2020年6月29日月曜日

富士山における気象観測(7)レーダードームの設置

 2年目の作業は、1964年5月20日のブルドーザーによる除雪から始まった。ブルドーザ除雪時に山腹の砂礫を馴らして山頂までの道を作ったので、その後はブルドーザが材料を山頂に直接運ぶことができるようになった。 建物は7月末までにほぼ完成した。 機材は8月上旬から組立・設置された[1]。

 建設で最も困難だったのは、風速100 m/sを超える風からレーダーアンテナを保護するレーダードーム(直径9 mの半球形ドーム)の設置だった。 ドームは地上で組み立てられ、ヘリコプター(Sikorsky-S62)によって頂上でレーダードームの基礎に輸送および取り付けられることになっていた。

 レーダードームの重量は620kgあり、ヘリコプターの最大積載量を超えていた。そのため、空気が薄い山頂でのヘリコプターの操縦は一層困難となった。向かい風を浮力として利用する必要があったが、富士山の頂上ではしばしば乱気流が発生することがあり、ヘリコプターが乱気流に巻き込まれてクレーターに吸い込まれる事故が実際に発生していた。 したがって、関係する多くの担当者は、ヘリコプターによるレーダードーム基礎への取り付けを懸念を抱いていた。

 作業に都合の良い天気予報から、設置日は1964年8月15日と決まった。当日は晴天で好都合なことに微風があった。軽量化のためにヘリコプターはドアと副操縦席を取り外し、半球形のドームを吊り下げて山頂に近づいていった。ところが設置のための最後のホバーリングになって一瞬風が止んだ。それでも操縦士は巧みにヘリコプターを操縦して、レーダードームをぴたりと基礎の上に置くことに成功した[1]。 

富士山測候所の在りし日のレーダードーム

 ヘリコプターの操縦士は、第二次世界大戦中は海軍のパイロットだった。彼は戦争中に特攻作戦で戦地へ赴く多くの教え子を見送っていた。 偶然にもレーダードームの設置日は終戦記念日だった。 ヘリコプターの操縦士は教え子たちの死になんとか報いたいという気持ちがあった。レーダードームの設置の成功に成功した彼は、教え子たちの加護に感謝を捧げた[2]。

参照文献

[1]気象庁、 気象百年史II各種史談類第13章、 1975
[2]NHK、プロジェクトX挑戦者たち、巨大台風から日本を守れ、2000

2020年6月21日日曜日

富士山における気象観測(6)レーダー施設の建設

 予算の関係で、レーダー施設は2年間で完成させねばならなかった。しかも、レーダーの建設工事のために山頂で作業ができる期間は、山頂や雪や氷が少なく、比較的気候の穏やかな6月末~9月中旬までに限られた。しかも、強風などの悪天候時は作業ができないため、その期間をフルに使えるわけではなかった。とにかく、できるだけ短期間で完成させる必要があり、通常の建設の常識は通じなかった。

 レーダー建設工事における難題の一つは、多くの建設資材を山頂へ運ぶ方法だった。富士山では古くから資材や人の運搬に馬や強力(ごうりき:重い荷物を運ぶ人足)が使われていた。初めは九合目まで馬を利用し、それから先の急な勾配は、強力による輸送を計画した。しかし、それでは75 kg以上の重い荷物は運べなかった。そのためブルドーザを使うことが提案された。

 ブルドーザが急斜面に強いことはわかっていたが、平均斜度20度以上でかつ酸素が平地の7割以下になる富士山で使えるかは不明だった。ところが1962年に富士山の荷物を輸送していた馬方がブルドーザを試したところ、五合目まで登ることができた。ブルドーザを改良して、また専用の道を開削すれば更に上まで行けることがわかった。
富士山で使われているブルドーザ

