2022年11月16日水曜日

風船爆弾(10)

 10    まとめとその後

風船爆弾は当時欧米ではほとんど知られていなかった高高度の高速気流(ジェット気流)という気象を利用するという卓抜なアイデアの兵器だった。風船爆弾は1. 概略と戦前の構想で述べたように、大陸間をまたいで攻撃できる世界初の兵器といえなくもないが、行き先は風任せであり、大陸間浮遊漂流兵器とでも呼べようか?

風船爆弾は、当時の日本が戦争末期にアメリカ大陸を直接攻撃してアメリカ国民を威嚇できる唯一の手段だった。アメリカ軍が対抗手段を取ったという意味では、この威嚇はそれなりに効果を発揮したといえるかもしれない。

ただ費用対効果という点でいえば議論があろう。このプロジェクトは、当時の日本の産官学を総動員した大規模な国家的プロジェクトだった。風船爆弾の開発費を除いた製造コストは1個1万円だった [11]。量産が進むともう少し安くなったようであるが、女生徒を含む作業者たちにまともな賃金が支払われた上でのコストだったのかどうかはわからない。

当時最新鋭の精密兵器である酸素魚雷が1本5万円と言われていた。風船爆弾を9000個の製造にかかった9000万円という費用は、価格だけ見ると大型の最新鋭空母に匹敵する(翔鶴級航空母艦の建造費は1隻約8500万円である)。

兵器が持つ残虐性は別としても、1トン爆弾を積んたドイツのV2ロケットによる攻撃をイギリス国民が耐え忍んでいた時期に、国家的大規模プロジェクトとして、35kgの爆弾を積んだ風任せの風船爆弾でアメリカ国民に恐怖を与えようという大本営の判断は、戦略的効果として、あるいは国民の労力からみて合理的なものだったのだろうか? 

風船爆弾を用いた攻撃は4月で終了した(予定では3月)。これはそれ以降は気流が適しなくなることが多いのと、手持ちのストックを使い果たしたためと思われる(既述したように一部で製造は続けられたようである)。しかし、アメリカは当時日本上空の強い西風が夏季には起こらないことを知らなかった(ジェット気流が気象学上のテーマとして出てくるのは戦後である)。

5月以降は攻撃が止まったにもかかわらず、アメリカでは8月まで大量の設備と人員を割いて、捜索と迎撃のための対応を続けた [1]。それでも、それらはアメリカの膨大な戦力から見ると微々たるものだったろう。

風船爆弾による攻撃は第二次世界大戦中に行われたが、この話は決して過去のものになったわけではない。例えば現在でも日本国内で第二次世界大戦中にアメリカ軍が投下した爆弾の不発弾がときおり発掘されている。一昔前までは浚渫船が日本近海で海底の機雷をひっかけて爆発し、犠牲者が出たこともあった。

同様に、風船爆弾の落下位置がすべて特定されているわけではなく、今後もアメリカで落下した風船爆弾が発見される可能性がある。1955年にアラスカで発見された風船爆弾の爆弾はまだ爆発力があることが確認されている [1]。今後も、1945年5月5日にオレゴン州ブライで起こったような事故が起きないとは断言できないだろう。


スミソニアン協会の芸術産業館の後方に展示してある日本の風船爆弾。これは太平洋を横断した後、1945年3月13日にオレゴン州エコーで回収されたもの。展示されている他の歴代の気球と比べてその大きさがわかる。[1]より。
(このシリーズ終了:次は風神と雷神

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.

