2019年2月21日木曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) 本格的な観測の始まり

キュー観測所
19世紀の半ばに気球を用いた気象観測を行ったのはイギリスだった。イギリスのキュー観測所(Kew Observatory)のウェルシュ(John Welsh)は、1852年の8月から11月にかけてロンドンのボクソール(Vauxhall)で有人気球を使った気象観測4回行った(Hoinka, 1997)。フランスと同様にこれらの観測の目的は、種々の高度での気温と湿度の状態の決定だった。この時の気温観測には初めて換気装置付きの温度計が使われた(Rotch, 1902)。ウェルシュは高度3.7~7 kmまで到達し、気温が高度とともに単調に減少することを示した。この他に、種々の高度の大気サンプルが分析のために集められ、雲から反射される日射が偏光していないかも調べられた。そして、各高度の気温などの詳しいデータは1853年に「哲学紀要(Philosophical Transactions)」に発表された。本の8-1-1「気温減率の定式化の試み」で述べたように、この観測データからケルビン卿(ウィリアム・トムソン)の大気減率の理論が現実と合わないことがわかり、それが修正されるきっかけとなった

グレーシャー
本の8-4-1「有人気球による大気観測」で述べた1862年9月5日のイギリスの気象学者グレーシャー(James Glaisher)らによる気球による高層気象観測時に起こった事件(詳しくは「嵐の正体にせまった科学者たち」(丸善出版)の第3章参照)などによって、高空では呼吸のために酸素が必要になることがわかった。それ以降も、彼は1862~1868年におよそ30回の飛行を行った。彼の観測目的は、大気の温度と湿度状態の決定、水銀気圧計とアネロイド気圧計の比較、大気電気の状態とオゾン試験紙による酸素状態の決定などだった。また研究の付随的な目的として、大気の構成、雲の形と厚さ、大気の気流、音響的な現象の観測などもあった(Rotch, 1900)。ただ、グレーシャーは換気装置付きの温度計があったにもかかわらず、実験の結果不要と考えて換気装置付きの温度計を使わなかった(Rotch, 1900)。

その後、フランスでは化学者で気象学者でもあったティサンディエ(Gaston Tissandier)や天文学者のフラマリオン(Camille Flammarion)などが有人気球で高層気象観測を行った。1875年4月15日にティサンディエらが行った高層気象観測は、高度8500 mに達したが酸素不足やひどい揺れなどにより、彼はかろうじて助かったものの同乗した2人が死亡した(Rotch, 1900)。当時は携帯できる酸素ボンベや調圧器はなく、酸素を持って行ってもそこで十分に機能するとは限らなかった。

この後、有人気球を使った高層気象観測はいくつかの例外を除いて、1890年代まであまり行われなくなった。また、高層気象観測(4)で述べるように、ゴンドラによる下層空気の持ち上げ、上昇速度に対する測定器応答の時間差、強い日射の影響などで、観測された値もあまり信頼できないものがあった。なお、グレーシャー、フラマリオン、ティサンディエは、有人気球による気象観測の状況などを「Travels in the Air」という本にスケッチ入りで残している。
フラマリオンが観測した月の暈
 (Night of 14-15 July, 1867)「Travels in the Air」より

また当時、無人の紙製の測風気球(pilot balloon)をつかって風向・風速を測ることも行われた。気球を複数のセオドライト(経緯儀)で三角測量を行って追跡することによって、高度と風向・風速を測定した。ただ、昼間の晴天時しか観測できなかった(ランプを搭載して夜間観測が行われることもあった)。また雲の上になったり、放球地点から離れ過ぎると追跡できなかった(Hoinka, 1997)。

1891年にはフランスのボンバレ(M. Bonvallet)がアミアンからはがき付きの測風気球を97個の放球し、気球60個の落下位置を調査したこともあった(Rotch, 1900)。また、ゆっくり燃える導火線に複数のはがきを結わえて、飛行の途中で一定時間毎に落下させて、拾った人に送ってもらうことによって、はがきの回収地点から気球の航跡をたどる方法も使われた。無人気球に自記測定器を搭載して、気温の鉛直分布の観測を行うことはまだできなかった。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1900-The international aeronautical congress at Berlin. - Mon. Wea. Rev. 30, 356-362.

