2024年11月2日土曜日

技術と気象(1)時計

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17世紀後半に、ホイヘンスらによって機械式時計が発明された。これはひげぜんまいや金属歯車などを用いて、自動で時を刻むものだった。これはヨーロッパで精密機械が発達するきっかけの一つになったのではないかと思う。

ところで、当時気象測器も発展の途上だった。当時の気象測器は、温度や気圧、風速(風力)などのセンサーの指示を目で読み取る必要があった。気象観測は夜間を含めて定期的に長期間継続する必要がある。人が毎日一定時刻に測定器の前に行って、指示を記録することは大変な負担だった。記録をなんとか自動化したいと思うのは自然だった。

その自動化の試みに使われたのが機械式時計の仕組みの利用である。本書の「4-7 メテオログラフ」で書いているように、それを利用した自記気象観測装置を最初に考案したのは、クリストファー・レンである。彼はロンドンのセントポール大聖堂をはじめとして数多くの有名な建物の建築を手掛けた建築家だったが、幼い頃から機械式時計に興味を持っていた。彼は15歳の頃、父親宛に「回転シリンダー付きの気象時計(ウェザークロック)を作った」と手紙に書いている。しかし、どういう物であったのかという具体的な資料は残っていない。

 

クリストファー・レンの肖像画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Christopher_Wren_by_Godfrey_Kneller_1711.jpg

これを引き継いだのが、レンの友人で王立協会のメンバーだったロバート・フックだった(ロバート・フックと気象観測を参照)。彼はフックの法則や顕微鏡を使ったスケッチであるミクログラフィアなどで有名である。フックは王立協会でさまざまな気象測器も考案していた。気象測器の発達の立役者の一人である。

彼はレンのウェザークロックを改良した。そして、振り子時計を利用したメテオログラフと呼ぶ気温、風向、雨量の自記気象観測装置を作った。ただ、屋外では使えなかったり、高額な上に記録結果を読み取るのに手間がかかったりしたため、この装置は広まらなかった。

フックが作ったウェザークロック

気象測器に限らないが、当時のヨーロッパにおいては、なんとか装置を機械化して自動化したいという強い熱意を感じる。このような熱意は、後の紡績機や蒸気機関の発明にもつながったのではないだろうか。ヨーロッパでは、細々とではあるが自記気象観測装置の開発は続き、さらに精巧かつ巨大化していった。1851年のロンドン万国博覧会には光学機械メーカーが作成した巨大な大気記録装置が出品され、1867年のパリ万国博覧会では、電気を動力としたものも出品された。それらには記録頻度を高めることによって、謎の多い気象を解明しようという思いも含まれていた。

しかし、時代は小型化の方へ進んでいた。1880年代に持ち運びできる簡単な構造で安価な自記温度計や自記湿度計、自記気圧計などが開発されると、それまでの精巧だが巨大で重いメテオログラフは廃れていった。

(次は、技術と気象 (2)電信


2024年9月18日水曜日

ベンジャミン・フランクリンと気象学

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フランクリンの気象学における業績は、本の3-6-2節で紹介しているが、ここで改めて彼の業績の概要を紹介する。

ベンジャミン・フランクリンは政治家でり、アメリカ独立宣言の起草者の一人で有名である。そのため、アメリカの100ドル札に彼の肖像画が描かれている。しかしながら、彼は自然科学の深い探求者であり、雷の研究でも知られている。彼は気象学全体にも深い興味を抱いており、その解明にも取り組んでいるが、ここでは彼の雷の研究を解説する。

なお彼の活動の大半はアメリカで行ったが、アメリカが独立したのは1776年であり、フランクリンが自然科学者として活動した時期の大半はアメリカがまだイギリスの植民地だった頃のことである。


フランクリンの肖像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:BenFranklinDuplessis.jpg

フランクリンの実験の前までは、雷は人々にとって驚異であり畏怖の対象だった。古代ギリシャでは、稲妻は神ゼウスが投げる槍であり、キリスト教では、雷は神による罰とも受け取られていた。