2022年11月13日日曜日

風船爆弾(9)

 9 アメリカでの被害と報道

9.1 風船爆弾による被害

アメリカでは、1944年11月4日から1945年8月8日までに、120個の回収を含む285件の風船爆弾に関する事件が記録された。それらの内訳は風船爆弾の回収が32件、目撃されたが回収されなかったものが20件。風船爆弾の爆発に関連するもの件が28件。そしてその他の関連事件が85件だった [1]。風船爆弾に関する事件は1992年までに361件に増加している [3]。

アメリカとメキシコでの風船爆弾の発見か所(285か所)。アラスカなどは除く。東はミシガン湖の東まで、南はメキシコのアメリカとの国境付近まで到達したものがあることがわかる(クリックすると拡大する)。 [1]による。

風船爆弾による被害の中でもっとも悲劇的なものは、オレゴン州ブライで1945年5月5日に起こった。アーチー・ミッチェル牧師夫妻が自身と近所の 5 ⼈の⼦供を連れて山にピクニックに行ったときに、妻が木に引っかかった気球のようなものを発見して夫を呼んだ。

離れていた夫は風船爆弾の話を知っており、近寄らないように言おうとしたが、⼦供の1⼈が⽊から気球を下ろそうとして爆弾が爆発した。妻と子供の計6人がほぼ即死した。これはアメリカ大陸における民間人の唯一の戦争犠牲者となった。現在、そこには慰霊碑が立っている。

オレゴン州ブライの近くにあるミッチェル・レクレーション・エリアにある日本軍の風船爆弾で亡くなった6人の慰霊碑。

もう一つの顕著な被害は、送電線に風船爆弾が引っかかったためのワシントン州ハンフォードの原子爆弾製造工場での一瞬の停電だった。原子炉は常時冷却しておく必要があり、そのためには常時電力が必要であった。ただ、停電に対しては何重もの防護策が施してあり、問題は起こらなかった。しかし、工場の復旧には3日かかった。この停電は、その防護策の効果の確認になった [1]。それら以外には、2件の小規模な森林火災が記録されている。

9.2 風船爆弾に関する報道

アメリカの当局の懸念は、風船爆弾によるいつ、どこに落下して、どういう効果を及ぼすのかわからない恐怖が、国民に及ぼす影響だった。ちょうどドイツのV2ロケットがイギリスを攻撃し、その飛距離が伸びてアメリカの都市に落下するかもしれないという不安が高まりつつあったところだった。一方で日本軍による1944年秋から始まった神風特攻は、日本軍が新兵器でどこまでやるのかという意味で、さらなる恐怖を与えていた。

アメリカの歴史上初めて、アメリカ大陸が敵の持続的な空襲を受けていることを知ったとき、国民はどのような心理的反応を起こすだろうか。静かに動く無数の風船爆弾が無差別に家や工場に爆弾を落とすと考えたら、国民はどんなパニックになるだろうか。搭載物は生物兵器である可能性もあった。これらの脅威は潜在的な現実だった。米国政府の責任ある対応は、この新しい脅威についてできるだけ多くを語らず、現地の不安を和らげることだった。

日本では、どの程度の数の風船爆弾がアメリカに到達し、それがどういう影響を与えているかを報道によって知ろうとした。しかし、1945年1月4日にアメリカの検閲局は、新聞社やラジオ局に対して風船爆弾について一切の報道をしないよう要請した。これは自主的な要請であったが、この要請は報道の自由が認められているアメリカにおいて驚くべき自主性を持って協力が行われた。

しかし、その前の1944年12月に中国の新聞「タクンパオ」がアメリカの情報を拾って報道した。これを12月18日付けの朝日新聞が掲載した。それによる記事は次のようになっている [16]

日本文字の記された巨大な風船爆弾が、去る12月11 日、モンタナ州カシスペル付近の山岳地帯に落下しているのが発見された。風船爆弾は良質の紙製で迷彩が施され、その直径33フィート、容積1万8000立方フィート以上で、800ポンドの搭載能力があると推定される。風船爆弾の側面には自動的に気球を爆破するためか、爆薬が装置されてあった。

