2022年11月7日月曜日

風船爆弾(7)

 7.1 森林火災への対応

風船爆弾は、まずは西海岸の森林火災が脅威と結論された。その結果、第9軍司令部、第4空軍、西部方面軍防衛司令部は、森林火災の消火に特別な支援を行うことになった。この計画は「ホタル(Firefly)プロジェクト」と名付けられ、多数のスティンソンL-5連絡機とダグラスC-47輸送機、そして約2700人の部隊(うち200人は空挺部隊)が消火活動のために火災の重要地点に配置された [1]。

7.2 生物兵器の可能性への対応

日本が細菌を運ぶ風船爆弾を飛ばすかもしれないという可能性が浮上すると、「稲妻(ライトニング)プロジェクト」と呼ばれる別の計画が開始された。陸軍当局は直ちに農務省に対して、家畜や農作物に奇妙な病気の兆候が現れたら、すぐに警戒するように提言した。それに基づいて、各地の保健・農業担当官、獣医師、農業大学などに指示が行われた。除染用の化学薬品やスプレーなどが、西部各州の戦略地点にこっそりと運ばれた [1]。

7.3 単発的な風船爆弾迎撃

1944年12月19日に第4空軍による風船爆弾迎撃の最初の試みが行われた。この日、4機の戦闘機がサンタモニカ地区で目撃された風船爆弾を捜索するようにロサンゼルス管制から指示され離陸したが、目標を発見することはできなかった。結局、1944年12月1日から1945年9月1日の間に、報告された風船爆弾を迎撃するために500機近くが発進したが、航空機によって北米大陸上で撃墜された風船爆弾は2個だけだった [1]。

その最初の風船爆弾は、1945年2月23日、カリフォルニア州カリストガ付近で、サンタ・ローザ陸軍飛行場のロッキードP-38によって撃墜された。2個目の風船爆弾は、3月22日にオレゴン州レッドウッドからネバダ州まで戦闘機によって追跡された。風船爆弾はリノ上空を通過し、近くの山中に降下した。捕獲しようとしてパイロットは着陸して自動車で追跡を続けたが、風船爆弾は丘の上でバラストと爆弾を投下して再び上昇した。陸軍の3機のベルP-63キングコブラのうちの1機が銃撃で風船爆弾を破壊した [1]。


1945年3月22日、ワシントン州ワラワラ陸軍飛行場から追跡中のベルP-63キングコブラが撮影した、ネバダ州リノ上空を飛行中の日本軍の風船爆弾の航空写真。[1]より。

また大陸とは別に、風船爆弾の飛行経路上にある最初の連合国領域は、アリューシャン列島だった。気流の関係からか、4月上旬から風船爆弾がこの地域の上空を通過した。対空砲火や戦闘機隊が風船爆弾の一部を撃墜することに成功した。4月13日にはF6Fヘルキャット戦闘機がアッツ島東部のマサカル湾上空の高度10 kmから12 kmの高度で、発見した風船爆弾の半数以上の9個を撃墜した。これが迎撃のための最後の飛行となった [1]。なお、アッツ島には日本軍の全滅後にアメリカ軍が航空基地を置いていた(「アリューシャンでの戦い ~忘れられた戦争~」の「7.4.3  日本軍の全滅後」参照)。

しかし、一般に風船爆弾の迎撃は成功したとはいえなかった。アメリカ大陸で目視で発見された風船爆弾はほとんどが高度6000m以下で、それは何らかの不具合で高度が下がった一部の風船爆弾だけだった。当時高高度での高速の気流の存在はアメリカでは十分に知られていなかった。高度10km付近で発見された風船爆弾は、高高度の風とは異なる地上の風で針路が予測されたため、その後の実際の針路や予想到着地点に大きなずれが生じた [1]。これらのため、西海岸の第4空軍では風船爆弾を十分に迎撃することはできなかった。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.



2022年11月6日日曜日

風船爆弾(6)

6.  アメリカでの初期の反応

アメリカで日本軍の気球が初めて発見されたのは1944年11月4日だった。1944年11月4日、カリフォルニア州サンペドロの南西105 km沖の海上で、海軍の哨戒機がボロボロになった大きな布の破片のようなものが浮かんでいるのを発見した。この未確認物体の残骸(気球本体と無線発信器)は船上に引き上げられ、製造標識からすぐに日本製のゴム引きシルクの気球であることが判明した(シルクであることから海軍のB型だと思われる) [1]。

2週間後に再び別の気球の破片が海から引き揚げられた。しかし、これらにはそれほど関心は持たれなかった。それから4週間後にワイオミング州とモンタナ州で気球が発見された。こうなると、何かが起こっているという関心が起き、国、州、地方を問わず、あらゆる政府機関に情報提供と気球回収への協力が要請された [1]。

その頃から風船爆弾に関する情報が集まってきたようである。12月11日にモンタナ州カリスペル近くで大型の紙製気球が発見された。12月19日には西部防衛司令部はワイオミング州サーモポリス付近で爆弾の爆発跡が発見された。12月6日の夜にこの付近で爆発音が聞こえたので、この日に気球が落とした爆弾がこの爆発跡の原因と考えられた。その12日後の12月31日、オレゴン州エスタカダ付近で紙製気球といくつかの装置が発見された [1]。

