2019年2月18日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要

気象学において、地上気象観測と同じように重要な位置を占める観測が高層気象観測である。これからわかった高層気象の規則性は大気力学の発展を後押しし、数値予報の発達などにも大きな影響を与えた。現在においても、高層天気図は天気予報に必須となっている。本において地上気象観測については、測定器の発達から各国の観測網、気象予報体制の整備までかなり詳しく説明した。しかし、分量の制限などで高層気象観測の始まりと成層圏の発見については、まだ説明が十分とはいえない部分があるので、いくつかに分けてまとめて補足したい。

ここ(1)では、まず概要だけ記しておく。本の8-4-1「有人気球に大気観測」に書いたように、18世紀末の気球の発明の後、しばらくは上層大気の探検的な意味合いで気球が使われて発達した。19世紀後半になると、気球などは空中での移動や偵察の手段として考えられるようになり、各国で飛行船や人力を含むグライダー・軽飛行機の開発が熱心に始まった。それは1900年の大型硬式のツェッペリン飛行船と1903年のライト兄弟による飛行機の発明につながっていった。しかし、それらは大気の低層で人などをいかに多く搭載して安全になるべく速く移動できるかが焦点だった。 

高層気象観測の気球はそれらとは少し目的が異なった。高層気象観測ではなるべく高い高度まで上がるという要請と、その途中のさまざまな高度で連続的に気象観測の記録を取りながら飛行する必要性があった。そのため、気象観測用の気球は、一般の飛行船とは異なる独自の道を歩むこととなった。当初気球観測には人が乗って結果を記録・確認する必要があった。そのため気球観測用のゴンドラは「若い気象学者を育てるゆりかご」といわれた時代もあった。 

しかし、高層では乗っている人間が酸素不足に陥って命に関わるという危険性がわかった。当時高空で人間に安定して酸素を供給するのは簡単ではなく、重い人間を乗せる気球の浮揚力と人間の安全性を考慮すると、高度10 km程度が有人気球が上れる限界と考えられた。そのため、軽くて手軽な自記測定器が発明されると、軽い無人気球による観測が主流となった。しかし、自記測定器は強い日射や低温の影響など気球観測ならではの特殊な環境のため、常に正しく動作・観測するとは限らなかった。そのため、安全性やコストからはなるべく無人気球による観測を行うが、測定の信頼性の確認は有人気球で行うことも19世紀末まで残った。

20世紀に入ると、高層気象観測はリヒャルト・アスマン(2)で述べたゴム製の気球と信頼性の高い自記測定器によって、専ら無人気球で行われるようになった。それでも観測結果を得るためには、住民らの協力によって自記測定器を回収する必要があった。しかし1930年前後のラジオゾンデの発明により、回収の必要がなくなり、観測と同時にリアルタイムで結果がわかるようになった。

その後戦争などの影響もあって、本の10-1-2「高層気象観測の拡大」で述べたように、高層気象観測の場所と頻度は劇的に増えて、本の9-5「高層の波と気象予測」で述べたように、上層の観測結果から大気力学に関する重要な発見が起こり、それは地上の気象に影響を及ぼしていることがわかった。また高層気象を使った考え方は数値予報などを通して、日常の気象予報を変えていった。

ここで、参考文献について述べておきたい。本の「気象学と気象予報の発達史」もそうだが、歴史上のことなので基本的に過去の文献をもとに、なるべく原典を確認して記述するようにしている。しかし手に入らない、あるいは翻訳できないものもある。原典を参考にした文章の2次引用を行う場合は、その内容についてなるべく複数の文献を確認しながら記述している。しかし同じ事象について書かれた複数の文献の内容が一貫しているとは限らない。信頼性を絞りきれない場合は、その項目の記述を止める場合もある。

一つ例を挙げる。「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)」で述べることになると思うが、1893年3月21日のエルミートらによる高層気象観測結果について、Rochas(2003)には、「13,500mで最低温度-51℃を記録した」と書かれていた。一方、松野(1882)では「気圧103mmHg(高度16km)で気温は-21℃であった」と書かれていた。そのまま無条件に採用することも可能だが、この高度において2500 mの高度差で30℃も気温が変わるだろうか?という疑問が湧いた。著者の思い込みや印刷時の誤植の場合も結構あるからである。