これを知った日本軍の上層部は、とりあえず構想に間違いがないことを確認できたことを喜んだ。しかし、入手できた情報はこの一つだけだった。この情報の少なさは、日本軍に風船爆弾の効果についての疑問を起こさせたようである。「ふ」号兵器の責任者だった草場少将は、風船爆弾の効果を疑問視するメモを残している [3]。

日本側は神経戦を仕掛けた。1945年2月17日に日本は同盟通信社を通して米国向けに放送を行った。それは、風船爆弾によって米国で500人(1万人という報道もある)の死傷者が出て、多数の火災が発生したという報道だった。そして、このような事態が、日本からの攻撃に対するアメリカ人の安心感を打ち砕いたと強調した。日本の宣伝担当者は、アメリカ国内で恐怖心を煽り、戦力をそぐこの努力を終戦近くまで続けた。また、気球に日本人を乗せた決死の大攻勢が始まるとも宣伝された [1]。しかし、この放送はアメリカで大きな反応を引き起こすことはなかった。

しかし皮肉なことに、報道の自主規制のため、国民に爆弾の危険を警告することが難しくなった。1945年春になっても犠牲者が出なかったので、この自主規制は妥当だったように思われた。しかし、上述の1945年5月5日のオレゴン州ブライでの事件が犠牲者を出した唯一の事件となった。

この悲劇的な事故を受けて、政府は報道抑制のキャンペーンを断念した。5月22日に陸軍と海軍の共同声明が発表され、風船爆弾の性質が説明され、そのようなものを見つけても決して触れないようにとの警告が出された。そこでは、風船爆弾は「散発的で無目的」であるため、米国にとって深刻な軍事的脅威とはならないとされた。森で見つけた奇妙な物体に手を出すと危険であるという子供向けのキャンペーンが直ちに開始された [1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.


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2022年11月9日水曜日

風船爆弾(8)

 8 アメリカによる風船爆弾の探知と迎撃システムの構築

8.1 レーダーによる風船爆弾の探知

風船爆弾を迎撃するためにはレーダーによる探知が考えられた。専門家の意見は、気球の金属のガス放出弁はレーダーに映るが気球そのものは映らない。高度3000mでは探知できる可能性はわずかにあったが、それ以上の高度では不可能であろうというものだった。いったい風船爆弾をどの程度レーダーで捕捉できるのかについての実験が必要だった。

まずは1945年2月14日、チェサピーク湾でアメリカ製のZMK気球に風船爆弾と同程度の金属製反射板をとりつけたものをモーターボートで引いて実験が行われた。これは簡単に移動して使用できる対船舶用のレーダーを用いて行われたが、モーターボートの反射の方が大きく、実験は失敗した [1]。

次に1945年2月20日に回収した日本製の気球を飛ばして実験が行われた。気球にヘリウムガスを注入すると高度300mまで上昇したが、劣化した表皮から1時間でガスが抜けて落下した。なんとか補修して打ち上げようとしたが、再び短時間で落下して修理不能の損傷を受けた [1]。

2月28日には良好な状態で入手した別なガス放出弁が付いた日本製の気球で実験が行われた。高度300mまで上昇したが、視界が悪い上に秒速30mの風に乗って飛び去ったため、探知実験を行う前に16km先の海上で見失ってしまった。レーダーによる気球の探知実験は何れも失敗した [1]。

8.2 風船爆弾迎撃のための組織的プロジェクト

海上からの異常な無線信号があれば、それは風船爆弾の接近に違いないと考えられた。アメリカ軍では、1944年12月6日から1945年4月中旬までに、風船爆弾が発信したと思われる電波を95回受信した。これは事実上、最も積極的な警戒態勢となった。しかし、実際には一部の飛行実験や経路確認用気球を除いて、風船爆弾には無線発信機が備えられていなかったため、電波の受信は迎撃の助けとはならなかった。さらに、受信した電波も海岸に到達する前に消えてしまった。信号の発信源を特定するための正確な軌跡はほとんど得られなかった [1]。