1746年から、フランクリンは電気を使った火花の一連の室内実験を行った。フランクリンは、それらの実験から尖った先端を持つ物質が電気火花の放出と誘引に効果的であることを発見した。そして、その電気状態を説明するのに「プラス」と「マイナス」という言葉を用いた。その放電の観察から、ライデン瓶に電気を充電して放電させる際に、接地していることの重要性を発見した。

彼は、先端が尖っている方が電気火花を誘引しやすいという室内実験での経験から、稲妻が電気と類似していると推測した。それに基づいて、雷雲がその地域を通過しているとき、高い丘や木々、尖塔、船のマスト、煙突などに落雷しやすいことに気づいた。それだけでなく、尖った金属の先端からの放電が、上空の雲からの電気の影響を減らして稲妻に打たれる可能性を減らすことと、その放電効果はその先端が接地されているときに最も高いことに気がついた。

              雷の稲妻放電(Photo by ARAさん)

 フランクリンは、イギリスの王立協会のメンバーで植物学者だったコリンソンに、その内容を手紙で送った。コリンソンは1751年にその内容を本として出版したため、フランクリンの実験は直ちにフランス語やドイツ語に翻訳されて、ヨーロッパ中に知られることとなった。1752年5月10日にあるフランス騎兵がフランクリンの本に従って、パリの近くのマルリー=ラ=ヴィルで地面から注意深く絶縁された高い鉄塔から火花を引き出すことに成功した。この実験から雷雲は帯電しており、稲妻は電気的な放電であることが証明された。

この実験は直ちに評判になり、直ちにヨーロッパ中の多くの人々によって確かめられた。当時は科学ブームの時代で、こういったさまざまな「科学の驚異」のデモンストレーションに人々は夢中になった。

フランクリンによる有名な凧を使った雷誘導の実験は、1752年6月か7月に行われた。その時、彼はマルリー=ラ=ヴィルでの実験を知らなかったが、彼がこの実験から指摘したことは次の点で画期的だった。

(a)雷雲が帯電しているかどうかを絶縁した高い棒で確かめることができ得る。
(b)接地した高い棒を使えば稲妻の衝撃から免れ得る。

またフランクリンは、雷雲の極性を測るのに大気中の電気の特性を摩擦で発生させた電気と比較した。その結果、彼は摩擦の電気と雷の電気は同じもので「落雷を起こす雲の電気は、負の状態が一般的だが、正の状態になることもある」ことを発見した。

以上の観察結果から、1762年にフランクリンは雷の被害を防ぐために避雷針を考案した。驚くべき事は、今でも避雷針の原理は、フランクリンが考案した仕様と本質的には同じままであることである。現在では建造物を雷から保護するのに世界中で避雷針が利用されている。

雷に関すること以外にも、フランクリンは嵐(低気圧)の進行スピードを、各地で同時の起こる月食を利用して初めて合理的に推測した。また、彼は竜巻を観察し、それが凪と酷暑の後に出現する点に注目した。そして熱によって希薄化された大気が上昇することによって地表気圧の低下を生み出し、大気が四方八方から内部へ流れ込んで回転しながら上昇して竜巻になることを指摘した。

1783年には、アイスランドのラキ火山などの噴火(「1783年のラキ火山噴火の大気への影響」参照)により、ヨーロッパの状況はグレート・ドライ・フォッグとも呼ばれた。フランクリンはこの年の夏の日射が異常に弱く、そして翌年の冬は厳冬となったことに気づいた。彼は大気中の塵による煙霧が日射を散乱して地上に届く熱が減ったために、翌年厳冬になったと推測した。そして、そういう煙霧が起こった際には、引き続いて起こる厳冬への対策を事前に講じることができる可能性があることを指摘した。

これらは、当時の気象学の水準からすると画期的な発見であり、彼が優れた非凡な観察眼と考察力を持っていたことがわかる。

(次は、技術と気象 (1)時計)