 初年度の工事は、測候所建物の鉄骨の組み立てが予定され、雪解けが進んだ1963年6月から工事は始まった。建物の設計も難題の一つだった。それは山頂で想定される風速100 m/s以上に耐える必要があった。そのため建物は新幹線の車体を参考に設計され、輸送時の軽量化のため材料はアルミニウムで製造された。資材は山頂近くまでブルドーザで輸送され、残りは馬と人力で輸送された。短時問に作業を終える必要のある生コンクリートや大きく重い鉄骨はヘリコプターで運ばれた。

 作業員の多くは高山病に悩まされ、山頂での作業に音を上げるものも多かった。山を下った作業員の代わりは補充されたが、やはり高山病で下山する作業者が多く、その補充が繰り返された。[1]

参照文献

[1]気象庁、気象百年史II各種史談類第13章、1975

2020年6月13日土曜日

富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画

 気象庁が降水探知を目的として気象用レーダーの開発を始めたのは,1949年で気象研究所に小型レーダーが設置された。1950年代半ばから本格的な開発が行われ、大阪、東京と現業用レーダー設置された。

 その次の課題として、本州を直撃する台風の通り路である日本南方海上をどのようなレーダーでカバーするかが大きな問題となった。超大型の台風Vera(伊勢湾台風)は1959年9月に突如本州中部に上陸し、5000名以上の犠牲者を出した。既存のレーダーでは上陸の3時間前に台風を捉えるのが精一杯だった。

 台風の早期発見は日本国民の悲願となった。数か所の設置候補地が比較検討された。もし富士山頂に高出力のレーダーを設置できれば、北緯30度付近から台風を捕えられるばかりでなく、低気圧や前線に伴う雨も広範囲にわたって探知できることがわかった。
 
 1961年に気象庁は富士山頂にレーダーを設置し、レーダー映像をマイクロ波で東京の気象庁へ送るすることを決定した。この建設の気象庁責任者は測器課長藤原寛人になった。彼は有名な気象学者藤原咲平の甥で、新田次郎というペンネームで有名な小説家でもあった。
にったじろう
新田次郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Nitta_Jiro.jpg?uselang=ja

 レーダーは減衰の少ない異例の10 cm波を用い、直径5 mのバラポラアンテナからバルス幅4 μsec、出力1,500 kWの強力な電波で、最大800 km先の降水を探知できる計画だった。建設のための予算は、1963~64年に認められた[1]。しかしながら、山頂へのレーダー施設の建設は数多くの問題を抱えていた。

参照文献

[1]気象庁、気象百年史II各種史談類第13章, 1975

2020年6月7日日曜日

富士山における気象観測(4)山頂への送電線設置

 第二次世界大戦の戦局が逼迫してきた1944年4月に、大本営は連合国軍の首都東京への攻撃を早期に探知するため、東京と八丈島間の通信回線を確保するように逓信院に命令した。富士山頂は通信回線の中継地点として絶好の地点にあった。そのため、山頂の東安河原にある旧気象観測所の建物の一部を無線中継所とすることに決まった。

 それまで山頂では、電気を発動発電機で時々発電し、それを蓄電池に貯めて少しずつ使っていた[1]。そのためには重油を山頂まで運ばなければならず、また希薄な空気と低温下では、発電機のエンジンをかけることは容易ではなかった。山頂の暮らしを改善することと、無線中継所として常時安定した電源が必要であるため、逓信院は山頂の無線中継所まで送電線を敷設することを決めた。

 送電線の敷設工事は9月1日から開始されたが,この作業には軍が協力することになり、御殿場に駐とんしていた工兵隊の500人の兵士が動員された。電源ケーブルは、冬季のなだれによる損傷を防ぐために、地面の下に敷設する必要があった。山の斜面に沿った敷設は難工事になることが予想され、そのため工事は3 m間隔ごとに兵士を配置するという人海戦術によって行われた。戦時だからこそ可能なことだった。その結果、工事は接続箇所を残して1週間で完成した。送電線工事は1944年11月27日すべて完成し,30日には通信回線も開通した[2]。

