2025年8月2日土曜日

アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学

古代ギリシャ文明は、それまであったバビロニア文明などの考え方を引き継ぐだけでなく、独自の気象学を発達させた。古代ギリシャ時代には詩人たちを知識人とみなす伝統があった。彼らは気象を説明するために神話を用いた。そのため、神話には気象に関する古代ギリシャ人の考え方や捉え方が含まれている。気象に関する神話は、現存する最古の古代ギリシャの作品であるホメロスの叙事詩とヘシオドスの叙事詩の中にも見出すことができる。その例としてホメロスの有名な物語を一つだけ挙げる。

オデッセウスはトロイア戦争の後、舟で帰還の途中にアイオロスが住む島にやって来た。アイオロスはゼウスから4つの風の守護者に任命されていた。アイオロスはオデッセウスに、北風、南風、東風を皮袋に詰めて贈った。オデッセウスは残った西風に乗って、イサカ島へ帰ろうとした。オデッセウスとその部下たちは西風の中を出航した。そしてイサカ島に到着しようとしたとき、オデッセウスは眠ってしまった。部下たちは袋の中に富が入っていると思い、自分たちだけで計略を練り始めた。彼らはアイオロスが贈った皮袋に富が入っていると思い、袋を開けてしまった。するとすべての風が吹き出して、彼らの舟はアイオロスの島へと吹き戻されてしまった。アイオロスはオデッセウスらが神々に呪われていると考え、さらなる協力をしなかった。

ホメロスやヘシオドスの叙事詩では、気象を神々の活動としばしば結びつけた。特にゼウスは気象を司る神と考えられた。ゼウスは雷を鳴らし、稲妻を放ち、嵐を引き起こすとされた。また、人間への示唆として雲に虹をかけた。しかし、他の神々も気象を引き起こすことができた。ヘラとアテネは共に雷を起こし、アテネは風を操ることも出来た [1]

また、詩人たちは気象を物語の中で使うこともあった。ヘロドトスの「歴史」は、エジプトの天候や気候、その他の気象学的トピックの記述に長い章を割いているし、アリストファネスの戯曲「雲」では、ソクラテスなどの学者(ソフィスト)たちが「いつも雲や物事の話をしている」と記している [2]

当時、将来の気象を予測するために予兆や前兆に頼ることは、文化の重要な一部でもあった。神話における定義によっては、伝統的な神々とその気象学的活動は、極めて合理的な説明の一形態として理解されることもあった。ヘシオドスは農民への実践的なアドバイスとして、天体気象暦の中で、星や星座などの天体の動きと農作業や航海に適した天候の時期とを関連付けた。しかし、その理由は神々とも関連していた [3]

古代ギリシャ時代における気象学の初期の段階では、多くの自然哲学者たちがこういった気象の研究に力を注いだ。それは、ある意味で気象の原因を神々の所業から引き離そうとした。例えば気象学者ではなかった有名な哲学者ソクラテスは、気象そのものをあたかも神のごとく崇めていたという説もある。気象学者たちは、特異な自然現象は神々の罰である、とする人々の恐怖を取り除こうとした面があった。一方で、気象学者は、怪しげな祈祷師や聖職者と混同される場合もあったようで、その偏見を取り除く必要もあった。

しかし彼ら自然哲学者たちの研究は、現象の観察から先はそれに基づいた推測であり、統一的な一貫した考えではあったが、演繹的で定性的なものだった。プラトンはそういった経験論的な気象学や気象学者たちに対して反感を抱いており、気象学者たちを非難・嘲笑していたという説もある [3]。いずれにしても、気象学が当時の自然科学の中で大きな位置を占めていたことは間違いない。

古代ギリシャ自然哲学の集大成はアリストテレスになろうが、彼の気象学に関する考察とその影響はあまりにも大きいので別な所で改めて述べたい。ここでは、アリストテレスを除いた古代ギリシャ時代の以下の気象学者と、その主張内容について述べる。なお、生没年については諸説ある場合があり、およその年であることに留意してほしい。 

ここで取り上げる古代ギリシャの自然哲学者(気象学者)たち 

1.タレス

古代ギリシャの都市は、地中海東部に点在しており、そのひとつであるイオニア地方のミレトスには、紀元前600年頃、イオニア人初の自然哲学者、数学者、気象学者であるタレス(紀元前624547年頃)が住んでいた。彼はいわゆる「七賢人」の一人であり、ミレトスのタレスと呼ばれている。ギリシャ初期の歴史家ヘロドトスは、紀元前585年頃にタレスが日食を予言したとしている。バビロニア時代から月食は周期的な計算(サロス周期)によって予測が可能だった。しかし月食と異なって日食の計算は複雑であるため、本当に計算のうえで予言が当たったのかは疑問視されている。

古代ギリシャ自然哲学の特徴の一つは、万物を何か根源的な物質(場合によっては複数)に還元しようとしたことである。タレスは万物の根源(アルケー)を「水」と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして、水が雨となって空から降り注ぎ、凝縮して再び空に戻るという循環という概念を持っていた [1]。また彼は、バビロニア人の書物を研究して、それに倣って気象をヒアデス星団などの天体の運動と関連づけようとした。さらに旅好きだった彼は、エジプトを訪れ、ナイル川の定期的な氾濫を、ギリシャでエシュアンと呼ばれる北風が吹くと、それによってナイル川の流れが堰き止められるため、と考察した [1] 

