2020年8月19日水曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(3)

被害の状況とその後

 台風の中で軽空母「カウペンス(Cowpens, CVL-25)」では、飛行甲板の1機のF6Fヘルキャットが波の衝撃で跳ばされて燃料に火がつき、7機が波にさらわれた[5]。軽空母「モンテレー(Monterey, CVL-26)」では波で70度まで傾いて、搭載機が格納庫内で隔壁にぶつかって火災が発生した。それによって機関室員が避難したために一時航行不能になった。この火災と波にさらわれたものとで合わせて18機を失い、16機が破損した。実はこの船には後に大統領になるジェラルド・フォード(Gerald  Ford)少尉が乗り組んでいた[5]。彼は艦長から格納庫の火災を調べるように命令され、格納庫内でぶつかり合う飛行機を避けようとして危うく海に投げ出されそうになった。「モンテレー」は幸運にも火災が鎮火し、航行可能となった。[3] 

台風の中で波浪によって傾いた軽空母「ラングレー(CVL-27)」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Langley_(CVL-27)_and_battleship_in_typhoon_1944.jpeg

 駆逐艦隊はひどい状況に陥っていた。転覆しないように波に向かって操船しようにも燃料を節約せねばならず、また操船する艦長も必ずしも十分な経験を持っていなかった。駆逐艦「スペンス(Spence, DD-512)」は燃料があと24時間も持たないほど欠乏していた。同艦はタンカーからの給油を待っていた。そこを台風による激浪に巻き込まれてバラストタンクに海水を注入する時期を失した。同艦は何度か横転しそうになりながらも耐えていたが、艦内に流れ込んだ海水で電気系統がショートして排水ポンプが機能しなくなり、1110時に転覆した。313名の乗組員の中で助かったのは23名だった。[3]

 駆逐艦「ハル(Hull, DD-350)」はタンカー群を護衛する役目だったが、同じ位置に留まりすぎた。「ハル」は旧式の駆逐艦だった上にさらに500トンの装備を追加してトップヘビーになっていた。昼頃瞬間最大風速57 m/sを記録して、激しく傾いた際に煙突から浸水して沈没した。無理解な艦長が、周囲の進言を無視して強引に波間を突破しようとして沈没したという説もある。これが小説「ケイン号の叛乱」のきっかけとなった[5]。202名の乗組員の中で助かったのは62名だった[3]。


台風「コブラ」の中を航行する駆逐艦「マドックス」(1944年12月18日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=31065

 真珠湾で日本の特殊潜航艇を沈め、またキスカ島で潜水艦「伊七」を沈めた旧式の駆逐艦「モナハン(Monaghan, DD-354)」は、バルブが故障してバラストに海水を注入できなくなった。1130時頃電気系統が故障して機関が止まり、1145時頃に沈没した。256名の乗組員の中で助かったのはわずか6名だった[3]。

 他に護衛空母2隻。重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、護衛駆逐艦2隻が大破し、軽空母4隻、護衛空母3隻、戦艦1隻、駆逐艦1隻、護衛駆逐艦2隻、タンカー1隻が小破した[3]。他の空母でも甲板の飛行機が流されたり、他の飛行機にぶつかって多くの飛行機が破損したりした。艦船搭載の航空機を含めると、飛行機の被害は146機に達した。

 

台風の波で搭載機とともに傾く空母「カウペンス」(1944年12月18日)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Cowpens_(CVL-25)_during_Typhoon_Cobra.jpg

 激しい嵐の中で一部の艦は、沈没した艦の乗組員救助に決死の努力をしたが、しかし沈没した船の乗組員は、サメが遊よくする広い海域に散らばっていた。18日午後遅くには嵐は収まり晴れてきた。19日に給油が終わると、ハルゼーは艦隊を800m間隔で横一列に並べて海面を梳くように、遭難者の捜索を開始した[2]。合計で92名が救助されたが、結局780名が亡くなった。