また、早朝に釣りに出かけた親子が、パラシュートか気球のような物体が静かに近くの丘の上を通過するのを目撃した。しばらくして、爆発音が谷間に響き渡り、その物体が消えた方向からわずかに煙が出ているのが見えた。二人がその場所に着いた時には、森の中に紙片が飛び散っていた。また、家で寝ている子供を寝かしつけていた母親は、窓からの突然の光と静かな暗闇の中での鋭い爆発音を聞いた。また丘の頂上からやってきた牧場主たちが、低木の茂みに絡まったしぼみかけの気球を発見した [1]。

気球を回収して詳しく調べるために、手間のかかる作業が行われることもあった。ここでは、1945年3月29日にネバダ州ピラミッド湖に無害な状態で着陸した樹上の気球を回収するために、木を切り倒している。

このような発見に、地元の軍当局は何が起こっているのかと困惑した。11月4日のカリフォルニア州サンペドロ沖での発見の際に、無線機や気象機器と思われるものが搭載されていたため、地元関係者は「海を渡って飛んできた日本の気象観測気球だろう」と判断した。しかし、12月にワイオミングで爆発跡が発見されると、気球が爆弾を運んでいたという説に注目が集まり、爆発跡の近くで見つかった破片が日本製爆弾の破片であることが判明した。他の気球の回収から気球は日本の新型攻撃兵器という結論に至った [1]。

陸軍省は、1945 年 1 月 4 日に西部方面防衛軍司令官をアメリカ西部におけるすべての気球情報活動の調整役として指定した。各種の報告書は、気球の目的の1つが焼夷弾または爆弾の投下であることを明確に示していた。しかし、他の可能性も見過ごせず、1945年3月末に陸軍省は、気球の目的を列挙した文書を作成した。その主なものは次のものである [1]。

  1.  細菌戦、化学戦、あるいはその両方。
  2.  焼夷弾、対人爆弾の輸送。
  3.  目的不明の実験
  4.  恐怖心を煽り、戦力をそぐための心理的圧力をかけるため。
  5.  諜報員の輸送
  6.  対空兵器

乾季に焼夷弾を広範囲にばら撒けば、太平洋岸の広大な森林火災を生じさせることができる。これは日本の意図するところであり、またアメリカ国民に与える心理的効果でもあった。ただ先に述べたように、日本にとって気球の発射に都合の良い季節は、アメリカの乾期とはずれていた。また、日本では意図しなかったが、気球を使った細菌戦の可能性もあった。これはもしそうだったらアメリカにとって極めて大きな脅威であった。このため、調査のため大勢の生物学者を動員するとともに、状況はできる限り隠蔽された。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.



2022年11月1日火曜日

風船爆弾(5)

 5    作戦の計画と実施

5.1    計画

陸軍登戸研究所で風船爆弾の開発を担当していた草場季喜(くさばすえき)少将は、1944 年2 月に気球の表皮材料についての見通しがついたことから、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃は不可能ではないとの結論を出した。所長の篠田鐐中将は陸軍兵器行政本部長に風船爆弾の研究経過を報告し、未解決の課題を解決するために各陸軍技術研究所などや軍部外科学者の協力が必要であることを進言した。これは受け容れられた [12]。

1944年4月に陸海軍の連絡会議が東京都若松町の兵器管理局で開かれた。この会議で、海軍のB型風船爆弾の製造には必要な資源や資材を大量に必要とするため、その大量生産は現実的ではないとの結論に至った。そして海軍の研究は中止され、風船爆弾の研究は陸軍に一本化された [3]。そのためB型の生産は300個にとどまった [1]。これも予定数だった可能性があり、実際に製造されて使われた数はわからない。しかし後述するアメリカが初めて拾った風船爆弾を含めて、B型はアメリカで3個が確認されている [3]。

この会議の直後、風船爆弾は「ふ」号兵器として正式に研究の認可を受けることになった。この兵器開発に200万円の予算が割り当てられた。草場少将を中心とする登戸研究所の研究班が飛行実験を担当するとともに、他の各研究所の計画を調整・実施し、計画全体の中心を担った [12]。

1944年7月、マリアナ海戦の敗退とサイパン島の失陥により、日本は窮地に置かれた。これを挽回するのは容易ではなく、戦局逆転のためのさまざまな「決戦兵器」が検討された。しかし、1944年9月段階で実戦での使用の見通しが立ったのは「ふ」号兵器だけだった。

風船爆弾の発射を行うために、選りすぐりの精鋭約3800名からなる気球連隊が組織された。連隊長は井上茂大佐で連隊本部は茨城県大津に置かれた。気球連隊は、3か所の発射基地(大津、上総一宮、勿来(なこそ))にそれぞれ対応する3大隊からなった。気球連隊は、それ以外に通信隊、気象隊、連隊材料敞、試射隊、既述の標定所を管理する標定隊からなった [4]。杉山元陸軍大臣は1944 年9月8 日に気球連隊の臨時動員を発令した [2]。