2019年2月19日火曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(2) 初期の気球観測

ソシュール
本の4-5-1「吸湿湿度計」のところで出てきたスイスの物理学者ソシュール(Horace-Benedict de Saussure)は、1787年に気圧計と温度計を持ってモンブラン(Mont Blanc, 4811m)に登頂し、気温が100 mについて0.7 K下がることを確認した。後年ドイツの生理学者、物理学者ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz)は、これを外挿して高度30 kmで気温はゼロ点に近づくに違いないと推測した(Hoinka, 1997)。

これは、大気の温度は気圧の低い上層との対流による断熱変化によって高度とともに低下し、高度30 kmあたりで絶対0度に近づいて大気は終わりになると考えられためである。この考えは、理論と観測が一致したため、19世紀の間は固く信じられた。ちなみに現在の考え方は逆で、まず放射平衡を考えて、その温度分布が下層で不安定となることから対流が起こり、対流平衡となって圏界面を境に大気が対流圏と成層圏に分かれるという説明が普通である(松野, 1982)。

本の8-4-1「有人気球による大気観測」で記したように、1783年モンゴルフィエ兄弟による気球の発明により、有人気球に測定器を搭載しての大気の鉛直方向の連続的な観測が可能となった。しかし19世紀後半に入っても、気球観測はまだ冒険、探検的な動機が主だった。しかし、気温減率などの上空の気象、あるいは電磁気がどうなっているのかなどの科学的な目的でも有人気球観測が行われた。

フランスでは2人の若い物理学者ゲイ=リュサック(Joseph Louis Gay-Lussac)とビオ(Jean-Baptiste Biot)が、上空の気象の調査飛行を行うために選ばれた。彼らは1804年8月24日にパリから出発したが、搭載したすべての測定器(と人)を持ち上げるには気球が小さすぎて、高度約4 kmを超えることはできなかった。
ゲイ=リュサック

ゲイ=リュサックは同年9月16日に水素を詰めた気球によって単独で高度約7 kmまでのぼった。彼とビオが行った観測から磁力の変化がなかったことと集めた大気サンプルから、大気組成が変わらないことが確認された。しかし、かれらの観測での気象学における成果は、高度が90m高くなる毎に約1度温度が下がることを確認したことだった(Rotch, 1900)。この観測結果は、その後しばらくは大気の気温減率(lapse rate)の代表となった。

つづく

参照文献

  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1900-The international aeronautical congress at Berlin. - Mon. Wea. Rev. 30, 356-362.
  • 松野-1982-成層圏と大気波動の研究をめぐって, 天気, 29, 12,3-22.


2019年2月18日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要

気象学において、地上気象観測と同じように重要な位置を占める観測が高層気象観測である。これからわかった高層気象の規則性は大気力学の発展を後押しし、数値予報の発達などにも大きな影響を与えた。現在においても、高層天気図は天気予報に必須となっている。本において地上気象観測については、測定器の発達から各国の観測網、気象予報体制の整備までかなり詳しく説明した。しかし、分量の制限などで高層気象観測の始まりと成層圏の発見については、まだ説明が十分とはいえない部分があるので、いくつかに分けてまとめて補足したい。

ここ(1)では、まず概要だけ記しておく。本の8-4-1「有人気球に大気観測」に書いたように、18世紀末の気球の発明の後、しばらくは上層大気の探検的な意味合いで気球が使われて発達した。19世紀後半になると、気球などは空中での移動や偵察の手段として考えられるようになり、各国で飛行船や人力を含むグライダー・軽飛行機の開発が熱心に始まった。それは1900年の大型硬式のツェッペリン飛行船と1903年のライト兄弟による飛行機の発明につながっていった。しかし、それらは大気の低層で人などをいかに多く搭載して安全になるべく速く移動できるかが焦点だった。 

高層気象観測の気球はそれらとは少し目的が異なった。高層気象観測ではなるべく高い高度まで上がるという要請と、その途中のさまざまな高度で連続的に気象観測の記録を取りながら飛行する必要性があった。そのため、気象観測用の気球は、一般の飛行船とは異なる独自の道を歩むこととなった。当初気球観測には人が乗って結果を記録・確認する必要があった。そのため気球観測用のゴンドラは「若い気象学者を育てるゆりかご」といわれた時代もあった。 

