2018年12月15日土曜日

「天気の子」と気象改変

 「君の名は」などの映画で有名な新海誠監督が「天気の子」という新しい映画を作るという発表があった。この映画には天気を変えることができる能力を持つ子が出てくるらしい。この気象を操作するということは、昔から人間の願望だった。現在では気象改変として、人工降雨や気候制御などが真面目に研究されている分野である。


フランシス・ベーコン

 科学的な発想による気象を制御するという考えの発祥は、本の3-2-1「フランシス・ベーコンの自然科学に対する考え方」に書いたように、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが源になっている。自然を彼は利用するものと捉えただけでなく、そのために組織的、継続的な実験で収集した事実に基づく帰納的な科学的手法を主張した。この考え方は、組織的に科学を追究するイギリスの王立協会結成のきっかけの一つとなった。

 また、1627年に出版されたフランシス・ベーコンの「ニューアトランティス」という小説では、「ソロモンの館」の科学者たちが気象を観測してさらに操作する。現在アメリカのコロラド州にある国立大気研究センター(NCAR)は、このソロモンの館による気象研究をモデルにして作られたそうである。

 ただ、気象の研究者は気象を操作することには慎重な人が多いと思っている。本の10-8「カオスの発見」で書いたが、気象を司っている物理学は非線形である。これは、ある時のわずかな差が、時間とともに大きく変わっていくことがあるということである。気象予報に用いられる非線形のプリミティブ方程式では、観測での誤差などのわずかの差が時間とともにどのように発達していくかを正確に(つまり決定論的に)予測することは難しい。現在はアンサンブル手法などでその変動幅を把握しようとしているものの、この気象物理の非線形性が天気予報が当たりにくい原因の一つとなっている。

 さらに気候には、大気や海洋の物理学だけでなく自然界のさまざまな大気化学成分、大気中の微粒子、それらの生物とのやりとりが関わっており、まだよくわかっていない反応過程や応答過程も数多くある。成層圏のオゾン層破壊の問題を見てもわかるように、不用意に気象改変を試みると、想定していないところに大きな変化が起こる可能性がある。気象を司るメカニズムの非線形性だけでなく、それら未知の反応や応答も気候変化に関連する可能性がある。
 気象の操作は夢としてはよいが、近代気象学の大御所であったカール・グスタフ=ロスビーがかつて述べているように、私も自然を「むやみにいじると危険」[1]だと思う。

(次は「大気力学でのソレノイド」)

参照文献

[1]「嵐の正体にせまった科学者たち ―気象予報が現代のかたちになるまで」(Cox著、堤 之智訳)




2018年12月13日木曜日

学会と気象観測

 ルネサンス期に科学が大きく進展するが、その一因に学会が組織されたことがある。当時の学会とは、実験や観測などの研究家や愛好家が集まって情報を交換する場であった。さらに発展して学会自ら観測や実験を主宰したり、学会誌の発行などを行った。
フェルディナンドII世・デ・メディチ

 最初の自然科学の学会の一つは、本の3-3-2 「ヨーロッパ大陸での学会」で取り上げた1657年にトスカーナ大公フェルディナンドⅡ世・デ・メディチが作り、トリチェリなどが参加した「実験アカデミー(Accademia del Cimento)」である。この学会は、さまざまな実験道具の製作や実験を行ったことで知られている。しかし、気象の分野でも先駆的な活動を行った。3-3-2 「ヨーロッパ大陸での学会」で述べたように、学会自ら温度計、気圧計、湿度計を作り、ヨーロッパなどの各地に気象観測網を展開した。

実験アカデミーの会議の様子フィレンツェのガペロマルテリーニによるフレスコ画)

 
 パリでは1666年にルイ14世によって「王立科学アカデミー」が設立され、パリで気象観測を行った。3-3-3 「イギリスの王立学会とフック」で述べたように、イギリスでも1663年にロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)が王立協会(Royal Society)での気象測定方法を定めた。王立協会の気象観測網は北欧、インド、北米などにも広がった。しかし、気象観測網での観測は測定の基準(尺度)や観測機器、測定手法の統一が欠かせないが、それらはまだ十分に確立していなかった。そのことは測定器間や観測地点間の測定値の比較が十分にできないことを意味する。また当時科学が拡大していくと、総合的な科学学会での気象観測は重荷になっていった。

