2023年8月4日金曜日

独ソ戦における長期予報(5)

予報を巡る2つの出来事

このように、1941年のドイツ軍によるモスクワ侵攻の失敗は、補給に大きな問題を抱えており、厳寒を予測できなかった長期予報の外れだけが決定的要因とは言えない。しかし、長期予報が作戦に大きく影響していることは間違いない。当時の予報を巡る2つの出来事を見ていく。

「観測が間違っているに違いない」

12月8日頃、ZWGのチーフだったディージングは、軍の長期予報を担当していたバウアーに電話した。これは東部ヨーロッパで異常に低温になっていることについて、バウアーが以前に出した平年並みか暖冬という長期予報内容を継続するのかどうかについての問いだった。長期予報の内容を継続するかどうかは、その後の作戦に影響する可能性があった。

ディージングによるヨーロッパ東部で低温になっているという報告に対して、バウアーは「観測が間違っているに違いない」と答えたことになっている。これによって同僚らはバウアーに不信を抱くようになった [4]。

この件は、ディージングが予報の外れを責められたためか翌年体調を崩して死去し、後任としてZWGのチーフとなったシュヴェルトフェーガーが、フローンの話を元に戦後にこれを明らかにしたことで有名となった。この話は独善なバウアーが自己過信して事実でさえ受け入れなかった話としてわかりやすい。しかし、前後の文脈で話のニュアンスが大きく異なることもある。また気温の観測は局所的な観測環境にも大きく左右される場合がある。この種の話はそこだけ切り出して使わない方が良さそうである。

ソ連の予報

第二次世界大戦中にソ連水文気象予報センターは、3日後、「自然総観気象の期間」(7~10日後)、1か月後、3か月後までの予報を定期的に作成していた [4]。ただし、長期予報の精度は当時の世界的な気象学の水準から言って限界があったと思われる。しかし、数日後までの精度は良かったようである。

ドイツ軍がモスクワまで100kmの位置に迫っていた1941年11月初めに、ソ連は士気を鼓舞するためにモスクワで大規模な軍事パレードを計画した。しかしそのパレードは、ドイツ空軍がモスクワを空爆できないように上空に低層雲が広がる日を予測して、その日に実施する必要があった。予報当局は、11月7日は低い雲に覆われて雪が降ると予報した。実際にその予報は的中し、パレードはその日に行われた [4]。

1941年11月7日にモスクワで行われたパレード
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Kuybyshev_battle_parade_1941_05.jpg

また、1941年12月の反攻開始の際も、反攻の計画段階と実行段階の両方において予報と実況が重要な役割を果たした。予報では、12月5~7日に寒冷前線の通過で気温が急速に低下して雲量が減少すると予報され、それによってソ連の航空隊による航空攻撃が可能になるこれらの期間が反攻開始日として決定された [4]。そして気象予報は当たり、この時期に反攻が開始された。

これからこの時点で、ソ連の気象当局が前線解析を行うベルゲン学派の気象学を既に採用していたことがわかる。日本の中央気象台がベルゲン学派の気象学を導入したのは戦後である。

攻撃するソ連軍兵士
https:/commons.wikimedia.org/wiki/Commons:RIA_Novosti/Battle_for_Moscow#/media/File:RIAN_archive_301_An_attack.jpg;

 まとめ

フランツ・バウアーは1941年10月に、ヨーロッパ東部の冬季は「平年並みか暖冬になる」とした長期予報をドイツ軍に提供した。それを信じたドイツ軍は十分な冬季の装備を整えずに侵攻を続けた。その結果、12月初めに厳冬にさらされたままソ連軍の反攻を受けて、多大な損害を受けて退却した。

バウアーは戦争中の自分の活動について、公には何も資料を残さなかった。しかし、彼の死後、彼が行った予報の開示と弟子であったフローンによる回顧録によってバウアーの予報は、人々に大きく批判されることになった。

そもそも泥濘期というヨーロッパ東部の気候をよく調べないままに侵攻を開始したドイツ軍は、補給についての甘い見通しもあってモスクワの早期の占領に成功する見込みは低かった。さらに、戦争が冬季まで長引きそうなことがわかっても、平年並みか暖冬を言う長期予報を信じて、冬季の備えを十分にしなかった。ドイツ軍首脳の意識は、最前線の戦力や作戦については重要視していたかもしれないが、補給や気候については、それほど重要視していない状態で独ソ戦を開始した。

