2023年3月20日月曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(3)

1703年の大嵐

経過

11月中旬から連続的にイギリス諸島を嵐が襲った。これらは結果として26日の大嵐の序章となった。これらの嵐は、ロンドンの煙突を倒し、沿岸の船を沈没させた。実際、ロンドンの街を歩いていたデフォーは突然に煙突が倒れてきたため、危うく命を落とすところだった [2]。そして、26日夜半から27日にかけて、その頂点となる大嵐が襲来した。これは旧ユリウス暦なので、現在のグレゴリオ暦に直すと嵐は12月7日に発生したことになる [2]。この嵐は、歴史上英国を襲った最大の暴風雨と考えられている。

当時入手できたわずかな気象学的情報から、嵐の中心はスコットランドの北を通過し、南西には副低気圧が形成され、ウェールズ南部からハンバー河口まで英国を横断したようである。本の「4-2 気圧計の発達」で述べたように、この当時は既に較正された気圧計が普及していた。ウィリアム・デラム牧師が測定した当時の気圧は、エセックス南部で973 hPaに相当した。低気圧の中心はミッドランドを通過する際に950hPaまで低下した可能性があるとの指摘もある [2]。日本でいう台風並みの嵐だった。

イーストアングリアでは、風速は44 m/sを超えたと推定されている [2] 。おそらく竜巻も発生したのだろう、牛が巻き上げられて木の高いところに持って行かれた、あるいは少年が教区教会の尖塔を飛び越えたことを自慢した [3]という記述もある。

強い風のために家はガタガタと震えて、人々は家の倒壊を覚悟した。しかし、この揺れを地震と思った人も多かったという [3]。当時の人々の自然現象に対する理解や関心はこのようなものだった。外は家の上からレンガ、タイル、石が勢いよく飛んで来るため、人々は誰も外に出ようとはしなかった [4]。

被害

設計技師ヘンリー・ウィンスタンリーが1696年に建設したドーバー海峡最初のエディストーン灯台は、嵐によって跡形もなく破壊された。嵐の際に灯台にいたウィンスタンリーは行方不明となった [2]。

 

当時のエディストーン灯台
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edystone_Winstanley_lighthouse_Smeaton_1813.jpg 

ブリストルでは、高潮がそれまでの満潮時よりも10フィート(3.3m)近くも高くなり、町を浸水させた。セヴァーン川を遡上した高潮は、モンマスシャー州とグロスターシャー州の間の橋を破壊し、モンマスシャー州の南の土地(ムーアと呼ばれる)は、約30 kmにわたって高潮洪水に襲われた。セヴァーン川沿いでは、15,000頭の羊が満潮時に溺死した [2]。

英国南部のワイト島では、塩が雪のように降り積もった。海岸から25 km離れたタイスハーストのような内陸部でも、生垣の葉がかなり塩辛かったという記録が残っている [3]。イギリスの田園地帯では風車の多くが、強風による羽根の高速回転によって摩擦熱で燃えるなどして、400基以上が破壊された [2]。

ポーツマスなどの沿岸の町は、デフォーが「敵に袋叩きにされたような、最も惨めにバラバラに引き裂かれたような」と表現するほどの大被害を受けた [2]。ボーンマスの東にあるニューフォレストだけでも4千本の木が根こそぎ倒れた。家屋800~900棟が破壊され、100棟以上の教会が暴風で大きな被害を受けた [2]。

ロンドンでは、ウェストミンスター寺院の重い鉛の屋根は、羊皮紙のように巻き上がって吹き飛ばされた。セント・メリーズ教会や聖マイケル教会など、街中のほとんどの教会の尖塔が被害を受け、無傷だった家屋はほとんどなかった。強風が吹き荒れ、建物が壊滅的な被害を受けると同時に、風が火をあおって瞬く間に火災が広がるという事態になったが、住民は風を避けて避難し、消火活動は行われなかった [2]。この暴風雨で英国内の陸と海の人命が失われた数は、8000から9000、おそらく15000人に達したと考えられている。