 艦隊がウルシーに帰投後、12月26日からこの海難に対する裁判が行われた。法廷はハルゼーの安全への責任が何に対しても勝ることを述べて、嵐の場所と経路を予測する際の彼の「大きな過失」を挙げた。しかし、それとともに彼を支援する気象学の能力が、作戦に対する期待と要求の重要性に鑑みて経験と体制の点で不十分であると結論した[1]。

 アメリカ太平洋艦隊司令長官だったニミッツは、この裁判の後、「後に不必要だったのではないかと言われることを恐れて、予防措置を惜しむことほど海の男にとって危険なことはない。数千年にわたる海の安全は確実にこのことを示している」と訓示した[3]。そして彼は、西太平洋に3隻の気象観測船を要求し、気象観測機を配置した[1]。また、この事件を教訓として、後にハワイに合同台風警報センターが設置された。

 ハルゼーは5月に第3艦隊に復帰するが、彼が率いる第3艦隊は翌月台風に再び見舞われることになる。

 (完。米海軍第38任務部隊の台風による遭難その2へと続く

Reference (このシリーズ共通)

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

 [2]Carl M. Berntsen, 2007, TYPHOON COBRA AND CARRIER TASK FORCE 38, http://ussdehaven.org/typhoon_cobra.htm

[3] Samuel J. Cox, Typhoon Cobra. The Worst Natural Disaster in U.S. Navy History, 14.19 December 1944, 2019

 [4] Choi. et al., 2017, Storm waves during Typhoon Cobra (Halsey's typhoon) in December 1944, Procedia IUTAM, 25, 44-51.

[5] Sebastien Roblin, During World War II, the U.S. Navy Tried to Beat a Typhoon, February 26, 2017, The National Interest, https://nationalinterest.org/blog/the-buzz/during-world-war-ii-the-us-navy-tried-beat-typhoon-you-can-19583 


2020年8月11日火曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(2)


 事件の経過

 12月17日の1000時に第1地点付近で燃料が欠乏しているいくつかの駆逐艦からまず給油を始めた。ところが海は荒れ始め、風速は20 m/sを超えて多くの船で給油ホースが外れてしまった。ハルゼーは燃料を搭載できない船には、転覆を避けるために海水をバラストとして詰める命令を与えていたが、海が静まれば直ちに給油できるようにタンクを空にしたまま待つ駆逐艦もあった[3]。

 波浪のために艦隊の補給は困難になった。ハルゼーは1300時に、「熱帯低気圧が700 km南西にあり、今後北東に進路を変える」という気象担当士官の予測に基づいて北西へ向かい、第2地点での翌18日朝0600時からの給油を指示した[1]。ところが、この熱帯低気圧は急速に発達して台風となり、しかも実は艦隊の南東 200 kmを北西に進んでいた。艦隊はハルゼーの命令に基づいて、艦隊の針路を西290度に取った。図に台風の推定進路と艦隊の推定航路を示す。

台風の推定進路(実線)と艦隊の推定航路(破線)。番号は本文中の給油予定地点。白丸は最終的な給油地点。艦隊の推定航路は[2]の記述に基づいて作成。ただし針路と継続時間しかわからないので誤差を含む。台風の推定進路は[4]の進路を参考にして作成。本文の記述に合うように進路を調整している。The estimated track of the typhoon (solid line) and the estimated route of the fleet (dashed line). The numbers and closed circles are replenishment points planned which are referenced in the text. The open circle is the eventual replenishment point. The estimated route of the fleet is created from the description (only courses and duration) in [2], probably including large errors. The track of typhoon is estimated using the reference of [4] based on re-analysis data. The track is adjusted to fit in with the text.

