2023年5月26日金曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(4)海水中の放射能の研究

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

 7 海水中の放射能の研究

第5福竜丸事件

このブログの「大気圏核実験に対する放射能観測」で述べたように、1954年3月1日に太平洋中部のビキニ環礁で行われた水爆実験(ブラボー実験)によって、第五福竜丸(と付近で操業していた多くの漁船)が被爆するとともに、付近の島の住民の大勢が被爆した。第五福竜丸は3月14日に焼津に戻ったが、その際に船体に積もったわずかな灰を袋に詰めて持ち帰っていた。この微量の灰の分析を受け持ったのが猿橋だった。彼女の分析によって、この灰は珊瑚が爆発の高温で灰化したものであることがわかった [1]。 


第五福竜丸https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%A6%8F%E7%AB%9C%E4%B8%B8#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Daigo_Fukuryu_Maru.jpg

1954年5月に中部太平洋に派遣された農林水産省の練習船俊鶻丸(しゅんこつまる)の調査によって、ビキニ環礁付近の海洋は広域にわたって放射能に汚染されていることがわかった。そして次に問題となったのは、この高濃度の放射能を含んだ海水の行方だった。ビキニ環礁付近には西向きの海流が存在し、やがてフィリピン付近で北に向きを変えて黒潮となる。気象研究所には多くの漁船から海水のサンプルが持ち込まれた。そして、猿橋を含む気象研究所の分析によって、1955年夏には黒潮の通り道となっている日本東方近海に、高濃度のセシウム137(とストロンチウム90)を含む放射能に汚染された海水が押し寄せてきていることがわかった。

分析結果のアメリカとの相互検定

ところが、アメリカで放射能測定を担当していた世界的な権威であるスクリプス海洋研究所のフォルサム博士らは、海水中では放射能は拡散して高濃度になることはないと考えていた。そのため、自分たちの手法による測定値よりも10~50倍も高い気象研究所の濃度値を、測定の誤りとして非難した [1]。

気象研究所での分析手法の正しさを確信していた三宅は、アメリカ原子力委員会に同一サンプルの海水を用いた相互検定を申し入れた。アメリカ原子力委員会はこれを受け入れて、極微量分析手法の現場での比較という前代未聞の実験が行われることになった。フォルサム博士がいるカリフォルニア州ラホヤのスクリプス海洋研究所がその場所に選ばれ、相互検定を行う日本側の分析者として猿橋がアメリカに派遣されることになった。

1962年4月に猿橋は単身で渡米し、相互検定のためにスクリプス海洋研究所に滞在した。相互検定は次のような手順で行なわれた。まず検定する物質には、セシウム137の代わりとして自然界にはないセシウム134が使われた。第三者だけが知っている既知量のセシウム134を、海水50リットルに溶かして4種類の濃度のサンプル溶液をスクリプス海洋研究所用と気象研究所用に用意して、それぞれが分析を行った。分析はセシウムを試薬で沈殿させて回収し、放射線計測器でその量を特定し、既知量と比較する。海水中の放射能物質の分析は、微妙な精密さを必要とするだけでなく、桟橋の先から汲んだ大量の海水を処理しなければならず、大変な肉体労働でもあった。

カリフォルニアにあるスクリプス海洋研究所(wikipediaによる)https://en.wikipedia.org/wiki/Scripps_Institution_of_Oceanography#/media/File:Scripps_Institution_of_Oceanography,_2011.JPG

分析結果は、既知量のセシウムに対する平均の回収率として、スクリプス海洋研究所が86.5±6.0%、猿橋は94.4±2.7%と猿橋による気象研究所の手法の方が回収率が高く、しかも結果のばらつきも小さかった。しかも、いずれのサンプルも計数機のカウントは猿橋の方が2割ほど低かった。これは猿橋のサンプルは、スクリプス海洋研究所のサンプルよりなぜか2割ほどセシウム量が少なく、これは濃度が低くて回収が難しいものだったことを意味している [6]。それでも猿橋の回収率がスクリプス海洋研究所の結果を上回っていた。

これによって猿橋が用いた気象研究所の手法の正確さが確認された。フォルサム博士もこの結果を認め、猿橋を賞賛して尊敬するようになった。日本東方近海のセシウム137の海水中の高濃度は間違いではないことが証明され、アメリカの原子力委員会は日本近海の放射能汚染に関する日本のデータを認めざるをえなくなった。

