2020年4月12日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(5)科学革命のその後

 フランスのデカルトらは、自然も分解していけば時計のように歯車のような機構から成っているという機械論哲学を唱えた。それに基づいて、あらゆるものの運動はニュートンの法則を用いた力学に従って記述でき、現在の状態がわかればその法則から将来を決定論的に予測できるという考え方が生また。またイギリスのフランシス・ベーコンは、自然の観測結果を広く蓄積し、その法則性を体系的・組織的に研究して、それを利用することを唱えた[3-2科学的な考え方への転換]
フランシス・ベーコンの肖像
 さまざまな加工技術が発展するにつれて、気圧や気温、湿度などの気象を定量的に観測する気象測定器が発明された[4. 気象測定器などの発達]。定量的な観測結果から決定論的な法則性を導こうと、いくつかの組織的な学会が中心となって気象観測網を構築し、各地で観測結果が記録され蓄積されるようになった(このブログの「学会と気象観測」を参照)。

 イタリアには実験アカデミー(Accademia del Cimento)、イギリスには王立協会(Royal Society)などの学会が作られ、それらは気象測定器の発明や開発も積極的に行った[3-3学会の誕生と気象観測]。特にイギリスではロバート・フックがさまざまな気象測定器の開発に大きな役割を果たした[3-3-3イギリスの王立協会とフック]

 組織的な気象観測網のために、離れた地点の観測値を比較可能(comparable)なものにすることに関心が払われるようになった。しかし、そのための温度計や湿度計などの測定器の測定基準の決定と較正方法の確立には、かなりの試行錯誤を要した。その較正方法の確立には、18世紀末までかかったものもあった[4. 気象測定器などの発達]

 18世紀末には初めてドイツのマンハイムに気象専門の学会であるパラティナ気象学会(Societas Meteorologica Palatina)が作られて、ヨーロッパなどに精密で統一的な観測網を展開した。約15年継続したが、ナポレオンによるマンハイム占領によりの活動は終わった。しかし、この気象観測網による正確な観測記録は、19世紀になって利用され、ブランデスによる天気図やフンボルトによる気候図が生まれるきっかけとなった[3-3-5気象を専門とする学会による気象観測網の誕生]

つづく

2020年4月8日水曜日

気象予測の考え方の主な変遷(4)大航海時代と科学革命

 15世紀、16世紀になって大西洋や太平洋へ乗り出す大航海時代が始まると、熱暑で赤道を越えられないとするアリストテレス気象学の気候帯は現実と合わないことがわかってきた。また精密な天文観測が行われるようになると、それまで地上界の現象とされていた彗星の発現が不生不滅であるはずの天上界で起こっていることなどが明らかになってきた。これは古代ギリシャ自然哲学全体への信奉や信頼を揺るがすきっかけとなった[2-3アリストテレスの気象論など古代ギリシャ自然哲学のほころび]

 一方で占星気象学を含む占星学が当たらないのは天体の観測精度が足らないためという考えから、ティコ・ブラーエはそれまでにない高精度の天文観測機器を開発するとともに、自ら気象も観測して法則性を求めようとした。 当時占星気象学者として有名だったケプラーは、ティコの結果を引き継いで天体の運動の研究を行った[3-1-2ティコ・ブラーエの占星気象学と天体観測]

 17世紀に入ると、ケプラーはティコの観測結果から火星の楕円軌道を発見した。ガリレイも精密な落体実験や木星の衛星の発見を行って、それらの結果からニュートンらによる科学の近代化が起こった。天上界と地上界に分け隔てなく作用するニュートンの一元的な「万有引力」の発見によって「高貴な天上界」と「通俗的な地上界」からなる二元的な古代ギリシャ自然哲学への信奉が終わった。

 アリストテレスの風の原因に代わる新たな風の原因も探られるようになった[3-1-4近代科学の父ガリレオ・ガリレイと風の考え方]。大航海時代には各地の風の観測結果から、貿易風などの地球規模の大気循環が論じられるようになった。ハレーは、1686年に東から西へ移動する日射熱による熱帯大気の収束発散から貿易風を説明した。この説明は百科事典の元となった「サイクロペディア」に記載されたため、19世紀まで広く使われた[3-4-2 ハレーによる貿易風の説明]