風船爆弾を組織的に迎撃する試験のために、これと同時に西海岸沿岸に6つの地区に分けてレーダー網を構築するプロジェクトが開始された。これは「サンセットプロジェクト」と呼ばれた。実は戦争末期になると、アメリカ大陸付近での日本軍の活動はなくなっていたため、西海岸の防空のための監視態勢はほぼ完全に停止していた。早期警戒レーダー局のほぼすべてが維持管理のみに置かれ、地上監視団は活動を停止し、情報・監視センターは閉鎖されていた。監視網の再構築には時間がかかった [1]。

西海岸で迎撃を担当していた第4空軍にレーダーなどの機材が到着して設置が開始されたのは4月末だった。風船爆弾捜索用のレーダーが実際に稼働し始めたのは5月7日だった。6月8日にようやく全てのレーダーが稼働を開始した。レーダーが探知した目標や怪しい電波を発する目標は、地上からVHF波による誘導によって戦闘機が目標に向かい、迎撃することになっていた [1]。

風船爆弾の探知に使われたSCR-584レーダー。https://en.wikipedia.org/wiki/SCR-584_radar#/media/File:Exterior_view_of_SCR-584.jpg 16p

しかし、このサンセットプロジェクトは日本軍の風船爆弾の発射が実質的に終わってから開始されたため、レーダーが実際に風船爆弾を捕捉する機会も飛行機が風船爆弾を撃墜する機会もなかった。シアトルの司令部には多くの風船爆弾の目撃情報が寄せられたが、そのほとんどが自国の気象観測気球や飛行船、あるいは気球と間違われることの多い金星であることが判明した。68回の迎撃が試みられたが、実際に迎撃した風船爆弾はなかった。この大規模な資源と労力を投入したプロジェクトが正式に終了したのは、8月1日だった [1]。

8.3 日本での発射場所の特定

西部方面防衛司令官は、より多くの情報が入手可能になるにつれて、風船爆弾は日本本土の東海岸中央部に位置する仙台近辺から放たれたと推定した。発射場所や組み立て工場がわかれば、そこを空襲して破壊することが可能と考えられた。

風船爆弾の発射地点をより詳細に特定するため、軍情報部は米国地質調査所に協力を要請した。アラスカとワイオミングで発見された風船爆弾のバラストの砂のサンプルがそこで分析された。それによると、それは浜辺の砂であり、化石があることから日本の海岸線の最北端の緯度であることが判明した。地質調査所の報告によると、この2つのサンプルの産地は、本州東海岸の塩釜近辺の可能性が最も高かった。次に可能性が高かったのは、東京の南東にある海岸で、これは実際に発射場があった上総一宮だった。

カナダでもバラストの砂で同様の分析を行っていた。その結果、スラグ(製鉄時に出るかす)が検出され、製鉄所の近くの砂であることが分かった。アメリカとカナダ間の緊密な連絡により、発射地点の絞り込みがかなり進んだ [1]。(ただし、実際の日本の発射地点の近くに製鉄所はない)

その結果、日本東部海岸の製鉄所がある地域を選んで航空偵察の指令が出された。1945年5月25日に撮影された航空写真を調査したところ、仙台市の海岸近くに部分的に膨らんだ風船と思われるものが発見された。また3つの組立工場が建設中であり、そのうち2つは仙台市に隣接する飛行場と誘導路で結ばれていた。この付近で唯一厳重に防衛された地域のように見えた。しかし、これらの発見は風船爆弾による攻撃がすでに終了していたためほとんど意味を持たなかった。また戦後の調査から、仙台近郊に風船爆弾の発射場があったという証拠はなく、航空偵察で何が撮影されたのかは疑問のままとなった [1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.