2024年7月25日木曜日

電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

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ヨゼフ・ヘンリー(1797~1878)は有名な電磁気学の大家である。ニューヨーク州立大学の教授であり、1820年頃から電磁石の原型をつくって実験を繰り返していた。1830年にファラデ-より先に電磁誘導現象を発見していたが、その発見の栄誉は1831年のファラデ-の発表に譲っている。しかし、1832年に彼は電磁石の自己誘導現象を発見し、彼の功績を称えて、電磁誘導係数(インダクタンス)の単位はH(ヘンリー)になっている。

              ヨゼフ・ヘンリーの肖像

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Joseph_Henry_(1879).jpg

彼は、1835年には電信機の発達に不可欠な電気信号の増幅器(リレー)を発明した。その後、画家モールスによる電信機の研究を技術的に支援した。ヘンリーによる支援がなければ、モールスによる電信機の実用化は不可能だったかもしれない。ヘンリーは、電磁気に関する多くの発明を行ったが、それらを一切特許化せず、他の人間がこれらを使って製品化することを大いに援助した。彼の電磁気学における功績を記した本は多い。

ところが、彼は気象学においても忘れることが出来ない大きな功績を残している。ワシントンにスミソニアン協会が設立されることになったとき、その理事長に、世界の著名な科学者であるフランスのアラゴ、イギリスのファラデー、デイビッド・ブルースターなどがヘンリーを推した。1846年にヘンリーは、米国スミソニアン協会の理事長となった。

実は、彼は稲妻を含む電気の性質と大気の謎にも大なる興味を持っていた。彼は、若い頃にニューヨーク州立大学で気象データのとりまとめに携わった経験があり、気象について優れた理解力も持っていた。そして当時の米国での気象学における暴風雨論争にも関心を抱いていた。

彼はスミソニアン協会の理事長になった際に次のように述べている[1]。

我々は新しく興味深い結果が必ず期待できる観測に、十分な科学的精度で我々の注意を向けることができる。北アメリカ大陸を覆う可能な限り広い観測システムを設立することを提案する。

スミソニアン協会は、気象学に関する二つのプログラムを立ち上げた。一つ目のプログラムは、観測者たちによる大陸規模の気象観測ネットワークの設立だった。この観測者たち(スミソニアン オブザーバーと呼ばれた)は、毎日気象観測を記録して毎月ワシントンのスミソニアン協会宛てに郵送した。

これには生物季節情報も含まれており、当時西へ西への拡大しつつあったアメリカ合衆国領土の地誌解明にも貢献した。

二つ目のプログラムとして、彼は1849年に米国国内の電報交換手たちからなる気象情報ネットワークを立ち上げた。彼は、電信による即時的な情報伝達における、気象学への意義を正確に理解していた。

電報交換手たちは現地の気象を電信を使って報告し、それはスミソニアン協会本部にリアルタイムで集められた。スミソニアン協会のロビーには、国内各地の現在の気象状況を表している大きな地図が展示された。これは、現在のナウキャストの原型ともいえる。

この展示物はスミソニアン協会来訪者たちの評判となった。ヘンリーはこの気象状況を見て、嵐になりそうな場合は自身の講演を中止したりしている。後にこの天気概況図はワシントンの新聞に掲載された。

ヨーロッパでは、パリ天文台のルヴェリエが、初めて電信を用いて各地の気象報告の発行を開始したのが1856年だった。それと比べると米国でのヘンリーの先進性がよくわかる。

しかし1861年から始まった南北戦争によって、電報交換手たちが出征したり、南北間の電線が切断されたりしたため、スミソニアン協会による気象ネットワークは、中断した。さらに1865年には、スミソニアン協会本部で壊滅的な火災が発生し、貴重な較正機材や記録が消失した。また、その凝った装飾の建物を修復するための費用によって、この気象プログラムの再建は困難になった。

スミソニアン協会本部の建物 

https://commons.wikimedia.org/wiki/Smithsonian_Institution_Building?uselang=ja#/media/File:Smithsonian_Institute,_New_York,_America._Coloured_steel_eng_Wellcome_V0014025.jpg

スミソニアン協会による気象ネットワークが再開されることはなかった。しばらくの中断の後、アメリカの気象ネットワークは、1871年に米国陸軍の通信部内で国営事業として新たに設立された。その事業を軌道に乗せたのは元シンシナティ天文台長だったクリーブランド・アッベだった。