結論から言うとどちらの記述も正しかった(記録値が大気の実際の状態を反映しているかは別問題である)。それはこの場合は原典を見ることができて、そのエルミートの論文にグラフが付いており、このグラフから両者の記述に矛盾がないことがはっきりした。このグラフはエルミートの観測結果を述べる際にブログに掲載する予定なので、確認していただきたい。

本やブログでの記述は、不十分な部分もまだあるだろうが、中身についてそういう吟味を行っていることを理解していいただければ幸いである。

つづく
 

参照文献

  • 松野-1982-成層圏と大気波動の研究をめぐって, 天気, 29, 12,3-22.
  • Rochas-2003-L’invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)

2019年2月16日土曜日

テスラン・ド・ボール

フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(Teisserenc de Bort)は、農務大臣を父に持つ資産家の家に生まれた。彼は病弱だったため、南フランスのカンヌに滞在した際に気象学に興味を持った。本の6-2-3「ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」に書いたように、1878年にマスカール(Eleuthère Mascart)を長官とするフランス中央気象台(Bureau Central Météorologique)ができると、彼は直ちにそれに参加し、一般気象サービスの責任者となった。そこで彼は地球物理学の全球規模での理解を得るために、フランスの植民地や船などで気象観測を行った(Fonton, 2004)。
テスラン・ド・ボール

彼は大気循環や総観規模気象に興味を持ち、数々の解析を行って1886年に気象の活動中心(centers of action)という概念を生み出した。これは年平均気圧からの月偏差などを調べることによって、海陸分布や地形などによる長期間持続する特徴的な気圧分布を示したものである。例えばアゾレス高気圧やシベリア高気圧、アイスランド低気圧などがこれに相当する。これは、後年アメリカで活躍したスウェーデンの気象学者ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)などによる長期予報のための考え方に影響を与えた。

地球規模の高層風を調べるため、国際気象機関(International Meteorological Organization: IMO)が、1896年から2年間の国際雲観測年(International Cloud Year: ICY)を開始すると、テスラン・ド・ボールは私財を投じて、パリ郊外の丘陵トラペス(Trappes)に3ヘクタールの広大な敷地を持つ気象力学を解明するための観測所(Observatoire de météorologie dynamique)を設立した。彼は構内に写真機付きの経緯儀2台を離して配置し、電話線で結んで雲の高度や動く速度・方角を観測したりした。さらにIMOICYの観測結果を出版する際に、資金がなかったためその経費を負担した(Encyclopedia.com, 2008)。この高層風の観測結果は、本の8-3「地球規模の大気循環」に記したように、それまで知られていた大気循環による地球の熱収支に大きな問題を投げかけることになった。

1898年にテスラン・ド・ボールはそこで高層気象観測を開始した。当初は自記記録装置の回収が容易な凧を用いたが、フランス中が結果を知りたがった有名な「ドレフュス大尉のスパイ事件」の裁判の日に、凧のピアノ線が電信線を切る事故を起こした(Ohring, 1964)ためか、途中から探測気球による観測に変わった。彼は高層気象観測にさまざまな工夫を凝らした。

当時ドイツのアスマンらが気球の材質に重いゴールドビーター皮や加工絹を使ったのに対して、テスラン・ド・ボールはワックスなどを塗った軽くて安価な紙を用いた。彼はファンによって換気を行う洋銀製のきわめて敏感な温度計を造った。それは温度の変化にとても敏感ではあるが、衝撃には強く、急速に温度が換わる層を通過する探測気球に十分に適応した(Rotch, 1900)。
 
それまで他の観測所では屋外で気球にガスを充填して放球していたため、少しでも強い風が吹くと高層気象観測ができなかった。彼は敷地内に大きな回転する充填庫を作って、屋内で気球に水素を充填できるようにした上で、風向に応じて充填庫から屋外に気球を出す向きを変えることができるようにした。
 