タレスの肖像。「E. ウォリス編『イラスト付き世界史』第1巻」からの挿絵
https://en.wikipedia.org/wiki/Thales_of_Miletus#/media/File:Illustrerad_Verldshistoria_band_I_Ill_107.jpg

2. アナクシマンダー

アナクシマンダー(紀元前610546年頃)もイオニア人で、タレスの友人だった。彼は現象を神学ではなく、自然科学的に説明しようとした。そのため、彼は初めての自然哲学者と呼ばれている [1]。彼は地球全体の形だけでなく、地球には対称域(南半球)があることにも気づいており、地球と星、太陽、月との関係も考えたとされている [3]。この考えは、古代ギリシャ自然哲学の中心テーマの一つとして発展していった。

アナクシマンダーは大気現象の鋭い観察者であり、地球はもともと水に覆われていたと考えた。すなわち、太陽によって水分のほとんどが蒸発し、残った塩分の多い部分が海となった。また雲に囲まれて圧縮された風は、やがて裂けて爆発、雷、稲妻を引き起こした [3]

アナクシマンダーは太陽が湿った地表に作用して「蒸気」または「蒸発気」を引き起こすという考えを明確にした。この考えは、アナクシメネスとヘラクレイトスによって、あらゆる気象現象を説明する基礎として発展していった [3]。特に万物の流転を説いたヘラクレイトスは、後にこの蒸発気を乾いたものと湿ったものとの2種類に区別し、この考えは後にアリストテレスによって採用された。

アナクシマンダーは風を初めて「空気の流れ」と定義したが、これは後のアリストテレスの定義と異なっていたこともあってか、2000年間にわたって一般的に受け入れられることはなかった。

 

紀元後3世紀前半にトリアーが描いた日時計を手にしたアナクシマンダー
https://en.wikipedia.org/wiki/Anaximander#/media/File:Anaximander_Mosaic_(cropped,_with_sundial).jpg

3. アナクシメネス

アナクシメネス(紀元前585年~525)もイオニア地方のミレトスに住んでいた。彼はタレスの万物の根源(アルケー)という考えを受け継いだが、それは水ではなく空気であった。羊毛が圧縮されてフェルトになると性質が変わるように、彼は希薄化と凝縮という相反する2つのプロセスを用いて、空気が一連の変化の一部であることを説明した。そしてこの空気が、さらに凝縮や希薄化することによって、火や水などのさまざまな様相に変化すると考えた [1]。彼は次のように述べている [4]

空気はその希薄さや密度によって本質が異なる。空気が薄くなると火となり、凝縮すると風となり、雲となり、さらに凝縮すると水となり、土となり、石となる。他のすべてはこれらから生まれる。

アナクシメネスはこの考えを用いて、稲妻や雷は、風が雲から吹き出すことによって起こり、虹は太陽の光が雲に降り注いだ結果であり、地震は、雨で湿った大地が乾いて割れることによって起こるとした。雹についてはそれを凍った雨水とし、それは現代においても正しい説明となっている [4] 

 
アナクシメネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anaximenes.jpg

4. アナクサゴラス

イオニア地方生まれのアナクサゴラス(紀元前499年427年頃)は、アテネの優れた自然哲学者である。そのため、アナクシメネスの後継者とも考えられている。彼はすべてのものの中にすべてのものの一部が存在することが可能である、と主張した。彼はアテネへの移住後に、彼は唯物論的な見解、特に太陽は燃える岩であるという主張が有名になったため、不敬罪に問われ、アテネの裁判所から死刑を宣告された。しかし彼は弟子のペリクレスの助けで小アジアへ逃れ、そこで残りの人生を送った。

気象学は彼の数多くの関心事のひとつであったが、気象学には彼の科学的な体系に関する考えがよく現れているとされる。彼は、高山での気温の低下を、高度の上昇によって地表から反射する太陽光の強度が徐々に低下するためと主張した。そして夏に降る雹やあられを、太陽の熱によって水分を含んだ雲が低温の高度まで上昇し、水分が凍結してあられの形で地上に落下するとした [1]

しかも彼は、ある高度以上になると「エーテル」という物質によって気温が上昇するとした。気温鉛直分布は現実の成層圏を考えると正しいものだが、理由は間違っている。彼は、雷や稲妻の原因を説明するためにエーテルを採用した。彼の説では上部大気のエーテルが下層大気に降下して、これが雲の中の火となった。そして、稲妻はこの火が雲の中を閃光を放つことによって起こり、雷は雲に含まれる水分によって火が鎮まるときに鳴る音と考えた [1]。このエーテルという物質の考えは、性質を少しずつ変えながら19世紀末まで残ることとなった。

 

アナクサゴラスの肖像画
https://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras#/media/File:Jose_de_Ribera_-_Anaxagoras.jpg 

5. エンペドクレス

アナクサゴラスとほぼ同時代を生きたエンペドクレス(紀元前492430年頃)は、シチリアの住民である。彼は宇宙には空気、土、火、水の4つの基本元素があり、これは熱さ、冷たさ、湿気、乾燥の4つの基本的な性質と関連していると主張した。エンペドクレスは雷や稲妻などの気象の原因に関心を持っていた。彼の説はアナクサゴラスと基本的に同じであったが、雲の中の火は雲に閉じ込められた太陽の光であると主張した。これは雷が雲の中で発生することを初めて示したものである可能性がある [1]

