明治28年(1895年)に高山での気象観測に注目したのは野中到(1867-1955)である。彼は福岡で生まれたが、父は東京の裁判所の判事で東京で暮らしていため、福岡藩の武士だった祖父に育てられた。到は優秀で大学予備門(今の東京大学教養学部)に進んだ。
在学中に中央気象台の和田雄治技師と知り合いになり、彼から欧米での気象観測の話を聞いて、高山での気象観測に興味を持った[1]。当時は地上気象観測の限界がわかりつつあり、気球などを使った高層気象観測が始まりつつあった(「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要」参照)。しかし、世界的にも高山での連続観測の例は稀であり、富士山での通年での気象観測が実現できれば、それは世界的な快挙だった。また、彼は富士山での高層気象観測の有用性を実証しようとも考えていた。まだ各国が国の威信を競っていた時代だった。
豪胆で一途だった彼は、そのために大学予備門を中退した。彼は1894年に次のように決意を述べている。「余不肖ナリト雖モ将ニ明年ヲ期シ先ス一家屋ヲ最高ノ地ニ構へ二三ノ観測機器ヲ携ヘ越年ヲ山上ニ試ニ以テ聊カ志士仁人ノ奮起ヲ促サントス」[2]。この時代には南極探検を志していた白瀬 矗などもおり、当時の人々の私欲に囚われないスケール大きさには驚かされる。
彼は1895年の冬を含めて何度か富士山への登頂を試み、自分の計画実現への確信を得た。彼は1895年夏に私財を投げ打って富士山頂に長期滞在用の石造りの小屋を建設した。それには父も福岡の家を売り払って資金協力した。観測には中央気象台も協力することになり、観測機器が貸与された。
彼は同年の10月1日から富士山頂に滞在して1日12回の気象観測を開始した。ところが10月12日に山頂を尋ねてきた一行がいた。それは到の妻、千代子だった。千代子は到の姉の子である。二人は従兄弟同士で幼なじみであり、おしどり夫婦だった。到は山頂で一人で観測するつもりだったが、実は千代子は観測の準備段階から山頂で夫の観測を助ける決意を固めていた。これ以降、山頂での気象観測は到と千代子が交代で行った[1]。こうやって夫婦による高山での観測という世界でも類を見ない気象観測が始まった。
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野中到と千代子
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しかし、当時の技術や資材などの状況では、厳寒期の山頂での観測は過酷というより無謀だった。気圧が低い上に新鮮な野菜がなかった。特に寒さは想像を絶しており、多くの毛布を重ねても寒さで眠れない日が続いた。観測もさまざまなトラブルに見舞われた。例えば11月になると、湿球と風速計は低温のため凍結したり、予想外の低圧のため水銀が水銀槽からあふれ出して気圧が測定できなくなったりしたことがしばしばあった[3]。
過酷な環境の下で二人とも浮腫を生じて健康を害した。まず千代子が喉が腫れて発熱した。彼女が回復すると、今度は到が発熱して寝込んだ。到は起き上がれなくなった。麓への連絡手段もなく、一時は死も覚悟した。たまたま12月12日に麓の村人が山頂に慰問に来て、二人の状況を見て驚いた。救援隊が組織され、12月22日に二人は救出された[1]。3か月間の山頂での観測だった。
しかし、彼らの命を賭した観測は新聞で広く報道され、その志の高さは多くの人々の反響を呼んだ。それ以降、彼らの冒険に基づいた文学作品がいくつか作られた。その中の一つは、新田次郎の有名な小説「芙蓉の人」である。これは何度かテレビでドラマ化されて放映されたことでも有名である。
新田次郎の本名は藤原寛人で、この後のブログで触れるように、彼は富士山レーダーの建設に気象庁担当者として大きな貢献を行った。ちなみに彼の叔父は有名な気象学者で中央気象台長も務めた藤原咲平である。
参照文献
[1]野中到・千代子 夫婦で打ち立てた不滅の金字塔、国際留学生協会、http://www.ifsa.jp/index.php?Gnonakaitaruchiyoko
[2] 中野至-1894-富士山頂氣象観測所設立ノ爲二敢テ大方ノ志士二告ク、氣象集誌、13 巻 11 号 p. 574-579
[3]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年