2022年11月1日火曜日

風船爆弾(5)

 5    作戦の計画と実施

5.1    計画

陸軍登戸研究所で風船爆弾の開発を担当していた草場季喜(くさばすえき)少将は、1944 年2 月に気球の表皮材料についての見通しがついたことから、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃は不可能ではないとの結論を出した。所長の篠田鐐中将は陸軍兵器行政本部長に風船爆弾の研究経過を報告し、未解決の課題を解決するために各陸軍技術研究所などや軍部外科学者の協力が必要であることを進言した。これは受け容れられた [12]。

1944年4月に陸海軍の連絡会議が東京都若松町の兵器管理局で開かれた。この会議で、海軍のB型風船爆弾の製造には必要な資源や資材を大量に必要とするため、その大量生産は現実的ではないとの結論に至った。そして海軍の研究は中止され、風船爆弾の研究は陸軍に一本化された [3]。そのためB型の生産は300個にとどまった [1]。これも予定数だった可能性があり、実際に製造されて使われた数はわからない。しかし後述するアメリカが初めて拾った風船爆弾を含めて、B型はアメリカで3個が確認されている [3]。

この会議の直後、風船爆弾は「ふ」号兵器として正式に研究の認可を受けることになった。この兵器開発に200万円の予算が割り当てられた。草場少将を中心とする登戸研究所の研究班が飛行実験を担当するとともに、他の各研究所の計画を調整・実施し、計画全体の中心を担った [12]。

1944年7月、マリアナ海戦の敗退とサイパン島の失陥により、日本は窮地に置かれた。これを挽回するのは容易ではなく、戦局逆転のためのさまざまな「決戦兵器」が検討された。しかし、1944年9月段階で実戦での使用の見通しが立ったのは「ふ」号兵器だけだった。

風船爆弾の発射を行うために、選りすぐりの精鋭約3800名からなる気球連隊が組織された。連隊長は井上茂大佐で連隊本部は茨城県大津に置かれた。気球連隊は、3か所の発射基地(大津、上総一宮、勿来(なこそ))にそれぞれ対応する3大隊からなった。気球連隊は、それ以外に通信隊、気象隊、連隊材料敞、試射隊、既述の標定所を管理する標定隊からなった [4]。杉山元陸軍大臣は1944 年9月8 日に気球連隊の臨時動員を発令した [2]。

当初は風船爆弾に細菌を積むことも検討された。しかし、当時効果的と考えられたペスト菌などは、成層圏の-50℃という環境に長時間は耐えられないことがわかった。そのため、成層圏の環境に耐えられる牛疫ウィルスの研究と生産が始まった [15]。しかし、細菌兵器を用いれば、当然生物兵器による報復が想定された。1944年7月まで日本軍は中国で毒ガスや細菌戦を行っていて、アメリカからそれらの使用に対して報復の警告を受けていた [14]。そのためか細菌兵器の風船爆弾への搭載は行われなかった。

5.2    製造

1944年7月には製作方法が確立され、8月から一部生産を開始した。10月には各地の造兵廠管下にある製造所に製造命令が下さて本格的製作が開始された [8]。この気球の製作には多くの日本人が参加した。これに最も大きな力を発揮したのは、なんといっても女学校とその生徒たちだった。当時国家総動員法があり、1939年には国民徴用令が制定された。それに基づいた学徒勤労動員令や女子挺身勤労令によって風船爆弾の製造に限らず生徒たちは各種作業に徴用された。


多数の女子高校生が風船を貼ったり縫ったりする繊細な作業に動員された。 [1]より

各地の造兵廠だけでなく、全国約100 校の女学校で気球本体の製造や風船爆弾用の爆弾作りがおこなわれた [15]。また各造兵廠での作業にも多くの生徒が駆り出された。戦時中は学校の授業時間は短く、後になると授業は中止され、生徒たちは作業に専念した。しかし、この制作物がどのような用途に使われるのか、公式には知らされなかった [1]。多くの場所では、1945年の3月まで交代での24時間作業で製作が行われた。

まず学校の中に工場が作られ、何枚もの和紙を強度を上げるために貼り合わせる作業が行われた。貼り合わせた和紙は暖めた水酸化ナトリウムやグリセリンなどの軟化剤に浸して柔らかくされた。そうするとそれまでパリッとした紙が厚手のビニールのようにしんなり折りたためるようになったという [15]。

貼り合わせた紙は、乾燥された後に型紙に沿って紡錘状に裁断された。それから1個の気球に600枚の紙を接着して気球の上半球と下半球を作成した。それには90kgのこんにゃく糊が使われた。最後に上半球と下半球がバンドでつなぎ合わされて、1週間から10日ほど乾燥された。風船を組み立てる際に表皮を傷つけないように、気球を製作する少女たちには、ヘアピンをつけない、爪をきれいに切る、真夏でも靴下を履く、手袋をするなどの指導が行われた [8]。

それから先の最終組立と検査は、広い床面積が必要であるため主に軍の工場で行われた。気球に漏れがないかどうかを調べるには、直径10mの気球を膨らませるのに十分な大きさの建物が必要だった。そのためには、大きな劇場や相撲場が理想的であり、軍の工場だけでなく、東京の日劇ホールや 東宝劇場、東京・浅草の国技館なども使われた。これらの建物は床面だけでなく壁面の突起物もすべて紙で覆って、気球の表皮を傷つけないように改修された [1]。