それまで核実験によって海洋がどれだけ汚染され、それがどう広がっていくのかはわかっていなかった。この発見は放射能が海洋でどのように広がるかを明らかにし、1963年の部分的核実験禁止条約の締結にも影響を与えた。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
[2] 関口理郎, 成層圏オゾンが生物を守る, 成山堂書店, 2001.
[3] 三宅泰雄、猿橋勝子, "大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論," Journal of Meteorological Society of Japan, 第29巻, pp. 347-360, 1951.
[4] Butchart, "The Brewer-Dobson circulation," Rev. Geophys., 第52巻, pp. 57-184, 2014.
[5] Saruhashi, "On the Equilibrium Concentration Ratio of Carbonic Acid Substances Dissolved in Natural Water - A Study on the Metabolism in Natural Waters (II)," Papers in Meteorology and Geophysics, 第6巻, pp. 38-55, 1955.
[6] Saruhashi and Folsom, "A Comparison of Analytical Techniques Used for Determination of Fallout Cesium in Sea Water for Oceanographic Purpose," Journal of Radiation Research, 第4巻, pp. 39-53, 1963. 




2023年5月24日水曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(3)オゾン層の研究

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

 5 オゾン層の研究

気象研究所での彼女の最初の研究対象は、成層圏のオゾン層だった。当時、観測によって赤道付近上空のオゾン量は少なく、緯度が増加して極域になるとオゾン量が増えることが知られていた。しかし、オゾンは太陽光で生成されるにもかかわらず、太陽光が強い赤道付近(夏半球)で少なく、太陽光が少ない極域(冬半球)で多いという、直感とは反する結果となっていた。オゾン層の世界的な研究者であるドブソンは、赤道から極域に向けての成層圏での子午面循環でこれが説明できるという仮説を唱えていた。また、わずかな成層圏での水蒸気の観測から1949年にはブリュワーがそれを裏付ける論文を発表していた [2]。しかし、まだ不明な点も多く、明確な定説とはなっていなかった。

三宅泰雄と猿橋は、1951年にこのオゾン層の季節変化と地域的変化を説明するためにオゾン層の光化学反応を入れた理論モデルを構築した。そして、年間を通してオゾンの総量は変わらないが、季節によってオゾンが子午面輸送されて夏半球で少なく冬半球で多い、という季節変化の結果を手回しの計算機で導出した。そして、成層圏の子午面循環を直接測定した観測はなかったため、このブログの「成層圏準二年振動の発見」で述べたような成層圏での東西方向の風の変化から、計算結果が子午面循環の存在と矛盾しないことを示した [3]。

この論文は、ある程度ブリュワーの説を定量的に裏付けるものだった。しかし、英文の要約を含んでいたものの和文で書かれているためか、あまり国際的な認知を得られなかったようである。このオゾン分布をもたらす夏半球から冬半球に向けて成層圏の子午面循環は、上記のブリュワーに加えて1956年にドブソンも再び提唱した。これは1970年代に理論的に支持されて、現在ではブリュワー・ドブソン循環として定着している [4]。 

ニンバス7号衛星が1980から1989年にかけて観測した成層圏オゾン分布に、ブリュワー・ドブソン循環を模式的に重ねたもの。赤いほど濃度が高い。赤道上空では少なく両極の上空で多いことがわかる。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nimbus_ozone_Brewer-Dobson_circulation.jpg

6 海洋中の炭酸物質の研究

彼女は物理学を指向していたが、オゾン層の研究を通して、化学反応の重要性に関心が湧いたようである。三宅に化学分析の基礎を指導してもらった。実験して分析を行うにしても物理学と化学では、そのセンスは大きく異なる。私は物理学出身であるが、私の家内は化学出身である。皿洗い一つにしても、私の洗い方はなっていないと家内からは注文が出る。おそらく用具の扱い方や洗い方からして、物理実験と化学実験では目の付け所が全く異なるようである。猿橋は改めてく化学実験・分析の基礎を三宅からきちんと指導を受けて身につけた。これがその後の地球化学の分析に大きく役立つこととなる。

1950年頃に三宅は猿橋に、海洋中の全炭酸を測定することを提案する。全炭酸とは、海水中の二酸化炭素と炭酸物質の総量のことである。当時、まだ二酸化炭素による地球温暖化問題は顕在化していなかったが、大気中や陸上に多量にある炭素が、地球全体の大部を占める海洋中でどうなっているのかを知ることは、地球上の物質の状態を知る上で重要だった。しかしそれを直接測定する手法はなく、アルカリ度の測定から炭酸イオンの量を間接的に推測するしかなかった。