 夕方になるにつれて海はだんだん荒れて、艦隊の全ての艦船が緊張に満ちた状態になった。空母クェゼリン(CVE-98)は、大波のうねりの中で、船首全体が水から出てきかと思うと数秒の間浮かんだ後、今度は飛行甲板が波の底へと突き落とされた。甲板はピッチングとローリングのたびに海水であふれた。数万トンもある大型船があたかもカヌーのように波に揺さぶられた。

1944年12月17日に荒波の中を給油地点へ向かうタンカー。An oil tanker trying without success to move into refueling position on December 17, 1944, https://en.wikipedia.org/wiki/File:Oil_tanker _trying_to_move_into_refueling_position_during_Typhoon_Cobra.jpg

 ハルゼーは焦っていた。予定通りマッカーサー軍の攻撃を空から支援するためには18日朝までに補給を行わなければ間に合わなかった。第2地点はあきらめられ、その代わりに第3地点が設定された。艦隊は針路を再び290度付近に変えたものの、実はそれによって台風と併走することとなった。数時間後、第3地点もあきらめられ、第4地点が設定された。2300時にハルゼーは少しでも波が穏やかになる場所を求めて、針路を南へと変更したが状況が変わらなかったため、翌18日0200時に北東へ向かうように指示した[2]。

 朝0400時には台風が艦隊に迫っていることが明らかになった。0430時にハルゼーは空部ヨークタウンのマッケーン提督と空母レキシントンのボーガン提督と相談し、第4予定地点を止めて南へ向かい、可能な状態になればそこで給油を開始することにした [2]。しかし、0830時には状況はさらに悪化し補給は不可能となった。ハルゼーはマッカーサー軍への支援を諦めた。彼は台風からなんとかして逃れるために、0913時に艦隊針路を南西に取るように命令し、各艦に対してようやく警報を発した[1]。

台風の中を高波に揺られながら航行する巡洋艦「サンタフェ」。砲塔は正面からの海水が入らないように横に向けられている。(1944年12月16日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=31109

 1000時頃から気圧が急激に下がりはじめ、数隻の空母はレーダーで台風の眼を捉えた。レーダーは第二次世界大戦直前に開発された純軍事技術だった。ところが雨や雲の影響を受けることがわかり、当初はノイズと受け止められたが、戦争の後半には水象の監視に用いられるようにもなっていた(本の「10-1-3レーダーの気象学への利用」参照)。

このとき捉えた台風の眼のレーダー画像(1944年12月18日)。これはレーダーで捉えた2回目の台風の眼とされている。Structure of a typhoon captured by a Navy ship's radar (1944 December 18). This storm was the second tropical storm to ever be observed on radar. In: Hurricane Detection by Radar and Other Means", Vaughn D. Rockney, Tropical Cyclone Symposium, Brisbane , December 1956. Image ID: wea01232, Historic NWS Collection, https://www.photolib.noaa.gov/historic/nws/wea01232.htm

 台風の眼の近くでは瞬間で50 m/sを超える風速を記録した[2]。台風は1100時から1400時にかけて最も発達し、中心付近の船は最大平均風速54 m/s、最大瞬間風速67 m/sを記録した[2]。観測した最低気圧は907hPaに達した[4]。波の高さは20mを超えた[1]。1150時にハルゼーは艦隊を解いて針路を南東に変えて各艦で台風を乗り切るように指示した[3]。その後は風は左舷船尾からとなり、艦隊の大部分は台風から離れることができた。しかし、艦隊は既に80 km四方に散らばっていた。しかもこの時までに実は3隻の駆逐艦が既に転覆し、多くの船が損傷していた[3]。

(3)へとつづく

Reference(このシリーズ共通) 

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/

 [2]Carl M. Berntsen, 2007, TYPHOON COBRA AND CARRIER TASK FORCE 38, http://ussdehaven.org/typhoon_cobra.htm

[3] Samuel J. Cox, Typhoon Cobra. The Worst Natural Disaster in U.S. Navy History, 14.19 December 1944, 2019

[4] Choi. et al., 2017, Storm waves during Typhoon Cobra (Halsey's typhoon) in December 1944, Procedia IUTAM, 25, 44-51.