気球の製造や膨張の実験には、大きな競技場と劇場が使われた。そのひとつである東京の下町の日劇ミュージックホール。 [1]より
この風船爆弾は約9000個が製造された。この製造のために日本中の食卓からこんにゃくが消えた。

なお、多くの学校では風船爆弾の製造は1945年の3月で終わった。しかし、高崎や満州の新京などの一部の学校では8月まで製作していたという [15]。新京で製造していたものは気球の大きさも小さいので、これは対米用の風船爆弾(甲型気球)とは異なる低空有人式の乙型気球 [3]であった可能性がある。しかし、高崎で製造されていた気球の目的ははっきりしない [15]。また、学校によっては紙の貼り合わせなどの作業を続けており、風船爆弾以外の目的で紙の製造が続けられていたのかもしれない。

5.3    作戦の実施

風船爆弾の効果を最大限に発揮させるため、15,000個の風船爆弾を用意することを前提に、以下のスケジュール案で計画が組まれた(比較のため、実際の気球運用を示す) [1]。

               月   予定発射数 推定発射数
1944年   11月         500           700
              12月      3,500        1,200
1945年    1月       4,500        2,000
               2月       4,500        2,500
               3月       2,500        2,500
               4月             0           400
             合計     15,000        9,300

 風船爆弾の発射基地は、福島県勿来(なこそ)、茨城県大津、千葉県上総一宮に設置され、それぞれ発射台の数は12台、18台、12台だった [14]。どの発射台でも1個の気球を飛ばすのに30分から1時間かかった。しかも発射が可能となるのは、晴天で地表の風が比較的弱い日の日出か日没の前後の数時間だけだった。これら3つの施設から打ち上げることができる気球は、合計で1日最大200個と考えられた。打ち上げに適した風が吹くのは、1週間に3-5日しかない。そのため、15,000個の風船爆弾を期間内に打ち上げるのは容易なことではなかった。

9月30日には参謀総長名で攻撃準備命令が下され、10月25日には気球連隊長に対して、攻撃実施命令が下された。この命令では攻撃目的を「米国内部攪乱」とし、この攻撃を「今次特殊攻撃ヲ『富号試験』ト呼称ス」となっている [2]。命令書には1944年11月1日開始となっているが、11月1日に勿来で作業中に自爆用爆弾の爆発により3名が亡くなる事故が起きた。これが関係しているのか気象の関係からなのか不明だが、実際に最初のアメリカ本土に対する風船爆弾の発射が開始されたのは、11月3日の0500時だった。

しかしこの時大津では、爆弾が外れて爆発して3名が死亡する別な事故が起きた [3]。この調査のため作戦はいったん中断され、11月7日から再開された。これらの事故は作業の不慣れによるものとされている。その後は死亡事故は起こらなかった。しかし、想定と異なり発射した風船爆弾が北西に飛んでいき、函館に不時着したものもあった。別に秋田に落下したものもあった [9]。

風船爆弾による攻撃が行われている間、風船爆弾に混ぜてラジオゾンデを搭載した気球が発射されたようである。これに搭載された軽量な無線発信装置は、あらかじめ選択された周波数で継続的に信号を発信した。複数の標定所によるこの信号の受信によって、かなり正確に飛行経路や高度を監視することができた [1]。

発射された風船爆弾は、東方向に約2000kmにわたって追跡され、その結果8時間から10時間はかなり一定の速度を示していることがわかった。この距離を超えると、追跡できずに方向と距離を推測する必要があった。本州の3つの標定所では、遠くの風船爆弾の位置の標定は困難だった。より正確な追跡のために、北海道の北にあるサハリンに標定所が設置され、30時間以上追跡することができるようになった。このような計画によって、日本軍は風船爆弾が米国に到達できることを確信した [1]。
 

5.4    発射作業

気球の発射(放球)は難しい作業である。ガスを注入して浮力がつき始めると、気球が一気に上昇して急に搭載機器を引っ張り上げるので、その衝撃で搭載機器にダメージを与える恐れがある。そういう場合に備えて、気球本体と搭載機器との間には衝撃緩衝装置がつけられた。直径が10mもある大型の気球は、少しでも風があるとその大きな体は風にあおられて、真横に飛んで樹木に引っかかったり、地面にバウンドしたりする。そのための対策も必要だった。

風船爆弾の発射のために、固定のための19個のアンカーを地面に埋めて、気球を充填する場所を準備した。まずアンカーの輪の中に空の気球を置き、気球の19本の吊索をアンカーにひっかけて気球を固定する。次に水素ガス充填ホースを気球に接続し、気球にガスを充填する。

充填が終わると気球から充填チューブを外し、そこにガス放出弁を装着する。長いロープを気球のスカートのようなバンドに設けられた各穴に通し、地面に打ち込まれたアンカーのフックに引っ掛けた。ロープの反対側は作業員が持った。それから運搬物を気球吊索に装着し、作業員は、持っているロープをゆっくり緩めて運搬物が地上から浮き上がるまで気球を上昇させる。装置等の点検が終わると、上空に達してから機器を動作させるための長い導火線に点火する。そして作業員は、持っていた長いロープを離して気球を発射した。この発射方法は、地表の風が穏やかなときだけ使われた。

風速が1m/sを超えると、次の方法が採られた。まず気球は地面付近に保持され、重しとなる特殊な砂袋を途中に挟んだ長いロープを気球のバンドに通して、このロープを地面のアンカーに固定する。このロープの長さは吊索とほぼ同じである。発射合図とともに、重しの付いたロープをつけたまま風船爆弾は地面からゆっくり上昇する。ロープが延びきると、ロープが張った衝撃でロープ途中の砂袋がちぎれてロープが気球から切り離される。ほぼ同時に吊索に下げられた運搬物が地面から離れて、重しの砂がなくなった気球はその後急速に上昇するという仕掛けだった。