彼女は、1952年に当時体中の有機窒素などの分析に用いられていた微量拡散分析法を、海洋中の全炭酸に応用した装置を開発した。これで海洋中の全炭酸を、世界で初めて直接測定することが出来るようになった。

しかし、世界中の海水をこの装置で分析することは容易ではない。そのため、彼女は分析を繰り返して、全炭酸の量を決めている塩素量、水温、pHごとに海水中の全炭酸量を表にした論文を発表した。つまり、比較的容易に測定できる塩素量、水温、pHがわかれば、いつでもどこでも海水中の全炭酸を算出できるようにした。これは画期的な成果であり、これは「サルハシの表」と呼ばれて海水中の全炭酸を算出する際の世界標準となった。

これに関する一連の論文で、彼女は東京大学から理学博士を授与された。東京大学理学部化学科から初めて女性に授与された理学博士号だった。 


実験中の猿橋勝子(写真提供:額田記念東邦大学資料室)

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
[2] 関口理郎, 成層圏オゾンが生物を守る, 成山堂書店, 2001.
[3] 三宅泰雄、猿橋勝子, "大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論," Journal of Meteorological Society of Japan, 第29巻, pp. 347-360, 1951.
[4] Butchart, "The Brewer-Dobson circulation," Rev. Geophys., 第52巻, pp. 57-184, 2014.
[5] Saruhashi, "On the Equilibrium Concentration Ratio of Carbonic Acid Substances Dissolved in Natural Water - A Study on the Metabolism in Natural Waters (II)," Papers in Meteorology and Geophysics, 第6巻, pp. 38-55, 1955. 



2023年5月21日日曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(2)科学者への転向

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3 科学者への転向

両親の意向に沿って就職した猿橋だったが、進学した同級生たちの動向を知るようになると彼女の夢が再燃した。卒業後4年経っていたが、両親へ東京女子医専(現東京女子医科大学)への進学を希望した。兄の口添えもあって、両親は受験を許した。

東京女子医専は名門であり難関校だった。彼女は卒業後のブランクをものともせずに見事に筆記試験に合格した。ところが当時は入学のための面接があった。彼女の面接に臨んだ一人は、当時70歳だった校長の吉岡禰生だった。彼女は明治の中頃に苦労して女医になり、さらに自身で女性のための医学専門学校を設立し、それを苦労して日本一の名門にまで育て上げた女傑だった。彼女は、日本での女性の高等教育の確立に活躍した教育者の一人として評価されている。

 


吉岡彌生
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/YoshiokaYayoi1901.jpg

猿橋はそういった彼女に憧れており、面接の際に「先生のような立派な女医になりたい」と答えた。ところが、これに吉岡はカラカラ笑って、50歳近くも年下の猿橋に向かって「私のようになりたいですって。とんでもない。私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」と答えた [1]。彼女は驚くとともに、この面接中に吉岡に対する尊敬の念がみるみる消えて、こんな学校へは行きたくないという考えに変わった。結局、東京女子医専に合格したものの、彼女は発表を見に行くことさえせず、代わりに父親が行ったほどだった。彼女の意志の強さがうかがえる。

大きな期待が絶望に変わった彼女は、東京女子医専の校門を出る際に1枚のビラを手にしていた。それは帝国女子理学専門学校(帝国女子理専:現東邦大学理学部)が、その年の4月に開校するというものだった。彼女は、両親に医専には行かない、新設の帝国女子理専に行くと宣言した。名門医学校への進学を捨てたものの、彼女の数学や物理学の素養からして、結果としてこの選択の方が良かったのかもしれない。

4 三宅泰雄との出会い

彼女は1941年4月に帝国女子理専(現東邦大学理学部)の物理学部に入学した。上級生になると、ほとんどの学生は夏休みの間に実習生として大学や研究所に派遣された。担任の教授は、彼女の幼い頃からの「雨がどのようにして降るのか」という興味を知って、実習先に先輩である三宅泰雄がいる気象研究所を紹介した。猿橋が後日述懐しているように、三宅との出会いが、猿橋の科学者としての将来に大きな影響を与えた。