当初は風船爆弾に細菌を積むことも検討された。しかし、当時効果的と考えられたペスト菌などは、成層圏の-50℃という環境に長時間は耐えられないことがわかった。そのため、成層圏の環境に耐えられる牛疫ウィルスの研究と生産が始まった [15]。しかし、細菌兵器を用いれば、当然生物兵器による報復が想定された。1944年7月まで日本軍は中国で毒ガスや細菌戦を行っていて、アメリカからそれらの使用に対して報復の警告を受けていた [14]。そのためか細菌兵器の風船爆弾への搭載は行われなかった。

5.2    製造

1944年7月には製作方法が確立され、8月から一部生産を開始した。10月には各地の造兵廠管下にある製造所に製造命令が下さて本格的製作が開始された [8]。この気球の製作には多くの日本人が参加した。これに最も大きな力を発揮したのは、なんといっても女学校とその生徒たちだった。当時国家総動員法があり、1939年には国民徴用令が制定された。それに基づいた学徒勤労動員令や女子挺身勤労令によって風船爆弾の製造に限らず生徒たちは各種作業に徴用された。


多数の女子高校生が風船を貼ったり縫ったりする繊細な作業に動員された。 [1]より

各地の造兵廠だけでなく、全国約100 校の女学校で気球本体の製造や風船爆弾用の爆弾作りがおこなわれた [15]。また各造兵廠での作業にも多くの生徒が駆り出された。戦時中は学校の授業時間は短く、後になると授業は中止され、生徒たちは作業に専念した。しかし、この制作物がどのような用途に使われるのか、公式には知らされなかった [1]。多くの場所では、1945年の3月まで交代での24時間作業で製作が行われた。

まず学校の中に工場が作られ、何枚もの和紙を強度を上げるために貼り合わせる作業が行われた。貼り合わせた和紙は暖めた水酸化ナトリウムやグリセリンなどの軟化剤に浸して柔らかくされた。そうするとそれまでパリッとした紙が厚手のビニールのようにしんなり折りたためるようになったという [15]。

貼り合わせた紙は、乾燥された後に型紙に沿って紡錘状に裁断された。それから1個の気球に600枚の紙を接着して気球の上半球と下半球を作成した。それには90kgのこんにゃく糊が使われた。最後に上半球と下半球がバンドでつなぎ合わされて、1週間から10日ほど乾燥された。風船を組み立てる際に表皮を傷つけないように、気球を製作する少女たちには、ヘアピンをつけない、爪をきれいに切る、真夏でも靴下を履く、手袋をするなどの指導が行われた [8]。

それから先の最終組立と検査は、広い床面積が必要であるため主に軍の工場で行われた。気球に漏れがないかどうかを調べるには、直径10mの気球を膨らませるのに十分な大きさの建物が必要だった。そのためには、大きな劇場や相撲場が理想的であり、軍の工場だけでなく、東京の日劇ホールや 東宝劇場、東京・浅草の国技館なども使われた。これらの建物は床面だけでなく壁面の突起物もすべて紙で覆って、気球の表皮を傷つけないように改修された [1]。


気球の製造や膨張の実験には、大きな競技場と劇場が使われた。そのひとつである東京の下町の日劇ミュージックホール。 [1]より
この風船爆弾は約9000個が製造された。この製造のために日本中の食卓からこんにゃくが消えた。

なお、多くの学校では風船爆弾の製造は1945年の3月で終わった。しかし、高崎や満州の新京などの一部の学校では8月まで製作していたという [15]。新京で製造していたものは気球の大きさも小さいので、これは対米用の風船爆弾(甲型気球)とは異なる低空有人式の乙型気球 [3]であった可能性がある。しかし、高崎で製造されていた気球の目的ははっきりしない [15]。また、学校によっては紙の貼り合わせなどの作業を続けており、風船爆弾以外の目的で紙の製造が続けられていたのかもしれない。

5.3    作戦の実施

風船爆弾の効果を最大限に発揮させるため、15,000個の風船爆弾を用意することを前提に、以下のスケジュール案で計画が組まれた(比較のため、実際の気球運用を示す) [1]。

               月   予定発射数 推定発射数
1944年   11月         500           700
              12月      3,500        1,200
1945年    1月       4,500        2,000
               2月       4,500        2,500
               3月       2,500        2,500
               4月             0           400
             合計     15,000        9,300

 風船爆弾の発射基地は、福島県勿来(なこそ)、茨城県大津、千葉県上総一宮に設置され、それぞれ発射台の数は12台、18台、12台だった [14]。どの発射台でも1個の気球を飛ばすのに30分から1時間かかった。しかも発射が可能となるのは、晴天で地表の風が比較的弱い日の日出か日没の前後の数時間だけだった。これら3つの施設から打ち上げることができる気球は、合計で1日最大200個と考えられた。打ち上げに適した風が吹くのは、1週間に3-5日しかない。そのため、15,000個の風船爆弾を期間内に打ち上げるのは容易なことではなかった。