このアッベの優れた指導の元で、米国の気象事業は大いに発展していく。しかし、その基礎を築いたのは、ヨゼフ・ヘンリーといえるかもしれない。

(次はベンジャミン・フランクリンと気象学

 参照文献

[1]Cox, J. D. (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

 

2024年7月6日土曜日

フェーン現象の解明

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最近、異常高温になると、「フェーン現象により」などの解説がなされることがある。昔からフェーン現象という言葉は使われてきたが、最近は昔より聞く機会が多くなったようである。

フェーンの語源は、ギリシャ語のファヴォニウスとも言われており、意味は暖かい西風だった[1]。このように、フェーンはある種の風を指す言葉である。ドイツ南部などでは、ときおりアルプスから高温の乾燥した南風が吹き下ろすことがあり、この風は昔からフェーンと呼ばれていた。

本書の「8-1-3 フェーンの解明」で解説しているように、フェーンを有名にした事件は、1704年に起こった。1月28日にスイス軍が、ミュンヘンの約60 km南にあるベネディクトボイアーン修道院を攻撃しようとした。冬季であり修道院へ続く沼地は凍っており、進軍を容易にしていた。

ところが、スイス軍が進軍を開始した正午頃から、フェーンによる高温の南風が吹き始めた。沼の氷が急速に溶けてぬかるんで、兵士たちが足をとられるようになったため、スイス軍は修道院の攻撃を断念した。この修道院を守った高温のフェーンは、聖アナスタシアの祝祭日の前日に起こったため、「アナスタシアの奇跡」と呼ばれて知られることとなった。

19世紀後半まで、どうして高温で乾燥したフェーンが吹くのかは謎だった。フェーン現象の仕組みを解明したのは、オーストリアの有名な気象学者ユリウス・ハンである。彼は幼い頃から身近にフェーン現象を経験してよく知っていた。彼はグリーンランドで起こる似たような高温の風について、その付近に熱源がないことに注目した。このこととヨーロッパでのフェーン現象を熱力的に吟味して、彼は1866年に、フェーン現象は風がアルプスを吹き下ろす際に断熱圧縮されて高温になって乾燥したもの、と結論した。

また総観気象の調査から、アルプス南方に高気圧、ヨーロッパ北部に低気圧があってアルプス南斜面で雨が降っているような時にフェーンが起こることもわかった。これらの一貫した説明から、フェーンの原因は、アルプス南斜面で上昇した空気が降雨によって潜熱を放出して乾燥して暖められ、北斜面に到達して下降する際に断熱圧縮によりさらに気温が上昇するため、であることがわかった。この考え方は、当時確立され始めた熱力学の、気象学における有用性を示すものだった。

風によって山に沿って空気が上昇すると、断熱膨張によって冷却され、尾根を越えると下降して断熱圧縮によって加熱される。しかしこれでは、原理的には風下の気温は風上の気温と同じである。しかしながら、フェーン現象では、上昇時の断熱膨張によって水蒸気が凝結して雲や雨となって潜熱を放出するため、下降すると風下では風上より気温が上昇する。

雲を伴いながら山頂を越えてフェーンが吹き下ろすと、山の風下側では上空の雲が切れて青空になることがある。ヨーロッパでは、これを「フェーンの穴」と呼ぶことがある。また下降流となって雲が切れる山脈の尾根の上には、雲が断崖のように連なることがある。これを「フェーンの壁」と呼ぶことがある。地上に降りてきた風は反動で上空へ跳ね返ることがあり、そうすると上空で上下する波となって、高積雲と青空が交互に線状に現れることもある[1]。

フェーンの壁(スペイン、カナリア諸島のラ・パルマ島)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_Palma_-_El_Paso_-_Cumbre_Nueva%2BFoehn_(Mirador_Llano_del_Jable)_01_ies.jpg

冬季の暖かいフェーンは、雪解けを早めたりして農業に有用なこともあるが、乾燥しているので、大火をもたらすこともある。もちろん、夏季のフェーンによる異常高温は、熱中症などの多発をもたらす。

