2023年12月11日月曜日

元寇と神風(2)戦いは1日ではなかった?

 2-3 戦いは1日ではなかった?

これまで最初の侵攻での戦闘は、11月26日の1日だけと思われていたが、近年あらたな説が出てきた。 [3]は九州から京都への報告の日付から、戦いは10日間ほど続いて、元軍が退却したのは12月6日頃としている。また「関東評定伝」に、11月30日に元軍が太宰府近くまで攻めてきたが撃退したという記録が残っていることも、この理由に挙げている。

確かに、26日に今津に上陸して、20km先の博多で夕方まで戦って、また当日のうちに今津へ退却するのは、暗くなることもあってほぼ不可能である。 [3]は、元軍は日本側の拠点となっていた警固山(今の福岡城趾)を落とすことができず、夕方には陣を構えていた西新のすぐ南の祖原山(麁原山)に引き揚げたとしている。元軍の行動として、これは十分に考えられる。そしてしばらくそこを拠点として博多で戦い続けた。

なお、祖原山は現在祖原公園となっており、元寇古戦場跡という碑が残っている。また同書は、別に箱崎付近に上陸した部隊があった可能性も指摘している。これも十分に考えられる。

警固山付近での合戦推定図(燈線は元軍の進路)。合戦は、警固山の北側だったかもしれない。なお、点線は昭和40年頃の海岸線を示している。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに地名や経路を追記して使用)

[3]が指摘しているように、上陸戦では海岸に近い山に海岸堡を確保することが重要である。海岸堡は海からの補給の拠点になり、また攻撃や防衛の拠点にもなる。元軍が拠点とした祖原山(標高33m)は海岸や川から離れた内陸にあり、しかも狭い丘で大規模な軍勢が恒久的な陣を敷くには向かない(祖原山から百道浜までの一帯に布陣していた可能性はある)。

もし本格的に海岸堡を築くならば、もっと大きな小山で、かつ船との往来が容易な川沿いの海岸にある、西公園(荒津山:標高40m)や愛宕山(標高70m)の方がよかったのではないかという疑問は残る。ただ、西公園は日本軍の拠点である警固山に近すぎ(距離約1km)、愛宕山は出撃のたびに大きな室見川を渡らなければならず、それで避けたのかもしれない。

2-4 嵐は起こったのか?

上記の八幡愚童記の記述だけでなく、高麗史(東国通鑑)の記録によると、「たまたま夜大風雨。戦艦巌崖に触れて多く敗る」となっている。さらに元史によると、朝鮮半島にたどり着いたのは400隻で、兵士の損害は、合戦での死者2000名を除くと、13500名が溺死したとされている [5]。

八幡愚童記には合戦当時の夜に雨が降った記述があるが、嵐そのものやその痕跡に関する記述はない。もし嵐に遭遇したとすると、それは博多湾から朝鮮半島へ戻る途中の出来事である可能性が高い。八幡愚童記にあるように、一部の船は難破して志賀島近くまで漂流したのかもしれない。

11月末なので、嵐が台風とは考えにくいが、発達した低気圧と遭遇した可能性は十分にある。この時期は冬季季節風が始まる時期であり、通常西風が卓越する。すると東に戻れないので、たまたま南を通り過ぎようとした低気圧による東風を中国や朝鮮半島へ引き揚げるために利用しようとしたのかもしれない。結果、帰還途中の海上で低気圧に遭遇した可能性はある。

本当に夜間に嵐が起こったのならば、数多くの避難民が松明を利用したり、それに遠くから気づいたりするのは困難である。元史には文永の役の記事に風雨に関するものはない [6]。少なくとも博多での戦いの帰結に、嵐のような気象が関係したとは考えにくい。

いずれにしても武士団は善戦し、元軍は簡単には勝てそうにないことを悟った。冬の北西季節風が卓越するようになると、朝鮮半島との間には簡単には船を回せなくなり、元軍は補給が難しくなる。そのため [3]は、嵐に遭遇したことを、戦闘を中止して撤退するための理由として挙げたとしている。しかし、元史にあるように、帰途時に実際に低気圧に遭遇して、多くの船が難破した可能性がある。その漂流した船を日本側が発見して、嵐による撤退という記述になったのかもしれない(もちろん、元史そのものの信憑性の問題もある)。

2-5 文永の役の考察

2-5-1 上陸に博多湾を選んだ謎

当時、船は軍隊の移動にとって大きな利点があった。大量の兵士や物資を陸上より速く輸送できた。そして、防衛側はあらゆる所を防衛することはできないので、船上の軍は敵の防備の薄いところを見つけて上陸できる。ちょうど同じ頃、ヨーロッパ各地でバイキングが猛威を振るったのは、そういった利点を活かしたからだと考えられる。

しかし、船を使った上陸には欠点もある。海岸は、陸という固体と海という液体と大気という気体が混ざり合う所で、それらがぶつかると大きな衝撃が発生する。船は脆弱であり、そうなるとそれらによる影響をまともに受ける。立派な港湾施設などない時代では、上陸は波が凪いだ砂浜にしかできなかっただろう。

また、大型船は直接陸につけることができないので、上陸は少人数ごとに小舟にわけて行う必要があった。これには時間もかかる。もし上陸場所が事前に知られてしまい、そこで迎撃されれば、少人数にわかれた上陸軍は個別撃破されてしまう。そのため上陸戦の要諦の一つは、敵の意表を突いた奇襲である。

元軍は大きな間違いを犯した。事前に対馬と壱岐を征服して襲来を太宰府に予告した。対馬と壱岐の征服には、九州上陸と同時に小部隊を送れば十分だったのではないか?また、迎撃する武士団が待ち構えている本拠地に近い博多湾に上陸した。

確かに博多湾は太宰府に近く、通商の要衝で砂浜を持った大きな湾である。湾は穏やかで、船の停泊にも都合が良いだろう。そこに上陸しようと考えるのは当然ではあるが、防衛側も当然そこを重点に守ることを考える。上陸地点に博多湾を選んだことから、元軍は奇襲上陸をあまり重視していなかったことがわかる。

2万名以上の兵士を沖合の大船から岸へ小舟で上陸させるのは、容易なことではなく、また時間がかかる。本当に11月25日の夕方に到着して、26日の早い時間から進軍を開始したのならば、船にいた兵士や物資の全てが上陸できたわけではなかったかもしれない。元軍は、兵士や馬や物資を十分に上陸させて、その上で戦う準備を整えてから進軍するための時間を稼げなかったのではないか?