9月30日には参謀総長名で攻撃準備命令が下され、10月25日には気球連隊長に対して、攻撃実施命令が下された。この命令では攻撃目的を「米国内部攪乱」とし、この攻撃を「今次特殊攻撃ヲ『富号試験』ト呼称ス」となっている [2]。命令書には1944年11月1日開始となっているが、11月1日に勿来で作業中に自爆用爆弾の爆発により3名が亡くなる事故が起きた。これが関係しているのか気象の関係からなのか不明だが、実際に最初のアメリカ本土に対する風船爆弾の発射が開始されたのは、11月3日の0500時だった。

しかしこの時大津では、爆弾が外れて爆発して3名が死亡する別な事故が起きた [3]。この調査のため作戦はいったん中断され、11月7日から再開された。これらの事故は作業の不慣れによるものとされている。その後は死亡事故は起こらなかった。しかし、想定と異なり発射した風船爆弾が北西に飛んでいき、函館に不時着したものもあった。別に秋田に落下したものもあった [9]。

風船爆弾による攻撃が行われている間、風船爆弾に混ぜてラジオゾンデを搭載した気球が発射されたようである。これに搭載された軽量な無線発信装置は、あらかじめ選択された周波数で継続的に信号を発信した。複数の標定所によるこの信号の受信によって、かなり正確に飛行経路や高度を監視することができた [1]。

発射された風船爆弾は、東方向に約2000kmにわたって追跡され、その結果8時間から10時間はかなり一定の速度を示していることがわかった。この距離を超えると、追跡できずに方向と距離を推測する必要があった。本州の3つの標定所では、遠くの風船爆弾の位置の標定は困難だった。より正確な追跡のために、北海道の北にあるサハリンに標定所が設置され、30時間以上追跡することができるようになった。このような計画によって、日本軍は風船爆弾が米国に到達できることを確信した [1]。
 

5.4    発射作業

気球の発射(放球)は難しい作業である。ガスを注入して浮力がつき始めると、気球が一気に上昇して急に搭載機器を引っ張り上げるので、その衝撃で搭載機器にダメージを与える恐れがある。そういう場合に備えて、気球本体と搭載機器との間には衝撃緩衝装置がつけられた。直径が10mもある大型の気球は、少しでも風があるとその大きな体は風にあおられて、真横に飛んで樹木に引っかかったり、地面にバウンドしたりする。そのための対策も必要だった。

風船爆弾の発射のために、固定のための19個のアンカーを地面に埋めて、気球を充填する場所を準備した。まずアンカーの輪の中に空の気球を置き、気球の19本の吊索をアンカーにひっかけて気球を固定する。次に水素ガス充填ホースを気球に接続し、気球にガスを充填する。

充填が終わると気球から充填チューブを外し、そこにガス放出弁を装着する。長いロープを気球のスカートのようなバンドに設けられた各穴に通し、地面に打ち込まれたアンカーのフックに引っ掛けた。ロープの反対側は作業員が持った。それから運搬物を気球吊索に装着し、作業員は、持っているロープをゆっくり緩めて運搬物が地上から浮き上がるまで気球を上昇させる。装置等の点検が終わると、上空に達してから機器を動作させるための長い導火線に点火する。そして作業員は、持っていた長いロープを離して気球を発射した。この発射方法は、地表の風が穏やかなときだけ使われた。

風速が1m/sを超えると、次の方法が採られた。まず気球は地面付近に保持され、重しとなる特殊な砂袋を途中に挟んだ長いロープを気球のバンドに通して、このロープを地面のアンカーに固定する。このロープの長さは吊索とほぼ同じである。発射合図とともに、重しの付いたロープをつけたまま風船爆弾は地面からゆっくり上昇する。ロープが延びきると、ロープが張った衝撃でロープ途中の砂袋がちぎれてロープが気球から切り離される。ほぼ同時に吊索に下げられた運搬物が地面から離れて、重しの砂がなくなった気球はその後急速に上昇するという仕掛けだった。


風船爆弾発射時の作業のスケッチ。左は気球にガスの注入を開始したところ、右は気球が膨らんだところ、中央は発射直前である。[1]より


5.5    機密保持

風船爆弾による攻撃は、「どこから誰が放ったか判らない攻撃」が主たる目的とされた。そのため、「ふ」号兵器は極秘にされ、その部品への日本文字の使用は一切禁じられた [9]。製造工場で働く生徒などには通行証が与えられ、それがないと工場へは入れなかった。また、働く生徒たちは、製造しているものや作業に関することの口外は厳禁され、もし口外すれば軍法会議にかけられると脅された。また、作業は分割して行われていたので、生徒たちは自分たちが作っているものが何なのかは、ほとんど知らなかった。