アナクサゴラスは、4つの元素の概念を応用して気候の成り立ちを説明しようとした。火と水の対立を利用して、夏と冬という異なる気候の原因を説明しようとした。火と水は大気の中で絶えず対立するものであり、高温で乾燥した火が優勢になると夏になり、湿った冷たい水が優勢になると冬になるとした [1]

 

トーマス・スタンレーのThe history of philosophy(1655)に描かれたエンペドクレス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Empedocles_in_Thomas_Stanley_History_of_Philosophy.jpg

6. デモクリトス

有名な原子論者であり幾何学者であったデモクリトス(紀元前460370年頃)は、他の古代ギリシャ自然哲学者たちと異なり、気象学の経験的・実践的側面と説明的・理論的側面の両方に関心があった。

デモクリトスは数日あるいは数時間先までの気象予報技術を開発し、成功を収めたと言われている。 ローマ時代のプリニウスによると、「デモクリトスは非常に暑い日に収穫をしていた弟のダマシオスに、収穫をやめてすでに刈り取ったものを集めて覆いの下に置くように促した。数時間後、彼の予報通りに大雨に見舞われた」とされている [3]

またデモクリトスは、長期的な観点からの気候や環境の変化の説明も行った。彼は世界の北方では夏至の頃に雪が溶けて流れ出ると主張した。そして、その蒸気によって雲が形成され、これがエテュシオンと呼ばれる北風によって南方、エジプト方面に追いやられると、湖やナイル川を満たす激しい嵐を引き起こすとした[1]。そういった観点での温暖化や乾燥化、海面水位の上昇下降の議論も行った。

デモクリトスもアナクシマンダーと同様に風は空気の流れとした。しかし、小さな空虚な空間に多くの粒子(「原子」)が存在するとき、風が生じると主張した。一方、空間が広く、粒子が少ない場合は、「大気の静止した平和な状態 」とした[1]。しかし、雲に覆われた大気に常に風が伴うとは限らないことがしばしば観察されたため、この説は否定された。雷と稲妻については、彼は原子論に基づき、雷と稲妻を粒子の不均等な混ざり合いによるものであり、雲やその内部で激しい動きを引き起こすものであると説明した[1]。彼は雷と稲妻の同時性を正しく理解していたが、これはその後の自然哲学者たちに長い間無視された。

デモクリトスの説は、そのような気象をすべて自然主義的な説明によって人々の驚きや恐怖を取り除き、神々の人々への浸透を防ぐようにするするためのものだった [3]

 

デモクリトスの半身
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%B9

7.ヒポクラテス

ヒポクラテス(紀元前460375年頃)は、イオニア地方南端のコス島に生まれ、医学を学びギリシア各地を遍歴したと言い伝えられるが、その生涯について詳しいことは分かっていない。彼は「医学の父」とも呼ばれ、病気を「呪術的で超自然的な力や神々の仕業によって起こるものではない」と考えた最初の人物とされている。そして初めて健康を気象と結びつけた人である。

ヒポクラテスは人間の肉体と魂を理解するためには自然、特に気象を理解する必要があると考えた[1]。彼は著書「空気、水、場所について」の中で、さまざまな気候、これらの気候が住民の健康に及ぼす影響やある種の風にさらされることで特徴づけられる地域で流行する病気について論じた[1]

ヒポクラテスの医学はコス派といわれ、生命体全体と季節や大気などの環境の病気への影響を重視し、人間は環境によって身体を構成する体液の調和が崩れることで病気になると考えた。そのため、彼は太陽の位置、風の向き、気候などの健康と病気への影響を重視した。ただし、彼は気候が年によって違うのは気候が天体の動きに依存しているためと考えていた。

ヒポクラテスの考えは長い間忘れ去られていたが、18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパで復活し、国民国家が国民の健康のために気候情報を集めるきっかけとなった。現在、気象病として体の不調を天候と関連付けられることが行われているが、その考えの元祖はヒポクラテスと言えるかもしれない。 

ヒポクラテスの胸像
https://en.wikipedia.org/wiki/Hippocrates#/media/File:Hippocrates.jpg

8.テオプラストス

テオプラストス(紀元前371年~287年はレスボス島生まれの哲学者で、アリストテレスの弟子である。しかし、彼は師であるアリストテレスの気象に関する考え方を引き継いでいない。テオプラストスは経験を重視した。彼は「気象の前兆について」と「風について」という本を残しており、その中で天気の前兆として、雨については80編、風については45編、嵐について50編、好天については24編、周期的な気象については7編を示した[1]

テオプラストスは気象の前兆を、星、太陽、月、彗星、雷、稲妻、虹、光輪、昆虫、鳥、クモ、ミミズ、カエル、哺乳類などによる様々な事象によって示した。これらは気象の前兆によって分類されるのではなく、事象毎に分類されているのが特徴である [3]。ただし、これらはテオプラストスのオリジナルではなく、アリストテレスやデモクリトスの失われた著作に基づいたものとされている [3]

これらのテオプラストスの著作が、天候の前兆をまとめたものとしては世界で初めてとされており、その後天気のことわざなどの形で後世に引き継がれるとともに広まっていった。 

パレルモ植物園にあるテオプラストスの彫
https://en.wikipedia.org/wiki/Theophrastus#/media/File:Teofrasto_Orto_botanico_detail.jpg

9. アテネの風の塔

人物の話ではないが、風の塔について記しておく。アテネには今でも風の塔が残されている。これは紀元前1世紀より前にマケドニアの天文学者アンドロニコスが建てたものと言われている。この塔上部の8つ方角の各面には風向の特徴を示した神々が彫られている。塔の天井には海の神トリトンのブロンズ像があり、それが風向計になっていた。その時吹いている風に応じて、その風向計についた杖で塔上部の風の名と神の顔を指し示すようになっていた。ただし、現在はその風向を示すブロンズ像は壊れて存在しない。