上述したように、フェーン現象による高温は、風上での潜熱放出が原因と考えられていたが、近年は変わってきている。低層の空気が山を越えるより、むしろ上層の空気が山に沿ってそのまま風下に吹き下ろす場合がある。上空の大気は、一般に温位が高いので、地上に降りてくると高温になる。これは風上での降水を伴わない。このタイプのフェーン現象が日本では8割を占めるという研究もある[2]。

(次は電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

参照文献

[1] 吉野正敏、風と人びと、東京大学出版会、1999.
[2] Kusaka et al., Japan's south foehn on the Toyama Plain: Dynamical or thermodynamical mechanisms?, International Journal of Climatology, 2021, https://doi.org/10.1002/joc.7133

2024年7月2日火曜日

雨が降るメカニズム

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雨が降るためには水蒸気が必要になる。そのため、最近は豪雨になると気象学の歴史から見た大気の川」で解説したような、水蒸気がどこそこから流れ込んでという解説がよくなされる。では、水蒸気の多さが豪雨の原因の全てかというと、事はそう簡単ではない。

歴史的に見ると、19世紀頃から雲粒の生成については凝結によることがわかっていた。しかし、雲粒同士の衝突だけでは、落下するほど大きな雨滴になるには相当な時間が必要となり、簡単には雨滴にならない。落下するほど大きな雨滴が、雲の中でどうやってできるのかは、1930年頃まで謎だった。

この謎を最初に解いた一人は、ノルウェーのベルゲン学派の気象学者、トル・ベルシェロンだった。彼は、幼い頃から雲のような気象要素の綿密で巧みな観察が得意だった。

ベルシェロンは保養のためによく訪れたオスロ近くの山腹で、1922 年にモミの森の散歩道を何度か歩いている間に、気温によって霧のパターンが異なることに気がついた。暖かかった時は、霧は散歩道の路面一帯に立ち込めていたのに、気温が氷点より十分に下がると、霧が晴れて路面がはっきり見えた。

彼はすぐにこの理由に対する仮説を思いついた。それは風上にあったモミの木の枝に付いていた霧氷が、-10℃程度の十分に低い気温下で水蒸気を吸収してしまったのではないかということだった。その結果、風下の散歩道では湿度が下がり、霧の液滴が蒸発して霧が晴れたのではないかというものだった。

ベルシェロンが考えた低温下で霧が晴れるメカニズムの模式図。
上が温かい場合、下が寒い場合

彼は、この考えを発展させて、雲の中で雨滴ができるメカニズムを考察した。それは水と氷の飽和蒸気圧の違いによって、十分に寒い高度にある雲では、雲粒から水蒸気が蒸発して氷晶核の方に付着する。こうやって氷晶核が十分に大きくなると落下し始める。これが暖かい大気層まで落下すると、溶けて雨滴となる、というものだった。

彼は、1933年のリスボンの国際測地学・地球物理学連合の会合でこの説を発表した。この氷晶核による雨滴の生成理論は、ベルシェロン過程(またはベルシェロン・フィンダイセンの説)とも呼ばれている[1]。この説はその後の飛行機による観測などによって確かめられ、中・高緯度の並雨以上の強さの雨の機構を説明するものとして広く受け入れられた。また人工降雨実験のための科学的な根拠となっている。

つまり、この説によると、雨が降るためには水蒸気だけではなく、雨滴の核となる氷晶核を作る固体の微粒子も必要となる。この微粒子には地表からのダスト、海からの海塩粒子、大気汚染(二酸化硫黄)からの硫酸粒子などがある。最近はこれらに加えて、微生物が生成する微粒子も関係しているのではないかとも言われている。

降雨のメカニズム(気象庁、数値予報解説資料、第4章、2012)
ベルシェロン過程は、主に中高緯度での右側の流れを解説している。雲氷は融解して左側に移って雨となる。下層が冷たければ、そのまま雪や霰として落下する。

(次は「フェーン現象の解明」)

参考文献

[1] J. D. Cox, (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.