このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。
19世紀半ばにアンペール、ヘンリー、モールスらによって電信機が発明された。これによって人の移動を伴わずに情報を瞬時に伝達できるようになった。つまり、情報の伝達速度が気象の移動速度を超えることが出来るようになった。これに気づいた気象学者たち、フランスのパリ天文台長のルベリエ、イギリス気象局のフィッツロイ、オランダの王立気象台長ボイス・バロット、アメリカのスミソニアン協会理事長のヨゼフ・ヘンリー(「電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学」参照)らは、国内各地の気象を暴風警報のために電信で一か所に集めることを開始した。そのためには、観測方法や報告様式の決定、当時高額だった電報代の調整が必要だったが、それによって観測地点の気象が瞬時にわかるようになった。
イギリス気象局のフィッツロイ。彼はダーウィンを乗せたビーグル号の船長だったことでも有名である。
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しかし、気象学にとって電信にはもう一つ大きな役割がある。それは情報の共有・配布である。電信で各地の気象状況を集めて嵐の襲来を予測できても、それが多くの住民や関係者に伝わらなければ意味がない。集められた情報から決定された警報は、該当地域に電信で送られた。当時最も実用性が高かったのは港の船舶に対する暴風警報だった。当時は港湾での警報標識の掲揚、新聞への掲載、役所、警察署などでの掲示が行われた。これは現代で言う一種のナウキャストである。
気象の情報はそれが現地に到達する前に発表されないと意味がない。この電信による情報の伝達と共有という近代技術によって気象予報は発達した。数千kmという総観規模(天気予報で用いられる天気図程度の範囲)の気象という一人の人間の目が届かない広域の現象を捉えて警報を出すには、気象学にとって電信という近代技術が不可欠だった。逆に言うと、その地での気圧計の変動などを用いたそれまでの気象予報の発達が遅々とした理由には、広域の状況を気象の移動を追い越して知るための情報伝達の技術がなかったことも一因だった。
そして、それは国内だけでなく、近隣の国々との気象情報の交換の必要性も生み出し、そのための国際組織である国際気象機関(IMO)の設立を促進した。IMOは1879年に設立されたが、政府間組織ではなかったために決議に拘束力がなく、気象情報の交換はなかなか進まなかった。しかし、第二次世界大戦後に、国連の専門機関である世界気象機関(WMO)が設立されると、無線や人工衛星の利用を含めた気象情報の世界規模での共有が一気に進んだ。それは気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「国際政治とグローバルな気象観測網」で述べたとおりである。
現代の予報では、この電信から始まった気象観測網の発展・拡大によって、大きな恩恵を蒙っている。
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