2022年3月12日土曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(7)

 マイクロバーストへの対策

藤田による1982年6月の観測の報告書を見た人々は、マイクロバーストの決定的証拠もさることながら、186個というマイクロバーストの発生数の多さに仰天した。これは決してまれに起こる現象ではなかった。しかもマイクロバーストが起こりそうな状況は15分から20分程度の継続時間しかなく、その中で実際にマイクロバーストが起こっている時間はわずか5分程度だった。1982年7月9日にはパンアメリカン航空機がマイクロバーストで墜落して、乗員だけでなく地上の人を含めて153名が亡くなった。1985年8月2日にはデルタ航空機がやはり墜落して、135名が亡くなった。マイクロバーストへの対策は緊急な課題となった。

マイクロバーストが航空機に与える影響のメカニズムは次のようなものである。航空機は、空港に近づくと滑走路にが着陸しようと低高度で速度を落とす。もしその時にマイクロバーストに遭遇すると、まずマイクロバースト周辺の向かい風が航空機の機首を持ち上げる。これを抑えようとパイロットが機首を下に戻したとき、下向きのダウンバーストにぶつかって機体の高度が下がる。その後マイクロバースト直下を出ると、すぐに強い追い風が機体の相対速度を下げてこの機の揚力を減じて、機体は地面へと落下する[1]。

ダウンバーストの航空機への影響(気象庁ホームページより)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/index8.html

対策は、マイクロバーストの早急な発見とそれに遭遇した際の操縦方法に絞られた。主要な空港にはマイクロバーストを監視するターミナル・ドップラー・レーダーシステムが設置された。万一遭遇した場合の緊急の操縦方法が訓練されるとともに、航空機には風の急変を知らせる警報装置が取り付けられた。それらにより、1985年まで平均して18か月に1回起きていたマイクロバーストによる航空機事故は、次は1994年まで起きなかった。

藤田は日本でもマイクロバーストの観測を行っている。1991年に台風19号が九州に上陸した際に、その直後に航空写真を撮って分析して、大分県で放射状に倒れた数千本の倒木を発見している[4]。

日本の空港気象ドップラー・レーダー(気象庁ホームページより)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/23_draw.html#doppler

藤田は1975年までアメリカのダウンバーストの数はゼロだったと述べている[4]。もちろん、それはその年に藤田がダウンバーストを発見するまで、それが知られていなかったかったためである。気象学がこれほど劇的な形で直接的に人命を救ったのは珍しい。藤田によるマイクロバーストの発見に疑問を呈する人はいなくなり、この発見はそうでなければ起こったかもしれない多くの航空機事故から人々を救うこととなった。

なぜミスター・トルネードなのか?

藤田は1990年にシカゴ大学を退職したが、それまでの功績から生涯大学に残って研究することが認められた。その後も精力的に研究活動を続けていたが、晩年に糖尿病が悪化し、1998年11月19日にシカゴの自宅で亡くなった。78歳だった。

「はじめに」のところで、「藤田哲也については、日本ではアメリカほどには知られていないのではないか」と述べた。その理由については、まず日本ではダウンバーストによる大きな被害が少ないためではないかと思われる。それまでは多少の被害があってもすべて強風による被害として処理されたのかもしれない(現在は強風被害について気象台が綿密な現地調査を行っている)。また、竜巻について彼が日本で調査を行ったことは少なく、そのためフジタスケールの名前は聞いたことがあっても、一般の日本人にとって彼の知名度は低かった。

藤田の活躍はそのほとんどがアメリカであっただけでなく、彼は九州にある明治専門学校の工学部出身だった。学位論文でお世話になった正野重方などのごく一部の人々を除いて、日本の気象界の中で彼のことに詳しい人が少なかったことも、彼の知名度が低かったことと関連していると思われる。しかしNHKがドキュメンタリー番組で取り上げたりしたので、彼の名前は近年知られるようになってきていると思う。