海上ではこの大嵐の前から暴風は続いていたため、沖合で遭難した船は多くなかった。船舶の被害は沿岸や河川に集中した。テムズ川では、ロンドン橋の下流にあるプールで700隻の船が押し潰されたとデフォーは報告している。ロンドン・ガゼット紙によれば、暴風雨が襲ったとき、500隻の船がグレート・ヤーマスの沖合にあり、その多くが遭難したり、沖に流されたりした [2]。

スペイン継承戦争に参戦していたイギリス海軍は、この時、ドーバー海峡で3つの艦隊がその猛威にさらされた。イギリス海軍の船は13隻以上が失われ、バジル・ボーモント少将を含む1500人の船員と将校が犠牲になった [2]。

1703年11月26日 の大嵐でボーモント少将が行方不明になったダンケルク沖の艦隊。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Storm_1703_Goodwin_Sands_engraving.PNG


デフォーの「嵐」には、倒れた樫の木についての言及が多い。彼は、ケント州の短い旅の間に、17,000本の倒れた樫の木を数えたと主張しているが、疲れすぎてそれ以上数え続けることができなくなった [1]。

デフォーが樫の木に関心があったのには訳があった。ホイッグ党寄りだったデフォーは、英国の大陸政策に高い関心があった。この政策を支えるのは英国海軍である。この嵐で壊滅した英国海軍の再建のために必要な、樫の木の状況が気になっていた。

無残な英国海軍は嵐によって二重の打撃を受けた。貴重な船が破壊されただけでなく、新しい船の建造に必要な樫の木も、この嵐によってたくさん倒れてしまった [1]。

つづく

参照文献

[1]    R. Hamblyn, aniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003.
[2]    Heidorn, "BRITAIN'S GREAT STORM OF 1703-2007," [オンライン]. Available: http://www.islandnet.com/?see/weather/almanac/arc2007/alm07nov.htm.
[3]    D. G. Clow-, "DANIEL DEFOE'S ACCOUNT OF THE STORM OF 1703," weather, 第 巻43, 第 3, pp. p140-141 , 1988.
[4]    J. J. MILLER, "Writing Up a Storm," 2011. [オンライン]. Available: https://www.wsj.com/articles/SB10001424053111904800304576476142821212156.

 



2023年3月16日木曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(2)

 2. 当時のイギリスの状況

デフォーは時事問題に関するパンフレットの執筆者として活躍しており、嵐が襲った頃の彼の状況と背景は、1700年頃のイギリスの複雑な政治状況と絡んでいた。当時イギリスの政治勢力は、いわゆるトーリー党ホイッグ党に分かれて政権がときおり交代していた。国王が一方の党に肩入れすることも多く、一方が与党になると他方を弾圧することもあった。

それら2つの党の考え方の違いは国内外の施策と宗教にまで及んでいた。トーリー党は国教であるプロテスタントを厳格に守り、ホイッグ党はカトリックにも寛容だった。また、国際政策の考え方も両党で異なっていた。当時スペインのカルロス2世の死去により、1700年にフランスのルイ14世の息子がスペイン王フェリペ5世として即位した。これによりルイ14世にとっては、フランスとスペインの合併も視野に入ることになった。

それに反発したのがオーストリアとオランダと、ホイッグ党寄りだったウィリアム3世が国王だった英国だった。英国王ウィリアム3世はフランスの拡張政策に恐怖を感じ、強力なフランス・スペイン同盟に軍事力で対抗することを望んだ。ウィリアム3世は、オランダ連合州とオーストリア皇帝の指導者たちと、1701年にハーグ条約対フランス大同盟)に調印した。これがその後スペイン継承戦争へとつながった。ドーバー海峡に面した要塞を制圧したフランスの勢力拡大を抑えるために、イギリスは1701年2月にスペイン領オランダに進攻した。