2020年8月5日水曜日

米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(1)

遭難の背景

 ウィリアム・ハルゼー提督率いるアメリカ海軍第38任務部隊(空母機動部隊)は、戦争中の1944年と1945年に太平洋において台風との遭遇によって2回遭難した。これは前シリーズで述べた第4艦隊事件と対にして語られることがある。原因は、必ずしも船体構造の強度の問題というわけではなかったようであるが、台風の強さや大きさ、海域も異なり同じように議論することはできない。

台風「コブラ」との遭遇

 1944年10月の海戦でハルゼー提督率いるアメリカ第3艦隊第38任務部隊は、日本海軍の栗田艦隊をフィリピンのシブヤン海で艦載機で叩いたものの、その後小沢艦隊の攻撃のために北上したため、栗田艦隊のサマール島沖への進出を許した(レイテ沖海戦)。戦闘後アメリカ第3艦隊の指揮官はハルゼー提督からスプールアンス提督に交代して艦隊は第5艦隊となった(指揮官によって艦隊の名称が変わった)。

ウィリアム・ハルゼー
https://ww2db.com/image.php?image_id=24786

 12月に入って再びハルゼー提督が指揮を執ったため艦隊は第3艦隊に戻り、その第38任務部隊は12月中旬からマッカーサー将軍が率いるアメリカ陸軍のフィリピン・ミンドロ島への侵攻を空から支援した。その後第38任務部隊はフィリピン沖の洋上で補給を行おうとして台風と遭遇し、多くの被害を出した。この台風は、後にコブラ台風またはハルゼー台風とも呼ばれている。またこの事件は、後にハーマン・ウォークのピューリッツァー賞受賞小説「ケイン号の叛乱」のモデルともなった。またこの小説はハンフリー・ボガートなどが主演した映画化もなされている。

 第38任務部隊は、エセックス級大型空母7隻、インデペンデンス級軽空母6隻、戦艦8隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦11隻、駆逐艦約50隻などからなっていた。それを率いるハルゼー提督は、上記のように12月11日からミンドロ島のマッカーサー軍を約1週間支援した後、もうしばらく作戦継続を望んだ。しかし、その時駆逐艦の一部は10~15%しか燃料が残っておらず、失った航空機の補充も必要だった。


ウルシー泊地に停泊しているアメリカ海軍第3艦隊の空母群(1944年12月8日)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Murderers_row_at_Ulithi_Atoll_-_US_Third_fleet_carriers_at_anchor_on_8_December_1944_(80-G-294131).jpg

 第38任務部隊は、攻撃を継続するために必要な燃料と補充航空機などの物資を補給するために補給艦隊との合同を予定した。補給艦隊は、タンカー12隻、タグボート3隻、駆逐艦5隻、護衛駆逐艦10隻と補給用の航空機を搭載した護衛空母5隻の35隻の艦船からなっていた。第38任務部隊への補給は、2日後のルソン島への攻撃を控えて、1944年12月17日朝からルソン島の東約800 kmの第1地点(後述)付近で行われることになった。

 ハワイ真珠湾の太平洋艦隊気象本部は、太平洋上のいくつかの観測地点からの情報をもとに、気象予報を第38任務部隊へ無線で1日2回送付していた。しかし、当時の技術では太平洋の真ん中にいる台風の位置を正確に捉えることは困難だった。気象本部から送られた気象情報は、弱い熱帯低気圧の発生を知らせていたが、第38任務部隊の気象担当士官は熱帯低気圧は北東へ向かうと考えて、熱帯低気圧を重大事とは捉えていなかった[1]。この弱い熱帯低気圧は、その後急速に強い台風になった[2]。この場合がそうかどうかはわからないが、台風は1日程度で急速に発達することがある。これは「急速強化」と呼ばれる。しかしながら艦隊付近では嵐の兆候はなく、台風が近づくまでそれに気付かなかった。

(2)へとつづく

[1]Michael D. Hull, Two Typhoons Crippled Bull Halsey's Task Force 38, https://warfarehistorynetwork.com/2019/01/21/two-typhoons-crippled-bull-halseys-task-force-38/
 [2]Carl M. Berntsen, 2007, TYPHOON COBRA AND CARRIER TASK FORCE 38, http://ussdehaven.org/typhoon_cobra.htm


2020年7月25日土曜日

台風による第4艦隊事件 (4), The Fourth fleet incident (4)

船体の工法の問題とその後(The issue of method of construction of hulls and aftermath)