トラペスでの気球放球の様子
(http://www.meteo.fr/interdso/Implantation/Trappes/Historique/ima-Hist/ballon1nb.jpg)

 
それと安価な紙製の気球によって、他の観測所に比べて観測頻度が格段に向上した。また、気球が遠くに風で流されないように、一定時間後に下部の気球からガスを抜いて上部の気球をパラシュート代わりにして落下させる装置なども考案した(Fonton, 2004)。

彼は1902年に高度10 km以上で等温層を発見したことを発表し、1908年にはそれを成層圏と名付けた。彼はその後もオランダに高層気象観測所を設置したり、1905~1906年にかけて大西洋上で貿易風の観測を行ったり、1907~1909年にかけては北極圏キルナ(Kiruna)での観測を精力的に主導したりした。1908年にはイギリス王立気象学会から成層圏の発見に対してサイモン・メダルを授与された(Shaw, 1913)。彼はフランスを高層気象観測の先端国に育てたが、1913年に亡くなった。

(次は、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1)

参照文献

  • Fonton-2004-Clouds, sounding ballons and stratosphere; Teisserenc de Bort: a life in Meteorology, http://www.meteohistory.org/2004polling_preprints/docs/ abstracts/fonton_abstract.pdf
  • Encyclopedia.com-2008- Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard Assmann.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
  • Shaw-1913-LEON PHILIPPE TEISSERENC DE BORT, Nature, No.2254, Vol.90, 519-520.

2019年2月5日火曜日

リヒャルト・アスマン(その2)

 ドイツ気象局にいたアスマンは、1892年に「航空学推進のためのベルリンドイツ協会(Deutscher Verein zur Forderung der Luftschiffahrt zu Berlin)」によって進められていた科学目的のための気球観測の計画を引き継いだ。ドイツでの有人気球観測は、1893年3月1日に始まった。搭載した測定器は水銀気圧計、毛髪湿度計、通風式乾湿計と単純な放射測定装置から成った。彼は1895年3月1日にドイツ皇帝(ヴィルヘルム II世)の視察の下で有人気球フンボルトに搭乗して高層気象観測を行った[1]。その後アスマンの強い提案によって、王立気象研究所の第4番目の部門として高層気象観測所が1899年にベルリンに設立された。アスマンは、測定器を搭載した凧と係留気球による定期的な上層観測を推進した[2]。一方で、ヨーロッパでの気球観測は1890年代後半には無人の探測気球(sounding balloon)による観測へとなっていった
気球「フンボルト」

 当時使われていた気球は、ニスやワックスを塗った紙や皮製の開口式定積気球で、高度が増加するにつれて上昇速度が小さくなり、一定高度まで上昇した後に揚力を失ってゆっくり下降した。しかし着陸までに時間がかかるため、風で流されて放球場所から極めて遠くに運ばれることも珍しくなかった。1886年にドイツの気象学者パウル・シュライバー(Paul Schreiber)は気球にはゴム気球を使うべきとの提案を行っていたが、それは忘れ去られてしまっていた。アスマンは1900年頃にドイツのゴム会社コンチネンタルとともに、薄くて軽く良く伸びるゴム製の気球を開発した[3]。
 
 アスマンの密閉式ゴム製の探測気球の特徴は、安価で使い捨てできたこと、平衡高度になることがないため膨張して破裂するまで上昇できることと、そのため同じ高度に留まることによる日射や換気不足の影響を受けないことだった。また、短時間で上昇して破裂するため風に流される距離が少なく、パラシュートを使って観測地点からそれほど遠くない地点で自記測定器を回収できた。これら数多くの利点があったことから、高層気象観測は定積気球に換わってゴム製気球によって世界各地で広く行われるようになり、それは今でも続いている[3]。
気象庁で行われている気球を用いた高層気象観測
(気象庁提供)