三宅泰雄は、東京大学理学部化学科卒業後、中央気象台(後の気象庁)の研究部にいた。彼は当時確立されつつあった地球化学分野パイオニアの一人だった。地球化学とは、地球の大気や海洋、陸域の構成物質やその動向を化学的な手段を用いて研究する分野である。地球化学は気象とも大いに関係する。その分野を開拓した三宅は、平等主義でリベラルな考えを持った人だったようである。猿橋は三宅の科学者としての言動に感銘を受けたと述べている [1]。

猿橋は実習生として研究部へ派遣される時、きっとビーカー洗いのような作業をさせられるのだろうなと内心考えていた。ところが彼女が研究部へ行ってみると、驚いたことに女子の一実習生に対して「ポロニウムの物理化学的研究」という一人前の研究テーマが与えられた[1]。ポロニウムはキュリー夫人が発見した放射性元素である。

彼女はこれに感激した。彼女はその実験に精力的に取り組み、結果を解析して卒業論文とした。そして帝国女子理専の学生は、戦争のため国策として1943年9月に繰り上げ卒業させられ、猿橋はそのまま中央気象台の研究部に就職した。彼女のこの研究は、その後の放射能汚染の研究にもつながった。

1946年2月には中央気象台の研究部の中に気象化学研究室が発足し、翌年には研究部は気象研究所となった。彼女も研究官としての一人前の地位を与えられた。当時から気象研究所にはリベラルな雰囲気があったようである。私が気象研究所にいた1990年前後には、まだそのような雰囲気が残っていた。また5~6名の女性研究者もおり、その中には後に博士号を取得した人もいた。そういう雰囲気とリベラルな性格の三宅泰雄による指導が組み合わさって、気象研究所は猿橋にとって絶好の研究環境だったのではないかと思う。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009. 



2023年5月20日土曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(1)はじめに

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

 

1 はじめに

猿橋勝子は日本の国際的な女性科学者の草分けの一人である。彼女は大気と海洋の地球化学の分野で大きな成果を上げた。また「女性科学者に明るい未来の会」を設立し、また猿橋賞を創設して日本の女性科学者の育成を推進した。彼女の活躍は国際的にも認知されており、2018年3月22日のGoogle検索のロゴには彼女の似顔絵が登場した。

彼女は気象庁の気象研究所の研究者であり、私も気象研究所にいたことがあるので、そういう意味では先輩である。ただし、私が気象庁に入ったときには既に彼女は退官されており、個人的な接点は全くない。

彼女が活躍した戦後すぐの時代は、広域の大気や海洋の化学を研究する地球化学という分野は草創期で、徐々に確立されつつある時代だった。その後、冷戦でエスカレートした大気中の核実験、あるいは産業の発展に伴う酸性雨、温室効果ガスなどの問題によって、地球化学の重要性にスポットライトが当たった時期だった。しかし、研究に限らず女性が男性と対等に活躍するのは困難な時代でもあった。

近年社会への女性の共同参画の向上が話題となっており、NHKが2021年12月16日にコズミック フロントというドキュメンタリー番組で彼女を取り上げるなど、彼女の成果や果たした役割を再評価しようという機運が高まってきているのではないかと思う。そういう観点から、今回はここで彼女の科学に対する功績を振り返ってみたい

2 学生時代と就職

彼女は1920年(大正9年)3月22日に東京で生まれた。父は電気技師で9歳年上の兄がいた。幼い頃は引っ込み思案で、人前に出るのがきらいで甘えん坊で泣き虫の女の子だったようである。そんな彼女は小学校で担任だった女性教師たちに啓発されて、「一生懸命勉強して、社会に役立つ人になりたい」と思う学生となっていった [1]。その彼女が関心を寄せていたものは、「雨がどのようにして降るのか」ということだった。

彼女は小学校を卒業後、近代的な英才教育で知られる東京府立第六高等女学校へ進学した。この学校は運動も重視しており、彼女はもともと運動神経が良かったようで、そこではスポーツ万能の選手として活躍した。ところが英会話の授業では、私立小学校からきた同級生たちは英語が話せたのに、公立学校出身の彼女は英会話が出来なかった。このとき英語が得意だった兄から手ほどきを受けて、同級生たちに追いついた [1]。この高等女学校で出会った友人たちの一部は、彼女を支える生涯の友となった。


元東京府立第六高等女学校だった東京都立三田高校校舎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%AB%8B%E4%B8%89%E7%94%B0%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

彼女は数学、英語、物理学が得意だった。しかし、社会に役立つ人間になりたいという夢は、彼女が医師になることに駆り立てた。彼女は東京女子医学専門学校(東京女子医専)に進学しようと考えた。ところが、親は当時の社会常識から当然就職してから結婚するものと考えていた。親の意見に逆らうことは良くないと思っていた彼女は、進学の意向を親に言い出せず、親戚が勧めた生命保険会社に就職した[1]。

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009. 