この塔の内部には水時計が設置されている。この塔がある場所は窪地であり、風の観測にはあまり向かないと考えられている。アンドロニコスは、この水時計が設置されている建築物の美しさと調和を重視して、この塔に風神の芸術的な紋章をあしらったのではないかとも言われている[2] 

背後にアクロポリスがそびえるアテネの風の塔
https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_the_Winds#/media/File:20211102_224_athenes.jpg

 

 参照文献

[1] Frisinger, "The History of Meteorology: to 1800," American Meteorological Societ, 1977.
[2] Taub, ANCIENT METEOROLOGY, Routledge, 2003. 
[3] Johnson M. R., The Cambridge Companion to ANCIENT GREEK AND ROMAN SCIENCE, Cambridge University Press, 2020. 
[4] Graham, "Anaximenes," Internet Encyclopedia of Philosophy.
[5] Hellmann, "The Dawn of Meteorology," Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, no. No.148, 1908. 


 

2025年7月9日水曜日

古代ギリシャ時代以前の気象学

気象学の起源のようなものを考えてみる。

古代から農耕民族も狩猟民族も気象から影響を受けながら生活してきた。その中で、農耕民族の方が気象に依存する部分が大きく、実用的な面で気象(特に気象の予知)に対する関心が高かったと思われる。しかし、その関心は必ずしも気象の因果関係の解明につながったわけではなかった。当時の気象に関する記録は、神秘的あるいは宗教的な側面が顕著なものも多いとされている[1]。つまり、人間の理解力を超越したもの、つまり神々のようなものが気象を引き起こすと考えられた。

古代における最初の大文明は、アフリカとアジアの大河に沿って発展した。ヘレニズム時代以前の文明に関する現在の知識のほとんどは、エジプトとバビロニアである。

エジプトでは、気象は宗教的性格を持っており、大気現象は神々の支配下にあると信じられていた[1]。これを利用して気象(気候)予知を人々を統治する手段にすることもあった。もちろん当たらない場合もあり、そうなると両刃の剣となったかもしれない。ギリシャ時代に入ると、神々が気象を引き起こすことに納得しない人々が出てくることになる。これについては、別の所で記すことにしたい。

バビロニア文明は、チグリス川とユーフラテス川流域で発展し、紀元前3000年頃から紀元前300年頃まで栄えた。バビロニア人は粘土を筆記の記録として使った。すなわち、粘土板に尖った棒のようなものを使ってくさび形文字で碑文を刻み、これを焼いて永久的な記録とした[1]。そのバビロニア文明の記録は、気象の研究がここから発展したことを示している。

粘土板に刻まれたくさび形文字。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%94%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cuneiform_script.jpg

バビロニアの天文学者たちは、大気現象を天体が位置する天上界の動きと結びつけて初めて体系化し、天体気象学を確立した。彼らは天文学と気象学の関係を明らかにしようとして、月に暈がかかると雨が降るなどの天体による気象の予兆を集めた[1]。同様にして、雲、嵐、風、雷も研究したが、それは吉凶の予兆としてのものも多かった。つまり、厄災を避けるためのしきたり(祈祷)のためだった[2]。

また風についても、バビロニア人たちは初めて風向を8つに分けることを始めた。それらはまず風向を東西南北に4分割し、さらにその中間を最初に4分割した方角と合わせて(北東、南西のように)表記した。この考え方は現在にも受け継がれている[1]。ギリシャ・ローマ時代には、それぞれの風向毎に独自の名前を付けることがあり、これは地中海のイタリア人船乗りたちの間で長い間使われた。それを考えると、この8分割する風向の命名法は、合理的で画期的だった。

バビロニア付近の地図

気象の研究のもう一つの源と考えられているのはインドである。「十二夜」という考え方があった。この名前はシェークスピアの物語で有名である。しかし本来は、元旦からの12日間の天候がその後の1年間の天候を示す、という迷信を指していたらしい。その後キリスト教の流布でクリスマスからの12日間に変わった。この考えは15世紀頃まではヨーロッパの数多くの文献に見られる[2]。この起源は古いインドやヴェーダの書物まで遡ることができる。この考えはインドから西方のヨーロッパへ伝わっただけでなく、東方の中国にも伝わったとされている[2]。

(次は「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学 」) 

 
参照文献
[1] Frisinger, The History of Meteorology: to 1800, Historical Monograph Series, American Meteorological Society, Science History Publications, NEW YORK - 1977
[2]Hellmann, The Dawn of Meteorology, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, No.148, 221-233, 1908.