一方で日本武士団も、上陸直後の元軍を迎え撃とうと考えていたようには見えない。日本武士団は、進軍する元軍を、今津を含めたあちこちで小勢ではあるが迎え撃っている。しかし、上陸場所が早めにわかれば、逆に日本武士団は上陸中で数が揃わない元軍に対して、先に本格的な攻撃をかけるという考え方もあったはずである。文永の役では、両軍は博多の中心部で、あたかも内陸での対峙戦のように戦ったように見える。両軍ともそういう戦い方しかないと思っていたのかもしれない。

ところで、5回目と6回目の使節であった超良弼は、数か月間博多に留め置かれた間に、付近を偵察していたという説がある。本人にそういう意図があったかどうかはわからないが、帰国後に博多の地理について、いろいろ尋ねられたことは想像に難くない。

 [3]は、博多湾の浅い水深から、元の大船は岸から2kmほど沖合に停泊したのではないかとしている。手漕ぎ船で2kmを何度も往復するのには時間がかかるだろう。上陸場所については、砂浜だけみれば博多湾内だけでなく、博多より北部には津屋崎や神湊付近にも大規模な砂浜がある。唐津湾には虹ノ松原という砂浜がある。

これらの砂浜の沖は水深が深いので、大型船が博多湾より岸近くに投錨できたかもしれない。そうすれば、より速やかな上陸が行えただろう。また、日本は襲来に気づいてからそこまで武士団を派遣するのには時間がかかるので、元軍は海岸で十分に体勢を整える時間が稼げたかもしれない。

もちろん、当時と今とでは戦闘の常識や考え方が異なるので、今の考えをそのまま当てはめることはできない。しかし、ひょっとすると日本は危なかったのかもしれない。もし元軍が周到に準備して、どこかの海岸を奇襲し、拠点となる強力な海岸堡を築き上げてから、太宰府に向けて全軍で一斉に進撃していたら、その撃退は容易ではなかったろう。

2-5-2 撤退時の謎

ところで、別な大きな疑問の一つは、元軍の浜からの撤退時の記録がないことである。八幡愚童記では、元軍は夕方退却を開始して、翌朝には博多湾から姿を消したことになっている。一夜にして元軍が撤退したと読めるような書きぶりとなっている。

今津に上陸したとすれば、夕方に博多から今津にまで撤退することは困難であることは既に述べた。元軍は、事前に祖原山に近い百道浜まで小舟を回して、そこから撤退したのだろうか?それだけでなく、夜間に大勢の兵士を海岸で小舟に乗せ、沖合の大船まで撤収して出航しなければならない。しかも捕らえた住民も連れて行ったようである。当時の状況では、夜間に短時間でしかも隠密裏にこれを行うことは事実上無理があると思われる。

[3]の説のように、博多周辺で10日程度戦ったとしても、元軍の撤退時の記述がないのは不思議である。元軍は不利だったために退却したのだろう。すると、日本武士団は、徐々に浜へ向けて元軍を追い詰めていったとしても不思議ではない。軍事常識では撤退戦は難しい。しかも、最後に兵士を船に収容するとなれば、なおさらである。通常ならば、浜に元軍を追い詰めて、一部の兵士は船に逃れたかもしれないが、日本武士団は多くの兵士を討ち取って大勝となるはずである。そうなれば、日本側はなにがしかの記録を残さないはずがない。

今まで書いた上陸方法は、元軍は沖合の大船から兵士や物資を小舟に積み替え、岸まで漕いで降ろし、また大船に戻ってこれを繰り返すことを前提にしている。しかし、元軍は上陸用に持ってきたパートル軽疾舟300隻に1回で乗れる数の兵士だけを上陸させた可能性もある。

その場合、1隻に漕ぎ手とは別に兵士20名が乗れるとすると [3]、上陸した兵士は多くても6000名程度となる(馬や当座の食糧の輸送を考えれば、実際はこれよりはるかに少ないだろう。 [3]は第1波を約3000名とみている)。それらの船は海岸で待機しており、戻ってきた兵士を乗せてすぐに沖合の大船に戻るというやり方である。しかし、このやり方は後続の兵士や物資をほとんど揚陸できないので、上陸戦というよりは威力偵察に近くなる。

いずれにしても、日本武士団が元軍の撤退を、去る者は追わずとじっと眺めていなかったとすれば、元軍がどうやってほとんど混乱なく陸上から撤退できたのかは謎である。


3. 文永の役の後

3-1 その後の使節

1275年4月、杜世忠を正使とする5名が元使として日本にやってきた。彼ら一行十数人は、博多ではなく長門の室津に到着した。鎌倉幕府は急いで長門の警備を固め、使節全員を鎌倉で斬首した。現在彼らの墓は鎌倉の常立寺にある。この時難を逃れた使節一行の一部が逃げ帰ったが、フビライが使節が斬首されたことを知ったのは5年後だった。