しかし、高層では乗っている人間が酸素不足に陥って命に関わるという危険性がわかった。当時高空で人間に安定して酸素を供給するのは簡単ではなく、重い人間を乗せる気球の浮揚力と人間の安全性を考慮すると、高度10 km程度が有人気球が上れる限界と考えられた。そのため、軽くて手軽な自記測定器が発明されると、軽い無人気球による観測が主流となった。しかし、自記測定器は強い日射や低温の影響など気球観測ならではの特殊な環境のため、常に正しく動作・観測するとは限らなかった。そのため、安全性やコストからはなるべく無人気球による観測を行うが、測定の信頼性の確認は有人気球で行うことも19世紀末まで残った。

20世紀に入ると、高層気象観測はリヒャルト・アスマン(2)で述べたゴム製の気球と信頼性の高い自記測定器によって、専ら無人気球で行われるようになった。それでも観測結果を得るためには、住民らの協力によって自記測定器を回収する必要があった。しかし1930年前後のラジオゾンデの発明により、回収の必要がなくなり、観測と同時にリアルタイムで結果がわかるようになった。

その後戦争などの影響もあって、本の10-1-2「高層気象観測の拡大」で述べたように、高層気象観測の場所と頻度は劇的に増えて、本の9-5「高層の波と気象予測」で述べたように、上層の観測結果から大気力学に関する重要な発見が起こり、それは地上の気象に影響を及ぼしていることがわかった。また高層気象を使った考え方は数値予報などを通して、日常の気象予報を変えていった。

ここで、参考文献について述べておきたい。本の「気象学と気象予報の発達史」もそうだが、歴史上のことなので基本的に過去の文献をもとに、なるべく原典を確認して記述するようにしている。しかし手に入らない、あるいは翻訳できないものもある。原典を参考にした文章の2次引用を行う場合は、その内容についてなるべく複数の文献を確認しながら記述している。しかし同じ事象について書かれた複数の文献の内容が一貫しているとは限らない。信頼性を絞りきれない場合は、その項目の記述を止める場合もある。

一つ例を挙げる。「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)」で述べることになると思うが、1893年3月21日のエルミートらによる高層気象観測結果について、Rochas(2003)には、「13,500mで最低温度-51℃を記録した」と書かれていた。一方、松野(1882)では「気圧103mmHg(高度16km)で気温は-21℃であった」と書かれていた。そのまま無条件に採用することも可能だが、この高度において2500 mの高度差で30℃も気温が変わるだろうか?という疑問が湧いた。著者の思い込みや印刷時の誤植の場合も結構あるからである。

結論から言うとどちらの記述も正しかった(記録値が大気の実際の状態を反映しているかは別問題である)。それはこの場合は原典を見ることができて、そのエルミートの論文にグラフが付いており、このグラフから両者の記述に矛盾がないことがはっきりした。このグラフはエルミートの観測結果を述べる際にブログに掲載する予定なので、確認していただきたい。

本やブログでの記述は、不十分な部分もまだあるだろうが、中身についてそういう吟味を行っていることを理解していいただければ幸いである。

つづく
 

参照文献

  • 松野-1982-成層圏と大気波動の研究をめぐって, 天気, 29, 12,3-22.
  • Rochas-2003-L’invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)

2019年2月16日土曜日

テスラン・ド・ボール

フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(Teisserenc de Bort)は、農務大臣を父に持つ資産家の家に生まれた。彼は病弱だったため、南フランスのカンヌに滞在した際に気象学に興味を持った。本の6-2-3「ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」に書いたように、1878年にマスカール(Eleuthère Mascart)を長官とするフランス中央気象台(Bureau Central Météorologique)ができると、彼は直ちにそれに参加し、一般気象サービスの責任者となった。そこで彼は地球物理学の全球規模での理解を得るために、フランスの植民地や船などで気象観測を行った(Fonton, 2004)。
テスラン・ド・ボール

彼は大気循環や総観規模気象に興味を持ち、数々の解析を行って1886年に気象の活動中心(centers of action)という概念を生み出した。これは年平均気圧からの月偏差などを調べることによって、海陸分布や地形などによる長期間持続する特徴的な気圧分布を示したものである。例えばアゾレス高気圧やシベリア高気圧、アイスランド低気圧などがこれに相当する。これは、後年アメリカで活躍したスウェーデンの気象学者ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)などによる長期予報のための考え方に影響を与えた。