2025年4月28日月曜日

クリミア戦争とルヴェリエ

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。) 

 クリミア戦争とは1853年から1856年にかけてロシア帝国とオスマン帝国と間で戦われた戦争である。オスマン帝国側としてフランス・イギリスなどの連合軍が加わったため、両軍とも25万人以上を動員する大規模な戦争となった。この戦争ではイギリスのナイチンゲールが活躍したことでも知られる。これは後に国際赤十字社の設立のきっかけとなった。またこれは、気象学にとっても暴風警報の開始というエポックメイキングな出来事となった。そして、本書の「6-2-3 ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」で記述したように、それを主導したのはフランスの天文学者ユルバン・ルヴェリエ(1811 - 1877)だった。

オスマン帝国とフランス・イギリスなどの同盟軍は、ロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島のセバストポリ要塞への攻撃を計画し、フランスの最新の装甲戦艦「アンリⅣ世」を含む英仏連合艦隊と陸軍部隊を黒海に派遣した。ところが、1854年11月14日に突如として嵐が黒海に来襲し、「アンリⅣ世」や防寒装備などの大量の補給品を積んだイギリスの蒸気船「プルトン」号が沈没し、また多くの艦船、陸上部隊が被害を受けた。またこの嵐は北方から寒気を引き込み、季節外れの降雪などによっても、防寒装備を失った陸上部隊は甚大な被害を蒙った。兵士たちの飢えや凍傷に対応するために、急遽ナイチンゲールなどの大勢の看護師たちが現地に赴いて、兵士たちの治療に当たった。

戦艦「アンリⅣ世」の沈没
© National Maritime Museum, Greenwich, London

この頃には各国に電信を備えた気象観測所が置かれていた。この被害を受けて、ナポレオンIII世を始めとする多くの人々が、この嵐が黒海に到達する数日前には、嵐がヨーロッパ西部を進んでいることが予めわかったのではないかという疑念が起こった。フランス政府のベラン陸軍大臣は、パリ天文台長だったルヴェリエに、嵐の襲来が予測可能かどうかの調査を命じた。ルヴェリエは、当時世界で最も有名な天文学者の一人だった。1846年にニュートン力学を用いた天王星の軌道のずれから、紙と鉛筆による計算結果を用いて別な惑星の存在を予言し、彼が予言した時刻と場所に海王星が発見された(この発見はイギリスの数学者アダムスもほぼ同時だった)。この功績から、ルヴェリエはパリ天文台長フランソワ・アラゴの死後、1854年にその地位を継いでいた。

 ルヴェリエの肖像画

おもしろいことに、19世紀半ばまで隕石や流星は大気現象、つまり気象の分野と思われていた。これらは気象学とは関係ないことを明らかにしたのはフランスの高名な科学者アラゴだった。これによって隕石や流星の研究は天文学の分野に戻ることとなった。一方で、それらが抜けたことで、気象学は天文学のような高尚な科学から、混沌とした研究分野へ転落することとなった。気象は予測できないという見解がアカデミーなどの科学者たちに広く共有されていた[1]。


ルヴェリエは、ヨーロッパ各地の気象観測所に要請して、1854年11月の嵐の前後の気象記録を集めた。その結果、嵐はスペインから地中海を経て黒海に到達したことがわかった。ヨーロッパで嵐(低気圧)が移動することをデータから示したのはこれが初めてだった。ルヴェリエは、嵐の到達した場所が
わかれば、電信によってそれを他の場所へ警告することが可能であると結論した。当時気象予測は一種の似非科学である占星気象学(「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)の一部と思われており、このような結論は、きちんとしたデータに加えて高名だったルヴェリエの権威があったからこそできた。

1854年11月14日に黒海を通過した低気圧の推定経路図

1855年2月にルヴェリエは、電信で結ばれた大規模な気象観測網と結果の通報計画をナポレオンIII世に提出して承認された。しかし、その体制構築は直ちには行えなかった。その原因の一つは、まずは電報代だった。嵐の到達とその警告を行うには、各地との定期的な通信が必要だったが、当時電信を用いた電報は高額だった。ルヴェリエは気象電報の無料化の折衝をあちこちと行う必要があった。また、各地の気象観測所での観測方法や観測時刻などの統一も必要であり、その折衝にも尽力した。これは現在も行われている定時通報(SYNOP)の先駆けとなるものだった。

しかし、電信を用いた暴風警報体制を世界で初めて整えたのはオランダだった。1860年にオランダ王立気象局長官のボイス・バロットは、世界で初めての暴風警報の発表を開始した。翌年にはフィッツロイがやはりイギリスで暴風警報の発表を開始した「フィッツロイと天気予報(2)参照」。両者は国内体制だけで警報を開始したが、フランスでの暴風警報体制は周辺国の観測を含むものだった。
パリ天文台による暴風警報の発表は、1863年からとなった。

暴風警報の発表では遅れをとったが、ルヴェリエの功績は1856年7月からヨーロッパなどの気象を集めた気象報告を毎日発行し、さらに1863年8月からは等圧線が描かれた天気図の発行を開始したことである。注意深いことに「気象予報」という言葉を用いなかったが、実際には推測した翌日の天気概況が
天気図に含まれていた。フランスは天気図を定期的に発行する世界で初めての国となった。

(次は「古代ギリシャ時代以前の気象学」) 

参照文献

[1] J. D. Cox、嵐の正体にせまった科学者たち(訳:堤 之智)、2013

2025年4月16日水曜日

フィッツロイと天気予報(2)

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。) 

 

フィッツロイの生い立ち

ロバート・フィッツロイ(1805 - 1865)は、イングランドのサフォーク州アンプトンで、貴族で陸軍軍人である父と子爵の妹である母との間に生まれた。14歳のときに王立海軍大学で首席になり、その後、士官候補生として4年間洋上で過ごした後、少尉試験に満点で合格して士官候補生となった。

23歳で「ビーグル号」のキング船長の補佐として南米を調査する航海を任された。その時に気圧計の降下にもかかわらず帆を上げたまま航海を続けたため、嵐によって船が横倒しになったが、フィッツロイは両方の錨を降ろすよう命じて、ビーグル号の船首を風に向けたため沈没を免れた。彼の行動は賞賛されたが、彼は突然の強風を事前に予測できたはずだと感じていた[2]