しかしトーリー党は、スペイン継承戦争に関与するよりは国内政治を重視していた。1702年にウィリアム3世が死去してトーリー党寄りアン女王が即位すると、対フランス大同盟の構想に反対し、同時にウィリアム3世の他の政策、特にカトリック対する寛容な政策をできるだけ覆そうとした。こういう状況のもとで、英国は1703年11月の大嵐を迎えることになる。

アン女王の肖像画
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Closterman%2C_John_-_Queen_Anne_-_NPG_215.jpg


3. 当時のデフォーを巡る政治状況

当時デフォーは、国王ウィリアム3世の庇護の元でホイッグ党の評論者として活動しており、時にはトーリー党の政治家たちを攻撃するような論評を書いていた。そういう中で1702年に彼の庇護者であったウィリアム3世が亡くなり、今度はトーリー党寄りのアン女王が即位した。

彼は、1702年に匿名の執筆者が書いた風刺小冊子「The Shortest-Way with the Dissenters(非国教徒との最短の道])」を出版した。これはトーリー党の聖教者が書いたとされ、イギリスの安全のために唯一賢明な手段は、国教反対者を虐殺と追放によって追い払うことだと提案していた。しかし、アン女王はこの小冊子の執筆者の処罰を望んだ。この小冊子の作者が誰なのかは英国中の話題となった。そして、デフォーが風刺としてこの小冊子を書いたという噂が立つと、政府は「大罪と不敬」の罪名で彼への逮捕状を出した [1]。

彼は逃亡したが、嵐の約半年前の1703年5月21日、匿名の情報提供者の裏切りによって、捕らえられた。彼は裁判で女王の許しが出るまでの収監と罰金と、7月29日から3日間にわたって3か所でさらし台にさらされるという判決を受けた。さらし台(Pillory)とは、広場やその他の公共の場所で、頭と両手を直立した木の檻に固定されて立たされるものである。1時間から2時間、集まった野次馬から、腐った果物、動物の糞、石ころ、レンガなど、どんなものでも受けなければならなかった。投げられた物によっては骨折したり瀕死の重傷を負うこともあった。

さらし台上の17世紀の偽証者タイタス・オーツ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TitusOates-pilloried_300dpi.jpg

ところが、彼は獄中で「さらし台への賛歌(A Hymn to the Pillory)」という批判書を書いて、さらし台の日に合わせて出版した。これはさらし台にふさわしいのは自分ではなく裁判官であり、自分の唯一の罪は真実を書いて発表したことであることを仄めかした韻を踏んだ詩だった。この詩の出来映えがよほど良かったようで、彼はさらし台にさらされた3日間、聴衆から笑いと時折花を投げつけられる以外には何も起こらなかった [1]。

下院議長のロバート・ハーレイ(後のモーティマー伯爵)の計らいによって、デフォーは今後女王に協力するという条件で、11月初めに釈放された。そしてその直後の11月中旬から、ロンドンでは嵐の序章となる悪天候が続いた。そして11月26日にそのピークとなる大嵐を迎えた。

(つづく

参照文献

[1] R. Hamblyn, Daniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003. 

2023年3月15日水曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(1)

 1. はじめに

ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660-1731)は、小説「ロビンソン・クルーソー(1719年)」、「ペスト(1722年)」、「モル・フランダース(1722年)」、「ロクサーナ(1724年)」などの多くの小説で知られるイギリスの有名な作家である。「ロビンソン・クルーソー」の執筆には、世界を周回した自然主義者(兼海賊)ウィリアム・ダンピアが絡んでおり、そのことは本書の「3-6-1 ウィリアム・ダンピア」の項でデフォーと共に説明した。

デフォーがまだそれらの小説を書く前の1703年11月に、英国史上まれに見る大嵐が英国を襲った。この嵐は、今日でも英国に嵐が襲うと1703年の嵐との比較が議論されるほどの被害を与えた。