このブログのタイトルは「ミスター・トルネード 藤田哲也」である。最後に藤田がミスター・トルネードと呼ばれるようになった所以を述べておく。実はこれは友人たちによる彼の愛称ではない。彼がシカゴの地元の新聞記者から取材を受けた際に、自ら「ミスター・トルネードと呼ばれている」と述べたそうである。翌日、新聞には「ミスター・トルネード シカゴ大学藤田博士」という記事が載った [3]。彼はその記事を気に入って多くの人に配ったそうである。これは藤田の洒落たウィットではないかと思う。藤田はこういった自分のジョークが好きな自己演出的なところがあった。

彼の業績に対する表彰は以下の通りである [4]。

1959年 日本気象学会岡田賞
1967年 米国気象学会メイジンガー賞
1975年 アラバマ州民間防衛局特別貢献賞
1975年 局地性嵐会議視覚表現最良賞
1976年 アーカンサス州特別貢献賞
1977年 航空安全財団アドミラルルイスデプロレス賞
1977年 航空安全財団特別貢献賞
1978年 アメリカ気象協会応用気象学賞
1979年 アメリカ航空宇宙局特別貢献賞
1982年 アメリカ航空宇宙学会ローシー大気科学賞
1985年 アメリカ商務賞気象衛星25周年記念メダル
1988年 アメリカ気象学会応用気象学賞
1989年 フランス航空宇宙アカデミー金メダル
1990年 日本気象学会藤原賞
1991年 日本国政府勲二等瑞宝章

なお、以下のウェブサイトには藤田哲也についての詳しい対談が掲載されている。もっと興味を持った方には参考になるかもしれない。
・ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」 No.18 世界の竜巻博士 藤田 哲也

2022年4月19日の朝日新聞夕刊に、藤田博士が福岡管区気象台で講演した際の動画が、福岡管区気象台のホームページで公開されている旨の記事が載った。また、そのホームページでは藤田博士の貴重な資料もいくつか公開されているので、そのリンクを掲載しておく。
気象の知識 - 藤田哲也博士の講演動画

(このシリーズ終わり)

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.


2022年3月5日土曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(6)

 イースタン航空66便の事故

1975年6月24日午後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港の近くでは時折雨が降っていたが、空港の風速計は風速毎秒3 mと穏やかな風を示していた。ニューオーリンズを飛び立ったイースタン航空66便は同空港に着陸しようとして高度を下げていた。高度150mまで降下したときに、突如豪雨と突風に見舞われ、滑走路の800 m手前に墜落した。乗員113名が亡くなった。これは当時としては最大の航空機事故となった [1]。

イースタン航空66便の事故現場
https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=67&LLTypeID=2

ところが、この事故の30分以内に10機以上の航空機がこの滑走路に無事に着陸していた。66便だけに何が起こったのか?実は66便の直前に数機がウィンドシアと呼ばれる風向の急変を報告していた。しかし、それがこの事故に関連しているのかどうかはわからず、操縦ミスも疑われた。イースタン航空はシカゴ大学の藤田にこの原因究明を依頼した。

藤田はこの時の状況について、各便のパイロットが管制塔といつどこでどういう無線交信を行ったかを分析した[1]。ウィンドシアが疑われたが、前線通過時の比較的広域で起こるこのような現象が、こんなに短時間のごく狭い領域起こり得るのか?直前に着陸した航空機にはウィンドシアを報告した機もあったが、そうでない機もあり、管制官も混乱していた。

藤田は、前年に竜巻の調査を行った際に木々が狭い範囲で回転せずに放射状に倒れていたことを思い出していた。それは竜巻による旋回風ではなく、規模こそ異なるが原子爆弾の爆発調査を行った際に見た下向きの強い風によって放射状に木々が倒れるパターンと同じだった。

彼はレーダー画像などによる気象状況の調査から、この事故が起こった前後に付近に雷雲があったことを突き止めた。彼は背振山での観測を思い出したのかもしれない。彼はレーダー画像に写った雷雲の槍型の穂先のような狭い部分に、強い下降気流があるに違いないと直感した。彼はそれをダウンバースト(下向きの突風)と名付け、イースタン航空66便だけがその雷雲の狭い部分を通過して、強い下降気流で揚力を失い墜落したとする説を1976年に発表した [1]。