 無線中継所は連合国軍の空襲の情報を早期に伝えるのに役立った。しかし、1945年7月30日に連合国軍機6機によって山頂の施設が銃撃を受けた。富士山周辺は連合国軍の東京空襲の経路となっており、連合国軍は怪しい施設と思ったかあるいは山頂からの無線発信を探知したのかもしれない。気象観測所は被害を受けて、2名が負傷した。

 電線が敷設されたのは山頂の東安河原の無線中継所までで、それが剣が峰の気象観測所に延びたのは1947年1月だった。送電は3300 Vの高圧送電だったので100 Vに電圧変換するための1個83 kgあるトランスを、なんと強力が一人で麓から剣が峰の気象観測所まで合計で2個担ぎ上げた[1]。これで観測所は電気を使った文明的な暮らしの恩恵にやっとあずかることができるようになった。なお、気象観測所は1951年に正式名称が富士山測候所と変わった。

 東安河原の無線中継所は、別な無線回線が出来たため1948年6月に廃止されたが、山頂までの送電線はそのまま残された。この戦時中に敷設された送電線がなければ、後年に富士山頂にレーダー施設を建設して運用することは実質的に不可能だった[2]

参照文献

[1]志崎大策、富士山測候所物語、成山堂、2002年
[2]気象庁、気象百年史資料II各種史談類第13章、1975年

2020年5月31日日曜日

富士山における気象観測(3)富士山頂での通年観測

 皇族である山階宮菊麿王(Yamashinanomiya Kikumaro-ou, 1873-1908)は気象学に興味を持っており、私財を投じて筑波山山頂に気象観測所を建設した。また富士山での気象観測計画も持っていた。ところが、菊麿王は途中で亡くなったため、富士山での観測計画は実現しなかった。しかし、その子である鹿島萩麿伯爵は父の遺志を引き継ぎ、筑波山気象観測所長をしていた佐藤順一氏が持っていた富士山での観測計画を支援した。佐藤順一はその支援を得て1927年に山頂に富士山気候観測所を建設し、夏季だけの観測を開始した。中央気象台も人を送ってこの観測を支援した[1]。
旧筑波山観測所(現筑波山神社・筑波大学計算科学研究センター共同気象観測所)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meteorological_Observation_Station_at_the_summit_of_Mt._Tsukuba,Tsukuba-city,Japan.JPG

 佐藤順一は1929年1月に約1か月山頂に滞在して冬季の気象観測を行った。山頂滞在中に脚気を患い、また登下山時に足が凍傷にかかった。1931年には彼と中央気象台のグループは年末から交代で翌年の2月12日まで山頂に滞在して、富士山頂での暮らしや観測のための調査を行った。

 第2回国際極観測年(International Polar Year; 本の「11-3 第2回国際極観測年(1932~1933)の開催」参照)に日本も参加することになり、第2回国際極観測年のための観測という目的で、中央気象台が山頂の東安河原に観測所を建設して、初めて1932年8月から富士山での通年気象観測が行われた。観測所には当時としては最先端のVHF(超短波)の無線電話も設置された[1]。

 なお、第2回国際極観測年では、日本は他にも中央気象台が地磁気の観測や航空機を用いた流氷観測を行い、海軍技術研究所が日本独自の装置を使って短波を使った電離層の観測を行った[2]。余談ではあるが、日本は当時の短波や超短波の研究では世界と肩を並べていた。

 第2回国際極観測年が終わった後も三井報恩会の寄付と有志で観測が継続された。それらの活動により、富士山頂の気象観測は中央気象台の正式な観測としての予算が認められた。東安河原は風が周囲の影響を受けるため、剣が峰に新たに「富士山頂観測所」が建設され、1936年8月1日に通年観測が始まった [1]。1938年には剣が峰の北に、陸軍の「軍医学校衛生学教室富士山分業室」ができた。しかし、こちらはあまり使われなかったようである。これは終戦とともに廃止された[1]。

参照文献

[1]志崎大策, 2002, 富士山測候所物語, 成山堂 
[2]中川靖造, 1990, 海軍技術研究所, 講談社