デフォーはその時の各地の被害状況を調べて、1704年に「嵐(The Storm)」という重要な作品を書いた(正式の名称は「The Storm or a Collection of the Most Remarkable Casualties and Disasters that happened in the late Dreadful Tempest both by Sea and Land(嵐、あるいは恐ろしいテンペスト*によって起こった海と陸上での驚くべき死傷者と災害の記録)」である)。

デフォーの「嵐」はその手法から小説ではなく、災害を克明に記録した世界初のルポルータジュ(記録文学)と見なされている。そのため、これは嵐による状況や被害を多くの人々へ伝え、後世に残す貴重な文学となっている。

現代では災害が起こると、多くのジャーナリストが現地から災害状況の放送などを行なったり、被害状況をまとめたりすることを行っている。いつどこでどういうことが起こったのかということは、その時代においても後世においても重要な情報となる。

当時そういった概念がどの程度あったのかは定かでないが、デフォーはこの作品によって、いわゆるジャーナリストの先駆けの一人となった。彼がこの世界初の気象災害のルポルタージュを書いた背景や状況を解説する。

ダニエル・デフォーの肖像画
http://www.nmm.ac.uk/collections/displayRepro.cfm?reproID=BHC2648

なお、17世紀の英国では、ペストの流行ロンドン大火があった。ペストの流行では本の3-4-2 ニュートン力学の誕生」で述べたように、疎開先でニュートンが万有引力を発見した。ロンドン大火では、「3-3-3 イギリスの王立学会とフック」で述べたように、後に気象学者として活躍するジョン・フックが測量官として街の復興に活躍するなど、後の気象学と大きく関連する出来事が起こった時代だった。

*当時、当時の嵐の強さではテンペストは最強のランクと考えられている。

つづく

2023年2月14日火曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(5)

 6.    クニッピングの帰国

クニッピングはまじめで温厚な性格だった。またうまく人脈を築くことも得意だったようである。当初外国人を嫌っていた地理局長の櫻井勉とも良い関係を築いて信頼を得た [3]。ワグネルなど他の御雇い外国人たちと多くの交流を持っただけでなく、海外視察の際には外国の各地で知人を作った。

そして、クニッピングは休まずに驚くほどよく働いた。彼は明治15年(1882年)に採用されてから3年間毎日一日も欠かさず1日3回の観測と天気図の作成、警報と予報の発表を続けていた。中央気象台長となった中村精男はクニッピングを次のように評している [16]。

「クニッピング」氏は非常の勤勉家にて夙夜此の準備に没頭し,出ては全国を巡回して新設すべき測候所の位置を撰定し,入ては気象電報の符号,天気図の様式等を作製し、1ヶ年内に諸準備を完成し,事業開始後も毎日3回の天気図は必ず自ら調製して,予報,警報を発し病気又は公私の宴会等の場合に於ても天気図調成の時刻には必ず事務所に出頭し,在職中殆ど欠勤したこと無し。(原文はカタカナ)

当時気象台の日本人は「クニッピングは病気にもならずに、毎日絶え間なくずっと何年間も仕事を続けることがどうして可能なのだろうか」と話していた [3]。クニッピングは日本人の助手たちに1週間ずつ交代制で1日3回の気象観測を行うことを提案したことがあったが、とても耐えられないとの理由で彼らに断られた [3]。

明治18年(1885年)2月に今の皇居本丸にあった彼の宿舎が火事になり、10か月間築地のホテルへ住まいを移した。築地から気象台までは簡単には往復できないために、その時に初めて観測を助手たちに代わってもらった。

また、明治20年(1887年)9月には、クニッピングはアメリカの天文学者トッドとともに富士山に登って、気象観測を行っている。なお、富士山では明治14年(1880年)にアメリカの天文学者メンデンホールが東大の田中館愛橘らと既に気象観測と重力観測を行っていた。