作戦準備命令には「企図の秘匿に関しては厳に注意すべし」と指示されており、またアメリカから発射基地への爆撃を避ける必要があるため、打ち上げの際は非常に厳しい警備体制が敷かれた。気球連隊の要員は狭い一地域から容易なことでは出られなかった。また、農民や漁民の付近への立ち入りを禁止し、付近の鉄道では通過する車両の窓に鎧戸が下ろされた。それでも、風船爆弾が上昇するとそれを見ることを防ぐすべはなかった。しかし、海岸線は人家がまばらであるため、秘匿の問題はそれほど重要とはならなかった [1]。この作戦については、当時はほとんど語られることはなく、飛行の様子も公表されることはなかった。

風船爆弾の目撃者にとって、打ち上げの光景は忘れがたいものだったといわれている。地上から放たれた気球は、高度5000mで完全に膨張するように、地上では水素ガスを6割しか充填していなかった。そのため放出された時は、気球の下側の凹んだ部分と、その周囲からぶら下がっているたくさんの吊索の形状は、巨大なクラゲに非常に似ていた。朝日や夕日に照らされた白色または水色の気球は、その錯覚をより一層引き立たせた。発射要員などの風船爆弾の発射を目撃した人々は、あまりの奇想天外さにアメリカに向かっていることが信じられなかったという [1]。

これほど極秘に管理された風船爆弾だったが、アメリカでは見つかるとそれが日本製であることがすぐにわかった。後述するように最初にアメリカで発見された風船爆弾には、日本語の製造標識がつけられており、製造場所や製造日が記載されていた [3]。これは実験用の気象観測気球だったのか、対応が緩かったのかもしれない。しかし、その後も多数の風船爆弾で、部品につけられた日本語の製造標や検査合格証のようなものが見つかった [1]。風船爆弾には一般の軍需部品も数多く使用されており、そこまで監視の手が回らなかったのかもしれない。また製造に関するものだけでなく、作業者が忍び込ませたと思われるお守りやお札なども見つかった。変わったところでは、アメリカで押収された風船爆弾のバラストの砂中から、絵はがきが見つかった。それは書かれた住所から、山形県に住んでいる小学生が千葉県上総一宮で風船爆弾の発射作業に携わっている父宛に送ったものと思われている [1]。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.

2022年10月29日土曜日

風船爆弾(4)

4 風船爆弾の構造と性能

4.1 陸軍のA型風船爆弾の構造

後述するように海軍もシルク製の風船爆弾を開発しており、陸軍の紙製気球を使ったものは「A型」と呼称された。陸軍が開発したA型風船爆弾の気球は、直径約10m(最大容積500m3)で、気球の強度を出すために和紙が上半球は4層と下半球は3層に交互に縦横に600枚貼り合わせられたものだった。

気球の底部には水素ガスの放出弁がつけられた。気球中程のスカート状の吊りカーテンから運搬する装置や爆弾を吊るための多くの吊索が下げられた。その吊索で搭載物である高度制御装置、バラスト(砂袋と焼夷弾)、爆弾などを吊り下げた。風船爆弾の総重量は約182kgで、そのうち典型的な爆弾の積載量は、15kgの爆弾1個と5kgの焼夷弾4個だった [12]。

風船爆弾の構造。[1]を和訳

4.2 A型風船爆弾の飛行

A型の風船爆弾は、飛行中に日射によってガス圧力が高まると気球のガス放出弁からガスを放出する。夜間の低温によるガスの収縮やガス漏れのためにガス体積が減って高度が下がれば、高度制御装置がバラストを落として上昇する。これを繰り返すことによって、高度を維持した。

風速の予測からバラスト投下の必要回数を計算し、風船爆弾がアメリカ大陸上空で爆弾を投下するように予め適切な回数が設定された。設定された個数のバラストをすべて投下した後に、しばらくすると浮力が足りなくなって気球は落下を始める。設定高度である4000mまで高度が下がると、高度制御装置は搭載していた爆弾を投下して自爆する。その火は気球を炎上させる爆薬への導火線に引火して、風船爆弾自体の存在を消滅さえる仕組みだった [9]。

4.3 潜水艦を用いた海軍の風船爆弾計画

海軍では、中央気象台からの提案を受けてか、潜水艦搭載の小型気球に爆弾を搭載して、アメリカに近い洋上から発射する作戦を計画した。気球関係は相模海軍工廠が、気象関係は海軍気象部が担当して研究を進めた [13]。1943年3月には、航続距離3000kmの直径6m気球が開発され、日本の西海岸と東海岸の間1000kmの飛行が確認された。この形式の気球は、高度8000mで30時間以上滞空できることがわかった。

この気球は潜水艦の甲板で膨らませ、5kg焼夷弾1個を取り付けた。気球はアメリカから約1000km離れた地点で、夜間に潜水艦から発射される予定だった。高度制御装置はなく、昼間の日射による熱で加圧された余剰分の水素ガスを放出しながら飛行し、約10時間後の夜に浮力が低下した気球が、アメリカ大陸上で自然落下する計画だった [13]。

海軍は建造中の2隻の潜水艦(伊54と伊55)に気球発射設備の搭載に着手し、この作戦のために200個の気球が作られた。しかしマリアナ海戦の敗退とサイパンの失陥により、気球を使った攻撃の余裕はなくなり、この計画は1944年7月頃に中止された [13]。