ダウンバーストの発見

彼は下降気流の証拠を直接示したわけではなく、状況証拠からそう結論した。しかし、これまでそういった現象は全く知られていなかった。航空関係者にはこれに賛同した人が多かったが、多くの気象学者たちがこの新理論に疑念を呈して、論争を引き起こした。通常の風は気圧の差によって吹く。しかし、ダウンバーストは蒸発熱などによって冷却され収縮した自身の重さによって空気塊が地表付近の物体に衝撃を与えるほどの速さで落下する。藤田は当時の気象学界は誰もこの説を信じなかったと述べている [2]。

ダウンバーストの写真。これはウェットと呼ばれるもので、驟雨を伴っている。雨を伴わない乾燥したドライなダウンバーストもある。
https://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=1&LLID=67&LLTypeID=2

彼の説は、昔からある下降気流に名称をつけただけだとか、突風前線(ガストフロント)を見誤っただけだなどと非難を受けた。またこの非難は、自説を発表までに時間がかかる査読付きの論文誌には投稿せず、自費出版の形で直ちに論文を公表した彼の研究スタイルとも関連していた。彼は多くの経験や分析結果から来る自分の直感を信じていた。

しかし、彼は直ちにそれを証明することはできず、葛藤に苦しんだと思われる。しかし彼は決して傲慢な人間ではなく、論争に動揺して悩んで眠れない夜もあったと述べている [1]。慎重な科学者であれば、証明のための証拠を集めるだけに10年はかけたかもしれない。当初、彼はこの結果発表は慎重に行おうと思っていた。しかし、事態の解明とその対策は緊急であり、彼は少しでも早く発表する方を選んだ [3]。

ダウンバーストの観測

藤田の説が正しいことを証明するには、ダウンバーストを実際に観測するしかなかった。そこへ強力な助っ人が現れた。国立大気研究センター(NCAR)のロバート・セラフィン博士である。彼は工学者でドップラー・レーダーという最新機器を開発したばかりだった。ドップラー・レーダーはそれまでのレーダーとは異なり、風速を測定することが出来た。また複数台組み合わせることで風向も判断できた。この機器でダウンバーストによるウィンドシアを捉えられるかもしれない。

ドップラー・レーダー原理(気象庁ホームページより)
https://www.jma-net.go.jp/fukuoka/kansoku/radar_kansoku.html

藤田はセラフィンからドップラー・レーダーの利用提供という支援を受けて、狭い領域での風の急変(ウィンドシア)の観測を行うことになった。このための資金50万ドルはアメリカ国立科学財団(NSF)が提供することになった。NFSでもこの資金提供に難色を示す人たちがおり、このとき藤田は、もしダウンバーストが観測されなかったら自分でこの資金の責任をとると考えていたようである [3]。

1978年5月19日からシカゴ空港近くに3台のドップラー・レーダーを設置して、観測を開始した。しかし、最初の10日間は何も起こらず、観測者たちに焦りの色が濃くなってきた。ところが5月29日に小さいが雷雲が発生し、小さかったにもかかわらず高度70 mで風速31 m/sという台風並みの風を捉えて、初めてダウンバーストと思われるものの観測に成功した [4]。航空機が着陸直前にこの風に遭遇すると危険なことは明らかだった。8月までに50個のダウンバーストを観測したが、彼らはこれがこんなに頻度が高い現象とは思っていなかった。まず現象を捉えることを優先していたために設置したレーダーの間隔は粗く、現象を捉えることはできても、そのメカニズムなどの詳細は得られなかった。

またこの観測結果などから、彼はダウンバーストを数キロメートル以上の比較的広い範囲で起こる「マクロバースト」と、数キロメートル以下の狭い範囲で起こる「マイクロバースト」に分けるようにした [4]。5月29日に観測したものは、強いがマクロバーストだったと判断された。狭いが強いマイクロバーストの方が航空機にとっては脅威だった。