クニッピングによる警報と予報は、クニッピングの御雇い契約が満期となる明治24年(1891年)3月まで続き、同年3月31日に退職した。これにより、以降暴風警報と気象予報は日本人のみで行うようになった。

彼は日本の気象事業を立ち上げたことに満足していた。彼は「この国にとってある全く新しくて必要なものを生み出すことができたのであり、私の持てる力を出し切り、最善を尽すのに骨身を惜しまなかったのである」と述べている [3]。彼は明治24年3月に勲三等瑞宝章が授与され、天皇陛下への内謁も賜った [17]。日本の気象事業に携わって9年、日本政府に初めて雇用されてから19年が経っていた。

クニッピングは帰国してハンブルグのドイツ海洋気象台に就職し、大正11年(1922年)にキールで79才の生涯を閉じた。ちなみに、クニッピングの娘は気象学者ケッペンの息子と結婚している。そして、ケッペンの娘は探検家であり気象学者だったウェゲナー(大陸移動説でも有名)の息子に嫁いでいる(このブログ「ケッペンについて2」l参照) [18]。

ハンブルグにあったドイツ海洋気象台
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kersten-Miles-Bruecke_1900.jpg)

(このシリーズ終わり:次は「世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(1)」)

参照文献

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.
12. 岡田武松. 本邦天気予報事業の今昔. 気象庁, 測候時報, 19, p 311-315, 1952.
13. 気象庁. 第4章 気象事業の確立. 気象百年史 Ⅰ 通史.  : 気象庁, 1975.
14. 気象庁. 第5章 明治期の天気予報. 気象百年史 Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
15. 気象庁. 第5章 中央気象台沿革記録. 気象百年史 資料 I 来歴文書. 気象庁, 1975.
16. 中村精男. 中央気象台沿革概要. 中央気象台, 1925.
17. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(10). 気象庁, 測候時報, p 171-175, 1955.
18. 岡田武松. 気象学の開拓者. 岩波書店, 1949.

 

2023年2月11日土曜日

日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(4)

 5.    暴風警報と天気予報の開始

5.1    最初の暴風警報

日本で最初の暴風警報が発表されたのは、明治16年(1883年)5月26日だった。その時発表された気象状況は、全国的に気温が上昇したが気圧は下降し、四国南岸に中心を持つ低気圧によって、四国、九州方面は風が強いというものだった。

東京横浜毎日新聞は、この時の神戸港の様子を6月1日付けで次のように報じている。神戸においては東京気象台より予め海が荒れるとの電報があったので、西国向けの船舶は出港を見合せた。25日午後より風が強く折々雨が降って波が高くなったが、27日午後4時過ぎには風波全く静まったので人々は安心した [1]。

初めての暴風警報の際の天気図(1883年5月26日:気象庁提供)

8月17日には今度は台風が襲ってきた。クニッピングは、台風は九州南部を東に進むと予想していたようだが、台風は実際には九州西岸を北上して日本海に入った。暴風警報は南西部一帯に出されていた。

この時長崎測候所は、東京気象台からの電報を受けてまだ風が強くないうちに長崎県庁、佐賀県庁、福岡県庁、熊本県庁に暴風警報を通知した。県庁は警察署に暴風が来ることを掲示させ、新聞社は号外を出して市中の周知に努めた。その夜から翌日にかけて風は猛烈となった [1]。

長崎港では風が南に変わると波頭が高くなって多くの船に被害が出たが、警報に基づいた処置がなければもっと被害が生じたかもしれない。三菱郵便船東京丸は18日の午後に横浜に向けて出航する予定だったが、出航を翌日に延期した [1]。このように暴風警報によって事前に適切な措置を取ることができるようになった。

暴風警報の際は信号柱に標識が掲示された。当初は簡単な標識だったようだが、明治36年頃から徐々に改善されて、円や、円柱、円錐などの形の標識を用いて複雑な情報を掲示できるようになった。