ドイツ軍は長期予報を信じて、防寒対策を十分に施さない状態で異常寒波とソ連軍の反攻にさらされた。しかし「平年並みか暖冬になる」という長期予報は、[2]によるとバウアーが出した予報内容としては、正確ではないとしている。

バウアー自身の記録によると、「時間的にも空間的にも、平均して西・中枢ヨーロッパでも北・東ヨーロッパでも冬は厳しくはないだろう。特に北・東ヨーロッパでは、冬の平均気温が平年値を上回る確率の方が、寒すぎる冬になる確率よりも大きい。」という留保をつけていた [2]。 

バウアーは、確かに「平年並みか暖冬になる」という表現を使った。彼も人間である。寒い冬が続けば、次はそうではないだろうという思いがあったのかもしれない。彼がそういう表現を用いたのには、前回の冬が厳寒だったことも影響したようである。

バウアーが得意とした統計学からすると、気候の発現は独立事象なので前年の状況とは関係しない。サイコロで1が出たとしても、次に1が出る確率はやはり1/6である。彼は当然そのことを認識して統計的な留保もつけていた [2]。しかし、そういった留保は無視され、「平年並みか暖冬になる」という表現だけが一人歩きした観が強い。

また、仮にバウアーが10月末に冬季に厳冬になるという予報を出していたとしても、補給が逼迫していたドイツ軍では、前線に十分な冬装備を供給することは困難だっただろう。それでもそういう予報があれば、厳冬に対する兵士たちへの影響を少しは緩和できたもしれない。

しかし、いずれにしても長期予報の外れによるドイツ軍の敗退を、バウアーの責任にするのには無理がある。当時の長期予報は不確定なもので(今でもある程度そうだが)、そのことを十分に知っておれば、(補給を含めて)作戦計画を長期予報に全面的に依存するのは適切ではない。長期予報が使えないというわけではない。ただその利用方法としては外れた場合の備えも必ず必要となる。当時のドイツ軍が長期予報を信じて寒波に対する手を打たなかったとすれば、それは当時の気象学の水準を無視した長期予報への一種の過剰依存といえるだろう。

結局バウアーは、統計学を用いた心底からの中・長期予報研究者だったと言えるかもしれない。彼は生涯を通じて統計的手法を使った長期予報手法を一貫して追及し、一時的には世界的に注目されたが、その評価はまだ定まっていない。統計学は気候に有用な情報をもたらすことはあるが、その結果からは原因はわからず、また統計である以上当たらないこともある。彼はハンガリー気象学会からは賞を受けたが、母国からは業務に対する功労十字章を受けたのみで、科学的な栄誉は与えられなかった。

結局10日程度の中期予報は、現在では数値予報に完全に取って代わられているし、長期的な季節予報も確率を用いた慎重な表現が使われている。彼が行った長期予報は、統計的な部分が無視され、わかりやすい部分だけが使われたのかもしれない。それは彼の本意ではなかったろう。

当時長期予報を行える人は極めて限られていた。長期予報の学問的関心が短期予報に比べて相対的に低かったことや彼の性格から、彼は長期予報の中心的作業をほとんど一人で行っていたと思われる。そのため、その責任も結果的に一人で引き受けることになったのだろう。そういう意味では、彼は確かに「悲劇の一匹狼」だったのかもしれない。

(このシリーズ終わり。次はバルジの戦いの予報

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.