 一方でハドレーは、1735年に緯度の違いによる日射熱の違いと地球自転による運動量保存を考慮した、地球規模大気循環として貿易風の原因を発表した。これは地球自転の風に対する影響を考慮した革新的なものだったが、一部の研究者を除いてあまり一般には知られなかった[3-4-3ハドレーによる大気循環の説明]


ハドレー が考えた大気循環の模式図。
現在知られている大気循環とは異なる
 19世紀になって、ドイツの高名な気象学者であったドーフェが、一騒動あった後にハドレーの説を取り上げるようになって、ハドレーの説は有名になった。これ以降、ハドレーの説をベースに地球規模循環が力学的に議論されるようになった[5-3 地球規模の大気循環の解明への取り組み]

つづく

2020年4月5日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(3)ローマ時代と中世

 ローマ時代になるとキリスト教が全盛となった。当時のキリスト教の考え方では自然は神の領分であり、自然を解明することは神の領分を侵すことであり許されなかった。またキリスト教は人間の自由意思を尊重しており、神の関与を認めない運命決定論とは相容れなかった。そのため、キリスト教は占星術とそれを含むアリストテレスと古代ギリシャ哲学の書物を読むことを禁止した[1-3キリスト教による自然哲学の否定]。そのためイスラム圏を除くヨーロッパでは12世紀頃まで自然科学の研究は禁止され、自然の理解に見るべき発達はなかった。

 12世紀以降になると十字軍やレコンキスタにより古代ギリシャの書物がヨーロッパに流入し、その優れた考え方から自然哲学を含む古代ギリシャ哲学が復興した。これは12世紀ルネサンスとも呼ばれている。キリスト教も古代ギリシャ哲学の広まりを抑えられなくなり、神学者トーマス・アクィナスによって、キリスト教と古代ギリシャ哲学が両立できるように、キリスト教の教義と天体の地上界への影響との妥協が図られた[2-1-2古代ギリシャ哲学の復活]古代ギリシャの学問を研究するためにイタリアのボローニャなど各地に作られた学校は大学の始まりになった。アリストテレスの「気象論」も翻訳されて、その考え方は中世気象学のスタンダードとなった。

 12世紀以降、ヨーロッパに古代ギリシャ哲学が公に流入するようになると、その中にあった占星術は大流行し、婚礼や戴冠、開戦や手術などの数多くの物事が占星術によって決められた。

 占星気象学も当初は天体の運行と気象との間の因果法則を決定論的に解明しようという実証学的な学問だったが、明確な法則性が見つからないままに、干ばつ、洪水、猛暑や寒波などを予言する根拠のない星占いとなった。しかし農業などにとって天候の将来予測の需要は大きく、惑星軌道の予測などから1年先までの日々の天気予報が、印刷術の発明と相まって農事暦やアルマナックやエフェメリス(天文暦・天体暦)という形で広く普及した。その発行部数は聖書に次いで多かったという説もある[2-1-3占星気象学の普及]
エフェメリスの例(1688年1月)左ページの右列が天候

つづく

2020年3月30日月曜日

気象予測の考え方の主な変遷(2)天文観測と占星学の登場

 地球から見ると、惑星は順行、留、逆行など複雑な動きをする。アリストテレスの宇宙モデルでは、これらの惑星の細かな動きは説明できなかった。その後、エジプトのプトレマイオスは、アリストテレスの宇宙モデルでの惑星軌道の考え方を観測に比較的合うように改良した。彼の著「アルマゲスト」によって、観測に基づいた計算からいつどの惑星がどこに位置するかを、誤差は大きかったものの特定する(予測する)ことができるようになった[1-2プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり]
プトレマイオスの想像画
 古代ギリシャ時代の天上界が地上界に影響するという考えは、人間の生き方にも大きな影響を与えた。人間も同じように天上界の影響を受けると考えた人々は、運命決定論を唱えた。運命決定論とは、例えば人が生まれた時の星座、つまりその時の太陽の位置の背景にある黄道上の星座によって、その日や将来の運命が一意的に決まっているといった類いのものである。この考え方は今でも「・・・の星の下に生まれた」のような表現で日本に残っている。

