置と撮影方向がきちんと表示されている。

三角測量には綿密な測量術や計算力、製図力を必要とした。彼はそれを明治専門学校時代の地質調査で会得した。彼は松本教授の論文を手伝うために、地形を3次元的に描く写真測量術も英語とドイツ語の本を読んで独学した。これは後述する気象衛星タイロスの問題を解決するのにも役立った。また彼は学生時代に松本教授と地質調査を行った際に、地図を見ながら歩くのではなく地図の誤りを訂正ながら歩いたと述べている [4]。この時に、彼は何事も鵜呑みにせずに自分で確かめるというやり方も身につけたようである。

また、藤田の気象学の師であった東京大学の正野重方は、藤田を評して「我々気象屋とモノの見方が全然違うんだよ。我々は天気図で見るから平面で捉えるんだけれど、藤田君は機械工学出身だから立体的に捉えるんだ。」と述べている [3]。機械工学出身の彼は、研究に必要な様々な装置を自ら設計して作らせた [2]。その中には竜巻発生装置があった。ただし、それは竜巻の実験を行うためではなく、いつでもどこで竜巻を視覚化できるように広報が目的だった。

さらに彼は学生時代に、原理を習う前に自ら考案して計算尺を自作している [3]。計算尺とは、今ではほとんど使われないが一種のアナログコンピュータで、近似値ではあるが目盛りを合わせるだけで素早く計算ができる。彼は調査時に計算尺を携帯して、常に計算しながら素早く測量を行った。彼はそういった多彩な才能を持っていた。

 (つづく)

 参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.


 

2022年2月20日日曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(3)背振山での観測

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背振山での観測

藤田は明治専門学校で物理学を教えていたが、彼は研究をやりたかった。理論ではなくフィールド指向だった彼は、物理学で実験や観測を行おうとすると巨額の研究費が必要になる。戦後すぐの当時の日本ではそれは望むべくもなかった。彼は地質などの現地調査を行ううちに、気象に興味を持ったのかもしれない。

彼は「気象学を選びました。それが当時最も安かったんです。紙と色鉛筆で事足りた。」 [3]と述べている。日々の天気予報のために全国の気象台・測候所に気象観測インフラストラクチャが整備されており、定常観測のデータを気象台で見たり、書き写したりすることは可能だった(現在ではウェブサイトから自由にダウンロードできる)。つまり、気象分野は観測データをただで手に入れて研究できるのである。これが気象学が他の研究分野と大きく異なる特徴である。

彼は気象学の専門教育を受けていなかったが、福岡管区気象台に出入りするようになった。気象台でも最初はよくわからない人が来て当惑したようだが、試しに気象データを与えてみると驚くような解析結果を持ってきたりしたので、気象台でも藤田を職員と同じ様な待遇で扱うようになった [3]。

福岡市から開けた南を望むと、福岡県と佐賀県の県境に背振山という標高1055 mの山が見える。現在はそこに気象庁の気象レーダーが設置されているが、レーダーが設置される以前に山頂付近には測候所があった。1947年8月に藤田哲也はその山頂の測候所で観測を行った。これはむしろ福岡管区気象台の方からの提案だった [3]。8月24日の13時頃から積乱雲が通過し、その際に山頂付近で強風が吹いただけでなく、気圧が大きく変動した。それを分析した藤田は、発達した雷雲の下部のほぼ背振山頂の高さに今まで知られていなかった下降気流があるという結論を出した [4]。

1947年に背振山で観測した雷雲の断面図 [5]。図中のd~eにかけて下降気流の矢印が見える。

彼は1950年に、その結果を中央気象台(気象庁の前身)の欧文彙報に英文論文として積雲構造のスケッチとともに発表した。それまで積乱雲に上昇流があることは広く知られていたが、中に下降気流があることはあまり知られていなかった。ところが、実は中央気象台内では戦時中の雷雲の観測によって、その中に下降気流があるという観測記録が既にあった [3]。しかし、これはそれほど重視されていなかったようである。おそらく当時中央気象台を含む日本気象界では、台風や大雨など優先的に研究すべきことを多数抱えており、雷雲の構造などに気象学的な興味を持っていた人が少なかったということだろう。

渡米

日本とは対照的に、欧米、特にアメリカでは積乱雲を中心とした気象は航空機の航行に重大な影響を引き起こすため、戦争中から重大な関心を抱いて積極的にその研究を行っていた。当時アメリカでは雷雨のメカニズムを探るために巨額を投資して「サンダーストーム・プロジェクト」が行われており、そのプロジェクトをシカゴ大学のホレス・バイヤース教授が主導していた。バイヤースは「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献」で述べたように、ロスビーの弟子である。

 

ホレス・バイヤース(真ん中)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a6/Hall-Meng-Byers.gif

藤田は背振山測候所の隣にある米軍レーダー基地に行くと、そこの職員がゴミ箱の中の論文を拾って藤田に渡してくれた。それはサンダーストーム・プロジェクトの論文で、それにも雷雲の中に下降気流があることが示されていた [2]。彼の著書ではそうなっているが、これはどうも自分でゴミ箱の中に何か論文がないか探したというのが真相のようである [3]。当時欧米の論文を見ることは容易なことではなく、レーダーは航空機の運航と密接に関わっているために、レーダー基地内ならば航空機の運航に影響を与える雷雲に関する論文があるのではないかと思ったのかもしれない。

藤田はバイヤースとは知り合いでも何でもなかったが、このプロジェクトを率いていたバイヤースに自分の論文を直接送った。論文には彼による雷雲の明快な構造図が描かれていた。バイヤースははるか遠くの日本の名もない研究者が送ってきた論文に、ちょうど自分が発見したばかりの雷雲の中の下降気流のことが詳しく書かれていて驚いたに違いない。バイヤースはこの研究にかかった費用を藤田に尋ねている。バイヤースの研究費は200万ドルだったが、藤田の研究費は50ドル足らずだった [4]。