ビーグル号探検航海の船長とニュージーランド総督

この南米の調査はいったん打ち切られ、船はイギリスへ戻った。しかし、海軍のボーフォート大尉(ビュフォート風力階級の発明者)の進言で、翌年に再度南米の調査を行うことになった。この時、フィッツロイは今度は船長として博物学者のチャールズ・ダーウィンを同行した。船長は士官と自由に会話することが禁じられており、ダーウィンは船長の絶好の話し相手となったようである。孤独な状況からかフィッツロイは神経衰弱に陥り、乗組員に対してときおり感情を爆発させていたが、ダーウィンはフィッツロイを畏敬と慈愛の目で見ていた[3]。ダーウィンのフィッツロイに対する敬愛は、フィッツロイの死まで続いたようである。

1831年から1836年にかけて行われたビーグル号による探検航海は大成功を収め、フィッツロイはイギリス王立地理学会のゴールド・メダルを授与された。彼は1841年に議員に選ばれ、1843年にニュージーランド総督の地位に就いた。しかし彼は、為政者としての能力は秀でていなかったようである。当時ニュージーランドでは現地住民(マオリ族)と入植した白人が対立しており、それをうまく調定することが出来なかった。彼は1845年にイギリス政府と入植者たちの怒りを買い、総督を罷免されてイギリス海軍に戻り、さらに1850年には軍人を退役した[2]

政府による気象観測網の設立と警報の発表

フィッツロイと天気予報(1)」述べたように、1853年にアメリカのモーリーによって、気象観測に関する世界で初めての国際会議がブリュッセルで開催された。モーリーの世界中という当初の目論見とは異なって、この会議で海上の軍艦のみによる気象観測とその方法が定められた。これに応じてイギリスでは商務省貿易委員会(Board of Trade)に気象部(Meteorological Department)が設置され、その記録のとりまとめと統計が行われることになった。これは後にイギリス気象局(Met Office)となる。そして、これを実質上統括する気象統計官に、王立協会の推薦でフィツロイが任命された。

彼の仕事は、船から報告される気象観測結果の統計を行うことだった。このような気象統計があれば、船は風や海流をうまく利用することで航海日数を短縮することが出来る。彼は船で気象観測を行えるように気象測定器の取り扱い説明書を作成し、軍艦だけでなく商船にも配布した。また船舶用の気圧計を自ら作成した。これはフィッツロイバロメータと呼ばれた。

1859年に大きな海難事故が起こった。当時最新鋭の鋼船「ロイヤルチャーター号」が、嵐によってウェールズ沖で難破し、450名が遭難した。またこの船だけでなく合計で133隻が被害を受け、死者は800名を超えた。この嵐は「ロイヤルチャーター・ストーム」と呼ばれた。フィッツロイはこの嵐に関する気象調査を行った。

フィッツロイは、ドイツの気象学者ドーフェによる異なる気流の衝突が悪天候を引き起こす、という考えに従って、異なる気団の境目ではっきりした渦状の構造を持った嵐がイギリスを通過したことを図示した。この嵐が気団の境目で渦状の構造をしていることを図示したことは画期的だった。これは、このような図を作成できれば、嵐の進行方向に住む人々に暴風を予告することが出来ることを意味した。イギリスには電信網が張り巡らされていた。彼は電信を用いてある地点での嵐の到来を他の場所へ知らせることを提案した。この警報があれば、船舶は近くの港に避難するか、出航を見合わせることが出来た。

フィッツロイが作成したロイヤルチャーター・ストーム時の天気図。寒気が青、暖気が赤で示されている。これは現在の気象衛星からもたらされる画像に似ている。当時の限られた海上と地上観測結果だけから、このような嵐の構造を明確に示したことは驚くべき事だった。The Weather Book : A Manual of Practical Meteorology1863)より。

フィッツロイが考えていた暴風警報の発表には、いくつかの地点を網羅した気象観測網と継続的な観測・報告という大規模な事業を必要とした。フィッツロイは、イギリス科学振興協会を通じて電信を用いた気象観測網の設立を要求した。これは政府に認められて、イギリスを3つの気象区に分けた電信を用いた気象観測網が設立された。これは、アカデミックではない中央の政府機関が気象観測とその結果のとりまとめを行うという、当時の行政から見るとそれまでとは全く異質な事業だった。しかも観測データを集めて分析するという日々の作業は、科学的な匂いのするものだった。

この時からフィッツロイの使命は、気象統計から人々の命を嵐から守ることへと変わった。彼は気象観測所の設立を拡大し、イギリス沿岸の22か所と大陸の5か所からの気象観測結果を毎日受け取った。18612月に、それを用いた初めて暴風警報(cautionary signals)を発表した。しかし認めてられていたのは、存在がわかった嵐の接近を他の地点へ警報として予告することだけだった。警報は港などの高台に標識を掲げて人々に知らせた[2]

フィッツロイの警報標識(cautionary signals)。上段は昼間の信号。左から強風(北風)、強風(南風)、強風(継続)、暴風(最初は北風)、暴風(最初は南風)下段は代わりにランプを使った夜間の信号(The Weather Book : A Manual of Practical Meteorology1863年)より)