 

 

 

2023年8月2日水曜日

独ソ戦における長期予報(4)

 ドイツ軍の1941/42冬季の長期予報

独ソ戦が始まった直後、ドイツの中央気象グループ(ZWG)では、ソ連の冬についての研究を始めた。ドイツ軍では驚くべきことに、それまでソ連の冬の状況についてきちんとした調査は行われていなかった。その調査にはナポレオンが冬将軍のためにロシアから敗退した1812年から13年のデータが含まれていた。それらを用いた調査の結果、日最低気温の単純な積算が寒さの指標となることがわかった。例えばソ連のレニングラードとZWGがあるドイツのポツダムでの指標を比べて、現状や今後の推移の状況が判断された [4]。

当初ヒトラーらは、ソ連を冬までに打倒できるから、ソ連で戦争に従事する全軍に冬装備は必要ないだろうと考えていた。しかし、秋になって泥濘期によって進軍が滞り始めると、ヒトラーとドイツ軍参謀本部は戦争が冬季にまで長引きそうなことに気づき、ソ連の冬の気候について関心を持ち始めた。そして、この冬の長期予報の提供をバウアーに要請した。バウアーは10月末に地域気候学的な要素と太陽黒点と気候の関係を考慮して冬季の予報を提出した。

その予報は次の冬を「平年並みか暖冬」とした。その主な根拠は、気候史上、厳しい冬が3回以上続いたことはないという理由だった。 1939/40年と1940/41年の冬は2年続いてヨーロッパでは厳冬だった。過去150年間遡っても3年連続の厳冬はなく、彼は1941/42の冬は厳冬にはならないと予想した [4]。これが作戦に大きな影響を与えたとされている。

一方で、ZWGの気象学者たちは、9月下旬から子午線面循環のブロッキング傾向の兆候を発見していた。この現象は1939/40年にかけても発生しており、その冬の厳冬の原因となっていた。

一匹狼のバウアーとZWGは必ずしも一枚岩ではなかったようである。ZWGはバウアーの予報を疑問視し、ソ連の戦域では再び寒い冬が予想される文書を作成して、10月下旬にドイツ空軍総司令官ゲーリングに提出した。しかしゲーリングはこれを見て、テーブルに拳を叩きつけて「ロシアでは-15℃より寒くなることはない。戦争は続くのだ!」と叫んだという [4]。この文書はこの時はヒトラーへ提出されなかったとされている。

ZWGの調査結果は、早ければ寒波が11月初めにはやってくると予想していたが、その通りとなった。11月初めに寒波が到来し、そのために泥濘が凍ったことによりドイツ軍は進軍を再開した。ZWGの調査結果は、ベルリンで真冬の気温が0℃前後となるとモスクワでは-7℃~-10℃になることを指摘していたが、ドイツ軍ではそのことをあまり真剣に受け取っていなかったようである。

1942年12月からの状況

中央軍集団に属していたラインハルトの第3装甲軍は、凍結により固まった道路を通って北西からモスクワに迫り、11月28日にはモスクワまで35 kmを切った。また、北方軍集団のヘプナー率いる第4装甲軍は、モスクワまで20 km余りに迫った。12月1日、中央軍集団の第4軍はモスクワに向けて東に進軍していた。しかし補給が限界に達していた。キーウから北上していた中央軍集団のグデーリアン率いる第2装甲軍は、進軍速度が1日に数kmに落ち、11月20日にはもう限界に達していた [7]。

1941年12月初めに、ZWGのソ連の冬季の気象の調査結果がヒトラーに提示された。 以前に述べたように、その結果にはナポレオンが退却した1812/13年のデータが含まれていた。しかし、ヒトラーはナポレオンが敗退した1812/13年の冬について言及することを許さなかった。そういう中で12月4日からモスクワ付近に異常寒波が襲った。4日にはモスクワでは気温が-17℃以下、郊外のトゥーラ付近では-35℃まで下がった。

NOAAの再解析による1941年12月4日の地上気圧と850hPa(高度約1500m)での気温(www.wetterzentrale.deによる)。モスクワ西方上空に、北西から南下した-24℃の寒気の核があることがわかる。

ドイツ軍は適切な防寒装備を持っていなかったため、凍傷や凍死が続出した。ドイツ軍の武器、戦車、機械化車両の多くは、耐寒装備がなかったため寒波の中で潤滑油が凍るなどして作動しなくなった。ドイツ軍の機関車の多くも-15℃以下では故障して動けなくなり、輸送量は半減した。さらに吹雪になると列車は全く停止した [4]。12月5日には、第2装甲軍と第3装甲軍がモスクワへの攻勢を中止した。