さっそくバイヤースは藤田を招聘しようとしたが、一つ問題があった。それは藤田が博士号を持っていないことだった。欧米では研究者として活動するには博士号が必須である。それでバイヤースはまず博士号を取ることを勧めた。藤田はちょうど博士号を取得しようとしていたところだった。彼が出入りしていた頃の福岡管区気象台のつてで東京大学の正野重方教授を紹介され、彼の下で台風をテーマとする博士論文を作成中だった(台風は雷雲とも密接に関連する)。

藤田と正野のことは「正野スクール:正野重方と日本の気象学者」で述べたとおりである。藤田は正野のことを「『父親のような人』で,私は彼に感銘を受けた」と語っている [6]。彼は博士号を取得した後、32歳で1953年8月にバイヤースがいるアメリカのシカゴ大学へ渡った。研究助手という身分だった。藤田は渡米してから2年半後にビザが切れたためいったん日本へ帰国したが、バイヤースによる再度の招聘で今度は研究教授という肩書きで、1956年に永住ビザを取得して家族共々渡米した [3]。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.


2022年2月17日木曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(2) 藤田の生い立ち

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 藤田の生い立ち

彼は1920年に北九州の小倉で生まれた。彼の父親は地理の教師で学校長も務めた。しかし彼は18歳の頃に父親を結核で亡くし、12歳の妹と10歳の弟を彼が独力で支えなければならなくなった(その2年後には母親が結核で亡くなり、さらにその6年後には妹も同じく結核で亡くしている)。そういう状況ではとても進学して学問を続ける境遇ではなかった。しかし、当時の(旧制)小倉中学校の校長が、優秀だった彼が学問への道を断たれることを残念に思い、国立の明治専門学校へ授業料の要らない特待生として推薦してくれた [2]。なお彼は中学卒業式の際に、太陽の黒点観測から自転周期を求めた研究によって理科賞を授与された。

明治専門学校

藤田は北九州の明治専門学校(今の九州工業大学)の機械科に入学したが、苦しい生活をしのぐために家庭教師をした。このとき教えたのは後に料理研究家として有名になった江上トミの子息だった。また彼女から当時としては貴重な英文タイプライターを譲り受けた [3]。これが後述するように、背振山での観測論文を英文で書く際に役に立つことになった。

在学中に地質学の松本唯一教授の下で助手としてアルバイトをした。これには父親の影響もあったかもしれない。結局、明治専門学校では松本教授についてもっぱら地質学をやることが多かった。在籍した機械科では設計図の作図方法を習得するとともに、地質調査の際に松本教授から地図や地形の見方やその作成方法を徹底的に教わった。これは後にアメリカでの竜巻調査の際に、竜巻の移動経路の決定などに大きく役立ったと思われる。松本唯一は、その後九州大学教授および熊本大学理学部長を務めている。

藤田は母校である小倉中学(旧制)で代理教師もした。その際には権威主義的な当時の教科書を使わず、手製の絵による解説入り教科書を毎回ガリ版刷りで準備した [3]。これを用いた彼の授業はわかりやすく好評となった。この時から既に「誰にでもわかりやすく伝える」ということがモットーだったのだろう。これは、その後の研究成果の発表でも活かされることとなる。

卒業すると1943年に23歳で明治専門学校の物理科の助手となった。戦時中とはいえ異例の抜擢だった。これは、このとき学校側からアインシュタインの相対性理論を教えられるかと聞かれて、「できます」と答えたためとなっている [3]。しかも、わずか1か月後には助教授となった。

原子爆弾の爆発調査

この時期の特筆すべきことは、彼による原子爆弾調査である。彼は志願して8月下旬に行われた明治専門学校による長崎の調査団に加わった。当時新型爆弾が使われたことはわかっていたが、それがどんなものでどこで何発爆発したかはわかっていなかった。

彼は3日間にわたって、爆発の強力な下降気流による倒木や閃光によって残った影の方向と程度を綿密に調査した。その結果から、爆発地点を1か所と判断し、その爆発高度を浦上上空の地上520mと特定した。そして爆風の影響が最も強かったのはその直下ではなく、爆発地点直下から500mから700mほど離れた同心円状の地域だったと結論した [3]。


長崎へ投下された原子爆弾の爆発直後の様子
https://ww2db.com/image.php?image_id=20501

その後広島の原子爆弾の調査も行い、爆発高度を530mと推定した。また鉄柱の曲がり具合から長崎の爆弾(プルトニウム爆弾)の方が広島の爆弾(ウラン爆弾)より20%強力だったと結論した [4]。これらの調査が、原子爆弾による強力な下向き衝撃波によって引き起こされた状況を彼の脳裏に焼き付けることになった。

原爆投下後の鎮西学院中学校(現活水中・高校)付近の様子(後ろの建物)。爆心地に近い。1946年初め頃。何か調査しているのか連合国軍の兵士が見える。
https://ww2db.com/images/battle_hiroshima175.jpg

この長崎での調査は原子爆弾の投下からわずか10日程度の後であり、まだ現地の惨状が残ったままの状況だった。彼はご遺体の一つ一つに手を合わせながら調査したと述べている [4]。また彼は物理学者であり、放射線の恐ろしさを知っていた。調査中に同じところに長く留まらないなどの配慮を行った。後年彼は原爆症を心配したが、放射線の影響はなかったようである。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者 第1回「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2016年05月02日.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.