天気予報の開始

ところが彼は、8月からそれに強引に天気予報を加えた。これが物議を醸した。それまでの天気予報は占星術などを慣習的に用いたものであり、科学ではなかった。しかも、気象観測の結果を用いた予報のための法則や指針はなかった。当時気象学は、支援と研究に値するが、成熟した科学分野の確固たる基礎と信頼できる特徴を欠く学問分野、と見なされていた。王立協会のメンバーなど科学者たちはの、当時似非科学が人々に広まるのと戦っていた。フィッツロイによる予報も確固とした法則に基づいたものではなく、保守的な学者たちにとって政府から発表されるフィッツロイの予報は、高尚な科学への信望を損なう脅威と映った。

また当時、科学を実用に供することは必ずしも好ましいこととは考えられていなかった。科学は実用とは無関係に、独自の真理の探究に専念すべきと言う考え方もあった。ところが、暴風警報は、まさに科学の匂いのする実用技術、つまり気象工学だった。現状把握という事実に基づいて状況を知らせるという暴風警報は、「船舶に対する安全確保」という目的が明確になっていたものの、科学者たちの琴線には触れなかった。ましてや予報は科学を冒涜するものに近いと思われた。あらゆる機会を捉えたフィッツロイへの非難が始まった。

フィッツロイは、自身の天気予報がそれまでの占星術によるものと異なることを強調した。天気予報にドイツの気象学者ドーフェによる気流の衝突の理論を用いていることを示したり、従来の予測(プロバブル、プレディクションなど)の意味と異なることを示すために、新たに「フォアキャスト」という新語を作ったりした(これは現在は天気予報という意味で定着している)。彼は1863年の商務省気象局の報告書において、暴風雨警報と毎日の天気予報は同じ基盤に基づいており、一体のものであると述べた。

そして同年に、「ザ・ウェザー・ブック」という気象のためのガイドブックも発行した。これには「実用的な気象学の手引き」という副題が付いており、天気予報の初歩的な科学的根拠とそのための組織的な活動についての解説が含まれた斬新なものだった。これには寒気と暖気の境目で渦状の低気圧が発達するといった新しい考えも含まれていた。しかし、科学的な法則性が確立されていない予報は、利用可能な総観気象データを用いた、概念的な仮説と典型的な気象パターンによる経験的な知識を組み合わせた推論と見なされた[4]。結局、学者たちによる不信は拭いきれなかった。

フィッツロイは神経衰弱に陥り、18654月に自殺した。この原因はわかっていない。1859年にはダーウィンによる「種の起源」が出版されていた。敬虔なキリスト教徒だったフィッツロイは、親しかったダーウィンによる神を否定する進化論を受け入れることは出来なかった一方で、彼を同行者として受け入れた船長としての責任を感じていた。また、彼はビーグル号による探検費用とニュージーランド総督としての費用に私財を投じており、多額の借金があった。さらに日々の予報に対する責任、特に学者たちから指弾を受けないような完璧な予報を目指す重責があった[2]

天気予報と警報のその後

王立協会と商務省は、フィッツロイの死後に彼の仕事の調査を行うために、気象学者フランシス・ゴルトン卿を委員長とする委員会を立ち上げた。ゴルトン卿は高気圧などの用語を定義した気象学者であったが、後に統計学や優生学で著名な業績を上げたことで有名である。ただゴルトンとフィッツロイの間には以前から確執があったとされている[4]1866年にゴルトン委員会は報告書を提出した。この委員会は、暴風警報に対してはある程度成功していて、非常に重んじられたとみなした。しかし天気予報は、正確な法則もしくは事実からの十分な帰納的結論に基づいておらず、満足な状態ではないとした。委員会は、イギリスでの気象の研究は政府よりは科学的な組織による方が好ましいと結論した。

さらに商務省の官僚は、暴風警報について委員会と異なった意見を持っていた。この機会にフィッツロイの助手たちが続けていた予報と警報の発表は両方とも中止された。しかし、警報の中止に対しては、貿易商、漁民、海上保険業界から反対の声が起きた。警報は翌1867年から再開された。しかし、予報の再開は1879年からとなった。ただ、その間に何か予報技術の進歩があったわけではなかった。人々による予報の受け入れの方が変わったのかもしれない。

フィッツロイの予報に対する評価は一筋縄ではいかない。純科学的に見れば、フィッツロイの手法は、ゴルトン委員会の報告のように、十分な帰納的証拠に基づいたものではなかった。しかし、イギリスでの再開を始めとして日本を含む多くの国々は、後にフィッツロイと同じような科学的状況で天気予報を開始した。むしろフィッツロイは、予報や警報に対する観測の重要性を明確にしたとも言える。前線を用いたベルゲン学派気象学も詳細な観測の上に築かれたものである。究極的には、天気予報の考え方は数値予報が始まるまでフィッツロイの考え方の延長線上にあった、と言えるのかもしれない。

今日フィッツロイの名前は、パタゴニアの山、そしてニュージーランドの多くの通りの名前として生き続けている。 

(次は「クリミア戦争とルヴェリエ」)

参照文献

[1] 村上陽一郎(2000, 現在の科学を問う, 講談社現代新書.
[2] J. D. Cox (2013),
嵐の正体にせまった科学者たち(訳: 堤 之智)、丸善出版.
[3] Erick Brenstrum (2009), FitzRoy: Inventor of the weather forecast, New Zealand Geographic, issue 99.
[4] Huw C. Davies (2014), Setting, substance and scrutiny of FitzRoy's Weather Book, Weather, No.69, 2.