クニッピングは、より正確な情報を出すために1日3回の気象電報を要求した。また彼は日本に於ける気象事業を完備するため望ましいこととして、観測網を広げるとともに気象電報入手のための電信路を延長して、日本の風上となるアジア大陸に気象電報のための組織を整備することを提案した。当時少しでも警報の精度を上げようとすれば、まず風上の観測を拡充させようとするのは自然の流れだった。

5.2    天気予報の開始

当初は荒天が予想される場合に暴風警報を発表するだけで、天気予報については行っていなかった。クニッピングの気象事業に関する考えは、あくまで防災のためだった。ところが暴風が来襲する頻度はそう多くないため、その合間に気象台は何をやっているのだという非難が生じたようである。実際は警報を出そうが出すまいが、気象台が日々行う作業量はほとんど変わらなかった。

当時は日々の天気を予測するための気象学は未発達で、日々の細かな気象の違いをもたらしているメカニズムはよくわかっていなかった。そのため、当時の予報技術では、典型的な低気圧や台風の移動を予測して暴風警報は出せても、日々の雨や晴れの予測はかなり不正確だった。しかし、政府の人々も含めて周囲の人々は全国の気象情報によって現在の気象状態を知り、今後の気象を推定して警報を発表するものであるから、警報も天気予報の一部なのではないかと考えたようである。

クニッピングは警報だけのつもりだったので、予報の発表をなかなか受け入れなかった。最終的に地理局長櫻井勉がクニッピングに対して、約束が違うとして天気予報も出すように申し渡したとされている [1]。当時、気象用語の訳に関する定義や概念が定まっておらず、通訳を通してやりとりしている間に、顕著現象の予測と天気予報との間に取り違えが生じたのかもしれない。

クニッピングは、明治17年(1884年)5月9日に要望していた1日3回の気象電報が承認されたため、それと引き換えに天気予報の発表を決意した。初めての天気予報の発表は明治17年(1884年)6月1日だった。暴風警報の開始の1年後である。午前6時の天気図に載せられた予報は次の通り。「全国一般風の向きは定りなし天気は変り易し但し雨天勝ち。」(原文はカタカナ表記) [1]。天気予報は、天気図に「Indication(予報)」として記述された。

初めての天気予報の際の天気図(1884年6月1日: 気象庁提供)

天気予報の開始について、後年中央気象台長を務めた岡田武松はこう述べている [12]。

天気予報を出すのは暴風警報を出すよりもむずかしいものだから、クニッピング氏は暫らく様子を見ておられたのであろう。そうこうするうちに、予報はどうしたんだろうなんていう声が高くなったので、同氏も思い切って出す様になった。しかるに案の定、不中が度々あって評判がよくなかった。天気予報は簡単に当るものだと信じている世間も悪いが、無理やりに出す方も善くないともいえないこともない。しかし創業時代には、こんな無理をしなければ、事業が起こせないのだから仕方がない。

これは、当時暴風警報事業が天気予報と抱き合わせで行わなければならなかった状況をよく表している。明治20年(1887年)に東京に警報と天気予報を発表する中央気象台が設立された。

天気予報は明治21年(1888年)3月から官報の最後のページの欄外に掲載された。中央気象台は4月にいくつかの新聞社へ天気予報の新聞への掲載を依頼したが、ほとんど断られた。その中で福沢諭吉の主宰する「時事新報」だけが4月から天気予報を掲載した。すると人々は歓迎したようで、5月以降、順次報知新聞、朝野新聞、毎日新聞、読売新聞などの主要紙、続いて地方紙も掲載を開始した [13]。

天気予報はもともとがクニッピングが英文で書いたものを訳したもので、また当時の人々は天気予報に馴染みがなかったため、用語の理解がなかなか難しかったようである。天気予報で使われる「所により雨」、「天気変わり易し」、「天気不定(不安定)」などの用語は、今では当たり前であるが、当時は別途解説がつけられた [13]。