1279年に南宋を滅ぼした元は、前の使節が斬首されたことを知らずに、再び使節を送った。彼らも太宰府で斬首された。

3-2 防衛の強化

翌1275年、執権北条時宗は防衛を強化した。2月に異国警固番役を制度化した。異国警固番役とは、九州の御家人が交替で一定期間、要所の警護をするものである。

一方で異国征伐として、元の日本侵略の基地となっている高麗を、先制攻撃しようという計画が持ち上がった。いわゆる防衛のための敵基地攻撃である。実際に西国の水夫を集めたが、国内の争乱に疲弊していたためかこの計画は実現しなかった。一方で、元は1276年に南宋の首都臨安を陥落させた。

同年に幕府は、九州各国の守護、地頭などを集めて防衛協議を行ない、その結果、石築地の造築が決まった。石築地とは現在元寇防塁と呼ばれているものである。これは高さ約2m、幅3mの石垣で、海岸から50mほど内陸に作った。範囲は博多湾内の東は香椎から西は今津浜まで約20kmにわたった。約半年で作ったとされている。ただ博多湾は全てが砂浜ではなく、岩場もあるので、石築地が範囲内の全てに連続してあったわけではない。

3-3 総司令官を巡る争い

1280年に再度の日本侵攻を決意したフビライは、そのための政府機関「征東行省」を朝鮮に近い満州に設置した。そして高麗に対して日本へ侵攻するために、兵士10000人、水夫15000人、米11万石を用意するように命じた。

高麗内では、高麗の忠烈王とモンゴルに帰順した高麗人である洪茶丘との間に、日本侵攻の主導権争いが起こった。洪茶丘は元の高官であり、高麗内で元寄りの政策をとっていた。一方で忠烈王はフビライの娘と結婚し、妃が王女を出産したことから、皇帝の娘婿を指す「駙馬」の印を得ていた。

忠烈王は、このままだと洪茶丘が総司令官になることを危惧し、自分を征東行省の長にしてほしいとの要望をフビライに出した。フビライはそれを認めて「征日本軍元佩虎符(げんばいこふ)」の割り符を与え、高麗の忠烈王が日本侵攻の総司令官となった [1]。

元寇と神風(3)弘安の役 につづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.



2023年12月9日土曜日

元寇と神風(1) 背景と文永の役

はじめに

日本は古から神に守られた国という信仰があった。元は13世紀に2度日本征服のために侵攻した。日本は2度とも撃退に成功したが、その際に起こった歴史上の偶然の幸いが、この考えを強化した。一部の人々は、祈祷によって起きた強風が大損害を与えたために、元軍の撃退に成功したと主張した。このエピソードは、多くの人々に神が日本を救うために強風を起こしたと信じさせ、日本の思想に影響を与えた。

しかし、元寇で実際に何が起こったのかを、現代において正確に説明することは容易ではない。それは限られた歴史的文献における記述のあやふやさや違い、および人によるそれらの解釈の違いによる。現在、鷹島では沈没した元軍の船の引き上げ調査が行われている。これによる新たな事実によって、これまでの解釈が今後変わる可能性もある。

私は福岡市で暮らしていたことがある。埋め立てなどで元寇の時代とは変わってしまった部分もあるだろうが、少なくとも上陸戦に重要な博多の地形・地理には馴染みがある。ここでは、まず近年まで信じられてきた説を説明しながら、私が知っている範囲で専門家による新たな説も補足して、元寇時に起こったことを、気象を中心に説明することにしたい。なお、文献によって暦の表記方法が異なることがあり、ここでは文永の役は太陽暦、弘安の役は日本の太陽太陰暦を使っている。

1. 背景

1-1 文永の役前の使節

モンゴルのフビライは、モンゴル帝国の中で中国北部を領土としていたが、1264年にハーンの座を争っていた弟のアリクブケを降し、単独のモンゴル皇帝(ハーン)となった。そして、文永の役(1274年)までに日本に6回の使者を送った。

  1. 1266年、1回目。使節は朝鮮から日本に渡らず、国書も日本に届かなかった。
  2. 1268年1月、2回目。使節が太宰府まで来る。国書を渡すが返書を得られず帰国。
  3. 1269年2月、3回目。使節は対馬に到着するが、九州本土に渡れず、そのまま対馬から島人2名を連れて帰国。
  4. 1269年9月、4回目。使節は対馬で国書を渡すだけで、島人2名を対馬で返還して帰国。
  5. 1271年9月、5回目。使節(超良弼)は博多湾の今津浜に到着。入京を望むも許可されず、そのまま帰国。
  6. 1272年3月、6回目。使節(超良弼)は太宰府に到着し、そのまま1年近く留めおかれた末に帰国。

最初の使節は、高麗まで着た後、日本への渡航を躊躇して引き返している。5回目と6回目の使節である超良弼は、帰国後フビライに、日本に侵攻しても利点はないのですべきでないと進言した [1]。もちろん、当時海を渡ることは命がけだっただろう。しかし、それだけではなかったかもしれない。鎌倉政権は発足当初から血で血を洗う闘争を繰り返しており、そのことはある程度高麗にも伝わっていたと思われる。そのような気性の荒い日本人に、モンゴルへの服従を説得するのは困難、と見ていたのかもしれない。

文永の役の前は、モンゴルからの何れの使節も帰国を許したが、執権や天皇に謁見させなかった。また国書は鎌倉政権や御所へ送られたが、返書はモンゴルへ送られなかった。

1-2 モンゴルの目的

モンゴルの他国の支配は、出先機関として徴税官(ダルガチ)を配置して税金を徴収するだけだった。その地の既存の政権や宗教には干渉しなかった [1]。そのため、日本を配下に置けば税金を徴収できるという期待はあったのだろう。しかし、それ以外の目的があったかどうかについては定説がない。