風船爆弾発射時の作業のスケッチ。左は気球にガスの注入を開始したところ、右は気球が膨らんだところ、中央は発射直前である。[1]より


5.5    機密保持

風船爆弾による攻撃は、「どこから誰が放ったか判らない攻撃」が主たる目的とされた。そのため、「ふ」号兵器は極秘にされ、その部品への日本文字の使用は一切禁じられた [9]。製造工場で働く生徒などには通行証が与えられ、それがないと工場へは入れなかった。また、働く生徒たちは、製造しているものや作業に関することの口外は厳禁され、もし口外すれば軍法会議にかけられると脅された。また、作業は分割して行われていたので、生徒たちは自分たちが作っているものが何なのかは、ほとんど知らなかった。

作戦準備命令には「企図の秘匿に関しては厳に注意すべし」と指示されており、またアメリカから発射基地への爆撃を避ける必要があるため、打ち上げの際は非常に厳しい警備体制が敷かれた。気球連隊の要員は狭い一地域から容易なことでは出られなかった。また、農民や漁民の付近への立ち入りを禁止し、付近の鉄道では通過する車両の窓に鎧戸が下ろされた。それでも、風船爆弾が上昇するとそれを見ることを防ぐすべはなかった。しかし、海岸線は人家がまばらであるため、秘匿の問題はそれほど重要とはならなかった [1]。この作戦については、当時はほとんど語られることはなく、飛行の様子も公表されることはなかった。

風船爆弾の目撃者にとって、打ち上げの光景は忘れがたいものだったといわれている。地上から放たれた気球は、高度5000mで完全に膨張するように、地上では水素ガスを6割しか充填していなかった。そのため放出された時は、気球の下側の凹んだ部分と、その周囲からぶら下がっているたくさんの吊索の形状は、巨大なクラゲに非常に似ていた。朝日や夕日に照らされた白色または水色の気球は、その錯覚をより一層引き立たせた。発射要員などの風船爆弾の発射を目撃した人々は、あまりの奇想天外さにアメリカに向かっていることが信じられなかったという [1]。

これほど極秘に管理された風船爆弾だったが、アメリカでは見つかるとそれが日本製であることがすぐにわかった。後述するように最初にアメリカで発見された風船爆弾には、日本語の製造標識がつけられており、製造場所や製造日が記載されていた [3]。これは実験用の気象観測気球だったのか、対応が緩かったのかもしれない。しかし、その後も多数の風船爆弾で、部品につけられた日本語の製造標や検査合格証のようなものが見つかった [1]。風船爆弾には一般の軍需部品も数多く使用されており、そこまで監視の手が回らなかったのかもしれない。また製造に関するものだけでなく、作業者が忍び込ませたと思われるお守りやお札なども見つかった。変わったところでは、アメリカで押収された風船爆弾のバラストの砂中から、絵はがきが見つかった。それは書かれた住所から、山形県に住んでいる小学生が千葉県上総一宮で風船爆弾の発射作業に携わっている父宛に送ったものと思われている [1]。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.

2022年10月29日土曜日

風船爆弾(4)

4 風船爆弾の構造と性能

4.1 陸軍のA型風船爆弾の構造

後述するように海軍もシルク製の風船爆弾を開発しており、陸軍の紙製気球を使ったものは「A型」と呼称された。陸軍が開発したA型風船爆弾の気球は、直径約10m(最大容積500m3)で、気球の強度を出すために和紙が上半球は4層と下半球は3層に交互に縦横に600枚貼り合わせられたものだった。

気球の底部には水素ガスの放出弁がつけられた。気球中程のスカート状の吊りカーテンから運搬する装置や爆弾を吊るための多くの吊索が下げられた。その吊索で搭載物である高度制御装置、バラスト(砂袋と焼夷弾)、爆弾などを吊り下げた。風船爆弾の総重量は約182kgで、そのうち典型的な爆弾の積載量は、15kgの爆弾1個と5kgの焼夷弾4個だった [12]。

風船爆弾の構造。[1]を和訳

4.2 A型風船爆弾の飛行

A型の風船爆弾は、飛行中に日射によってガス圧力が高まると気球のガス放出弁からガスを放出する。夜間の低温によるガスの収縮やガス漏れのためにガス体積が減って高度が下がれば、高度制御装置がバラストを落として上昇する。これを繰り返すことによって、高度を維持した。

風速の予測からバラスト投下の必要回数を計算し、風船爆弾がアメリカ大陸上空で爆弾を投下するように予め適切な回数が設定された。設定された個数のバラストをすべて投下した後に、しばらくすると浮力が足りなくなって気球は落下を始める。設定高度である4000mまで高度が下がると、高度制御装置は搭載していた爆弾を投下して自爆する。その火は気球を炎上させる爆薬への導火線に引火して、風船爆弾自体の存在を消滅さえる仕組みだった [9]。

4.3 潜水艦を用いた海軍の風船爆弾計画

海軍では、中央気象台からの提案を受けてか、潜水艦搭載の小型気球に爆弾を搭載して、アメリカに近い洋上から発射する作戦を計画した。気球関係は相模海軍工廠が、気象関係は海軍気象部が担当して研究を進めた [13]。1943年3月には、航続距離3000kmの直径6m気球が開発され、日本の西海岸と東海岸の間1000kmの飛行が確認された。この形式の気球は、高度8000mで30時間以上滞空できることがわかった。