5.3    当時の天気予報の精度

以下に当時の天気予報の精度を挙げる [14]。ただし、的中と外れの定義ははっきりしない。明治21年4月から予報は1日1回の24時間予報になったので、精度は下がっている。またその頃クニッピングはヨーロッパ視察に出ているので、予報精度は代行した日本人による予報精度となっている。

期間

的中(%

外れ
(%)

 

明治176 月~185

71

3

8時間予報

明治186月~195

81

1

明治196月~205

81

4

明治203月~212

77

10

明治214月~223(クニッピング外遊のため、日本人による)

68

12

24時間予報

明治224月~233

69

13

 

人間の心理として、こういう情報は当たって当たり前であり、外れると厳しい評価となった。明治26年(1893年)6月7日に東京の「中央新聞」は、「中央気象台」と題する社説で天気予報の誤りが多いことを指摘し、虚実取り混ぜて罵倒して公職者としての責任はないのかと非難した。これに対して中央気象台の馬場信倫は、「氣象集誌」という論文誌で「中央新聞ニ答フ」と題して次のように反論している[14]。

天気予報とは翌日の天気はこうなると告げるものではない。晴天という予報は雨天 曇天よりはむしろ晴天の方が多く望めるという意味であって、決して雨天曇天でないことを保証するものではない。世界中のどの国のいかに優れた人でも予報の百発百中は望めないものである。(口語に訳している)

また「萬朝報」という新聞にいたっては、私設天気予報を明治29年(1896年)8月22日より紙上に掲載し、中央気象台の予報とどっちが当たるか読者に判断して欲しいという挑戦状を突きつけた [15]。気象台の予報のはずれたときに当ったことが時々あったので、評判は悪くなかったようである。

後年中央気象台長を務めた岡田武松は、この萬朝報による予報を、風向に重きを置き今でいう「気団」の移動に注意して、これを天気図による予想に加味するものだったと述べている [12]。

しかし、人々には天気予報が当たらないことが強く印象に残ったようで、日露戦争の頃には「測候所、測候所」と唱えれば弾丸に「当たらない」、いや「タマに当たる」からよくないなどと話題になった。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. 気象庁. 第2章 気象事業の誕生. 気象百年史 I 通史.  気象庁, 1975.
2. ブラントン. お雇い外人 の見た近代日本. (訳) 徳力真太郎.  講談社, 1986.
3. エルヴィン・クニッピング. クニッピングの明治日本回想記. (訳編) 小関恒雄, 北村智明. 玄同社, 1991.
4. 初期の日本気象業務史(4). 鯉沼寛一.  気象庁, 測候時報, 35, p 300-306, 1968.
5. 岡田武松. 測候瑣談. 岩波書店, 1933.
6. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(2). 気象庁, 測候時報, 21, p 297-304, 1954.
7. 気象庁. 第1章 前史. 気象百年史Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
8  佐藤順一, 山田琢雄. 気象観測法の沿革. 気象庁, 測候時報, 8, p 414-424, 1937.
9. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(4). 気象庁, 測候時報, p 363-371, 1954.
10. 堀内剛二. 本邦暴風警報創業始末(3). 気象庁, 測候時報, p 337-344, 1954.
11. 篠原武次. 明治19年版の気象観測法と第1回気象協議会. 気象庁, 測候時報, 24, p183-188. 1957.
12. 岡田武松. 本邦天気予報事業の今昔. 気象庁, 測候時報, 19, p 311-315, 1952.
13. 気象庁. 第4章 気象事業の確立. 気象百年史 Ⅰ 通史.  気象庁, 1975.
14. 気象庁. 第5章 明治期の天気予報. 気象百年史 Ⅰ 通史. 気象庁, 1975.
15. 気象庁. 第5章 中央気象台沿革記録. 気象百年史 資料 I 来歴文書. 気象庁, 1975.