他の目的としては、当時モンゴルは南宋の征服の途上であり、南宋と通商している日本が、モンゴルが結ぶことによって南宋を孤立させるため [2]、軍事物資である硫黄の南宋への供給を止めて、逆にモンゴルがそれを手に入れるため [3]、征東行省という日本を攻略するための役所の官僚の出世欲のため [1]、弘安の役では、征服した南宋軍の始末のための植民のため [1] [4]などが挙げられている。

1-3 当時の日本の状況

1268年3月に北条時宗が第8代執権に就任した。北条時宗は、執権になる前から連署という立場で政治に関わっており、彼は元からの使者の意図を含めて、元と南宋との動向に詳しかったと思われる。2回目の使節(日本に来た最初の使節)を元に戻すと、すぐに西国の守護に異国の襲来に備えるように指示を出している。また、朝廷も「異国降伏」の祈祷を全国の神社に命じている。それらの対応を見ると、おそらく最初から元と結ぶ気はなかったと思われる。

1272年には二月騒動が起きて、時宗は異母弟である北条時輔とその一派を討伐した。とかく争乱が多い鎌倉時代だったが、これで時宗政権に反抗する大きな勢力はなくなり、元に対する挙国一致体制が築けたという説もある。そして、この北条時宗の政権下で元寇を迎えることとなる。

1-4 当時の朝鮮半島の状況

朝鮮半島の当時の状況にも触れておいた方が良いかもしれない。当時の朝鮮半島の政権である高麗は、1231年から1259年まで6回にわたってモンゴルの侵攻を受けていた。そのたびほぼ全土が蹂躙され、和議を結ぶことを繰り返していた。高麗内部も徹底抗戦派とモンゴル帰順派に分かれており、帰順派の高麗人の一部はモンゴルに逃れた上にモンゴル側に寝返った。また侵攻のたびに多数の住民がモンゴルに連れ去られた。

そのためモンゴルには、モンゴルに帰属する高麗人も一定数いたようである。1260年にフビライがモンゴルのハーンに即位し、高麗も元宗が即位すると、高麗は元に降伏して、親元路線をとるようになった。1274年に元宗が亡くなり、息子が即位して忠烈王となると、その流れはより確かとなった。そして、文永の役を迎える。

2. 文永の役(1274年)

13世紀に東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国の皇帝フビライは、1271年には元と国名を改め、上記のようにその前後から使節を日本へ6回派遣した。 [1]は、他の地域への場合のようにいきなり侵攻せずに、モンゴルが8年間にわたって6回の使者を日本へ送り続けたのは異例と述べている。しかしモンゴルは、2回目の使節が戻る前の1268年に、高麗に対して日本侵攻のための船の建造を命じていた。和戦両構えだったことがわかる。

元と国名を改めていたモンゴルは、何度も送った国書に対する返書を行わない日本に対して、1274年にいよいよ侵攻を決意した。高麗は元はとともに侵攻するための軍を準備するように指示された。

一方、日本の鎌倉幕府の執権北条時宗は元の襲来を予想して、西国の防衛を固めた。しかし、それは幕府としての統一的な防衛軍を組織したのではなく、西日本の御家人たちにそれぞれの手勢を率いた防衛を指示したものだった。

2-1 元軍の構成

1274年の最初の侵攻では、日本征討都元帥にヒンドゥ(忻都)、征東右副元帥に洪茶丘、同じく左副元帥に劉復亨、そして都督使に金方慶が任命された。ヒンドゥのことは元の公式記録になく、彼のことはよくわかっていない。彼は1271年に高麗で起こった三別抄の乱の鎮圧にあたったモンゴル軍の将軍の一人だった。元の公式記録に記載がないことから、彼は服属したどこかの地域の異民族出身だったと考えられている。

 [1]は、彼を部族を率いた代表ではなく、能力を買われた軍人官僚として日本遠征の総司令官の地位に就いたとしている。洪茶丘は高麗人であるが、上述したモンゴルに帰順した高麗人の息子である。劉復亨は、漢人か女真人とみられている。金方慶は高麗人である。彼は高麗軍を束ねるのに必要だったのだろう。

侵攻軍の司令部にモンゴル人はいない。元が直属のモンゴル人部隊を異民族の配下に置くとは考えにくく、遠征軍は異民族からなる混成軍であっても、その中にモンゴル人部隊はいなかった可能性がある。その上、同じ高麗人でもモンゴルに帰順していた洪茶丘の方が金方慶より上位に位置している。司令部も複雑な混成軍であったことがわかる。モンゴル人はいなくても、馬の扱いに長けた民族の兵士はいたと思われる。

高麗史によると、元軍は高麗軍と合わせて兵士約2万6000人と船約900隻から成った [3]。元史からはもう少し詳しいことがわかる。それによると、侵攻軍は「千料舟」と呼ばれる大型の船が300隻、「バートル軽疾舟」という小型の船 が300隻、「汲水小舟」つまり補給船が300隻の合計900隻からなった [1]。兵士は、屯田軍・女直(女真) 軍・水軍で構成された元の遠征軍が15000名(元史日本伝)、そして高麗軍が8000名、操船に関係する者が6700名(東国通鑑)とされている [1]。

2-2 日本への上陸(11月26日)

2-2-1 対馬と壱岐での戦い

元軍は1274年11月11日(太陽暦)に対馬の佐須浦に姿を現して上陸した。対馬の守護代が数十名で迎え撃ったが、鎧袖一触というのだろうか、数で圧倒された。元軍は付近を蹂躙した。対馬は高麗から九州への補給基地となった。元軍は11月20日には壱岐の勝本に姿を現した。壱岐の守護代は、対馬から元軍の襲来の連絡を受けて防備を固めていた。しかし、元軍数百人が勝本に上陸して、その日のうちに城を破られて、守護代は自刃した。