この気球は潜水艦の甲板で膨らませ、5kg焼夷弾1個を取り付けた。気球はアメリカから約1000km離れた地点で、夜間に潜水艦から発射される予定だった。高度制御装置はなく、昼間の日射による熱で加圧された余剰分の水素ガスを放出しながら飛行し、約10時間後の夜に浮力が低下した気球が、アメリカ大陸上で自然落下する計画だった [13]。

海軍は建造中の2隻の潜水艦(伊54と伊55)に気球発射設備の搭載に着手し、この作戦のために200個の気球が作られた。しかしマリアナ海戦の敗退とサイパンの失陥により、気球を使った攻撃の余裕はなくなり、この計画は1944年7月頃に中止された [13]。

4.4 海軍のB型風船爆弾

しかし海軍は、陸軍の風船爆弾計画と平行して別な風船爆弾の計画を開始した。それは、陸軍の気球のようバラストの投下と余分なガスの放出で高度を制御するのではなく、気球にガスを充填後に気球体積を一定に保つように、表皮に温度や高度による圧力変化に耐える強度を持たせた。そのために表皮は、重いゴム引きのシルク生地(羽二重)を利用した。

海軍が開発したシルク製気球は「B型」と呼称された。海軍のB型気球は、原理的には定積気球を目指したものと思われる。これは強度のある表皮を用いて気球内部を加圧し、周りの温度にかかわらず気球の体積、つまり浮力を一定に保つものである。

しかしB型の材質であるシルクでは耐えられる圧力に限界がある。実験飛行中に、日射の加熱によりガス圧の測定値が毎日午後3時頃に最高値となり、多くの気球がこの時点で破裂した。そこでその後、気球にガス放出弁を取り付け、気球内のガス圧が外気圧より約70hPa以上高くなると水素ガスを放出するようにしたところ問題は解決した [9]。

B型にはガス漏れによる浮力低下を補うため、簡単な高度制御装置が付いていた。約3kgのバラスト14個を、高度が下がると4回に分けて投下するようになっていた。そしてA型と同様に最後に爆弾を投下する仕組みだった[1]。

B型は飛行が安定し、追跡等が容易なため300個が製作された。風船爆弾による攻撃時に、試射隊によってA型と同時に2~3個のB型の風船爆弾が発射された [9]。

4.5 A型とB型の風船爆弾の違い

陸軍のA型と海軍のB型の気球の仕組みや飛行性能の違いについて簡単にまとめておく。なお物理学的に、浮力は気球の体積が押しのけた分の空気の重さと同じとなる。

気球表皮の材質はどちらも紙かシルクかであり、ゴムのラバーとは違って伸縮はしないので、どちらも気球の最大体積は一定である。原理的な構造からいうと実は両者には大きな違いはない。ただA型は表皮が紙で耐圧がないので、気球の内圧は、ガス放出弁を用いて常に外の気圧と同じにする。日射による加温によって内圧が気圧より高くなった場合は、ガス放出弁から水素ガスを放出して内圧を下げる。気温が下がって内圧が低くなった場合は、気球がしぼんでやはり内圧は気圧と同じになる。

そのため上空で満球になるように、地上では気球に最大体積の6割程度しか水素ガスを注入せず、しぼんだ形で発射する。上空でガスが抜けて浮力が下がれば、バラストを放出して気球重量を軽減して高度を維持する。バラストがなくなった後に浮力が下がれば、落下して設定高度(約4000m)で爆弾を投下して自爆する。

一方、B型は発射時から外気圧と同じか少し高くなるまで内圧が高くなるように水素ガスを注入する。そのため、気球は地上での発射時から満球である。上空に上がって気圧が下がるか、日射によってガス温度が高くなって、内圧と外圧の差が70hPa以上大きくなれば、その時点で表皮が破れないようにガス放出弁からガスを放出する。

気球の体積は変わらない。気球は押しのけた体積の空気の重さ(浮力)と風船爆弾の重さが釣り合った高度で飛行する。そのためB型は飛行高度が比較的安定していることが特徴だった。ただし、徐々にガスを放出して気球内圧が外の気圧より低くなれば気球はしぼみ、浮力が全重量より小さくなれば自然落下し、設定高度で爆弾を投下してて自爆する。

B型風船爆弾による1944年9月29日のテスト時の記録。[1]を日本語に改変。
なお、?は筆者による注記。

4.6 兵器としての発展

日本上空10km付近では11月頃から4月頃まで強い西風が吹いている。風船爆弾はこれを利用することで考案された。そのため、風船爆弾の利用は冬季の時期に限定されていた。

ところが、高度15km以上では夏でも強い西風が吹いていることがわかった。そのためこれを利用しようと登戸研究所では高度15kmまで上昇できる直径15m気球の開発に乗り出した。しかしこの大きさの気球は、浮力が大きすぎて地上での制御が極めて困難となる。少しでも風があれば発射は極めて難しい。結局試作は行われたが、取り扱いの難しさのために本格的に量産するまでには至らなかった [14]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.