 そういう中で、気象の専門的な学会として1780年に組織的な気象観測網を作ったのが今のドイツのパラティナ気象学会である。この学会の特徴や活動は本の3-3-5 「気象を専門とする学会による気象観測網の誕生」で述べた。その中でこの気象学会の設立の経緯、観測に際して尺度(基準)の一貫性などにどれほど注意を払ったかなどの特徴、活動範囲、そして気象学史の中での位置づけ、そしてこの学会の終焉までを詳しく述べたつもりである。この学会は観測に用いる精密な湿度計の公募まで行った(その部分は本の4-5-1「吸湿湿度計」で述べている)。この気象学会の気象観測網がその後の組織的観測網のモデルになったと思われる。そういう意味でこの学会による観測は、その後の気象観測に影響を与えた重要な気象観測網になった。

(つぎは「「天気の子」と気象改変」) 




2018年12月12日水曜日

科学と技術

 もともと科学(science)は、自然哲学のように知識全般を指す広い意味を持っていた。そして、科学という言葉のもととなった自然哲学は、古代ギリシャを発祥とし、12世紀ルネサンス期に西ヨーロッパに伝わって、ルネサンス期に大学の中で培われた。

 しかし19世紀前半頃から、知識全般という意味を持ったscienceという言葉は、特殊で個別の分野の研究を指す言葉へと変わっていった[1]。そのことに対応して本の6章「嵐の解明と気象警報の始まり」で述べているようにイギリスの哲学者、W・ヒューエルはそういう個別の学問に職業として取り組む人々に対して科学者(scientist)という造語を作った。

 そういう意味でscienceの和訳である科学と言う言葉は的を射ている。つまり文字通り科学は分科された学問である。そして自然哲学はルネサンス期には復古学に近かったものの、アカデミックな純粋学問として扱われるようになり、論文や学会誌などの強固な科学制度が確立されていった。これら科学は純粋学問の追究の場であった。

 一方で、いわゆる技術は、当初伝統的な職人集団の中で生まれて伝えられてきた。そして印刷技術の発明は、一般の技術の発達や普及に貢献した。そういう中で15世紀頃から鉱山、土木、冶金、航海術などの技術が発達していった。これらは国家の発展に不可欠になっていき、例えば18世紀末のフランスの「エコール・ポリテクニーク」のように技術専門の学校が出現して、技術者の養成が始まった。同様な動きは当時のドイツの「高等工業専門学校」やアメリカの州立工科大学に見られる。これらの学校は大学とは全く異なる別組織である[1]。

 ただ、皮肉なことに技術の発明や革命はこの技術教育学校から生まれたものだけでなく、市井の研究熱心なアマチュアから生まれたものも少なくない。19世紀末から20世紀初めに活躍した鉄鋼王のカーネギー、自動車会社を興したフォード、ベンツ、ダイムラー、発明王であるエディソン、化学工業を興したデュポンなどはきちんとした教育を受けていない[1]。しかし、彼らが発明したものや技術は、その後多くの技術者によって実用化、商用化されて広まっていった。

 ここでのポイントは、19世紀頃までは科学と技術のそれぞれは独立して別物であり、両者の交流は少なかったということである。西洋ではある意味この余波がまだ続いており、欧米での大学における工学の位置は決して高くない面がある。アメリカやイギリスの総合大学の多くにはアカデミズムの追求の場として工学部がなく、工科大学などが別にある。ただし、近年は「科学に基づいた技術」が一般化し、科学と技術の違いは曖昧になってきている。それでも欧米には日本語の「科学技術」に対応する言葉はない[2]ということには留意する必要がある。