マイクロバーストの概念図。地面にぶつかった下向きの風は放射状に広がる。(図はNASAによる) 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Microburstnasa.JPG

1982年6月にコロラド州デンバーの空港付近に今度はドップラー・レーダー3台を密に配置して観測を行った。このとき藤田は、ドップラー・レーダーを真上に向けるという突拍子もないことを提案した [2]。ドップラー・レーダーは電波を発射する方向の風の動きを観測する。真上に向けると言うことは、上下方向の風の動きを捉えるということだった。これまでレーダーを真上に向けるという発想をした者はいなかった。そして6月12日、このドップラー・レーダーは風が下降しているマイクロバーストの鉛直断面を捉えるのに見事に成功した。これはマイクロバーストの存在の決定的な証拠となった。このとき併せて186個のマイクロバーストが観測された [1]。

日本で観測されたマイクロバースト(気象庁ホームページより)

https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/23_draw.html#doppler

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.

2022年2月27日日曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(5)

 子竜巻論争

また、藤田は自ら軽飛行機のセスナ機に搭乗して上空から竜巻の痕跡を調査した。それまで航空機を用いて上空から竜巻調査を行った気象学者はいなかった。総飛行距離は4万kmにもなった [3]。しかもパイロットに指示して、必要な箇所は低空で入念に何度も飛行を行った [3]。

彼は1967年に航空写真を用いた解析から、竜巻が通った後に小さな螺旋が残されていることに気づいた。こういった竜巻後の小さな螺旋跡はそれまでも知られていたが、竜巻に捉えられた物体が地面をひっかいた跡と思われていた。彼は現地に赴いて調査し、螺旋を描いているものはひっかき傷ではなく、瓦礫が集まった小高い丘であることを発見した。普通に考えると、こういった瓦礫は竜巻の強風で吹き飛ばされて散逸してしまう。そういったことから、彼は大きな竜巻の内部や近辺のそれほど風が強くない領域に小さな子竜巻が複数個あって、その風が瓦礫を集めて丘を築いていると主張した。

しかし当時、子竜巻などは全く知られておらず、これだけの証拠によるこの子竜巻理論は、10年以上にわたってあちこちから猛烈な反論や非難を受けた。しかし1974年にはTV局のカメラが子竜巻らしい姿を撮影した。1979年にはある人が竜巻の中に子竜巻がある明瞭な写真を送ってくれたため、彼の主張が正しいことが証明された [4]。子竜巻の存在がわかったため、これによって住民に周知する竜巻の風に備える対策方法が大きく変わった。

 2011年4月14日にオクラホマ州タッシュカを襲ったEF3の強度の多重竜巻の写真。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tushka,_Oklahoma_tornado_April_14,_2011.jpg

 

衛星観測に対する貢献

藤田は1962年7月にシカゴ大学のパーマネントの准教授に就任した。大勢の研究者がひしめくアメリカの大学でパーマネント(任期が切られていない)の職を得ることは容易ではなく、異例の抜擢といってもよかった [3]。アメリカは1960年4月に実験用気象衛星タイロス1号を打ち上げていた。衛星は極軌道衛星であり、地球を斜めに周回する。ところがこの衛星の姿勢制御に問題があって、撮影した写真を緯度経度に対応したものに変換できなかった。これは衛星写真の位置を特定できず、気象解析に使えないことを意味した。これは国の威信に関わる大問題だった。これを藤田は衛星の姿勢制御の方法を工夫することによってデータ解析が行えるようにした[3]。

これにより衛星関係者内で藤田は有名となった。衛星の予算は桁外れに大きい。藤田の下には莫大な衛星予算が付くようになり、キャンパス内に3階建ての専用の家が建ち、藤田強風研究室が創設されて大勢のスタッフを雇えるようになった [3]。そしてそのわずか3年後には教授に就任した。また衛星データの一部は国家機密であり、それを扱うには外国籍のままだとさまざまな制限があった。日本は国籍を一つしか認めていない。彼はどちらをとるか悩んだ末に、大きな決断をして1968年にアメリカ国籍を取得した。もちろん米国が彼に国籍を与えたのは、彼の貢献を大きく評価していたからだった。