さらにドイツ軍が寒波のために攻勢から守勢に転向しようと配置を転換し始めた12月5日から6日にかけて、ソ連軍の将軍ジューコフが準備し指揮したソ連軍が新型のT-34戦車を含む大規模な反攻を開始した(ジューコフはノモンハン事件でも指揮したことで有名である)。ドイツ軍にとっては最も脆弱なタイミングとなった。

この年は11月下旬から天候が悪く、ソ連軍の攻勢のための兵力、戦車、装備、物資の集結を、ドイツ軍は空から偵察できていなかった。スターリンは日本にいたスパイであるゾルゲからの報告で日本がソ連を攻撃する意図がないことを知って、日本に備えていた防寒装備が整った東シベリアの師団も動員していた [4]。攻勢の限界点に来ていた上に寒波への供えがなかったドイツ軍は、全くの不意を突かれた形となり、各地で重装備や車両を捨てて退却した。

ドイツ軍が放置していった車両
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:RIAN_archive_697_Nazi_vehicles_abandoned_near_Moscow.jpg


12月7日にドイツ軍最高司令部は東プロイセンでヒトラーと会談した。ソ連領内の気象状況が会議の主題となり、ヒトラーは「(寒波の襲来を)もっと早く知っていれば」と繰り返したという [4]。

モスクワとスモレンスクの朝の気温(℃)、1941年11月15日~12月15日 [4]より。

ドイツ軍司令部はソ連軍の反攻を受けて、12月8日に「厳冬が驚くほど早めに到来したために、モスクワ攻略を中止して守勢に転じる」ことを指示した。ドイツの12月8日のラジオ放送は、ソ連軍の反攻には触れず、ソ連にいるドイツ軍に異常な寒波が襲来したことと、日本軍の真珠湾攻撃によりドイツも米国に対して宣戦布告したことを告げた [1]。

ソ連軍の反攻を受けて、ドイツ軍は約100 kmから250 km後退した。ドイツ軍は深刻な危機感を抱き、ヒトラーは1941年12月16日に、現在地を死守せよとの要求を発した。ドイツ軍司令官たちは、ヒトラーの許可なくして退却命令を出せなくなった。この方針に反対したグデ-リアン上級大将やルントシュテット元帥などの高級軍人たちは解任された。

一方で反攻を行ったソ連軍部隊は、十分な兵器や装備を持たなかった上に、新たに編成された経験の浅い部隊だった。1942年1月7日、スターリンは全戦線にわたって攻勢を命じたが、これは過大な要求となった。ソ連軍は突破口を開いたにもかかわらず、先鋒部隊に充分な兵力を後続させて、戦果を拡張することができなかった。モスクワ西方での攻勢は、竜頭蛇尾の結果に終わり、ドイツ軍は壊滅を免れた [1]。

しかし、当時それはヒトラーによるドイツ軍への死守命令が功を奏したためと考えられた [1]。陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥は辞任し、代わりにヒトラーがそのポジションに就任した。これによるヒトラーの軍内の権力強化によって、ドイツ軍は翌年の再攻勢へと進んでいった。

独ソ戦における長期予報(5)につづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.

2023年7月31日月曜日

独ソ戦における長期予報(3)

独ソ戦の開始と気候への理解

ヒトラーは1941年6月22日にソ連への侵攻を開始した。この開始は当初は5月の予定であったが、想定外のユーゴスラビア政変による侵攻によって、最初から遅れたものとなった。当初に立案された作戦計画は、初戦時の数回の会戦でソ連軍を圧倒し、長大な補給線を必要とするモスクワまで最大120日程度で一気に達するという甘い見通しに立ったものだった [1]。

これはフランスで行ったような電撃戦を想定していたものだったが、ソ連領内は道はほとんど舗装されておらず、当然ガソリンスタンドもほとんどなく、フランスでの電撃戦と同じように行かないことは明白だった。補給は主に列車に依るしかなかったが、ドイツ内とソ連内では軌道の幅が異なっており、列車による輸送も困難を抱えていた。ドイツ軍というと機械化部隊のイメージが強いが、後方の輸送は人馬が主体であり、駅からの補給の多くは人馬に依った。さらに、急速に進撃したドイツ軍の背後に取り残されたソ連軍による補給線への攻撃も補給を困難にした。