 アスマンは1900年以降は、ベルリンでこのゴム気球を用いた高層気象観測を行い、6回の観測が高度11 km以上に達した。1902年5月1日にアスマンはベルリンの科学アカデミーに、自身が発明したゴム気球に通風式乾湿計を搭載して、高層で暖かい気流を観測した証拠を示した[4]。これはテスラン・ド・ボールがパリの科学アカデミーに高層での等温層の観測を報告した3日後だった[3]。
 
 当時ベルリンで行っていた凧観測では、時折失敗した凧観測の壊れたロープが、電線や電話線、路面電車のケーブルの上に落下した。そのため、観測所をベルリンの南東およそ100 kmのリンデンベルク村の近くの小さい丘に移転させることになった。本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べているように、リンデンベルクに独立した科学機関として王立プロシア高層気象台(Das Königlich-Preußische Aeronautische Observatorium)が建設された。1905年10月16日にドイツ皇帝自ら立ち会いの下で開所式が行われ、自由大気の風、温度、湿度の鉛直分布の系統的な観測が行われた。そのような上層の気象情報は、科学的な要請だけでなく急速に発達しつつあった航空学の進展のためにも必要だった。そのため、航空機パイロットに対する無線を使った気象警報サービスがアスマンによって組織された。リンデンベルクにその本部を持つこの観測網は、25の測風気球観測地点と郵便局と電報局の600の雷雨の報告地点を持ち、1911年にその活動を開始した[2]。

 

1905年10月のリンデンベルクの高層気象台の開所式での気球室でのカイザー・ヴィルヘルム2世とアスマン教授(左上)。

 
 アスマンは1917年に夫人を亡くして非常に力を落としたが、ギーツェン大学はアスマンを名誉教授とした。彼は1918年5月28日にギーツェンで亡くなった。享年74歳だった。アスマンは、実用的な乾湿計、便利な高層観測用ゴム気球を発明し、それらは高層気象観測の信頼性や頻度を変えて、高層気象学の水準を向上させた。現在リンデンベルクの高層気象台はアスマンの功績を称えて、リヒャルト・アスマン気象台という名称になっている。

 また高層気象観測結果の解析を通して成層圏の発見にも大きな貢献を行った。本の9-4-1「日本の高層気象観測」で述べているように、日本の初代高層気象台長となった大石和三郎は、1912年からリンデンベルク高層気象台に留学してアスマンから親しく教えを受けた後、高層気象台を開設している。日本の高層気象観測はアスマンが元祖ともいえる。

(次はテスラン・ド・ボール

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard
[3]HOINKA, K. P.-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
[4]Assmann-1902-Uber die Existenz eines warmeren Lufttromes in der Hohe von 10 bis 15 km. - Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss. Berlin 24, 495-504.

2019年2月4日月曜日

リヒャルト・アスマン(その1)

 アスマンは気象の多分野で活躍したドイツの気象学者で、本の4-5-3「乾湿計」、8-4-2「気球による高層気象観測」、8-4-3「成層圏の発見」、9-1-5「航空の発展と気象学」など各所で出てくる。逆に一人の人物像として捉えにくくなっているので、ここで彼の経歴をまとめて補足しておきたい。
 
 リヒャルト・アスマン(Richart Assmann)は1845年4月14日にドイツのマグデブルグ市で生れ、1865年にブレスラウ大学で、医学を専攻した。初めはフライエンヴァルデ(Freienwalde)で医者を開業し、後に郷里のマグデブルグに移った。1869年にはベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学から医学博士の学位を受けた。しかしアスマンは気象学に興味を持っており、フライエンヴァルデで医者をやっていた頃から、そこの戦争記念塔の上に小さい観測所を設け、自記測定器で記録をとっていた[1]。その頃、アスマンはハンブルグのドイツ海洋気象台(Deutsche Seewarte)を含むドイツ気象局を訪問し、そこで有名な気象学者ウラジミール・ケッペンに紹介され、生涯連絡を取り合う仲となった。[2]

アスマンの写真
(http://www.wetterdrachen.de/images/assmann.jpg)