4.4 海軍のB型風船爆弾

しかし海軍は、陸軍の風船爆弾計画と平行して別な風船爆弾の計画を開始した。それは、陸軍の気球のようバラストの投下と余分なガスの放出で高度を制御するのではなく、気球にガスを充填後に気球体積を一定に保つように、表皮に温度や高度による圧力変化に耐える強度を持たせた。そのために表皮は、重いゴム引きのシルク生地(羽二重)を利用した。

海軍が開発したシルク製気球は「B型」と呼称された。海軍のB型気球は、原理的には定積気球を目指したものと思われる。これは強度のある表皮を用いて気球内部を加圧し、周りの温度にかかわらず気球の体積、つまり浮力を一定に保つものである。

しかしB型の材質であるシルクでは耐えられる圧力に限界がある。実験飛行中に、日射の加熱によりガス圧の測定値が毎日午後3時頃に最高値となり、多くの気球がこの時点で破裂した。そこでその後、気球にガス放出弁を取り付け、気球内のガス圧が外気圧より約70hPa以上高くなると水素ガスを放出するようにしたところ問題は解決した [9]。

B型にはガス漏れによる浮力低下を補うため、簡単な高度制御装置が付いていた。約3kgのバラスト14個を、高度が下がると4回に分けて投下するようになっていた。そしてA型と同様に最後に爆弾を投下する仕組みだった[1]。

B型は飛行が安定し、追跡等が容易なため300個が製作された。風船爆弾による攻撃時に、試射隊によってA型と同時に2~3個のB型の風船爆弾が発射された [9]。

4.5 A型とB型の風船爆弾の違い

陸軍のA型と海軍のB型の気球の仕組みや飛行性能の違いについて簡単にまとめておく。なお物理学的に、浮力は気球の体積が押しのけた分の空気の重さと同じとなる。

気球表皮の材質はどちらも紙かシルクかであり、ゴムのラバーとは違って伸縮はしないので、どちらも気球の最大体積は一定である。原理的な構造からいうと実は両者には大きな違いはない。ただA型は表皮が紙で耐圧がないので、気球の内圧は、ガス放出弁を用いて常に外の気圧と同じにする。日射による加温によって内圧が気圧より高くなった場合は、ガス放出弁から水素ガスを放出して内圧を下げる。気温が下がって内圧が低くなった場合は、気球がしぼんでやはり内圧は気圧と同じになる。

そのため上空で満球になるように、地上では気球に最大体積の6割程度しか水素ガスを注入せず、しぼんだ形で発射する。上空でガスが抜けて浮力が下がれば、バラストを放出して気球重量を軽減して高度を維持する。バラストがなくなった後に浮力が下がれば、落下して設定高度(約4000m)で爆弾を投下して自爆する。

一方、B型は発射時から外気圧と同じか少し高くなるまで内圧が高くなるように水素ガスを注入する。そのため、気球は地上での発射時から満球である。上空に上がって気圧が下がるか、日射によってガス温度が高くなって、内圧と外圧の差が70hPa以上大きくなれば、その時点で表皮が破れないようにガス放出弁からガスを放出する。

気球の体積は変わらない。気球は押しのけた体積の空気の重さ(浮力)と風船爆弾の重さが釣り合った高度で飛行する。そのためB型は飛行高度が比較的安定していることが特徴だった。ただし、徐々にガスを放出して気球内圧が外の気圧より低くなれば気球はしぼみ、浮力が全重量より小さくなれば自然落下し、設定高度で爆弾を投下してて自爆する。

B型風船爆弾による1944年9月29日のテスト時の記録。[1]を日本語に改変。
なお、?は筆者による注記。

4.6 兵器としての発展

日本上空10km付近では11月頃から4月頃まで強い西風が吹いている。風船爆弾はこれを利用することで考案された。そのため、風船爆弾の利用は冬季の時期に限定されていた。

ところが、高度15km以上では夏でも強い西風が吹いていることがわかった。そのためこれを利用しようと登戸研究所では高度15kmまで上昇できる直径15m気球の開発に乗り出した。しかしこの大きさの気球は、浮力が大きすぎて地上での制御が極めて困難となる。少しでも風があれば発射は極めて難しい。結局試作は行われたが、取り扱いの難しさのために本格的に量産するまでには至らなかった [14]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.
13. 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書第045巻 大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期. 朝雲新聞社, 1971.
14. 明治大学平和教育登戸研究所資料館, 元登戸研究所関係者の座談会. 4号, 2018年9月, 館報, p111-127.