27日には鷹島に元軍800名が上陸し、鷹島一族と松浦党など数十名が応戦したが、鷹島一族は全滅し、松浦党の一部は島を脱出した [5]。ただし、 [3]は鷹島に関する記述は、明治に編纂された八幡愚童記の伏敵編にのみ収録されて、それ以外の八幡愚童記にはないので、事実ではないとしている。

2-2-2 博多湾上陸

11月25日夕に元軍はいよいよ博多湾に姿を現した。翌26日朝元軍は博多湾内西端の今津浜に上陸した(夜半から未明に上陸したとの説もある [3])。今津浜は砂浜で大きな入江になっており、多数の船舶が停泊して上陸するには都合が良かったのだろう。 [5]は今津浜の日本側の防備は30名程度で薄かったとしている。

その日に元軍は、東に向けて長垂(ながたれ)海岸、生の松原、姪浜、百道浜、赤坂へと、今の福岡市の中心部に向けて筥崎宮付近まで、各地で戦闘しながら進軍した。そうだとすると、湾内の南岸はほぼ押さえられたことになる。今津浜から筥崎宮まで歩くと約22kmある。不可能ではないが、重装備の兵士が戦闘しながら歩くのは困難だろう。別働隊が、小型船でどこかに上陸したのかもしれない。

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)。燈線は、元軍がたどったと思われる経路。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに、地名や経路を追記して使用)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)。クリックすると拡大。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

[3]によると、最初(第1波)の元軍の上陸部隊の人数は3000名で、それを迎え撃った警固山の日本武士団は、馬上の武士1000騎を含む3000名程度だったとされている。元軍は他の場所にも上陸していたかもしれない。時間はかかると思われるが、第2波、第3波が順調に上陸していれば、数の上では日本勢を圧倒していたかもしれない。

竹崎季長奮戦図

竹崎季長奮戦図。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

ともかくも日本武士団はこれを迎え撃ち、激戦となった。相互の戦法は異なっていた。日本は伝統的に単騎で矢合わせしてから勝負を挑もうとしたが、元軍はいきなり太鼓を合図とする集団戦法をとった。また「てつはう」という鉄砲の原型となる火器を用いた。この戦いの日本での唯一の記述である八幡愚童記には、元軍は「鎧軽く、馬に良く乗り、力強く、命惜まず、豪勢勇猛自在極りなく、良く駆け引きせり」と記されている。

武士団は長射程の弓矢で対抗したものの、武士たちは不利となり水城までの退却を始めた(水城とは奈良時代に博多と太宰府の間に作られた、全長約1.2kmの土塁を持った水堀である)。ところが八幡愚童記によると、追撃してきた敵の副将劉復亨に対して、大将である少貳景資が放った矢が命中した。これに元軍は動揺した。このとき日没となり元軍は船へ戻った [6]。

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている [3]。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

2-2-3 元軍の撤退

その夜元軍は日本から撤退し、翌朝に元軍の姿はなかった。八幡愚童記は次のように記している。

さる程に夜も明ぬれば廿一日(注:太陽暦の26日のこと)なり。あしたに松原を見ればさばかり屯せし敵もあらず。海のおもてを見渡すに、咋日のタベまで所せまし賊船一艘もなし。こはいかに、いづくへは隠れたる。・・・皆打たれたまたま沖に逃のびたるは、大風にふき沈められにけり。この事先に生捕れたる日本人のその夜帰り来て語ると、今朝生捕りたる蒙古が言と同じ事なりければ、更に誤りあるべからず。 [6]

座礁した船が1隻あり、約50名が捕虜となった。彼らの証言と船から逃れた日本人の言から、船は沖で大風で沈んだとなっている。これが元軍の撤退を神風のなせるわざとなった起源の一つとなったのだろう。

元軍が撤退した理由には、日本武士団の抵抗が激しいことや副将が負傷したことが挙げられている。また日本武士団は、付近の住民を放置して避難させていなかった。多数の住民が元軍に捕らえらたり、家から放逐されたりしたが、残った大勢の住民が、夜間に避難しようとして利用した松明を、元軍が日本の新たな援軍と見間違えたことも挙げられている [6]。

元寇と神風(2)へとつづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.





2023年10月10日火曜日

成層圏突然昇温の発見とその解明(2)

 4. 成層圏突然昇温のメカニズム

その後のさまざまな観測により、突然昇温が起こると極域の成層圏循環に大きな変動が起こっていることがわかった。極域のかなり上層での現象でもあり、当初は電離層の磁気嵐や、オーロラなどのように宇宙線などの太陽活動の変化に原因があるのではないかと推測された。

しかし、結論から言うと、この現象は地球外からの影響によるものではなく、地球の大気が持っている力学的な特徴によるものである。それを1971年に世界で初めて明らかにしたのは、「成層圏準二年振動の発見(3)赤道上空での波の発見」でも登場した日本の松野太郎博士である。同博士は、赤道上の大気力学の解明も含めて、1970年に日本気象学会賞、1997年に日本学士院賞、1999年には米国気象学会ロスビー研究メダルを受賞している。また2010年には日本人として初めて世界気象機関IMO賞を受賞している。

松野太郎博士(日本学士院より公開されている肖像写真)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsuno_taroh.jpg

ところで、突然昇温が起こると極域成層圏の大規模循環が変わると述べたが、実際のところは逆で、大気循環が変わったために大気の温度構造が変わって、観測された領域で気温が上昇する。そのメカニズムは基本的に「成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム」で述べたことと似た部分がある。