竜巻強度 藤田スケール

当時、アメリカでは竜巻の発生数を数えるだけで、その強さについては調査していなかった。彼はその後も竜巻についての綿密な調査を重ねて、1971年に初めて竜巻の強度を考案した。その際には竜巻による被害と海洋で使われているビュフォート風力階級を参考にした [3]。彼が考案した竜巻の強度は「フジタスケール」と名付けられ、竜巻の強度に応じてF1からF12まである。ただし、F7以上は風速が強すぎて事実上地球上では存在しないといわれている。

実は竜巻の中で風を測定した記録はなく、フジタスケールでの風速の定義は推測である。そのため、科学者の中にはこの定義に疑問を呈する人たちもいた。しかしそれまでなかった竜巻の強さを定義した実用上の意義は大きく、原子力発電所、建設業界、保険業界などの設計基準に大きな影響を与えた。この指標は現在修正されて改良フジタスケール(The Enhanced Fujita Scale (EF Scale))となっているが、それも元のフジタスケールがあってこそのことである。

フジタスケール(https://www.weather.gov/oun/efscaleを和文に改変)。現在はこれではなく改良フジタスケールが用いられている。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.

2022年2月23日水曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(4)

 竜巻の研究

藤田は1957年からバイヤースの勧めで竜巻の研究にとりかかった。これはメソ気象学といって、当時主流だった総観気象学より一回り以上スケールが小さい、数十 kmから200~300 kmの大きさの雷雨や集中豪雨を研究する分野だった。メソ気象学の分野には先駆者が多数おり、この時バイヤースは、藤田がこの分野で研究成果を上げられるか心配だったようである [3]。 

藤田は徹底した現場主義、実証主義者だった。広いアメリカではピンポイントで起こる竜巻の発生を把握して、直ちに被害の実態をつかむことはたやすくない。竜巻発生から時間がたつと、竜巻による被害は片付けられてしまい、実態把握のための痕跡がなくなることも多い。そのため彼は地元テレビを利用することを思いついた。彼はテレビ通じて呼びかけて竜巻の写真や目撃情報を集めた [3]

測量による竜巻経路の図示化

1957年6月にノースダコタ州のファーゴ市に竜巻が起こった。彼は呼びかけによって集まった197枚の写真からカメラの位置と撮影方向を割り出し、三角測量の手法で竜巻の時々刻々の位置を特定した。そしてそれをもとに写真の撮影位置を含めた正確でわかりやすい竜巻経路図を作成した [4]。それまで誰もそういう手法を行ったものはおらず、これは極めて異色なやり方だった。そのため、彼は気象学のシャーロック・ホームズと呼ばれたりした [2]。

 

 6月20日のファーゴ市で撮影された竜巻の写真。アルファベットは撮影者名 [7]。番号は次の図と対応している。

このファーゴ市の竜巻発生時に、回転する不気味な低い雲が撮影されていた。藤田はこれを竜巻の親となる雲ではないかと直感的に判断し、その親雲(回転雷雲)の位置と発生した竜巻との位置関係を三角測量から特定した [4]。この写真測量の論文は一般市民の大きな反響を呼び、論文としては珍しいことに政府が3000部印刷して1冊45セントで販売した。これは直ちに売り切れた。また彼は1961年に航空機を用いての上空からの回転雷雲の写真撮影に成功している。彼の本には、1996年時点でこの論文に掲載された写真が上空から撮影された唯一の回転雷雲であると述べられている [4]。