   1879年に、アスマンは故郷のマグデブルク市へ戻った。彼はそこで同級生で地元新聞「Magdeburgische Zeitung」の所有者で編集者だったアレキサンダー・フェーバー(Alexander Faber)と偶然出合った。フェーバーは自身の新聞に気象報告を提供するための測候所の設立を考えていた。アスマンは医者を止めて1881年にマグデブルグで農業気象のために協会を設立することとし、その協会は直ちに中部ドイツに250か所以上の観測点を持つネットワークを開設した。1884年には「天気」(Das Wetter)という気象学に対する人々の関心を向上させるための一般向け気象学誌も刊行し始めた。[2]


 
 

通風式乾湿計の外観(上図)と内部(下図)
気象庁の気象観測ガイドブックより

 1884年にアスマンはハルツ山地の最高峰ブロッケン山(Brocken, 1141m)で雲物理の観測を行い、顕微鏡を用いて雲粒子が液滴なのか泡なのかという疑問を完全に解決した。彼は、ハレ大学の無給の大学講師として講義を行ったりしたが、1885年にはハレ大学から中央ドイツの嵐に関するテーマで2個目の博士号を受けた[2]。1886年に、アスマンはベルリンの近くの王立気象研究所の職員となって、雷雨と極端現象に関する部門を率いた。本の4-5-3「乾湿計」で述べたように、ここでアスマンは、観測において放射や換気不足の影響を受けない通風式乾湿計(Aspirated psychrometer)を発明した[2]。これはその後地上観測や高層気象観測における乾湿計のスタンダードとなり、今でも使われている。

つづく

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard


2019年1月16日水曜日

古代中国での気象学(4)二十四節気

 中国の気象の考え方で重要なものは、今でも時候の挨拶などで使われることが多い二十四節気である。二十四節気は太陽暦に基づいているが、その必要性には太陰暦(太陽太陰暦)が関連している。その基本には、もともと暦がなくともある日数を勘定するにはどうしたらよいか?ということがある。もちろん昼間(日出・日没)の回数を数えるという手段があるが、古代の人々にとってわかりやすいのは月の満ち欠けを利用する方法だっただろう。月は約30日周期(29日になる場合もある)で形を変えるので、例えば満月を見れば、新月から15日経ったことがわかる。このため、主に中国や日本では暦に太陽太陰暦が使われた。

 ところが大きな問題として、月の公転周期は地球の公転周期とは同期していないので、月の満ち欠けを使った太陽太陰暦は、太陽の公転に基づく1年とは規則的な関係がない。太陰太陽暦では12か月が約354日となり、太陽暦の1年とは合わないため、月(moon)を基本とする「月」と太陽を基本とする「年」を合わせるために、太陽太陰暦では不定期に閏月を入れるなど工夫がなされることになった(紀元前432年頃発見された「19年はほぼ235太陰月」というメトン周期を暦にしてもあまり実用的とは言い難い)。これは言い換えると、太陽太陰暦の日付は太陽によって決まる季節と一定の関係にないということである。季節の進行は生活だけでなく農業などにも重要な情報である。そのため、太陽太陰暦のもとで季節の進行を手軽に知る別な情報が必要となった。そこで使われるようになったのが二十四節気である。

 二十四節気は地球上から空の太陽の通り道である黄道を15度ずつ24等分(約15日間に相当)し、その分点に名前を付けたものである(定気法)。そのため二十四節気は実際の太陽の動き(夏至、冬至など)、つまりおよそであるが季節に基づいたものになる。二十四節気は、少なくとも紀元前239年頃の本「呂氏春秋」には、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の8つの節気が既に記されている。「古代中国での気象(1)初期の考え方」で挙げた「淮南子」にも既に二十四節気が記されている。
 
 これは季節の到来についてのおおまかな季節予報と考えることもできる。二十四節気は今日でも気象情報などで季節の進みを伝えるのにしばしば使われている。ただし中国の大陸的な気候に基づいているので、海洋の影響を受けやすい日本の気候とは必ずしもぴったり合わない部分がある。