2022年10月25日火曜日

風船爆弾(3)

 3.   風船爆弾の開発

陸軍では「ふ」号兵器の開発を登戸研究所(第九陸軍技術研究所)に託し、その責任者を草場季喜少将が務めた。

3.1    気球の材質と気密性

1933年頃陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て気球の空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかった。彼は軍籍を離れて、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でこんにゃく糊を塗布した和紙を使用することを考えついていた。なお、1940年に近藤は病死したが [10]、国産科学工業研究所は、風船爆弾の製造には民間企業として大きく貢献した。

「ふ」号兵器の開発において、登戸研究所では気球の素材として手に入りやすくて軽い和紙が検討された。その材料には繊維が長いコウゾが選ばれた。当時和紙は手漉きだったが、主な労働力は既に動員されており、1個に600枚の和紙を使う気球の製造予定数25,000個を手漉きで作れる労働力は残っていなかった。和紙を大量に生産するため、陸軍登戸研究所で機械で大量に漉く方法が開発された [1]。これによって製造された和紙の品質を均一とすることにも成功した。

気球表皮の貼り合わせた和紙は、中の水素ガスを漏らさないことが重要だった。原子番号1の水素原子(H)は最も最も小さな原子であり、水素ガス(H2)は、表皮の分子レベルの隙間から漏れやすい。長時間の気密性を保つため、合成ゴム、天然ゴム、いろんな糊材、油、油布などが試験された。その結果、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせると最も水素が漏れないということがわかった [11]。

こんにゃく糊には防腐剤と色素が混入されて、色の濃淡で気球皮膜のむらの有無を検査した。しかし、1 kgのこんにゃく芋から糊はわずか90 gしか出来ない [3]。こんにゃく芋の栽培には時間と手間がかかるため急な増産もできない。こんにゃく糊の風船爆弾への大量使用は、日本中の食卓からこんにゃくを消した。なお、こんにゃくはこのように戦前は糊としても使われていたようである。でなければ、こんにゃくを糊として使うということは思いつかなかったかもしれない。

アメリカで風船爆弾が捕獲されたとき、その気球表皮の素材がMIT(マサチューセッツ工科大学)などで分析された。この気球の気密性は当時のアメリカの気球の性能を凌駕していた。その秘密が和紙を貼り合わせた接着剤にあることはわかったが、接着剤が何で出来ているのかは戦後までわからなかった [3]。こんにゃくを食べない欧米人には、よもや食用の芋を用いているとは想像だにしなかったろう。戦後、風船爆弾は日本でこんにゃく爆弾と揶揄されたようだが、大量に準備可能でかつ水素ガスを最も漏らしにくい接着剤がたまたまこんにゃくだっただけで、水素を通しにくい接着剤の開発・発見は評価すべきものだろう。

3.2    高度制御装置

「ふ」号兵器の技術者にとっての最大の懸案は、気球が強い西風が吹く高度約10kmの太平洋上を50-70時間かけて飛行する間、この高度をいかにして維持するかということだった。この高速の西風に乗れないと、徐々に浮力を失った風船爆弾はアメリカ大陸にたどり着けずに、太平洋上に墜落してしまう。

雲のない成層圏では、昼間は気球は強い日射を受けて、中のガス温度が30℃以上にまで上昇する。そうすると、ガスの膨張のために気球の内圧が上昇して気球が破裂する。一方で、夜間は-50℃にまで下がるため、気球は低温で収縮して浮力を失って高度を下げる。そこで、高圧時の対処として気球の底部にガス放出弁を設置して高圧(高浮力)時にはガスを放出し、低浮力による沈降時には高度制御装置によってバラスト(砂袋)を投下することでこの問題を解決した [1]。なお表皮の製造状況によっては、低温のためだけでなく、水素ガスが気球表皮から少しずつ抜けて高度を下げることもあった。

高度制御装置は登戸研究所で開発された。それはアルミ製の車状の環で、環の周囲から最大で28個のバラスト(2.7kgの砂袋)と4個の焼夷弾が支索で吊り下げられた(焼夷弾はバラストを兼ねていた)。気球が浮力を失って、装置内のアネロイド気圧計によって予め設定された高度(290 hPa、約9000 m)以下に達するとカウントが行われた。そして、カウント毎に設定された爆薬が小型電池によって着火されて、それによって支索が切断されて、順番にバラストが落下するようになっていた。砂袋のバラストがなくなると焼夷弾が落下した。

支索が切断された際に、同時に3分間燃焼の導火線に着火され、バラストが落下しても高度が9000 mにまで回復しない場合は、3分後に次のバラストの支索を切り離すように設計されていた(高度が回復すれば、導火線が燃え切っても支索は切断されない) [8]。つまり高度が回復するまで3分毎にバラストを切り離すようになっていた。

バラストの投下で重量が軽減した風船爆弾は再び約11,000 mまで上昇し、強風に流されながらガスの減少や収縮によって再び設定高度まで沈降する。そうするとさらにバラストを切り離して上昇する。このプロセスを繰り返すようになっていた [1]。この高度制御装置の構造は最高の機密となった。

風船爆弾の高度制御装置とそれに吊された爆弾とバラスト(砂袋)。横を向いた筒がバラストとしても使われる焼夷弾。指定の気圧にまで下がると、カウント数に応じて車状の環の下につるされた砂袋(と最後は焼夷弾)が落下する。これが繰り返されて、最後に中央に下向きにぶら下がっている黒色の15kg爆弾が放出される。車状の環から上に延びている線は、3分後にさらにバラストを切り離すための導火線。[1]より。
なお後には、導火線を使ってバラストを切り離す方式ではなく、バケットを使って指定の気圧になるとスイッチが入って中の一定量(約3 kg)の砂を放出する型の高度制御装置も開発された。これは車状ではなく箱形で、簡便な小型の機構で確実に動作する優れたものだった [8]。この型もかなりの数が製作されたようであるが、製作後に空襲で失われた分もあり、これがどの程度実際に使われたかはよくわかっていない [3]。