2022年10月25日火曜日

風船爆弾(3)

 3.   風船爆弾の開発

陸軍では「ふ」号兵器の開発を登戸研究所(第九陸軍技術研究所)に託し、その責任者を草場季喜少将が務めた。

3.1    気球の材質と気密性

1933年頃陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て気球の空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかった。彼は軍籍を離れて、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でこんにゃく糊を塗布した和紙を使用することを考えついていた。なお、1940年に近藤は病死したが [10]、国産科学工業研究所は、風船爆弾の製造には民間企業として大きく貢献した。

「ふ」号兵器の開発において、登戸研究所では気球の素材として手に入りやすくて軽い和紙が検討された。その材料には繊維が長いコウゾが選ばれた。当時和紙は手漉きだったが、主な労働力は既に動員されており、1個に600枚の和紙を使う気球の製造予定数25,000個を手漉きで作れる労働力は残っていなかった。和紙を大量に生産するため、陸軍登戸研究所で機械で大量に漉く方法が開発された [1]。これによって製造された和紙の品質を均一とすることにも成功した。

気球表皮の貼り合わせた和紙は、中の水素ガスを漏らさないことが重要だった。原子番号1の水素原子(H)は最も最も小さな原子であり、水素ガス(H2)は、表皮の分子レベルの隙間から漏れやすい。長時間の気密性を保つため、合成ゴム、天然ゴム、いろんな糊材、油、油布などが試験された。その結果、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせると最も水素が漏れないということがわかった [11]。

こんにゃく糊には防腐剤と色素が混入されて、色の濃淡で気球皮膜のむらの有無を検査した。しかし、1 kgのこんにゃく芋から糊はわずか90 gしか出来ない [3]。こんにゃく芋の栽培には時間と手間がかかるため急な増産もできない。こんにゃく糊の風船爆弾への大量使用は、日本中の食卓からこんにゃくを消した。なお、こんにゃくはこのように戦前は糊としても使われていたようである。でなければ、こんにゃくを糊として使うということは思いつかなかったかもしれない。

アメリカで風船爆弾が捕獲されたとき、その気球表皮の素材がMIT(マサチューセッツ工科大学)などで分析された。この気球の気密性は当時のアメリカの気球の性能を凌駕していた。その秘密が和紙を貼り合わせた接着剤にあることはわかったが、接着剤が何で出来ているのかは戦後までわからなかった [3]。こんにゃくを食べない欧米人には、よもや食用の芋を用いているとは想像だにしなかったろう。戦後、風船爆弾は日本でこんにゃく爆弾と揶揄されたようだが、大量に準備可能でかつ水素ガスを最も漏らしにくい接着剤がたまたまこんにゃくだっただけで、水素を通しにくい接着剤の開発・発見は評価すべきものだろう。

3.2    高度制御装置

「ふ」号兵器の技術者にとっての最大の懸案は、気球が強い西風が吹く高度約10kmの太平洋上を50-70時間かけて飛行する間、この高度をいかにして維持するかということだった。この高速の西風に乗れないと、徐々に浮力を失った風船爆弾はアメリカ大陸にたどり着けずに、太平洋上に墜落してしまう。

雲のない成層圏では、昼間は気球は強い日射を受けて、中のガス温度が30℃以上にまで上昇する。そうすると、ガスの膨張のために気球の内圧が上昇して気球が破裂する。一方で、夜間は-50℃にまで下がるため、気球は低温で収縮して浮力を失って高度を下げる。そこで、高圧時の対処として気球の底部にガス放出弁を設置して高圧(高浮力)時にはガスを放出し、低浮力による沈降時には高度制御装置によってバラスト(砂袋)を投下することでこの問題を解決した [1]。なお表皮の製造状況によっては、低温のためだけでなく、水素ガスが気球表皮から少しずつ抜けて高度を下げることもあった。

高度制御装置は登戸研究所で開発された。それはアルミ製の車状の環で、環の周囲から最大で28個のバラスト(2.7kgの砂袋)と4個の焼夷弾が支索で吊り下げられた(焼夷弾はバラストを兼ねていた)。気球が浮力を失って、装置内のアネロイド気圧計によって予め設定された高度(290 hPa、約9000 m)以下に達するとカウントが行われた。そして、カウント毎に設定された爆薬が小型電池によって着火されて、それによって支索が切断されて、順番にバラストが落下するようになっていた。砂袋のバラストがなくなると焼夷弾が落下した。

支索が切断された際に、同時に3分間燃焼の導火線に着火され、バラストが落下しても高度が9000 mにまで回復しない場合は、3分後に次のバラストの支索を切り離すように設計されていた(高度が回復すれば、導火線が燃え切っても支索は切断されない) [8]。つまり高度が回復するまで3分毎にバラストを切り離すようになっていた。

バラストの投下で重量が軽減した風船爆弾は再び約11,000 mまで上昇し、強風に流されながらガスの減少や収縮によって再び設定高度まで沈降する。そうするとさらにバラストを切り離して上昇する。このプロセスを繰り返すようになっていた [1]。この高度制御装置の構造は最高の機密となった。

風船爆弾の高度制御装置とそれに吊された爆弾とバラスト(砂袋)。横を向いた筒がバラストとしても使われる焼夷弾。指定の気圧にまで下がると、カウント数に応じて車状の環の下につるされた砂袋(と最後は焼夷弾)が落下する。これが繰り返されて、最後に中央に下向きにぶら下がっている黒色の15kg爆弾が放出される。車状の環から上に延びている線は、3分後にさらにバラストを切り離すための導火線。[1]より。
なお後には、導火線を使ってバラストを切り離す方式ではなく、バケットを使って指定の気圧になるとスイッチが入って中の一定量(約3 kg)の砂を放出する型の高度制御装置も開発された。これは車状ではなく箱形で、簡便な小型の機構で確実に動作する優れたものだった [8]。この型もかなりの数が製作されたようであるが、製作後に空襲で失われた分もあり、これがどの程度実際に使われたかはよくわかっていない [3]。