そのメカニズムを理解するには、まず通常の成層圏での東西の大気循環を理解しておく必要がある。極域の夏季は太陽光が当たり続けるので、オゾン層による加熱によって成層圏上層では気温が高くなる。これは高気圧性循環を生み出し、極域成層圏では夏季に東風循環となる。反対に冬季は太陽光が当たらなくなるため冷却し、極域成層圏では冬季に低気圧性の西風循環となる(例えば、前回の30hPa高度図の(a)参照)。これが極域成層圏での基本となる循環の特徴である。

成層圏では対流が起こらないため状態が安定しているように見えるが、圏界面で対流圏と接しているため、対流圏で起こっているある特定の波の伝搬の影響を受けることがある。対流圏ではさまざまな波が起こっているが、その成層圏まで伝搬する特定の波とは、1万キロメートル以上という長い波長を持つプラネタリー波である。この波は西向き(東風)運動量を持っているのが特徴である。

この波は「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績」で述べたように、ロスビー波と呼ばれることもある。またこのプラネタリー波は、惑星波や超長波と呼ばれることもあるが、ここではプラネタリー波で統一する。そして、この波は西風中で上向きに伝搬する性質を持っている。プラネタリー波より波長の短い波は成層圏へ伝搬できない。

さて冬季極域成層圏では高気圧性循環になっているので西風となり、プラネタリー波は成層圏を上に向かって伝搬できるようになる。プラネタリー波の振幅が突然大きくなるなど、特定の条件が揃った場所でこの波が成層圏へ伝搬する。すると、上層に行くほど密度が低くなるため、エネルギー保存則から振幅が増大する。そして「成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム」で述べたことと同様に、波の位相速度が上空の風と同じ速度になるクリティカル・レベルという高度に近くなると、プラネタリー波は砕波し、持っている東風運動量を放出して、そこで西風を弱めて東風に変える。

それまで極域の低気圧性循環(西風)を地衡風として、南向きのコリオリ力と北向きの気圧傾度力が平衡していたものが、西風が弱まることで気圧傾度力が勝り、大気が低圧の極域に向かって流れ込むため、行き場を失った大気は、その高度付近を境に上昇流と下降流を引き起こす。下に向かった流れは断熱圧縮を引き起こして加熱する。これが突然昇温で気温が増加する原因となる。

東風への転換は極域全体で一斉に起こるわけではなく、ある地域から起こって、それが広域に波及する際に成層圏の大気循環が複雑に分裂したり、蛇行したりすることが多い。

運動量を放出した高度で東風に変わると、プラネタリー波はそれ以上は伝搬できないため、QBOの場合のように、波が砕波するクリティカル・レベルの高度も徐々に下がってくる。下層では大気密度が大きくなるため、相対的に突然昇温の程度も小さくなっていって、最後には消滅する。

このメカニズムのため突然昇温によって成層圏はいったんは昇温するが、そのメカニズムが終わると下降流の断熱圧縮による昇温もなくなるため、徐々に冷えて本来の冬季の極域の循環に戻っていく。しかし、突然昇温が晩冬や初春に起こると、そのまま夏の循環に移行してしまうこともある。

成層圏突然昇温のメカニズムの時系列的な概念図(特徴的な部分だけを抽出している)
クリティカル・レベル付近の高度での東風による地衡風の破れによって、極向きの流れによる収束が起こり、下降流が発生する。下降流は断熱圧縮を引き起こして大気を加熱する。その層は徐々に下がってくる。

なお、突然昇温は成層圏の現象であるが、対流圏の高緯度ジェット気流の蛇行に影響を及ぼす可能性も指摘されている。そうなれば冬型の気圧配置になりやすくなり、極域の寒気が中緯度付近に流出することによって地上付近で寒冬になる可能性もある。

突然昇温に限らないが、このように大規模な大気現象は、上空の手の届かない(つまり観察しづらい)ところで、場合によっては数千~数万キロメートルのスケールで力学や化学などのさまざまな要因が複雑に絡んでいることが特徴である。大気科学は屋内実験のようにいろんな条件を変えて試すことが出来ないため、物理学・化学的な理解をもとに、わずかな観測結果から1をもって10を洞察するような直感と想像力を必要とすることが多い。

(おわり:次は元寇と神風(1)


本文中には場所を示していないが、私の理解を確認するために用いた参考文献を以下に挙げる。

  • Matsuno: 1971, A Dynamical Model of the Stratospheric Sudden Warming, Journal of the Atmospheric Sciences, 28, 8.
  • Matsuno and Nakamura:1979, The Eulerian- and Lagrangian- Mean Meridional Circulations in the Stratosphere at the Time of a Sudden Warming, Journal of the Atmospheric Sciences,36, 4.
  • 木田秀次, 1983: 高層大気, 東京堂出版
  • 小倉義光, 1984: 一般気象学, 東京大学出版会
  • 山崎 孝治天気の科学(8) 成層圏突然昇温http://wwwoa.ees.hokudai.ac.jp/people/yamazaki/Lecture/tenki-all.pdf


2023年10月6日金曜日

成層圏突然昇温の発見とその解明(1)

 1.    成層圏突然昇温とは

人間が直接観察できない上空では、地上では想像できない思わぬことが起こっていることがある。その一つが成層圏突然昇温と呼ばれる現象である。成層圏の発見については、「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1)~(12)」で解説した。成層圏は文字通り成層しており、それまでは成層圏の大気はほとんど変動せずに安定していると思われていた。ところが成層圏突然昇温は、この安定していると思われている成層圏で、冬季に極域上空で広範囲にわたって大気温度が急激に上昇する現象である。

これが起こると、単に気温が上昇するだけでなく、冬季に安定して流れていた極域上空の成層圏の東風が、南北に大きく蛇行したり、風向きが反対になったりして、大気循環が大きく変わる。そして、それにともなって成層圏のオゾン層の分布も大きく変わる。