 プトレマイオスは、著書「テトラビブロス」で天上界による地上界への影響を述べた。これは天上界の地上界への法則性を探る占星学の基本となった。そして天体観測による星々の位置関係に基づいて未来を予見しようとする占星術が編み出された。また同様の考えは、「天体の位置に従って気象の原因を考えるまたは予測する」という占星気象学を生み出した[1-2プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり]
黄道十二宮の描図。中央は二輪戦車上のアポロ(テトラビブロスより)
 これ以降18世紀頃に至るまで、大勢が天体の位置と地上の現象との関係を研究したが、法則性は得られなかった。しかし、過去や未来の天体の位置に基づいて未来や幸運を占う占星術は次で述べるように盛況になっていった。この占星術はプトレマイオスの天体運動論があって初めて可能になったものである。

つづく

2020年3月28日土曜日

気象予測の考え方の主な変遷(1) 古代ギリシャ時代

 気象予測の背景となる考え方の歴史的変遷を、「決定論的」と「決定論的でない」という2つ観点から概観しておく。これは「気象学と気象予報の発達史」の本における歴史的観点の一つともなっている。「決定論」という言葉は厳密には別な定義があるかもしれないが、この本では「原因や兆候がわかれば一意的に結果が決まると信じられている」という意味で使っている。「決定論的でない」とは、反対にそうではないという意味である。なお、[ ]内は本での詳しい記述箇所を示す。
気象予測の背景となる考え方の歴史的変遷
 古代ギリシャの自然哲学者でもあるアリストテレスは、アレキサンダー大王のバビロニア征服により入ってきたバビロニアの詳細な天文観測の結果をもとに、地球を中心として他の星が同心円の軌道を持つ宇宙構造のモデルを考えた(地球中心説)。そして宇宙を含む世界は、月とその先の「天上界」と、月より地球に近い「地上界」からなっていると考えた [1-1-1古代ギリシャ人による気象の観察と考察]。なお、別の回で述べる彗星は、当時地上界の出来事と考えられていた。

 アリストテレスが考えた天上界は、エーテル(アイテール)からできており、高貴なもので永遠に不生不滅である。また地上界は四元素(土、水、空気、火)からできており、通俗的で万物が流転して変化する。この世界観は「二元的宇宙像」と呼ばれて、その後ニュートンによる「一元」的な万有引力の考えが出てくるまで2000年間にわたって信じられた[1-1-2アリストテレスの宇宙像]。彼によって多くの人々がイメージできる宇宙構造のモデルが示されたことは、その後の科学にとって重要だった。このモデルがあったからこそ、後世に地球中心説や太陽中心説という議論に大勢が関与することができた。

 また、潮汐などは太陽や月の天上界の動きに従って起こる。そのため、アリストテレスは、地上界のさまざまな現象は天上界の天体の位置によって影響を及ぼされていると考えた。そして彼は天上界の地上界への影響をまず自然を通して説明しようとした。そのため、彼が述べた天体による地上への影響も、おのずと地震、洪水、嵐、豊作不作など自然や気象に関することが多かった[1-1-2アリストテレスの宇宙像]

 アリストテレスは有名な気象論「メテオロロジカ」を著し、その中で地上界の多くの自然現象を説明しようとした。彼は、気候帯は太陽高度(緯度)で決まると考え、太陽の傾き(clima)はその後気候(climate)の語源となった。また、彼は地上界において「蒸発気(exhalation)」という概念を創造し、乾いた蒸発気の一部が天上界に引っ張られて水平方向に地球を巡る風となると考えた。これは、その後風の原因として長く信じられた。また彼は風を空気の動態とはせず、風かどうかはその始原(実体)が乾いた蒸発気かどうかによって決まると考えた[1-1-3 アリストテレスの気象論]

つづく