3.3    成層圏の環境への対応

風船爆弾が成層圏で遭遇する技術的な問題は、装備品が遭遇する異常な低温と低圧だった。日本陸軍の装備は、すべて-30℃の環境下で使用できるように設計されていた。しかし、成層圏の気温-50℃という環境ではゴム部品やバネの弾力性が失われ、電池の出力も大幅に低下した。そこで低温用の部品や電池などについて、かなりの研究が行われた。また同様に高度約10 kmの気圧(約260 hPa)になると、バラスト投下用の爆薬が着火しなかったり導火線の燃焼時間が延びたりした。しかし、爆薬と導火線の問題の抜本的な解決法はなかったようである [8]。そのためにも爆薬や導火線を用いないバケット方式の高度制御装置の開発が望まれた。

日本にとって最も困難だったのは、風船爆弾の飛行を確認するために、安定して動作するラジオゾンデを開発することだった。ラジオゾンデとは、気象センサー(ゾンデ)などから得られた信号を無線で送信する装置である。成層圏の低温・定圧下でも長時間安定して動作することと、発信した電波が数千km先まで届く周波数を安定して確保することだった [8]。

その主な目的は、気球のガス温度の測定、内圧と外圧(高度)の測定、高度制御装置とガス放出弁の作動状況を送信することだった。また発信方位と時刻から、気球の飛行コースも推測できた。測定気圧から気球の高度(降下、上昇)がわかれば、バラストをいつ投下したかがわかる。当時、成層圏の過酷な環境で長時間稼働するラジオゾンデはなかった。風船爆弾開発の成功は、このラジオゾンデにかかっていた。

また、ラジオゾンデには電力が要るが、電池は低温になると性能が低下した。苦労したのは、-50℃という低温でも安定して動作する電池の開発だった。1944年4月から9月まで半年かかってさまざまな試験を行い、最終的に電池の周りを不凍液で覆って保温し,これを二重セルロイド製保温箱に収めて電源問題を解決した [12]。

ラジオゾンデの機能を確認するため、さまざまなモデルが開発され、気球に吊り下げられて実験が行われた。さまざまな研究の結果、ようやく適切なラジオゾンデが開発された。気球に取り付けて自由飛行させたところ、80時間連続で作動して西経130度まで飛行情報を伝えた。11月から3月までの冬季であれば、気球は3日(72時間)で太平洋を横断できると結論づけられた [3]。この高高度で長時間動作するラジオゾンデの性能は、おそらく当時世界最高のものだった。

3.4    飛行実験

作戦を成功させるためには実際の気球の飛行経路を追跡し、北米に到達する可能性が高いかどうかを確認しなければならない。発射場の準備と並行して、陸軍気球連隊(これについては後述する)は電波兵器の開発を担当する第五陸軍技術研究所の協力を得て、無線方位探知機を装備した気球位置の標定所の設置を行った。これらの標定所は青森県の淋代(古間木)、宮城県の岩沼、千葉県の上総一宮に設置された [1]。

そして、1944年2月から確認のための気球が上総一宮から打ち上げられた。これは後述の海軍の潜水艦を用いた作戦用に既に製作されていたものとされている [1]。その後、場所をいくつか変えて実験したようである。この実験による不具合を改修した結果、飛行経路や速度、投下装置などが正確に作動することなどがわかった [3]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.




2022年10月22日土曜日

風船爆弾(2)

 2 風船爆弾の発案

2.1 風船爆弾の目的

1942年4月のドーリットル空襲による日本本土への不意打ちを受けて、アメリカ大陸に対する報復攻撃が検討された。その候補として「ふ」号兵器の重要性が高まった。1943年4月に川崎市登戸の第九陸軍技術研究所(登戸研究所)に、東京工業大学学長の八木秀次、中央気象台長の藤原咲平、東京帝大工学部教授の佐々木達治郎、同じく真島正市を最高顧問として、アメリカ大陸を直接攻撃するための気球兵器の研究開発プロジェクトが本格的に開始された。これは「ふ」号作戦と称された [3]。

しかし、気球はアメリカまでおよそ8000kmの太平洋上を横断しなければならない。そのためには気球は直径10 mの大型となり、気球本体の重さも含めて200kg 位になる。高度維持のためなどなどさまざまな装置を積まなくてはならないので、最終的に積める爆弾の重さは30kg 位になる。さらに風まかせで飛行する気球のため、攻撃場所をアメリカのどことピンポイントで狙うことはできない。30kg程度の爆弾(実際には15kgの爆弾1個と5kgの焼夷弾4個)では、アメリカの産業や軍事施設に大きな損害を与えることは困難だった。

この攻撃の効果は、むしろいつどこに爆弾が落ちてくるかわからないという心理的恐怖による厭戦気分をアメリカ国民に与えることが考えられた。また乾季に焼夷弾を広範囲にばら撒けば、太平洋岸の広大な森林に火災を発生させることも考えられた。これは、アメリカ人に恐怖と混乱を与える一種の謀略兵器だった。