6月20日のファーゴ市における回転雷雲の通過軌跡図 [7]。写真番号毎に撮影者の位置と撮影方向がきちんと表示されている。

三角測量には綿密な測量術や計算力、製図力を必要とした。彼はそれを明治専門学校時代の地質調査で会得した。彼は松本教授の論文を手伝うために、地形を3次元的に描く写真測量術も英語とドイツ語の本を読んで独学した。これは後述する気象衛星タイロスの問題を解決するのにも役立った。また彼は学生時代に松本教授と地質調査を行った際に、地図を見ながら歩くのではなく地図の誤りを訂正ながら歩いたと述べている [4]。この時に、彼は何事も鵜呑みにせずに自分で確かめるというやり方も身につけたようである。

また、藤田の気象学の師であった東京大学の正野重方は、藤田を評して「我々気象屋とモノの見方が全然違うんだよ。我々は天気図で見るから平面で捉えるんだけれど、藤田君は機械工学出身だから立体的に捉えるんだ。」と述べている [3]。機械工学出身の彼は、研究に必要な様々な装置を自ら設計して作らせた [2]。その中には竜巻発生装置があった。ただし、それは竜巻の実験を行うためではなく、いつでもどこで竜巻を視覚化できるように広報が目的だった。

さらに彼は学生時代に、原理を習う前に自ら考案して計算尺を自作している [3]。計算尺とは、今ではほとんど使われないが一種のアナログコンピュータで、近似値ではあるが目盛りを合わせるだけで素早く計算ができる。彼は調査時に計算尺を携帯して、常に計算しながら素早く測量を行った。彼はそういった多彩な才能を持っていた。

 (つづく)

 参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也. ドクタートルネード 藤田哲也.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.
6. John M. Lewis (1993) 正野 重方 ―The Uncelebrated Teacher―. 日本気象学会, 40, 8.
7 Fujita Tetsuya (1957) A Detailed Analysis of the Fargo Tornades of June 20, 1957. University Chicago and National Weather Bureau. US Department of Commerce, 1960. Research Paper No.42.


 

2022年2月20日日曜日

ミスター・トルネード 藤田哲也(3)

背振山での観測

藤田は明治専門学校で物理学を教えていたが、彼は研究をやりたかった。理論ではなくフィールド指向だった彼は、物理学で実験や観測を行おうとすると巨額の研究費が必要になる。戦後すぐの当時の日本ではそれは望むべくもなかった。彼は地質などの現地調査を行ううちに、気象に興味を持ったのかもしれない。

彼は「気象学を選びました。それが当時最も安かったんです。紙と色鉛筆で事足りた。」 [3]と述べている。日々の天気予報のために全国の気象台・測候所に気象観測インフラストラクチャが整備されており、定常観測のデータを気象台で見たり、書き写したりすることは可能だった(現在ではウェブサイトから自由にダウンロードできる)。つまり、気象分野は観測データをただで手に入れて研究できるのである。これが気象学が他の研究分野と大きく異なる特徴である。

彼は気象学の専門教育を受けていなかったが、福岡管区気象台に出入りするようになった。気象台でも最初はよくわからない人が来て当惑したようだが、試しに気象データを与えてみると驚くような解析結果を持ってきたりしたので、気象台でも藤田を職員と同じ様な待遇で扱うようになった [3]。

福岡市から開けた南を望むと、福岡県と佐賀県の県境に背振山という標高1055 mの山が見える。現在はそこに気象庁の気象レーダーが設置されているが、レーダーが設置される以前に山頂付近には測候所があった。1947年8月に藤田哲也はその山頂の測候所で観測を行った。これはむしろ福岡管区気象台の方からの提案だった [3]。8月24日の13時頃から積乱雲が通過し、その際に山頂付近で強風が吹いただけでなく、気圧が大きく変動した。それを分析した藤田は、発達した雷雲の下部のほぼ背振山頂の高さに今まで知られていなかった下降気流があるという結論を出した [4]。