 台風に遭遇して船体が切断された 2 隻の特型駆逐艦は、その船体が全溶接工法で作られていた。船体の建造時に溶接を採用すると艦艇の船体重量が10~15%も軽減化されるため、海軍の軍縮条約後、各国は溶接技術を飛躍的に向上させて軍艦などの工法に溶接を取り入れた。これは世界的な趨勢であり、日本海軍も艦船の建造手法に溶接を積極的に取り入れていた。しかし当時の鋼材の材質と溶接技術から見て、強引に溶接化を進めた面もあった。そのため、この事故は建造に溶接工法を採用した日本海軍艦艇の強度に対して疑念を生じさせた。

 実は根本的な原因は船体に対する過大な性能要求にあったのだが,この疑念により、海軍は艦船の建造の際の溶接の採用を制限した。艦政本部(The Navy Technical Department)は事故調査後に、溶接工法(welding methodを鋲接工法(rivet joint)に戻す溶接工法の制限を発令した[6]。[6]は溶接工法が第4艦隊事件の原因のスケープゴートにされたと述べている。この海軍の艦艇建造方針の大転換のため、その後建造された軍艦の船体は、溶接と鋲接混用で建造された。しかし、鋲接は溶接に比べてその接合箇所が衝撃に対して弱点になる可能性があった。欧米の最新の建造艦の多くは全溶接工法で建造されており、アメリカ海軍などの艦船に比べて、日本の軍艦は耐衝撃性能が劣ることとなった。[6]

 ちなみに溶接か鋲接かは戦車を見るとわかりやすい。日本軍の97式戦車は一部鋲接を用いているため表面がでこぼこしているが、ドイツ軍の戦車やアメリカ軍のM4戦車は、ほとんど溶接工法で作られているため表面が滑らかになっている。戦車でも、鋲接は砲弾などを受けた際の衝撃により鋲が跳んで中の乗員を殺傷する可能性があるため、危険視されていた。

日本軍の97式戦車
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Battle_of_Bukit_Timah.jpg
アメリカ軍のM4型戦車
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:M4A1_to_M4A3_tank_animation.gif

 戦艦「大和」(Battle ship Yamato)と同型艦の「武蔵」(Musashi)は、艦内の要所がアメリカ戦艦の主砲でも破壊できない分厚い装甲板に覆われているため、不沈艦と謳われていた。しかし、実はその装甲板は鋲接工法で建造されていた。戦艦「大和」は、1943年12月25日に潜水艦から魚雷1本を受けた際に装甲板の鋲接部分が緩んで内部の火薬庫に浸水したことが判明していた。戦艦「武蔵」もフィリピンのレイテ沖の戦いに向かう際に、1944年10月24日の航空攻撃によってシブヤン海で沈没したのも、航空魚雷によって装甲板の鋲が緩んでそこから海水が内部に大量に流入したためと推測されている[7]。同型艦である空母「信濃」(Carrier Shinano)も 1944年11月29日に潜水艦から魚雷を受けた際に、武蔵同様に装甲板の鋲接部分が破断して海水が流入し、縦隔壁の破損によって海水が片舷だけに片寄ったために転覆した[8]装甲空母「大鳳」(Carrier Taiho)もマリアナ沖海戦において、1944年6月19日に潜水艦から魚雷1本を受けて、装甲板の鋲継ぎ手に隙間が生じたことが装甲板内部の前部軽質油庫からガソリンが漏洩して爆発した原因となった[9]。台風による遭難から始まった第4艦隊事件は、その後の日本海軍に大きな影響を与えたということができる。
1944年10月24日にシブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_battleship_Musashi_on_24_October_1944,
_down_at_the_bow_and_sinking_(NH_63434).jpg

 第4艦隊事件のような大きな事故というのは、いきなり起こることはあまりない。大事故の前にそれにつながる小さな事故というものが起きているものである。実は海軍の演習が行われた年の7月に、数隻の特型駆逐艦が東京湾外で高いうねりの中で高速航行の試運転を行った。その際にその中の1隻の駆逐艦「叢雲」では、その艦橋とその前方の一番砲塔との中間に座屈(過加重によるたわみ)によると思われる変形が生じていることが発見されていた[4]。