 そして、本の8-8 「気象予測技術の行き詰まり」で述べている19世紀末気象予報の行き詰まりに、この科学と技術という考え方の違いが大きく影響した。当時の気象予報方法は科学というより技術に近く、気象に興味を持つ科学者はいても、余技か一時的な関わりだった。気象学も力学や熱力学などを導入して科学らしくなりつつあったが、正統な学問とは見なされず、気象予報との接点もほとんどなかった。本の6-2-4「フィッツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報」で述べているように、1861年にイギリスでフィッツロイが始めた気象予報は、学者が集まった委員会によって中止された。また、19世紀末になって行われた気象予報に使われた手法はほとんどが天気図(等圧線分布)の解釈に依存しており、その解釈は人によって異なっていた。気象予報は主観的な職人技となっていった。

 20世紀に入ってからは、その主観的な気象予報技術をどうやって客観的な科学にするかということが焦点となった。途中の経緯は本に書いたので省くが、現在では気象予報を含む気象学はコンピュータを使った最先端の科学の一つである。また、本の10-7「気候科学の発展」で述べているように、新たに気候モデルができて、気象学を含む科学は気候変動などの大気や海洋などの地球環境の研究などに不可欠な科学となっている。

 ただ注意していただきたいのは、科学とは進歩とともに最新のものに置き換わっていくことがある。つまり現在の科学の理論は、今後より良い異なった理論に変わっていく可能性がある。これはニュートン力学が量子力学に置き換わったのと同じである。現在発表されている気候科学などによる結果も、今後の科学の発展に伴って変わる可能性はある。これは確立された科学に基づいた技術と異なり、発展期の科学が持つ宿命でもある。

(次は「学会と気象観測」) 

参照文献

[1]科学者とは何か(村上陽一郎著) [2]科学論入門(佐々木力著)





2018年12月11日火曜日

地球環境の長期監視の重要性

 この本の11-6-2「世界気象監視プログラムと地球大気開発計画」で大気組成の監視にも触れた。これに少し補足する。今日の進んだ科学においても、自然界のことは十分わかっているわけではない。不用意に改変を加えると、自然がどう応答するのかわからない部分がある。近代的な気象学を構築した一人である有名な気象学者グスタフ・ロスビーは、1950年代に自然についてこう述べている。「むやみにいじると危険なのです。自然は復讐するかもしれません。」[1]

 その一つの典型的な例が成層圏のオゾン破壊問題である。フロンは1920年代に冷蔵庫などの冷媒や噴霧剤として人工的に開発された。フロンは極めて安定で生物に対して毒性はなく、利用が容易なため当時は「夢の化学物質」としてもてはやされた。

 ところが1982年(南半球の)春に日本の南極観測隊は、地上からのドブソン分光計による観測によって、昭和基地上空でオゾン全量(地上から大気上端までの気柱総量)が極端に減っていることを発見した。このことは1984年に国際学会で発表されたが、イギリスなどの一部の研究者を除いてあまり関心を呼ばなかった。


TOMS衛星による2000年9月のオゾンホール
 しかし、その後イギリスの研究者ファーマンはハレーベイなどの自国の南極基地の観測値のチェックを行い、成層圏でのフロンガスの増加と上空のオゾン減少が関係していることに気付いた。実は、1978年から米国NASAのTOMS衛星は、南極成層圏オゾンを宇宙から広域にわたって観測していた。ところが、その観測データは自動的に品質管理されており、あまりに低いオゾン全量の値は誤りとして無視されていた。観測データには品質管理は欠かせないが、この時は定型的に行っていた品質管理があだとなった。(これは通説である。NASAの関係者は、1984年には1983年春のTOMS衛星での異常に低い値に気づいて、翌年の学会に向けて発表原稿を提出していたが、その前にファーマンらの論文が出たと言っている[2]。)
 日本やイギリスの観測結果を知ったNASAは過去のTOMS衛星観測データの再吟味を行い、その結果、南極上空のオゾン全量は南極の春に南極大陸を中心として面的に大きな穴をあけたように減少していることを発表した。アメリカのジャーナリズムはこれを「オゾンホール」と名付けた。[3]