2023年3月22日水曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(4)デフォーによる「嵐」の執筆

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デフォーによる「嵐」の執筆

嵐が襲ってきた頃、デフォーはニューゲート監獄から出たばかりで、まだ本調子ではなかった。しかし、この嵐が彼の隣人たちだけでなく、国全体の雰囲気に与えた影響に衝撃を受けた。そのため彼は、出獄後の最初の主要な仕事を、嵐の恐怖を永続する記録として残すことに決めた。彼は、「嵐(The Storm)」を書き上げ、その本の中で「これが世界が見た中で最も激しいテンペストであったことを後世の人々に納得させるために役立つことのみを記録する」と述べている。

ダニエル・デフォーの「嵐」の表紙
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Storm_%28Daniel_Defoe%29#/media/File:The_Storm_by_Daniel_Defoe_cover_page.jpg

当時はまだジャーナリズムの黎明期だった。それまで、事実を体系的かつ客観的に報知するようなものはなかった。しかし、デフォーの時代の新聞記者たちは、17世紀後半に台頭してきた経験的科学に初めて触れて、それによって記事を書く際に、その裏付けとなる直接の事実を証拠として集める必要性を感じるようになっていた。

「嵐」の序文でデフォーが述べたように、彼の望みは「物語を作り上げること」や「真実に反する罪を犯すこと」ではなく、その夜の出来事を正確に伝えることだった。そして、そのためには信頼できる証拠の収集が必要だった [1]。彼は、ロンドンでの大嵐の間やその後の取材旅行で観察したことをまとめたが、自らの経験のみで書くには限界があった。嵐が去って数日後、デフォーはデイリー・コート紙とロンドン・ガゼット紙に、新聞社宛てに嵐の際に観察したことを送ってほしいと広告を出した [1]。

目撃証言の信頼性を評価する問題はまだ途上であり、当時新しく発展しつつあった科学の領域で議論されているところだった。1660年に「自然知識の向上のために」設立された王立学会は、隔月刊誌「哲学紀要(フィロソフィカル・トランザクションズ)」で論文や講演録を発表していたが、それらの多くは、国内各地から投稿された自然現象の報告だった。しかし、経験的・体験的な情報のための用語の基準や調査の方法が確立していなかったので、報告資料があってもそれを用いて現象を客観的・定量的に判断することは、まだ困難だった。

例えば、デフォーは「嵐」の中で、「昔、嵐として通用したであろう風は、フレッシュゲイル(強風)、あるいはブローイング・ハード(暴風)と呼ばれ・・・我々でいうところのハードゲイルが吹けば、彼らはテンペストと叫んだであろう。それは、特に過去の記録から、価値のある気象学的な比較を行うことは簡単にはできないことを意味する」と述べている。しかし、何が起こっていたのかを多くの人々の目を通して記録に残すことには価値があった。

広告を出した結果、状況を伝える約60通の手紙が送られてきて、それらは「嵐」に収録された。本の序文で彼は、目撃者の手紙の内容は変えていないと主張しているものの、「嵐」には彼が手紙に手を入れた部分が含まれているようである[1]。それでも、自らの体験に加えて広く第三者による観察を募集し、それを本の中に組み込んで出版したことは、当時としては画期的だった。これが広い地域の災害記録をまとめた文学の始まりとなった。

デフォーは、嵐の影響は1666年のロンドン大火よりもひどいと結論した。ロンドン大火による荒廃は小さな空間だけにとどまり、被害は裕福な人々だけだったが、今回の被害は特に英国南部で広く起こっており、その対象は多くの一般の民衆だったと述べている [1]。

タワーワーフ付近で船から見た1666年のロンドンの大火。オランダ派の様式で描かれているが、日付やサインはない(旧ロンドンブリッジや旧セントポール寺院などが見える)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Fire_London.jpg