地球規模の高層風を調べるため、国際気象機関(International Meteorological Organization: IMO)が、1896年から2年間の国際雲観測年(International Cloud Year: ICY)を開始すると、テスラン・ド・ボールは私財を投じて、パリ郊外の丘陵トラペス(Trappes)に3ヘクタールの広大な敷地を持つ気象力学を解明するための観測所(Observatoire de météorologie dynamique)を設立した。彼は構内に写真機付きの経緯儀2台を離して配置し、電話線で結んで雲の高度や動く速度・方角を観測したりした。さらにIMOICYの観測結果を出版する際に、資金がなかったためその経費を負担した(Encyclopedia.com, 2008)。この高層風の観測結果は、本の8-3「地球規模の大気循環」に記したように、それまで知られていた大気循環による地球の熱収支に大きな問題を投げかけることになった。

1898年にテスラン・ド・ボールはそこで高層気象観測を開始した。当初は自記記録装置の回収が容易な凧を用いたが、フランス中が結果を知りたがった有名な「ドレフュス大尉のスパイ事件」の裁判の日に、凧のピアノ線が電信線を切る事故を起こした(Ohring, 1964)ためか、途中から探測気球による観測に変わった。彼は高層気象観測にさまざまな工夫を凝らした。

当時ドイツのアスマンらが気球の材質に重いゴールドビーター皮や加工絹を使ったのに対して、テスラン・ド・ボールはワックスなどを塗った軽くて安価な紙を用いた。彼はファンによって換気を行う洋銀製のきわめて敏感な温度計を造った。それは温度の変化にとても敏感ではあるが、衝撃には強く、急速に温度が換わる層を通過する探測気球に十分に適応した(Rotch, 1900)。
 
それまで他の観測所では屋外で気球にガスを充填して放球していたため、少しでも強い風が吹くと高層気象観測ができなかった。彼は敷地内に大きな回転する充填庫を作って、屋内で気球に水素を充填できるようにした上で、風向に応じて充填庫から屋外に気球を出す向きを変えることができるようにした。
 
トラペスでの気球放球の様子
(http://www.meteo.fr/interdso/Implantation/Trappes/Historique/ima-Hist/ballon1nb.jpg)

 
それと安価な紙製の気球によって、他の観測所に比べて観測頻度が格段に向上した。また、気球が遠くに風で流されないように、一定時間後に下部の気球からガスを抜いて上部の気球をパラシュート代わりにして落下させる装置なども考案した(Fonton, 2004)。

彼は1902年に高度10 km以上で等温層を発見したことを発表し、1908年にはそれを成層圏と名付けた。彼はその後もオランダに高層気象観測所を設置したり、1905~1906年にかけて大西洋上で貿易風の観測を行ったり、1907~1909年にかけては北極圏キルナ(Kiruna)での観測を精力的に主導したりした。1908年にはイギリス王立気象学会から成層圏の発見に対してサイモン・メダルを授与された(Shaw, 1913)。彼はフランスを高層気象観測の先端国に育てたが、1913年に亡くなった。

(次は、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1)

参照文献

  • Fonton-2004-Clouds, sounding ballons and stratosphere; Teisserenc de Bort: a life in Meteorology, http://www.meteohistory.org/2004polling_preprints/docs/ abstracts/fonton_abstract.pdf
  • Encyclopedia.com-2008- Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard Assmann.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
  • Shaw-1913-LEON PHILIPPE TEISSERENC DE BORT, Nature, No.2254, Vol.90, 519-520.

2019年2月5日火曜日

リヒャルト・アスマン(その2)

 ドイツ気象局にいたアスマンは、1892年に「航空学推進のためのベルリンドイツ協会(Deutscher Verein zur Forderung der Luftschiffahrt zu Berlin)」によって進められていた科学目的のための気球観測の計画を引き継いだ。ドイツでの有人気球観測は、1893年3月1日に始まった。搭載した測定器は水銀気圧計、毛髪湿度計、通風式乾湿計と単純な放射測定装置から成った。彼は1895年3月1日にドイツ皇帝(ヴィルヘルム II世)の視察の下で有人気球フンボルトに搭乗して高層気象観測を行った[1]。その後アスマンの強い提案によって、王立気象研究所の第4番目の部門として高層気象観測所が1899年にベルリンに設立された。アスマンは、測定器を搭載した凧と係留気球による定期的な上層観測を推進した[2]。一方で、ヨーロッパでの気球観測は1890年代後半には無人の探測気球(sounding balloon)による観測へとなっていった
気球「フンボルト」