3.3    成層圏の環境への対応

風船爆弾が成層圏で遭遇する技術的な問題は、装備品が遭遇する異常な低温と低圧だった。日本陸軍の装備は、すべて-30℃の環境下で使用できるように設計されていた。しかし、成層圏の気温-50℃という環境ではゴム部品やバネの弾力性が失われ、電池の出力も大幅に低下した。そこで低温用の部品や電池などについて、かなりの研究が行われた。また同様に高度約10 kmの気圧(約260 hPa)になると、バラスト投下用の爆薬が着火しなかったり導火線の燃焼時間が延びたりした。しかし、爆薬と導火線の問題の抜本的な解決法はなかったようである [8]。そのためにも爆薬や導火線を用いないバケット方式の高度制御装置の開発が望まれた。

日本にとって最も困難だったのは、風船爆弾の飛行を確認するために、安定して動作するラジオゾンデを開発することだった。ラジオゾンデとは、気象センサー(ゾンデ)などから得られた信号を無線で送信する装置である。成層圏の低温・定圧下でも長時間安定して動作することと、発信した電波が数千km先まで届く周波数を安定して確保することだった [8]。

その主な目的は、気球のガス温度の測定、内圧と外圧(高度)の測定、高度制御装置とガス放出弁の作動状況を送信することだった。また発信方位と時刻から、気球の飛行コースも推測できた。測定気圧から気球の高度(降下、上昇)がわかれば、バラストをいつ投下したかがわかる。当時、成層圏の過酷な環境で長時間稼働するラジオゾンデはなかった。風船爆弾開発の成功は、このラジオゾンデにかかっていた。

また、ラジオゾンデには電力が要るが、電池は低温になると性能が低下した。苦労したのは、-50℃という低温でも安定して動作する電池の開発だった。1944年4月から9月まで半年かかってさまざまな試験を行い、最終的に電池の周りを不凍液で覆って保温し,これを二重セルロイド製保温箱に収めて電源問題を解決した [12]。

ラジオゾンデの機能を確認するため、さまざまなモデルが開発され、気球に吊り下げられて実験が行われた。さまざまな研究の結果、ようやく適切なラジオゾンデが開発された。気球に取り付けて自由飛行させたところ、80時間連続で作動して西経130度まで飛行情報を伝えた。11月から3月までの冬季であれば、気球は3日(72時間)で太平洋を横断できると結論づけられた [3]。この高高度で長時間動作するラジオゾンデの性能は、おそらく当時世界最高のものだった。

3.4    飛行実験

作戦を成功させるためには実際の気球の飛行経路を追跡し、北米に到達する可能性が高いかどうかを確認しなければならない。発射場の準備と並行して、陸軍気球連隊(これについては後述する)は電波兵器の開発を担当する第五陸軍技術研究所の協力を得て、無線方位探知機を装備した気球位置の標定所の設置を行った。これらの標定所は青森県の淋代(古間木)、宮城県の岩沼、千葉県の上総一宮に設置された [1]。

そして、1944年2月から確認のための気球が上総一宮から打ち上げられた。これは後述の海軍の潜水艦を用いた作戦用に既に製作されていたものとされている [1]。その後、場所をいくつか変えて実験したようである。この実験による不具合を改修した結果、飛行経路や速度、投下装置などが正確に作動することなどがわかった [3]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

1. Mikesh C. Robert. Japan's World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Institution Press, 1973年, Smithsonian Annals of Flight, Number 9 .
2. 防衛庁防衛研修所戦史部. 大本営陸軍部〈9〉. 朝雲新聞社, 1975年.
3. 櫻井誠子. 風船爆弾秘話. 光人社, 2007.
4. 伴繁雄. 陸軍登戸研究所の真実. 芙蓉書房出版, 2010.
5. 荒川秀俊. お天気日本史. 河出書房, 1988.
6. 荒川秀俊. 風船爆弾の気象学的原理. 東京地学協会, 1951年, 地学雑誌, 第 60 巻.
7. 草場季喜. 風船爆弾による米本土攻撃. (編) 日本兵器工業会編. 陸戦兵器総覧. 図書出版社, 1977.
8. 高田貞治. 風船爆弾(II). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p44-54.
9. 高田貞治. 風船爆弾(III). 中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p70-79.
10. Balloon Bomb(風船爆弾). Wikipedia. (オンライン) (引用日: 2019年9月5日.) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE.
11. 「ふ」作戦 ー風船爆弾始末記ー. (編) テレビ東京. 証言・私の昭和史4 太平洋戦争後期. 文藝春秋, 1989.
12. 高田貞治. 風船爆弾(Ⅰ).中央公論社, 1951年, 自然, 第 6 巻, p24-33.