オゾン層破壊は一般的に南極上空での現象である。しかし、南極ほど大規模ではないが、北極上空でも部分的に起こることがある。突然昇温は一般には成層圏でのオゾン層破壊を阻害する方向に働くが、突然昇温による北極大気の大気循環の蛇行によって、オゾン層が薄い極域成層圏大気が、北半球中高緯度付近(50-60°N)上空まで南下することもある。

今回は、この高緯度での全球規模(つまりあらゆる経度)で起こる大規模な成層圏突然昇温について解説する。

2.    成層圏突然昇温の発見

1950年頃、西ベルリンにあるベルリン自由大学の気象学研究室では、ヨーロッバ各地の高層気象観測値を集めて天気図を作製していた。そこのシェルハーク教授は、1952年2月23日に奇妙な気象観測値にとまどっていた。ラジオゾンデを用いた前日の2月22日までの高層気象観測によるベルリン上空高度30km付近(~10hPa)の気温は、約-50℃で冬としてはごく普通の値だった。ところが翌2月23日の報告では、同じ高度で気温が-12℃という信じられない報告が来た。

ベルリン自由大学のシェルハーク教授
https://de.wikipedia.org/wiki/Richard_Scherhag#/media/Datei:Richard_Scherhag.jpg

 成層圏は、その名が示すとおり大気が成層しており、その意味では通常は大気は安定している。この報告では、たった1日で成層圏の気温が約40℃も気温が上昇したことになる。

しかし、当時は温度計の故障、気球からの信号の復号ミス、通信時の文字化けなどがしばしば起こることがあり、この時も観測値が正しくないのではないかと考えられた。ところが翌日も-14℃という気温が報告された。このような値はその後1週間続いた。そして高温層はゆっくりと高度を下げてていくことがわかった。

1952年にベルリン上空で観測した突然昇温の推移(久保田効、菊地正武、新田尚、天気現象への成層圏の役割、天気、16、23-32、1969を元に作成)。気圧が高くなるほど高度は低くなる。高度10hPaの観測は気球到達高度の関係で間欠的であるため、星印で示す。

観測値は正しそうであるが、大気の上層で何が起こっているのかは全く不明だった。そして、それから数年間は、成層圏上部の冬季の気温は通常の低温のまま大きな変動はなかった

 3.    成層圏突然昇温による現象

その後、1958年と1963年に成層圏で大規模な昇温が起こった。1957年から始まった国際地球年(IGY)以降、高層気象観測網が広がったこともあり、この現象が局地的な現象ではなく、極域の広い範囲で数年に一回の割合で起こっていることがわかり、成層圏突然昇温と呼ばれるようになった。

2016年の2月20日~3月21日の5日平均30hPa高度(等値線)及び平年偏差(色)。気圧高度偏差は、赤色は高温、青色は低温と等価である。青色域は低気圧性循環(西風)、赤色域は高気圧性循環(東風)となる。図は気象庁気候系監視年報2016による。

この現象には大気循環が関係しているが、まず気温だけに注目してみる。上図には成層圏突然昇温が起こった2016年冬季~春季初めの2月20日から3月21日までの30hPaの気圧高度を示す。気圧高度はそれより下層の気温と関係しており、この場合は気圧高度が高い領域は気温が高いと思って良い。

  •  (a)では北極を中心とした低温部があり、北極を中心とした西風(極渦)が吹いている。これは通常年のパターンに比較的近い。
  • その後(b)ではアメリカ高緯度付近に高温部(高圧部)が現われた。
  •  (c)~(d)にかけてアメリカ北部の高温部(高圧部)が発達して、極域に向かって張り出した。
  •  (e)では張り出した高温域によって低温域の低気圧性の極渦は2つに分裂した。
  •  (f)では中緯度から侵入してきた高温域が、ほぼ極域全体にとって代わって北極付近に高温部(高圧部)の中心がある。それに対応して北極域縁辺では東風が吹いた。

成層圏突然昇温が起こると、成層圏上部の高温域と低温域の境は急な温度勾配になり、この境界が少し動いただけで、それまでの低温域がいきなり高温域に変わる場合がある。1か所の観測地点で見ると、その場所で突然大きく昇温したように見えるため、突然昇温と呼ばれている。

成層圏突然昇温の発見とその解明(2)へとつづく)





2023年9月5日火曜日

バルジの戦いの予報

 前回まで独ソ戦におけるドイツ軍の予報について述べたので、ついでに1944年12月のバルジの戦いにおけるドイツ軍の予報についても述べておく。この作戦の成否は天候が鍵を握っていた。

バルジの戦いは、アルデンヌ攻勢とも呼ばれることがある。これは、連合国軍にドイツ国境付近まで追い込まれたドイツ軍が、1944年12月に制空権がない中で航空機が飛べない曇天を利用して、アルデンヌの森を越えて、アントワープとリエージュ=アーへン方面に向けて起死回生の大攻勢を行ったものである。

ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)の作戦計画と実際の進出域の図。
https:/ww2db.com/images/battle_bulge48.jpgを日本語に改変
   

これは連合国軍にとっては、珍しく戦略的規模の奇襲を受けることとなった。この連合国軍が奇襲を受けたのには暗号解読が関係していた。イギリスはドイツ軍のエニグマ暗号を解読しており、それによってドイツ軍の戦略的な動きは、第二次世界大戦を通して概ね事前にわかっていた。

ところが、1944年7月にベルヒテスガーデンでヒトラー暗殺未遂事件が起こったことにより、ヒトラーは軍を信用しなくなっていた。そのため、軍の反対が予想されるバルジの戦いの準備の指示には、ヒトラーとその司令部はエニグマ暗号を用いた無線を使わず、有線電話や伝令を用いて指示を行っていた。一方で連合国軍はエニグマ暗号をすっかり信頼しており、他の情報からドイツ軍が動き出す兆候を感じていたものの、これに関する暗号通信がほとんどなかったため、大規模な攻勢とは考えていなかった[1]。