 艦政本部の設計部署は直ちに調査して、特型駆逐艦の強度に問題がある可能性を突き止めていた。特型駆逐艦の9月の演習への参加に不安が持ち上がった。直ちにその旨の報告を艦政本部へ上げたが、艦政本部は問題になることを恐れて不問に付した。そのまま、特型駆逐艦は演習において嵐の中を航行することになったのである[3]。事件発生後、海軍による艦政本部への処分が行われた。しかし、百名以上が死傷するという大事故の割には、責任者数名の軽度の謹慎という甘い処分で終わった。

台風による第4艦隊事件 (完)

Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.
[3] 第四艦隊事件、失敗知識データベース、http://www.shippai.org/fkd/en/hfen/HB1011022.pdf
[4] 山本善之、角洋一、鈴木和夫、鈴木政直、鈴木隆男、第4艦隊事件の事故原因に関する研究、日本造船学会論文集第158号、社団法人 日本船舶海洋工学会、185, 291-300, 1985.
[5] 気象庁、気象百年史 Ⅰ_通史_第08章_大正期より昭和期の気象事業, 1975.
[6] 一般社団法人 日本溶接協会 溶接情報センター、社団法人日本溶接協会50年史、第1編 総論、3 日本溶接協会の設立、3.1 協会設立以前の我が国の溶接事情、1999、http://www-it.jwes.or.jp/jwes_50th/jwes_50th.jsp
[7] NHK、NHKスペシャル戦艦武蔵の最期~映像解析 知られざる“真実”~、2016.
[8] NHK、NHKスペシャル「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」、2019.
[9]山本善之、航空母艦大鳳の大爆発1、らん、関西造船協会、46、58-65、2000.



2020年7月19日日曜日

台風による第4艦隊事件 (3), The Fourth fleet incident (3)

被害と調査委員会 (Sufferings and the investigation committee)

被害の状況 

 後日の調査で、この台風による大波で、合計19隻が鋲(リベット)の緩みや船体のねじれなど何らかの被害を受けていたことがわかった。特に夕霧と初雪の最新の特型駆逐艦(the latest Fubuki-class destroyer)2隻は、艦首部分が波浪によりもぎ取られるように同じような位置で切断された。これらによる死亡者の数は57名、負傷者は約70名に達した。この台風による多くの艦の破損は、軍艦の設計そのものに問題がある可能性を示した。波が高い台風時とはいえ、困難な環境で戦闘を担う軍艦の船体が波で破損することは、その性能上許されることではなかった。これは国防上の重大な問題と見なされた。

 ワシントン軍縮会議とロンドン軍縮会議による軍艦数の建造制限を強いられた日本海軍は、単艦の威力の増大を意図して、艦の規模を超えた無理な性能要求を新たな軍艦に要求していた。特に最新の特型駆逐艦24隻は、わずか排水量1700トンの船体に世界初の5インチ砲6門や9門の魚雷発射管を装備しながら38ノットの高速を出すという、船体強度に対して過大な性能を要求に盛り込んでいた。

特型駆逐艦の一つ「吹雪」
The Fubuki-class destroyer with 6 5-inch gans and 9 torpedo launchers in the 1700 tons displacement with the ability of 38 knot maximum speed. https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/Fubuki-class.jpg

 1935年10月10日に海軍省に、野村吉三郎大将を委員長として、山本五十六中将、古賀峯一少将などを委員とする臨時の調査委員会が設置され、この事故の原因調査とその対策のための検討が行われた。まず艦の強度に関する調査も行われ、とくに駆逐艦初雪と夕霧の艦首が同じような所から切断した事故は、船の根本的な性能である「復元性」と「強度」に関する問題を提起した。