 当時使われていた気球は、ニスやワックスを塗った紙や皮製の開口式定積気球で、高度が増加するにつれて上昇速度が小さくなり、一定高度まで上昇した後に揚力を失ってゆっくり下降した。しかし着陸までに時間がかかるため、風で流されて放球場所から極めて遠くに運ばれることも珍しくなかった。1886年にドイツの気象学者パウル・シュライバー(Paul Schreiber)は気球にはゴム気球を使うべきとの提案を行っていたが、それは忘れ去られてしまっていた。アスマンは1900年頃にドイツのゴム会社コンチネンタルとともに、薄くて軽く良く伸びるゴム製の気球を開発した[3]。
 
 アスマンの密閉式ゴム製の探測気球の特徴は、安価で使い捨てできたこと、平衡高度になることがないため膨張して破裂するまで上昇できることと、そのため同じ高度に留まることによる日射や換気不足の影響を受けないことだった。また、短時間で上昇して破裂するため風に流される距離が少なく、パラシュートを使って観測地点からそれほど遠くない地点で自記測定器を回収できた。これら数多くの利点があったことから、高層気象観測は定積気球に換わってゴム製気球によって世界各地で広く行われるようになり、それは今でも続いている[3]。
気象庁で行われている気球を用いた高層気象観測
(気象庁提供)


 アスマンは1900年以降は、ベルリンでこのゴム気球を用いた高層気象観測を行い、6回の観測が高度11 km以上に達した。1902年5月1日にアスマンはベルリンの科学アカデミーに、自身が発明したゴム気球に通風式乾湿計を搭載して、高層で暖かい気流を観測した証拠を示した[4]。これはテスラン・ド・ボールがパリの科学アカデミーに高層での等温層の観測を報告した3日後だった[3]。
 
 当時ベルリンで行っていた凧観測では、時折失敗した凧観測の壊れたロープが、電線や電話線、路面電車のケーブルの上に落下した。そのため、観測所をベルリンの南東およそ100 kmのリンデンベルク村の近くの小さい丘に移転させることになった。本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べているように、リンデンベルクに独立した科学機関として王立プロシア高層気象台(Das Königlich-Preußische Aeronautische Observatorium)が建設された。1905年10月16日にドイツ皇帝自ら立ち会いの下で開所式が行われ、自由大気の風、温度、湿度の鉛直分布の系統的な観測が行われた。そのような上層の気象情報は、科学的な要請だけでなく急速に発達しつつあった航空学の進展のためにも必要だった。そのため、航空機パイロットに対する無線を使った気象警報サービスがアスマンによって組織された。リンデンベルクにその本部を持つこの観測網は、25の測風気球観測地点と郵便局と電報局の600の雷雨の報告地点を持ち、1911年にその活動を開始した[2]。

 

1905年10月のリンデンベルクの高層気象台の開所式での気球室でのカイザー・ヴィルヘルム2世とアスマン教授(左上)。

 
 アスマンは1917年に夫人を亡くして非常に力を落としたが、ギーツェン大学はアスマンを名誉教授とした。彼は1918年5月28日にギーツェンで亡くなった。享年74歳だった。アスマンは、実用的な乾湿計、便利な高層観測用ゴム気球を発明し、それらは高層気象観測の信頼性や頻度を変えて、高層気象学の水準を向上させた。現在リンデンベルクの高層気象台はアスマンの功績を称えて、リヒャルト・アスマン気象台という名称になっている。

 また高層気象観測結果の解析を通して成層圏の発見にも大きな貢献を行った。本の9-4-1「日本の高層気象観測」で述べているように、日本の初代高層気象台長となった大石和三郎は、1912年からリンデンベルク高層気象台に留学してアスマンから親しく教えを受けた後、高層気象台を開設している。日本の高層気象観測はアスマンが元祖ともいえる。

(次はテスラン・ド・ボール

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard
[3]HOINKA, K. P.-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
[4]Assmann-1902-Uber die Existenz eines warmeren Lufttromes in der Hohe von 10 bis 15 km. - Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss. Berlin 24, 495-504.