2022年11月7日月曜日

風船爆弾(7)

 7.1 森林火災への対応

風船爆弾は、まずは西海岸の森林火災が脅威と結論された。その結果、第9軍司令部、第4空軍、西部方面軍防衛司令部は、森林火災の消火に特別な支援を行うことになった。この計画は「ホタル(Firefly)プロジェクト」と名付けられ、多数のスティンソンL-5連絡機とダグラスC-47輸送機、そして約2700人の部隊(うち200人は空挺部隊)が消火活動のために火災の重要地点に配置された [1]。

7.2 生物兵器の可能性への対応

日本が細菌を運ぶ風船爆弾を飛ばすかもしれないという可能性が浮上すると、「稲妻(ライトニング)プロジェクト」と呼ばれる別の計画が開始された。陸軍当局は直ちに農務省に対して、家畜や農作物に奇妙な病気の兆候が現れたら、すぐに警戒するように提言した。それに基づいて、各地の保健・農業担当官、獣医師、農業大学などに指示が行われた。除染用の化学薬品やスプレーなどが、西部各州の戦略地点にこっそりと運ばれた [1]。

7.3 単発的な風船爆弾迎撃

1944年12月19日に第4空軍による風船爆弾迎撃の最初の試みが行われた。この日、4機の戦闘機がサンタモニカ地区で目撃された風船爆弾を捜索するようにロサンゼルス管制から指示され離陸したが、目標を発見することはできなかった。結局、1944年12月1日から1945年9月1日の間に、報告された風船爆弾を迎撃するために500機近くが発進したが、航空機によって北米大陸上で撃墜された風船爆弾は2個だけだった [1]。

その最初の風船爆弾は、1945年2月23日、カリフォルニア州カリストガ付近で、サンタ・ローザ陸軍飛行場のロッキードP-38によって撃墜された。2個目の風船爆弾は、3月22日にオレゴン州レッドウッドからネバダ州まで戦闘機によって追跡された。風船爆弾はリノ上空を通過し、近くの山中に降下した。捕獲しようとしてパイロットは着陸して自動車で追跡を続けたが、風船爆弾は丘の上でバラストと爆弾を投下して再び上昇した。陸軍の3機のベルP-63キングコブラのうちの1機が銃撃で風船爆弾を破壊した [1]。


1945年3月22日、ワシントン州ワラワラ陸軍飛行場から追跡中のベルP-63キングコブラが撮影した、ネバダ州リノ上空を飛行中の日本軍の風船爆弾の航空写真。[1]より。

また大陸とは別に、風船爆弾の飛行経路上にある最初の連合国領域は、アリューシャン列島だった。気流の関係からか、4月上旬から風船爆弾がこの地域の上空を通過した。対空砲火や戦闘機隊が風船爆弾の一部を撃墜することに成功した。4月13日にはF6Fヘルキャット戦闘機がアッツ島東部のマサカル湾上空の高度10 kmから12 kmの高度で、発見した風船爆弾の半数以上の9個を撃墜した。これが迎撃のための最後の飛行となった [1]。なお、アッツ島には日本軍の全滅後にアメリカ軍が航空基地を置いていた(「アリューシャンでの戦い ~忘れられた戦争~」の「7.4.3  日本軍の全滅後」参照)。

しかし、一般に風船爆弾の迎撃は成功したとはいえなかった。アメリカ大陸で目視で発見された風船爆弾はほとんどが高度6000m以下で、それは何らかの不具合で高度が下がった一部の風船爆弾だけだった。当時高高度での高速の気流の存在はアメリカでは十分に知られていなかった。高度10km付近で発見された風船爆弾は、高高度の風とは異なる地上の風で針路が予測されたため、その後の実際の針路や予想到着地点に大きなずれが生じた [1]。これらのため、西海岸の第4空軍では風船爆弾を十分に迎撃することはできなかった。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.