2.2 気象の研究

本書の「9-4-1 日本の高層気象観測」で経緯を述べているように、日本では1920年に高層気象台が設立された。そしてその高層気象台が上げた気球観測の結果、「9-4-2 高層気象台でのジェット気流の発見」で述べているように、1924年12月2日に高度10kmより少し低い高度で風速72m(時速260km)という強い西風を観測した。その後、このような強い西風はまれな現象ではないことが確認された。これは今日でいうジェット気流の発見だった(ジェット気流の呼称が定着するのは第二次世界大戦後である)。当時の高層気象台長の大石和三郎は、この結果を論文にして世界に発表したが、この論文がエスペラント語で書かれていたためか、日本以外ではほとんど関心を引かなかった。

ちなみに欧米でも高度10km前後の高高度で強い西風があることは、本書の「9-4-2」で述べているように、第一次世界大戦中に気球観測に携わっていたアメリカの物理学者ミリカンが気づいていた(ミリカンは後に電荷の発見でノーベル物理学賞を受ける)。しかし、彼はそれを例外的なまれな現象と考えており、冬季にほぼ常時吹いていることには気づいていなかった。欧米でこの概念が変わるのは、本書の同じところで述べているように、第二次世界大戦中に高高度を飛ぶようになった爆撃機が、強い西風にしばしば遭遇してからである。ヨーロッパでは向かい風のため途中で燃料がなくなって不時着したり、太平洋では強風により爆撃のための正確な照準が出来なくなったりしたことがあった。

中央気象台の気象学者だった荒川秀俊(1907-1984)は、戦時中の1942年秋にラバウルに派遣されたが、そこでアメリカ軍の激しい空襲に遭った。その際にこの空襲に報復できる何か手段はないかと考え、気球に爆弾を搭載して強い西風を利用したアメリカへの直接攻撃を思いついた。そして、このアイデアを同年11月に日本へ戻った際に中央気象台に申し出た [5]。1943年に中央気象台は、風船爆弾のアイデアを海軍にもちこみ、これが海軍の風船爆弾の計画となったとも言われている [3]。荒川は1943年夏に風船爆弾のアイデアを温め、次のような調査研究を行った [6]。

1)風船爆弾が飛行する高度はどの位が適当なのか?

2)風船爆弾を用いる季節はいつが適当なのか?

3)日本で発射してからアメリカ大陸上空に到達する迄の所要時間はどのくらいで、その到達確率はどのくらいなのか?

4)風船のたどる全行程の流線の変動の具合、つまり風船の拡散の程度はどの程度か?

5)実際に発射するにあたり気象学上、発射に適するかどうかを判断する手がかりはあるか?

一方で、陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)は、それまで研究していた「ふ」号兵器に気象の知識が不可欠であるため、それについて中央気象台に助言を求めた。そこで両者の思惑が合致したようである。荒川秀俊は登戸研究所の「ふ」号兵器の研究嘱託者の一人となった。

当時、アジア大陸から日本上空を通過する風については、かなり正確なデータがあったが、太平洋上空の風は未知だった。彼はアメリカ水路局が発行する北太平洋航路天気図(Pilot Charts of the North Pacific Ocean)の海抜高度での月平均の気圧分布と気温分布から、気象学を利用して気球が流されると思われる太平洋上空の気流の推定図表を作製した [6]。これは月平均値なので大まかな気流がわかるだけであった。

さらに、アメリカ大陸上空に到達するまでに要する所要時間や全行程にわたる流線の変動を知るために、彼は神戸海洋気象台の北太平洋天気図などを用いて、今度は1940年の冬季の毎日の高層気流図を作成した。これをもとに気球を発射した際の想定流跡線図を作成すると、約2~3日で米大陸の西海岸に確実に達すると考えられた。また天気図のパターンや発射場所によっては、気球がソ連領をかすめたり、拡散の度合いが大きくなることもわかった。それらをもとに、気球の発射時期、場所、拡散程度、到達に要する日時などを判断する資料が作成された [6]。

これらは、かなりの推定を入れて作られたものだったが、当時において頼りとする唯一の資料であり、この資料がこの兵器の促進の大きい推進力となった [7]。そういう意味で、風船爆弾の実現における気象学者荒川秀俊の役割は極めて大きかったといえる。

さらに仙台、新潟、輪島、米子、福岡、潮岬、伊豆大島の7つのラジオゾンデ観測点から、1942年から1944年にかけての高層大気の気象観測データが収集されて研究された。また地上気象観測から気圧の水平勾配が求められ、それから広域での高度10kmでの風の速さが地衡風を用いて推定された。この計算から、気球の飛行コース、速度、拡散を類推し、最適な打ち上げ位置を決定した。気球が太平洋を横断するのに要する時間は、30時間から100時間で、平均60時間と推定された [1]。

日本上空の高度約10kmで強い西風が安定して吹くのは11月頃から4月頃までである。この時期は圏界面(成層圏と対流圏の境)が高度9km程度まで低下する。アメリカが乾期となる夏季(5月以降)は、亜熱帯ジェットの位置が変わりやすくなる。梅雨が明けると、亜熱帯ジェットは日本を越えて北上して圏界面が高度15km以上に上昇し、日本は背の高い太平洋高気圧に覆われる。そのため、夏季は風船爆弾の飛行が計画されていた高度10km付近では強い西風は吹かない。

アメリカの乾期は春から秋にかけてなので、もし森林火災を風船爆弾の目的にするならば、夏季が好ましい。そのため、森林火災を風船爆弾の主目的にするのは気象学的に困難があったと思われる。実際に、意見を求められた当時の山林火災の権威九州大学教授鈴木清太郎博士は、11月では遅いと指摘したが、風船爆弾の到達の確実性を優先したため、攻撃は11月から開始されることになった [8]。

上図は典型的な気球の飛行経路、下図は冬季の典型的なジェット気流の様子。[1]を和訳。なお、上図で最後は時限発火装置による爆破となっているが、 [9]では時計は量産が間に合わず、大半の風船爆弾は時計を持って行かなかったとあるので、計画はあったものの実際には気圧スイッチで爆破したと考えられる。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.

