被害の状況とその後
台風の中で軽空母「カウペンス(Cowpens, CVL-25)」では、飛行甲板の1機のF6Fヘルキャットが波の衝撃で跳ばされて燃料に火がつき、7機が波にさらわれた[5]。軽空母「モンテレー(Monterey, CVL-26)」では波で70度まで傾いて、搭載機が格納庫内で隔壁にぶつかって火災が発生した。それによって機関室員が避難したために一時航行不能になった。この火災と波にさらわれたものとで合わせて18機を失い、16機が破損した。実はこの船には後に大統領になるジェラルド・フォード(Gerald Ford)少尉が乗り組んでいた[5]。彼は艦長から格納庫の火災を調べるように命令され、格納庫内でぶつかり合う飛行機を避けようとして危うく海に投げ出されそうになった。「モンテレー」は幸運にも火災が鎮火し、航行可能となった。[3]
台風の中で波浪によって傾いた軽空母「ラングレー(CVL-27)」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Langley_(CVL-27)_and_battleship_in_typhoon_1944.jpeg
駆逐艦隊はひどい状況に陥っていた。転覆しないように波に向かって操船しようにも燃料を節約せねばならず、また操船する艦長も必ずしも十分な経験を持っていなかった。駆逐艦「スペンス(Spence, DD-512)」は燃料があと24時間も持たないほど欠乏していた。同艦はタンカーからの給油を待っていた。そこを台風による激浪に巻き込まれてバラストタンクに海水を注入する時期を失した。同艦は何度か横転しそうになりながらも耐えていたが、艦内に流れ込んだ海水で電気系統がショートして排水ポンプが機能しなくなり、1110時に転覆した。313名の乗組員の中で助かったのは23名だった。[3]
駆逐艦「ハル(Hull, DD-350)」はタンカー群を護衛する役目だったが、同じ位置に留まりすぎた。「ハル」は旧式の駆逐艦だった上にさらに500トンの装備を追加してトップヘビーになっていた。昼頃瞬間最大風速57 m/sを記録して、激しく傾いた際に煙突から浸水して沈没した。無理解な艦長が、周囲の進言を無視して強引に波間を突破しようとして沈没したという説もある。これが小説「ケイン号の叛乱」のきっかけとなった[5]。202名の乗組員の中で助かったのは62名だった[3]。
真珠湾で日本の特殊潜航艇を沈め、またキスカ島で潜水艦「伊七」を沈めた旧式の駆逐艦「モナハン(Monaghan, DD-354)」は、バルブが故障してバラストに海水を注入できなくなった。1130時頃電気系統が故障して機関が止まり、1145時頃に沈没した。256名の乗組員の中で助かったのはわずか6名だった[3]。
他に護衛空母2隻。重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、護衛駆逐艦2隻が大破し、軽空母4隻、護衛空母3隻、戦艦1隻、駆逐艦1隻、護衛駆逐艦2隻、タンカー1隻が小破した[3]。他の空母でも甲板の飛行機が流されたり、他の飛行機にぶつかって多くの飛行機が破損したりした。艦船搭載の航空機を含めると、飛行機の被害は146機に達した。
台風の波で搭載機とともに傾く空母「カウペンス」(1944年12月18日)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Cowpens_(CVL-25)_during_Typhoon_Cobra.jpg
激しい嵐の中で一部の艦は、沈没した艦の乗組員救助に決死の努力をしたが、しかし沈没した船の乗組員は、サメが遊よくする広い海域に散らばっていた。18日午後遅くには嵐は収まり晴れてきた。19日に給油が終わると、ハルゼーは艦隊を800m間隔で横一列に並べて海面を梳くように、遭難者の捜索を開始した[2]。合計で92名が救助されたが、結局780名が亡くなった。
艦隊がウルシーに帰投後、12月26日からこの海難に対する裁判が行われた。法廷はハルゼーの安全への責任が何に対しても勝ることを述べて、嵐の場所と経路を予測する際の彼の「大きな過失」を挙げた。しかし、それとともに彼を支援する気象学の能力が、作戦に対する期待と要求の重要性に鑑みて経験と体制の点で不十分であると結論した[1]。
アメリカ太平洋艦隊司令長官だったニミッツは、この裁判の後、「後に不必要だったのではないかと言われることを恐れて、予防措置を惜しむことほど海の男にとって危険なことはない。数千年にわたる海の安全は確実にこのことを示している」と訓示した[3]。そして彼は、西太平洋に3隻の気象観測船を要求し、気象観測機を配置した[1]。また、この事件を教訓として、後にハワイに合同台風警報センターが設置された。
ハルゼーは5月に第3艦隊に復帰するが、彼が率いる第3艦隊は翌月台風に再び見舞われることになる。
Reference (このシリーズ共通)
[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/
[2]Carl M. Berntsen, 2007, TYPHOON COBRA AND CARRIER TASK FORCE 38, http://ussdehaven.org/typhoon_cobra.htm
[3] Samuel J. Cox, Typhoon Cobra. The Worst Natural Disaster in U.S. Navy History, 14.19 December 1944, 2019
[4] Choi. et al., 2017, Storm waves during Typhoon Cobra (Halsey's typhoon) in December 1944, Procedia IUTAM, 25, 44-51.
[5] Sebastien Roblin, During World War II, the U.S. Navy Tried to Beat a Typhoon, February 26, 2017, The National Interest, https://nationalinterest.org/blog/the-buzz/during-world-war-ii-the-us-navy-tried-beat-typhoon-you-can-19583