この作戦の成否は天候にかかっていた。当時ドイツ軍は制空権を失っており、この戦いで成功するためには、地上のドイツ軍が連合国軍航空機による空からの攻撃を受けないこと、つまり雲底の低い曇り空が長期間継続する期間に、迅速に作戦を実施できることが前提だった。

作戦開始の都合の良い日を探すため、ドイツのZWG(中央気象グループ)に、その予報が課された。彼らが軍から求められた条件は、アルデンヌを含むライン川の西方で作戦開始後5日間曇りになる期間を2日前に予報することだった。作戦の成功には最低でも1日前に向こう3日間の飛行が困難となる気象条件の期間を予見することが必要とされた。

これは、当時の気象学の水準からすると実質的に不可能に近い任務だった。1940年5月、当時のZWGのチーフだったディージングは、「特異期間(singularities)」という考え方を使って、同年5月10日から西部ヨーロッパが数日間晴天になることを予測し、ドイツ軍の電撃戦を成功させていた。しかし、1944年12月には、ケルンより西の気象観測所は、既に連合国軍に占領されて、高層気象や地上気象の観測データがなかった。実質的に1日より先の正確な予報は無理だった。

ディージングが亡くなった後、ZWGのチーフとなっていたシュベルトフェーガーと部下の気象学者フローンは、過去の12月の天気図を調べて、そういう曇天が続く条件にあう気象がどの程度起こったか調べた。その結果、5日間続いた例はなく、4日間も怪しく、3日間がわずかにあっただけだった[2]。

12月1日から、シュベルトフェーガーはドイツ空軍司令部とヴォルフスシャンツェ(狼の巣とも呼ばれたヒトラー司令部)に、毎日気象予測の状況を報告し続けていた。それは「まだ条件が揃う見込み無し」というものだったが、それには連合国軍がライン川を渡る前には、そういう状況が来るかもしれないという根拠のない希望を添えていた[2]

ところが12月14日になると、驚いたことに動きの鈍い北海の低気圧に向けて、南西からの湿った風が当該作戦地域に吹き続けるという、曇天の条件を満たす気象になる可能性が出てきた。翌日昼に改めて確認すると、西ヨーロッパが少なくとも16日から2日間は雲をもたらす湿った暖かい、風の弱い気団に覆われることが予見された[2]。

シュベルトフェーガーは15日の昼に、「16日から18日にかけて雲底の低い雲か霧によって当該地域の下層の視程が悪くなることが予想される」という予報を出した。この予報に基づいて12月16日からバルジの戦いの作戦が開始された。

NOAAの再解析による1944年12月16日18:00時の850hPa面の気温と地上気圧。ドイツ西部からベルギーにかけて暖気が南西から入っていることがわかる(www.wetterzentrale.deによる)。

予報は当たり、当日から曇天が続いた。ところが予想外なことに、曇りの天候はこの3日間だけでなく、4日目の午後にはやや雲に隙間が出来てわずかな航空機が活動できたものの、5日目も再び厚い雲に覆われて強風が吹いた。12月にこのような気象状況が5日間も続いたことは、それまでの記録にはなかったことだった[2]。連合国軍では、ドイツ軍と天候が共謀していると嘆いたとも言われている。

この曇天の継続は、この作戦にとってこれ以上ない理想的な条件となったと思われる。ドイツ軍は、この天候を利用して連合国軍を破って70km程度西のセル付近まで侵攻した。しかしそれが限界だった。

ベルギーでドイツ軍機甲部隊の迎撃に向かう連合国軍のM36対戦車自走砲。1944年12月20日。https://ww2db.com/image.php?image_id=6931

6日目には暖気が後退して天候が回復した。するとドイツ空軍は連合国軍の航空部隊に圧倒され、多数の機甲師団を含むドイツ軍は連合国軍の空からの攻撃によって壊滅していった。また、ドイツ軍は攻勢開始後にエニグマ暗号を使った無線による指示を再開したため、ドイツ軍の意図は連合国軍に筒抜けとなった[1]。そのため、この戦いはバストーニュという都市を巡る攻防という局所的な戦いに矮小化されていった。

包囲されたバストーニュに物資を空中から投下する連合国軍の輸送機(C-47)
https://ww2db.com/image.php?image_id=6937

連合国軍総司令官だったアイゼンハワーは、ドイツ軍に防備を固めた国境沿いに籠もって抵抗されるよりは、ドイツ軍が西方の開けた空間に出てきた方がむしろ叩きやすいと考えたようである[3]。最終的にドイツ軍は、戦車800台、飛行機約1000機を失い、死傷者10万近くを出して国境付近まで退却した[3]。これによって最後のまとまった戦力を失ったため、ドイツの崩壊が早まったとも言われている。

バルジの戦いで防戦したアメリカ軍第82空挺師団の装甲ジープ
https:/ww2db.com/images/vehicle_jeep31.jpg

この作戦の成否は別として、この長期にわたる曇天を予測できたことは、ドイツの気象学者にとっては栄誉になったと思われる。この予報の成功によってZWGのチーフだったシュベルトフェーガーは大佐に昇進している[2]。

(このシリーズ終わり。次は「成層圏突然昇温の発見とその解明(1)」)

参照文献

[1]ウィンター・ボーザム, 1978: ウルトラ・シークレット,早川書房
[2]Schwerdtfeger, W., 1986: The last two years of Z-W-G (Part 3). Weather, 41, pp. 187-191.
[3]アントニー・ビーバー, 2015:第二次世界大戦1939-1945(下), 白水社
[4]グリーンフィールド, 2004, 歴史的決断(下), 筑摩書房