1941年6月に進撃するドイツ軍
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Barbarossa#/media/File:Wehrmacht_Panzergruppe_3_%D0%BF%D0%B0%D0%B4_%D0%9F%D1%80%D1%83%D0%B6%D0%B0%D0%BD%D0%B0%D0%B9_1941.gif


ドイツではソ連領ヨーロッパ(東ヨーロッパ)の気候に関する研究はわずかしかなかった。その研究の一つには、融解期の土壌の湿潤に関するものがあった。この地域は春と秋に大地が泥と化し、この時期は「泥濘期」と呼ばれた。泥濘とは、文字通り一面が泥と化すもので、場合によっては人間の腰付近までぬかるんだ。そうなると、移動は著しく困難になる。しかし、この研究は泥濘期について不十分なもので、泥濘期を春季に限定し、秋季の泥濘期には言及していなかった [4]。

ロシアの泥濘
https:/commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101I-289-1091-26,_Russland,_Pferdegespann_im_Schlamm.jpgより

8月にドイツ陸軍戦況図調査部が作成した報告書によると、降雨によって道路の通行が不能に陥る可能性があることを指摘していたが、その最悪の時期は8月を予想していた。確かに降水量だけ見ると8月が最大だったが、蒸発量を加味すると、泥濘は春季と秋季に起こった。そのことをドイツ軍は知らなかった。しかも、ドイツ軍ではこの報告書さえ十分に注目していなかった。

ドイツ軍は中央軍集団の第2装甲軍を南下させ、9月に南北からキーウを挟み撃ちにしたキーウ会戦で、緒戦に引き続きソ連軍に大勝した。しかし、それは比較的補給が良好だった同装甲軍を、さらに補給が困難になる東進ではなく南下させることしか出来なかったためとされている [1]。戦いで勝利はしたものの、それによってモスクワ侵攻が遅れて泥濘期に入ってしまい、後で大きな代償を払うこととなった。

一方で、ソ連ではこの泥濘期を十分に理解していた。7月31日、米国のルーズベルト大統領の特使であったハリー・ホプキンスは、クレムリンでスターリンと会談した。 その会話の中でスターリンは、「大雨が降り始める9月1日以降、ドイツ軍が攻撃的に活動するのは困難であり、10月1日以降は地盤が非常に悪くなるため、守勢に回らざるを得なくなるだろう」という自信に満ちた意見を述べた [4]。

泥濘による作戦の遅滞

ドイツ軍は10月2日にモスクワへの突入のための「タイフーン作戦」を開始した。しかし、スターリンの予測は的中した。1941年の泥濘期は雪が降り始めた10月10日から始まった。雨・雪と蒸発率の低さによって、ソ連領内の道路や野原は泥沼と化した。

ドイツ軍の戦車、大砲、機械化部隊の大部分は泥濘のために動けず、補給トラックも積載量を減らしてゆっくりとしか進めなかった。タイヤの車両はキャタピラーを持った車両で牽引しないと進めなくなったが、牽引のためのチェーンが不足した。食糧運搬車は立ち往生し、歩兵は膝まで沈む中を徒歩で行軍した。最終的には、馬が引く車両だけがなんとか移動でき、軍幹部の乗る自動車でさえ沼地につかまると、軍馬や人力で引き上げるしかなかった [7]。

ドイツ軍は、大地が凍結する11月10日まで約4週間動けなかった。もともとか細かったドイツ軍の補給は泥濘でいっそう逼迫した。この遅れによってモスクワ侵攻が長引き、冬季にまでずれ込むことが明白となった。そのためドイツ軍司令部では冬季の長期予報に関心が起こった。

この泥濘期はソ連軍にも影響したが、この時期にソ連軍は主に防御戦を戦っており、輸送ルートも短く、高い機動力を必要としていなかった。 さらにソ連の戦車と輸送車はドイツ軍のものよりキャタピラの軌道幅と車輪幅が広く、接地圧力が低いため、ぬかるんだ地形により適応していた。

独ソ戦における長期予報(4)につづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.",
Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.