嵐と宗教

ギリシャ神話では、自然界を神が支配していた。天空を支配するゼウスや嵐を巻き起こすポセイドンはもちろん、風だけでも十数人の神、女神、ニンフ、悪魔に役割が振り分けられていた。しかし、一神教であるキリスト教の台頭により、自然を支配する力は一人の神に集約され、嵐などの悪天候は、人間が罪によって神から招いたもののひとつとなった。キリスト教気象学では、雷がなぜ落ちるのか、なぜ高いものに落ちるのかなどが問題であり、それは神が教会の尖塔を破壊する特別な嗜好を持っているためと思われていた [5]。

その後の18世紀のフランクリンによる雷は電気であるという発見は、神が引き起こすと信じられていた気象のほんの些細な側面に対する発見に過ぎなかった。19世紀の気象学者でさえ、自分たちの学問と信仰との折り合いをつけるのに苦労していた。気象が人間の文化、人間同士の相互関係、人間の魂の動きとはまったく無関係な自然の力の産物である、と人々が信じるようになったのは、20世紀に入ってからのことである。

そのため1700年頃の当時でも、自然現象は一般の人々にとっては神の領域だった。この嵐も当然神による啓示、あるいは罰として考えられた。デフォーは嵐を、その自然的な原因が何であれ、党派に分裂した国家に対する神の審判として、そして国教会の高位者たちの横暴に対する神の報いの行為として捉えていたかあるいは利用しようとした [1]。

彼は本の中で、トーリー党の政治家たちを、

異教徒の危険は叫んでも、フランス人の脅威には関心を示さない人たちである・・・。神は天から嵐の雷を落とし、我々の艦隊を破滅させ、船員を溺れさせ、世界で最も手の込んだ迅速さで我々を吹き飛ばすかもしれないが、彼ら(トーリー党の政治家たち)はこの事件が自分たちによる影響とは決して考えず、自分たちがこの国にひどい打撃をもたらす手助けをしたかどうかについて、自らの行為を決して見つめようとはしないだろう。

と述べている。

その後の彼の文学

彼の本「ペスト(A Journal of the Plague Year)」が歴史小説であるのに対し、「嵐」は現代でいうルポルタージュである。しかし、デフォーによる物語の構成方法はどちらも同じだった。事実や状況を冷静に積み重ねて証拠とし、それは場面を設定したり、行動を説明・解釈したり推測の対象を読者に提供するのに用いられた [1]。

「嵐」では、複数の物語が別々に語られながらも時系列的に並行して幾重にも提示され、デフォーは直接的な引用を行いながら状況的な創作との新しいバランスをとった [1]。それから10年から20年後、彼が他の小説を書くようになった頃には、この新しい技法は完璧なまでに発展していた。

例えば、「ペスト」でのロンドンは、「嵐」におけるロンドンと同様に、公的な災難を背景にした私的な苦悩の場面で満ちている。両書とも語り手は、乱れた街路を歩き、証拠を突き合わせ、悲劇の原因と結末について考察を加えている。両書とも語り手自身の実体験を詳細に語るとともに、他者によって書かれた資料の引用を行い、関与する観察者として組み込んでいる。彼は状況の証拠に基づいてリアリズムを展開しているため、その効果は描写力だけではなく、提供されている証拠が重要な役割を果たした [1]。

彼の「嵐」はベストセラーとはならなかった。嵐は人々にとって神による定め、あるいは決められた運命的なものと捉えられたため、嵐自体やその被害の実態が人々の興味を引くということはなかったのかもしれない。しかし、彼は嵐の原因が何であれ、これによって事実に基づいて社会を考察するという新たな方法を示した [4]。そしてそれはジャーナリズムとして引き継がれて、今日では被害に関する客観的な情報を集めて残すことは、その後の防災に資する重要な役割となることが広く理解されている。

(このシリーズ終わり:次回は「地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(1)」です)

参照資料(このシリーズ共通)

[1]    R. Hamblyn, aniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003.
[2]    Heidorn, "BRITAIN'S GREAT STORM OF 1703-2007," [オンライン]. Available: http://www.islandnet.com/?see/weather/almanac/arc2007/alm07nov.htm.
[3]    D. G. Clow-, "DANIEL DEFOE'S ACCOUNT OF THE STORM OF 1703," weather, 第 巻43, 第 3, pp. p140-141 , 1988.
[4]    J. J. MILLER, "Writing Up a Storm," 2011. [オンライン]. Available: https://www.wsj.com/articles/SB10001424053111904800304576476142821212156.
[5]    A. C. A. L. N. 23, "Talk About the Weather," 2015. [オンライン]. Available: http://www.newyorker.com/magazine/2015/11/23/writers-in-the-storm.