フィッツロイと天気予報(1)

    (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

概要

ロバート・フィッツロイ(1805-1865)はイギリス海軍の提督であり、気象学者でもある。彼については本書の「6-2-4 フィッツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報」で解説した。しかし、彼が行ったイギリスで初めての天気予報の位置づけについて少し補足しておきたい。

フィッツロイは1831年から1836年にかけて行われた「ビーグル号」の探検航海時の船長であり、多くの人々にとっては、後に「進化論」を提唱したダーウィンをこの探検航海に同行させたことの方が有名かもしれない。フィッツロイは、「フィッツロイと天気予報(2)」で述べるように商務省貿易委員会の気象統計官(後のイギリス気象局)として、船が観測した気象データの統計を行っていた。しかし1859年に、嵐によって大きな海難事故が起こったことで、暴風警報の発表を思い立った。

 彼は政府の事業として1861年に防災のための暴風警報の発表を開始した。しかしそれだけでなく、合わせて天気予報も発表するようになった。これは画期的なことだったが、当時の天気予報にはっきりした理論や法則があるわけではなく、科学界からは科学の信用を傷つけるものとして非難を浴びた。1865年に彼は自殺したがその理由はわかっていない。

ロバート・フィッツロイの写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Robert_Fitzroy.jpg

 

警報と天気予報が始まるまでの背景

19世紀初め頃までの科学は、ほとんどが純粋な真理の探究を目的としていた。しかし、19世紀中頃から技術の発展に伴って科学の実用性を探る人々が出来た。気象学でもその学究的な知識を実用的に適用できないかと考える人々が出てきた。

1830年頃からアメリカを中心に「暴風雨論争」が起こった。これは嵐の構造とその原因についてのものだった。この論争には、嵐からの被害を避けるという気象学の実用的な利用も関連するとともに、アメリカだけでなくヨーロッパにも影響を与えた。イギリス陸軍工兵隊のウィリアム・レイドは、カリブ海のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めた。この資料は暴風雨論争の当事者であるレッドフィールドに提供されて、レッドフィールドは嵐の研究を推進した。この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となって、嵐による遭難防止に貢献した。

またレッドフィールドはさらにハリケーンに関する研究を進め、その研究らは航海の安全に寄与した。マシュー・ペリー提督はそれを嵐による被害を軽減するものとして賞賛し、レッドフィールドの研究成果「太平洋のサイクロン」を日本遠征時の公式報告書の中に含めた (「ペリーとレッドフィールド」参照)。これらは実用に使える科学的な知識であるが、いわゆるリアルタイムでの防災情報とは異なっていた。

気象を広く実用的に用いるには、まずその観測が重要となる。米国のモーリーは、「気候学の歴史(2」で述べたように、1853年に海上での気象観測に関する初の国際会議をブリュッセルで開催した。ここでの合意により、海上での軍艦による気象観測が統一・標準化された。これに基づいた観測結果は、今でも地球温暖化問題などにおいて、当時の気象を知る重要な情報となっている。

さらに電信の発明が気象学を変えた。気象を観測しても、それまでの徒歩や馬車による郵便では気象の移動に追いつけなかった。そのため、気象観測は気候目的が主だった。ところが電信の発明によって、初めてほぼリアルタイムで各地の観測結果を1か所に収集できるようになった。

嵐でまず被害を受けるのは船舶である。そのため嵐が襲来したことを警報として進行先に周知する、という試みがオランダ、フランスなどいくつかの国で始まった。そして、その一つがイギリスだった。後述するように、イギリスで気象警報の音頭を取ったのがフィッツロイだった。

科学と実用気象学

気象警報や天気予報というのは、ある意味で気象工学である。工学という言葉は学問分野以外にもその技術の利用者がいるという意味で使っている。19世紀までの気象学を含む科学(自然科学)は、学問で閉じていた。つまり科学は真理の発見に重きを置いていた。科学による発見が有用であるかどうかは重要ではなく、そこに学問分野以外の人々が入り込むことは例外的だった。科学界の学者とは、自分たちの専門家集団の知識を評価し、それを利用してさらに探求を進めようとする人々である。科学評論家である村上陽一郎は、それを科学者集団の自己閉鎖性と自己充足性と呼んでいる [1]

近代産業技術は、19世紀に入って目覚しい発展を見せた。産業革命におけるが繊維産業だけでなく、蒸気機関などの機械、鉄鋼、化学合成などの産業技術が、19世紀末からは、通信、自動車、電力・電気産業もこれに加わった。しかしこれらはいわゆる工学であり、当時のアカデミックな科学とはあまり関係がなかった。工学はその分野の専門家以外の利用を前提としている。当時、そこが根本的に科学と工学の発想が異なる部分だった。近代技術を開拓して巨大企業の始祖となった人々、鉄鋼王カーネギー、自動車王フォード、発明王エディソン、電信の発明家モールス、自動車開発のパイオニアであるダイムラー、無線の発明家マルコーニなどが、アカデミックな専門教育を必ずしも受けていないことは、そのことを示している。

19世紀のそういう風潮の中で、電信という瞬時の情報伝達技術を利用して、科学を実用気象学として用いて人々に貢献したい、つまり科学(観測結果の解析)を用いた気象情報を人々の暮らしに直接役立たせようとした人々が出てきた。その一人がイギリス人のフィッツロイだった。フィッツロイが行った気象警報と天気予報について見てみる。

( 次は「フィッツロイと天気予報(2)」)

参照文献

[1] 村上陽一郎(2000, 現在の科学を問う, 講談社現代新書.