2022年11月6日日曜日

風船爆弾(6)

6.  アメリカでの初期の反応

アメリカで日本軍の気球が初めて発見されたのは1944年11月4日だった。1944年11月4日、カリフォルニア州サンペドロの南西105 km沖の海上で、海軍の哨戒機がボロボロになった大きな布の破片のようなものが浮かんでいるのを発見した。この未確認物体の残骸(気球本体と無線発信器)は船上に引き上げられ、製造標識からすぐに日本製のゴム引きシルクの気球であることが判明した(シルクであることから海軍のB型だと思われる) [1]。

2週間後に再び別の気球の破片が海から引き揚げられた。しかし、これらにはそれほど関心は持たれなかった。それから4週間後にワイオミング州とモンタナ州で気球が発見された。こうなると、何かが起こっているという関心が起き、国、州、地方を問わず、あらゆる政府機関に情報提供と気球回収への協力が要請された [1]。

その頃から風船爆弾に関する情報が集まってきたようである。12月11日にモンタナ州カリスペル近くで大型の紙製気球が発見された。12月19日には西部防衛司令部はワイオミング州サーモポリス付近で爆弾の爆発跡が発見された。12月6日の夜にこの付近で爆発音が聞こえたので、この日に気球が落とした爆弾がこの爆発跡の原因と考えられた。その12日後の12月31日、オレゴン州エスタカダ付近で紙製気球といくつかの装置が発見された [1]。

また、早朝に釣りに出かけた親子が、パラシュートか気球のような物体が静かに近くの丘の上を通過するのを目撃した。しばらくして、爆発音が谷間に響き渡り、その物体が消えた方向からわずかに煙が出ているのが見えた。二人がその場所に着いた時には、森の中に紙片が飛び散っていた。また、家で寝ている子供を寝かしつけていた母親は、窓からの突然の光と静かな暗闇の中での鋭い爆発音を聞いた。また丘の頂上からやってきた牧場主たちが、低木の茂みに絡まったしぼみかけの気球を発見した [1]。

気球を回収して詳しく調べるために、手間のかかる作業が行われることもあった。ここでは、1945年3月29日にネバダ州ピラミッド湖に無害な状態で着陸した樹上の気球を回収するために、木を切り倒している。

このような発見に、地元の軍当局は何が起こっているのかと困惑した。11月4日のカリフォルニア州サンペドロ沖での発見の際に、無線機や気象機器と思われるものが搭載されていたため、地元関係者は「海を渡って飛んできた日本の気象観測気球だろう」と判断した。しかし、12月にワイオミングで爆発跡が発見されると、気球が爆弾を運んでいたという説に注目が集まり、爆発跡の近くで見つかった破片が日本製爆弾の破片であることが判明した。他の気球の回収から気球は日本の新型攻撃兵器という結論に至った [1]。

陸軍省は、1945 年 1 月 4 日に西部方面防衛軍司令官をアメリカ西部におけるすべての気球情報活動の調整役として指定した。各種の報告書は、気球の目的の1つが焼夷弾または爆弾の投下であることを明確に示していた。しかし、他の可能性も見過ごせず、1945年3月末に陸軍省は、気球の目的を列挙した文書を作成した。その主なものは次のものである [1]。

  1.  細菌戦、化学戦、あるいはその両方。
  2.  焼夷弾、対人爆弾の輸送。
  3.  目的不明の実験
  4.  恐怖心を煽り、戦力をそぐための心理的圧力をかけるため。
  5.  諜報員の輸送
  6.  対空兵器

乾季に焼夷弾を広範囲にばら撒けば、太平洋岸の広大な森林火災を生じさせることができる。これは日本の意図するところであり、またアメリカ国民に与える心理的効果でもあった。ただ先に述べたように、日本にとって気球の発射に都合の良い季節は、アメリカの乾期とはずれていた。また、日本では意図しなかったが、気球を使った細菌戦の可能性もあった。これはもしそうだったらアメリカにとって極めて大きな脅威であった。このため、調査のため大勢の生物学者を動員するとともに、状況はできる限り隠蔽された。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.