気象状況と船体強度との関係

 この台風の中では、演習参加艦の多くが気象観測を行っていたため、その観測結果は世界的にも稀な台風の中での気象と海象の記録となった。海軍はその観測結果を用いて台風の中での風と波の特徴を徹底的に研究した。その結果、主力部隊が遭遇した台風中心部の波の波長は100~150 m、波高は10~15 mで、特に水雷戦隊が所在した台風の南東部の海面では、波長200 mに対して波高が15 m以上になることがわかった[3]。

 水雷戦隊付近で異常に高い三角波が出現した原因として、次のように考えられた。水雷戦隊付近では台風の前面では南東の風、さらに前線の通過によって南東の風域と南の風域が発生した。この台風の移動速度は70 km/hと波浪の移動速度より速く、その後台風の通過によって風向は南~南西に変わった。台風前面の南東風による波やうねりが残っていた海域に、発生した前線による南の風域、さらに台風後面の南~南西の暴風による波が重なって、台風通過後に異常に高い三角波が出現した。

 駆逐艦夕霧が遭遇した三角波の3つの峰は、最初の右舷の三角波は南~南南西から、中央の三角波は南南東から、左舷のものは南東から押し寄せてきたと考えられている[1]。特に台風の進行方向の右側後方の第四象限では、台風の反時計回りの風で起こった波と台風の外側からくるうねりという進行方向が異なる二つの波の衝突によって、波高が異常に高い巨大な三角波を生み出されることがわかった。

1935926日の台風との相対位置による波浪と艦隊の関係図。直線の交点は台風の位置、実線は波浪階級、破線は艦隊の各時刻の位置を示す。[1]をもとに作成
The Sea scales (solid line) and the fleets positions (dashed line) relative to the typhoon on Sep. 26, 1935. The center indicate the location of the eye of the typhoon. The map is created based on [1]

 波長と波高の関係は波が船体にもたらす力(曲げモーメント)に大きく影響する。それまで通常の船体の強度設計では、波高に対する波長比は20程度が想定されていた。ところが水雷戦隊が遭遇した波は、波高に対する波長比が10~15であった。初雪と夕霧の場合は、台風の南東部の波長に対して想定外に波高が高い波によって何度もピッチングを繰り返すうちに、座屈によって生じたしわが亀裂となって船体が切断したと判断された[3]。またこれまでの想定より高い波とともに、過重な装備による船体の強度不足も問題視された。

 特型駆逐艦については過重な装備も問題であったが、実は凌波性を高めるために、船首上部が広がったフレアという形状をとっていた。これが船体前部船底が波によって衝撃を受けて船体が急激な振動を起こすスラミングという現象を引き起こしていた。初雪、夕霧の両艦は波浪の中でこの振動の衝撃により船体は過度の応力を受け、船首部船底に損傷を受けて艦首部を切断したことが戦後になって示唆されている[4]。

対策

 海軍はこの調査結果を受けて、軍縮条約下で建造された全艦艇の強度検査を行い、ほぼ全艦に船体強度の補強と軽量化のための武装の一部撤去を施した。大多数の艦では改良工事は1936年度末までに終了し、残りの艦も1938年度末には改良工事を完了した[3]。この調査による事故の原因、対策と遭難時の気象については極秘にされた(戦後に公開された)。この改良工事により艦の重量は増加し、最高速度は若干低下したものの、その後日本海軍では第二次世界大戦中に台風などによって被害を受けた艦はなかった。

 この事件の原因は日本海軍の艦艇の構造の欠陥だけでなく、特有の特徴を持つ日本近海の波浪に関する理解不足にもあることがわかった。この事件以降海象に対する認識が改められ、海軍水路部の気象課が新たに海象に関することも担当することになった。これは1941年6月に海軍水路部内の気象部となった [5]。

Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.
[3] 第四艦隊事件、失敗知識データベース、http://www.shippai.org/fkd/en/hfen/HB1011022.pdf
[4] 山本善之、角洋一、鈴木和夫、鈴木政直、鈴木隆男、第4艦隊事件の事故原因に関する研究、日本造船学会論文集第158号、社団法人 日本船舶海洋工学会、185, 291-300, 1985.
[5] 気象庁、気象百年史 Ⅰ_通史_第08章_大正期より昭和期の気象事業, 1975.