1947年に背振山で観測した雷雲の断面図 [5]。図中のd~eにかけて下降気流の矢印が見える。

彼は1950年に、その結果を中央気象台(気象庁の前身)の欧文彙報に英文論文として積雲構造のスケッチとともに発表した。それまで積乱雲に上昇流があることは広く知られていたが、中に下降気流があることはあまり知られていなかった。ところが、実は中央気象台内では戦時中の雷雲の観測によって、その中に下降気流があるという観測記録が既にあった [3]。しかし、これはそれほど重視されていなかったようである。おそらく当時中央気象台を含む日本気象界では、台風や大雨など優先的に研究すべきことを多数抱えており、雷雲の構造などに気象学的な興味を持っていた人が少なかったということだろう。

渡米

日本とは対照的に、欧米、特にアメリカでは積乱雲を中心とした気象は航空機の航行に重大な影響を引き起こすため、戦争中から重大な関心を抱いて積極的にその研究を行っていた。当時アメリカでは雷雨のメカニズムを探るために巨額を投資して「サンダーストーム・プロジェクト」が行われており、そのプロジェクトをシカゴ大学のホレス・バイヤース教授が主導していた。バイヤースは「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献」で述べたように、ロスビーの弟子である。

 

ホレス・バイヤース(真ん中)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a6/Hall-Meng-Byers.gif

藤田は背振山測候所の隣にある米軍レーダー基地に行くと、そこの職員がゴミ箱の中の論文を拾って藤田に渡してくれた。それはサンダーストーム・プロジェクトの論文で、それにも雷雲の中に下降気流があることが示されていた [2]。彼の著書ではそうなっているが、これはどうも自分でゴミ箱の中に何か論文がないか探したというのが真相のようである [3]。当時欧米の論文を見ることは容易なことではなく、レーダーは航空機の運航と密接に関わっているために、レーダー基地内ならば航空機の運航に影響を与える雷雲に関する論文があるのではないかと思ったのかもしれない。

藤田はバイヤースとは知り合いでも何でもなかったが、このプロジェクトを率いていたバイヤースに自分の論文を直接送った。論文には彼による雷雲の明快な構造図が描かれていた。バイヤースははるか遠くの日本の名もない研究者が送ってきた論文に、ちょうど自分が発見したばかりの雷雲の中の下降気流のことが詳しく書かれていて驚いたに違いない。バイヤースはこの研究にかかった費用を藤田に尋ねている。バイヤースの研究費は200万ドルだったが、藤田の研究費は50ドル足らずだった [4]。

さっそくバイヤースは藤田を招聘しようとしたが、一つ問題があった。それは藤田が博士号を持っていないことだった。欧米では研究者として活動するには博士号が必須である。それでバイヤースはまず博士号を取ることを勧めた。藤田はちょうど博士号を取得しようとしていたところだった。彼が出入りしていた頃の福岡管区気象台のつてで東京大学の正野重方教授を紹介され、彼の下で台風をテーマとする博士論文を作成中だった(台風は雷雲とも密接に関連する)。

藤田と正野のことは「正野スクール:正野重方と日本の気象学者」で述べたとおりである。藤田は正野のことを「『父親のような人』で,私は彼に感銘を受けた」と語っている [6]。彼は博士号を取得した後、32歳で1953年8月にバイヤースがいるアメリカのシカゴ大学へ渡った。研究助手という身分だった。藤田は渡米してから2年半後にビザが切れたためいったん日本へ帰国したが、バイヤースによる再度の招聘で今度は研究教授という肩書きで、1956年に永住ビザを取得して家族共々渡米した [3]。

つづく

参照文献(シリーズ共通)

1. Cox J. 嵐の正体にせまった科学者たち. (訳) 堤之智. 出版地不明 : 丸善出版, 2016.
2. 丸山俊一・高瀬雅之. ブレイブ 勇敢なる者「Mr.トルネード~気象学で世界を救った男~」. NHKエデュケーショナル; NHK, 2017.
3. 佐々木健一. Mr. トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男. 文藝春秋, 2017.
4. 藤田哲也.「ある気象学者の一生」.  藤田記念館建設準備委員会事務局, 2001.
5. Fujita Tetsuya (1950) Micro-analytical study of thunder-nose. Japan Central Meteorological Observatory, Geophysical Magazine, 22, 2, 71-88.