2023年7月29日土曜日

独ソ戦における長期予報(2)

 フランツ・バウアーについて

独ソ戦において長期予報を行った気象学者フランツ・バウアー(Franz Baur, 1887-1977)は、1887年にミュンヘンに生まれた。父親も軍人であったため、バウアーも高校卒業後にミュンヘン陸軍大学に入り、卒業後に野戦砲兵中尉に任官した。第一次世界大戦中に彼は乗馬事故に遭い、精神的な後遺症が残ったとされている。この後遺症がその後の彼の孤高な人格に影響を与えたのかもしれない。

1918年に第一次世界大戦が終わると、彼は他の多くの人たちと同じように軍を離れた。彼はミュンヘンとフライブルクの大学で物理学、数学、地理学、気象学を学んだ。彼は1921年にフライブルク大学で博士号を取得した。バウアーの最大の関心は長期予報だった。

この興味は、有名な気象学者アウグスト・シュマウス教授のミュンヘンでの講義の中で、「長期予報は、おそらく不可能だろう」と述べたことに対して、疑問を持ったことにあるようである [2]。シュマウス教授は気候の特異点(singularity)の研究で有名であり、ドイツ気象学界の重鎮だった。なお気候の特異点という考えは今ではほとんど顧みられないが、暦に縛られた気温の特殊性と言えようか。日本で強いていうならば、気温ではないが11月3日の晴れの特異日などがそれに近いかもしれない。

バウアーは在学中に、シュヴァルツヴァルト(黒い森地方)のサン・ブラジエンにある医学・気象学研究所の責任者になった。彼は1923年3月に気温の長期予報を発表し、その科学的根拠と説明を同年末にドイツの気象学会誌に掲載した。

気温の長期予報は農業(植物の生育)と関連するため、この予報は農業気象に大きな反響をもたらした。バウアーはドイツの正統な研究者であることを示す論文モノグラフを書く準備を進めたが、長期予報を本格的な気象学の対象外とみなす正統派気象学会の反対を受けた。彼はやむなく1926年に「ドイツの季節別気温予報の基礎」という本の形でそれを出版した。それ以来、長期予報(季節予報)は正統な気象学の対象外と考えていた気象学界において、彼は物議を醸す存在となった [3]。

バウアーは農業分野におけるその人望を利用して農務省を説得し、1929 年にフランクフルトに小規模な長期予報研究センターを設立し、その所長となった。彼は1932年から戦争が始まるまで、定期的に5日および10日先までの中期予報を作成した。彼はその根拠を、統計と総観気象の組み合わせたものであることをアメリカの論文誌に発表している。しかし、他国と同様に10日予報の精度は必ずしも良くなかった。

また、彼はフランクフルト大学でも教鞭をとり、統計学を教えていた。彼の講義はレベルが高く、ほんの一握りの学生しかついて来れなかったようである。そのときの彼の弟子にH.フローンがいた。フローンは後にドイツの中央気象グループ(ZWG)で働くようになる。当時の師弟関係は良好だったが、フローンはバウアーの長期予報に対しては懐疑的だった [4]。フローンは戦後にバウアーが戦時中に行った長期予報の記事を書き、これがきっかけでバウアーが行った長期予報に対する議論が起こることとなる。

バウアーは、1937年に「大規模気象研究入門(Einfuhrung in die Grosswetterforschung)」という本を出版した(これは1944年に「長期天気予報法入門」という題で日本でも翻訳出版されている)。彼はグロスベッター・ラーゲ(大規模気象状況)という概念を持っており、気象を空間的・時間的に大規模に見ることで、長期間の気象の推移に統計的に有意なパターンを見出すことができると考えていた [5]。彼の手法は世界でも注目されていたようである。

彼の考え方はベルゲン学派が唱えた気象のセンターズ・オブ・アクション(活動中心)という概念に近いものだった。日本付近だと、シベリア高気圧が卓越する冬季の西高東低の気圧配置や太平洋高気圧が発達する夏型の気圧配置がこれに相当するかもしれない。これは持続するので、発現すればおおまかな中・長期予報をすることが出来る。

1938年に戦争の気配が濃厚となると、ドイツはポツダムに中央気象グループ(ZWG)を設立して、ドイツ国防軍最高司令部(Wolfsschanze)とドイツ空軍司令部(Kurfürst)に天気図と気象予報を提供するようになった。第二次世界大戦が勃発すると、バウアーの長期予報研究センターは、彼の抗議にもかかわらずZWGの気象局の下におかれて、軍に長期予報を提供するようになった [2]。独ソ戦で行ったバウアーの長期予報については後述する。