2022年10月21日金曜日

風船爆弾(1)

 1. 概略と戦前の構想

1944年11月から翌年4月まで、日本はこんにゃく糊で和紙を貼り合わせた大型の気球に爆弾をつけて発射し、上空のジェット気流に乗せてアメリカ大陸を攻撃した。これは「ふ」号兵器(通称風船爆弾)と呼ばれた。およそ9000個が発射され、約280個(3%)がアメリカに到達したと考えられている。アメリカはこれに関する報道を自主規制したため、当時の日本ではその効果はあまりわからなかった。しかし、1945年5月にオレゴン州でピクニックに来ていた6名が、木に引っかかった気球を下ろそうとして、それに付いていた爆弾が爆発して死亡した。これはアメリカ国民に注意を喚起するために広く報道された。

風船爆弾が搭載していた爆弾は35kg程度で、その威力はたかがしれていた。しかし、この爆発でもし西海岸の森林地帯で森林火災が広がったら、その影響は極めて大きくなる可能性があった。さらに重要なことは、もしこの空からのいつどこで行われるかわからない攻撃がアメリカの一般国民に知られたら、アメリカ人の戦争継続への意欲に衝撃を与えたかもしれないことだった。もしそうなれば、他の潜在的な物質的被害よりも影響は大きいため、風船爆弾の攻撃目的の一つとされた。

風船爆弾は気象を利用したためそれに依存した面があったが、大陸をまたいで目標を攻撃する人類初の兵器ともいえた。また日本にとっても風船爆弾の製造は、紙漉きや紙の貼り合わせを含むその製造におそらく数万人の一般国民を巻き込んだため、極秘ではあったが他の多種の分散した兵器の製造と異なって、国民的なプロジェクトだったともいえる。戦後に関係者による数多くの証言が出ている。

戦後、これはこんにゃく爆弾とも揶揄されたが、その評価はさまざまである。アメリカの報告書にはこの攻撃について次のように書かれている [1]。

歴史家は人類最古の飛行物を使ったこの作戦を、アメリカへの報復のための哀れな最後の努力と見なす傾向がある。しかし、これは軍事的概念における重要な発展であり、陸上や潜水艦から発射される今日の大陸間弾道ミサイルに先行するものであった。

日本の風船爆弾(「ふ」号兵器)。[1]より 

ここでは、「ふ」号兵器(風船爆弾)について、その根本的な原理を担った気象を含めて詳しく見てみる。なお、「ふ」号兵器の「ふ」は秘匿のために風船の頭文字をとったものとされている [2]。ここでは「ふ」号兵器と風船爆弾という両方の名称を用いている。なお私には、なぜ気球爆弾ではなく「風船」爆弾という名称なのか?という疑問がある。この表現が揶揄なのか、自嘲なのか、純粋に秘匿のためなのか量りかねている。

歴史を遡ると、1933年に陸軍科学研究所の多田礼吉中将が、新しい戦争兵器を調査・開発する「空中輸送研究開発計画案」の責任者に任命され、いくつかの新しい兵器の開発を行っていた。後に陸軍登戸研究所で風船爆弾の責任者となる草場季喜(くさばすえき)中佐は気球を用いた兵器を提案した。それは満州東部から発射して宣伝ビラを撒いてウラジオストクを攪乱することが目的だった [3]。

一方でアメリカ側の資料(おそらく戦後に日本で聞き取ったか、日本の資料を参考にしたと思われる)では、「1933年頃、直径4メートルの小型の定高度気球に爆薬を搭載し、風で爆弾を敵の陣地まで約100km運び、時限信管でそれを投下するものが研究されていた」と書かれている [1]。それを用いれば、第一次世界大戦でドイツ軍がパリに対して使用した長射程砲と近い精度のものが得られると期待された。

しかし、このプロジェクトは1935年に中断された。しかし、気球を使ったこの「ふ」号兵器のアイデアは完全に中止されることはなく、その名称を含めて何らかの形で研究が継続されたようである。爆弾だけでなく、夜間に敵陣に歩兵を隠密に運ぶための気球も検討された [1]。

なお、陸軍科学研究所は1937年12月に登戸実験場を設けて、その実験場長には草場季喜中佐が任命された。登戸実験場は1939年9月に登戸出張所として拡張され、篠田鐐少将が所長となった。さらに陸軍科学研究所が1941年6月15日に第一から第九までの陸軍技術研究所となった際に、登戸出張所は第九陸軍技術研究所となった。しかし、他にもさまざまな秘密兵器を担当していたためその存在は公にされず、通称で登戸研究所と呼ばれたようである。この登戸研究所が引き続き気球を使った兵器の開発を担当した [4]。それが最終的に風船爆弾となった。ここでは、登戸研究所と記すが、軍の組織であることを明確にしたい場合は第九陸軍技術研究所を使っている。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. MikeshC.Robert. 出版地不明 : Smithsonian Institution Press, 1973, Smithsonian Annals of Flight, Number 9.
2. 大本営陸軍部〈9〉. 防衛庁防衛研修所戦史部. 朝雲新聞社, 1975.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.