南極基地でのオゾンゾンデ
(気象庁提供:https://www.data.jma.go.jp/gmd/env/
ozonehp/3-15ozone_observe.html)
 日本の南極観測隊によるドブソン分光計によるオゾン全量観測はこのオゾンホール発見の端緒となった。しかし、日本の南極観測隊はこの問題にもう一つ大きな貢献をしていた。それは本の11-5-2「IGYと南極観測」で述べたように、IGY(国際地球観測年)を契機に始められたオゾンゾンデによるオゾン鉛直分布観測である。日本がオゾン減少に気付いた1982年当時、米国やイギリスも南極でオゾン観測を行っていたが、それは地上からの全量観測のみであり、オゾンゾンデによる鉛直分布観測は中断されていた。ところが日本の昭和基地だけがオゾンゾンデ観測を続けていた。これによるオゾン鉛直分布観測データによってオゾンが破壊されている高度がわかり、オゾン破壊のメカニズムの解明に大きな貢献を行った。アメリカはこれらのデータをもとに、南極成層圏上空で航空機観測を行い、オゾン破壊の反応メカニズムを特定した。これにより、オゾン破壊にフロンが関与していることが決定的になった。

 この結果を受けた世界各国の対応は速かった。1985年3月にはオゾン層の保護を宣言した「ウィーン条約」が締結され、実際の規制行う「モントリオール議定書」は1987年9月に締結された。さらにモントリオール議定書は年を追う毎に規制を強化していった。この迅速な規制によりオゾン層の破壊は1990年代後半には止まったと言われている。1年の対策の遅れは、回復のための数年~十数年の損失(長期化)を招いた恐れがあっただけでなく、さらなるオゾン層の減少は、紫外線の劇的な増加を招いたかも知れない。そうなったら皮膚癌の増加など人間への影響だけでなく、他の動物や植物(農業)にも影響を与えたかも知れない。

 よく言われるように、人間にとって目の前に見えているもの、今わかっているとされていることが全てではない。自然の奥には広大な未知の分野がまだ残っている。地球の将来の潜在的可能性を含めて、成層圏のオゾン層問題は人間による自然界の監視や調査に対する考え方や重要性に対する貴重な教訓を含んでいると思われる。
 
(つぎは「科学と技術」) 
 

参照文献

[1]「嵐の正体にせまった科学者たち ―気象予報が現代のかたちになるまで」(Cox著、堤 之智訳)
[2] 「A Vast Machine」(Paul N. Edwards著、MIT Press,2013)
[3]「オゾン消失」(川平浩二、牧野行雄 著)






2018年12月7日金曜日

数学者オイラー

 主にロシアやドイツで活躍した数学者のレオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707-1783)は、1757年に流体の運動を、ニュートン力学を使って微分方程式で表現する「オイラー方程式」を発表した。この流体力学の基礎方程式の発明によって、大気を含むあらゆる流体を力学を使って普遍的に扱うことができるようになった。またオイラーはニュートンが発見した物体の力学法則を、今日「ニュートンの運動方程式」と呼ばれている3次元デカルト座標を用いた2階の微分方程式の形で初めて表したことでも知られている 。オイラーはパラティナ気象学会が行った気象観測の呼びかけた際に、それに応じた学者の一人でもある。

オイラー

  オイラーはサンクトペテルブルグで流体の講義を行っていたが、その最後の講義ではいつも講義ノートを破いて橋から紙片をネヴァ川に流し、生徒にその動きを観察させていたらしい。ある年に数学者ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736-1813)がオイラーを訪ねてきてその最後の講義を聴いていた。オイラーがいつものように最後の講義で紙片を川に流すと、ラグランジュは橋から川に飛び込んで川の流れに乗って紙片の動きを観察したという[1]。

 流体力学や気象学では、オイラー的な見方(Eulerian method)とラグランジュ的な見方(Lagrangian method)という2つの考え方がある。この逸話が流体運動をオイラー的に観察するかラグランジュ的に観察するかの違いのいわれとなったそうである。
ネヴァ川


 

 

 

 

 

(次は「地球環境の長期監視の重要性」)

[1] James Rodger Fleming 2016: Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology, The MIT Press.