戦後、バウアーはわずかな研究費を元手に中・長期予報の研究を発表し続けた。1947年には「ヨーロッパの主な気象パターンの代表例」、1948年には「大規模気象知識入門」、1956-58年にかけて、「気象と天気予報の基礎としての物理統計法則」2巻を出版した(何れもドイツ語) [6]。

バウアーと長期予報はドイツの気象学界の中で、人格的にも学問的にも孤立していた。フローンは、具体的な記述をしてはいないものの、乗馬事故による心理的ダメージによるバウアーの病的な不信感に言及している。

バウアーは1977年に亡くなったが、フランクフルト大学でバウアーの講義を受けたことがあるアメリカ気象局長官、ヘルムート・ランズバーグは、彼の追悼文の中で「バウアーと気象学の仲間たちとの関係は一般に対立していた。ドイツの気象学の権威者たちは彼を敬遠していた」と述べて、彼を「悲劇の一匹狼」と呼んでいる [3]。

独ソ戦における長期予報(3)へ続く)


参照文献(このシリーズ共通)

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2] R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3] H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.," Bulletin of American Meteorological Society, 59, 310-311, 1978.
[4] Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Signiticantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.I. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68, 6, 620-630, 1987.
[5] R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993. 
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.



2023年7月27日木曜日

独ソ戦における長期予報(1)

 イントロダクション

気象は戦争に大きな影響を与える。それが明確に意識され始めたのは第一次世界大戦からである。当初は飛行船・航空機や毒ガスの運用のための低層の風と視程の予報に関心が集まった。しかし、大砲の射程が伸びるにつれて、命中精度を上げるための弾道計算に高層の風も重要になった。必要だったのは気象の現状把握か短期予報だった。そのため、第一次世界大戦から軍の気象部隊が大幅に拡充されるようになった。

第二次世界大戦になると、軍の近代化・機械化が進み、作戦も巧緻化した。しかし、最後に戦うのは人間である。そのため、短期予報だけでなく、作戦の準備段階から戦場において想定される気候がどうであるかも重要視されるようになった。

太平洋戦争時、1943年5月にアッツ島の上陸作戦を行った米軍は、気候の調査よりも作戦の秘匿を優先させたため、カリフォルニアで訓練していた兵士たちは気候にそぐわない装備のままで戦闘に臨むこととなった。5月のアリューシャン列島は曇天が多く、雪が残ってまだ寒い。米軍は凍傷などによって多数の負傷者を出し、その数は戦闘による死傷者を上回った(「アリューシャンでの戦い」)の7.4.3を参照)。

1941年6月から始まった独ソ戦(バルバロッサ作戦)においても、ドイツ軍は泥濘期というヨーロッパ東部の気候への注意が足らず、また冬季の気候予測が外れたため、大きな犠牲を払った。これまで1941年の独ソ戦は、ヒトラーの作戦への無理な介入と異常な寒波という天候が、勝敗を決定したような理解がされることもあった。これは独ソ戦開戦後、モスクワに向けて快進撃を続けていた軍に対して、ヒトラーが途中からコーカサスの油田とレニングラードの包囲・遮断を優先させたため、時間を浪費して異常な寒波に遭遇せざるを得なくなったというものである。

しかし、近年の研究によると、それ以前にドイツ軍には補給などに当初から多くの問題を抱えており、長大な補給線が必要となるモスクワへの急速な進撃は、そもそも無理だったともされている [1]。しかし、冬季の長期予報の外れによって多大な犠牲を出したことは間違いない。当時、ドイツ軍に長期予報を提供していたのはフランツ・バウアーという気象学者だった。ここでは、彼に焦点を当てながら、当時のドイツ軍の長期予報がどうであったのかを見ていきたい。

1941年の独ソ戦(バルバロッサ作戦)におけるドイツ軍の侵攻範囲(黄緑は1941年12月初めの範囲)

https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Moscow#/media/File:Eastern_Front_1941-06_to_1941-12.png

独ソ戦における長期予報(2)につづく)


参照文献

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.