2019年4月6日土曜日

ウィリアム・ダインス(4)新たな風速計の開発 (William Dines 4: Development of a new anemometer)

ダインスは、風力調査委員会での調査を行いながら、1880年代後半から独自に圧力管風速計(Pressure Tube Anemometer, 以下ダインス風速計)の開発に取り組んだ。そしてその感部を1889年11月の風力調査委員会で発表した(Pike, 1989)。

風力調査委員会は、1891年に、さまざまな風速計の同時比較を開催した。その結果、1892年のイギリスの気象審議会(Meteorological Council)でダインス風速計の利用が推薦されることとなった(Pike, 1989)。それを受けて、1892年からムンロ社(Munro company)でダインス風速計の製造が開始された。

ダインス風速計の構造と原理は以下の通りである。屋外の風向計は水平な中空の管からなっており、その常に風向に向いた管(図のA)は風によって圧力を生じる(動圧)。一方、垂直の別な管の全周に空けた穴(図のS)によって基準となる圧力(静圧)も同時に取得する。屋内にある本体には密閉した水槽の中に釣り鐘状の浮子が水に浮かべられている。水槽の上部には静圧が、浮子の中には動圧がそれぞれパイプ(図のBとC)によって導入されて、風を受けるとその差圧に応じて浮子が上下する。その動きを自記記録装置で記録する仕組みになっている。浮子の形を工夫することによって、弱い風の時でもその変動を敏感に感応することができる。この風速計は電源が不要で機構も頑丈なので、砂漠など過酷な環境でも広く使われた(現在でも使われているところがあるようである)。
ダインス風速計の感部(Gold, 1936)より
ダインス風速計の本体と記録部(Gold, 1936)より
それまでの風車型風速計、風杯型風速計は回転する部分に慣性があるため、ガストなどの瞬間的な風の変動を捉えることは困難だった(現在はかなり改良されている)。ダインス風速計は、回転機構がなく短時間で変動する風速の変化を捉えることが可能であるため、この測定器は風の短時間変動を知ることができる革命的な測風法だった。イギリスの気象学者ゴールド(Ernest Gold)は「ダインスの気圧管風速計によって、風の構造のほぼ全容を知ることができた」と述べている(Gold, 1928)。彼はそのほかにも日射計、雨量計、乾湿計の開発・改良も行った。
つづく
 

 参照文献

  • Gold-1928-Obituary to W. H, Dines, FRS. Q. J. R. Meteorol. Soc., 54, 71-76.
  • Gold-1936-Wind in Britain, The Dines Anemometer and Some Notable Recorded  Using the Last 40 Years, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society,  62, 264, 167-206.
  • Pike-1989-One hundred years of the Dines pressure-tube anemometer, The Meteorolo ical Magazine, 118,1407, 209-214.

2019年4月4日木曜日

ウィリアム・ダインス(3)風速計の調査 (William Dines 3: Investigation for anemometer)

テイ鉄道橋の事故が起こった頃、イギリス気象局ではロビンソン式風杯型風速計が広く用いられており、風速は仮定された係数(3.1)によって補正されていた。しかし、ドイツのケッペンなど幾人かの気象学者は、異なる方式で測られた風速と大きな差があることを指摘していた(Pike, 2005)。

ダインスは、風杯型風速計ではガストのような瞬間的な風速を過小評価する一方で、平均風速を過大評価していると感じていた(Pike, 1989)。これが本の4-4「風力計・風速計」で述べるように、彼が圧力管風速計(pressure-tube anemometer)を開発する動機となった。
ロビンソン式4杯型風速計

風速計の調査

また父のジョージ・ダインズもこのテイ鉄道橋の事故によって、建築技術者として将来の構造物が耐風性についてどの程度の許容があるのかを正確に知る必要があると感じていた。ジョージは1887年に、ハーシャム(Hersham)にあった自宅の庭で、息子のウィリアム・ダインスと風速計の過大評価に関する実験を行い始めた。

まもなく父ジョージは亡くなったが、この実験は息子のウィリアムに引き継がれた。その結果、ロビンソン式風杯型風速計の係数は3よりは2.15に近いことがわかった(Pike, 2005)。これは、これまでの記録が実際の風速と圧力をほぼ3分の1ほど過大に評価している(つまりこれに耐え得た強度基準は過小評価になる)ことを意味した。

つづく
 

 参照文献

  • Pike-1989-One hundred years of the Dines pressure-tube anemometer, The Meteoroloical Magazine, 118,1407, 209-214.
  • Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927), Weather, 60, 308-315.


2019年4月2日火曜日

ウィリアム・ダインス(2)テイ鉄道橋大惨事について (William Dines 2: Tay bridge disaster)

1879年12月28日夕方に、強い低気圧がイギリス北部を横切る針路で北西ヨーロッパへ進んだ。午後7時頃、イギリスのスコットランド北東部のテイ湾にかかる全長3264 mを誇る当時世界最長の鉄道橋だったテイ鉄道橋(Tay bridge)は、この嵐によってちょうど橋を走行していた旅客列車もろとも海に崩落して大惨事となった。およそ75名がなくなったとされる。19時頃の気圧は982 hPa、風速は毎秒30~35 mと推定されている。ただ残った鉄骨の上向きに引きちぎれた状況から、竜巻が起こっていた可能性もあった(Burt, 2004)。なおテイ鉄道橋は1887年に再建され、それは現在でも使われている。
崩落する前のテイ鉄道橋

崩落したテイ鉄道橋

テイ鉄道橋の大惨事は、風が構造物へ及ぼす風圧の正確な測定に関する気象学的な議論と、その風圧に耐える設計に関する技術的な課題を提起した(Pike, 1989)。1885年6月に王立気象学会によって「風力調査委員会(Wind Force Committee)」が作られた。この大惨事とその後の風力に関する議論は、ダインスに風が構造物に与える圧力の影響に関する興味を再び抱かせた。彼はこの委員会のメンバーとして活躍し、それはまた彼自身の将来の方向性をも変えることとなった。

 (つづく

 参照文献

Burt-2004-The Great Storm and the fall of the first Tay Rail Bridge, Weather, 59, 12, 347-350.
Pike-1989-One hundred years of the Dines pressure-tube anemometer, The Meteorolo ical Magazine, 118,1407, 209-214.


2019年3月31日日曜日

ウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃 (William Dines 1: His family and young days)

イギリスの気象学者ウィリアム・ダインス(William Henry Dines, 1855-1927)は、気象測定器の優れた開発者であるとともに、それらを用いて得られた観測結果の解釈についての有名な気象学者である。しかし、彼の業績のイメージはあまり明確でないか、人によって異なっているかも知れない。それは本の4-4「風力計・風速計」8-2-5「異なる気流の接触という考え方の復活」に彼が出てくるように、彼の幅広い活動分野によって、彼の業績が絞りにくくなっているためかも知れない。しかし、彼の気象学における功績を大きく、ここでまとめてみたい。

ウィリアム・ダインス(William Henry Dines)

ダインスの家系

父のジョージ・ダインス
ウィリアム・ダインスの父ジョージ・ダインス(George Dines, 1812-1887)は優れた建築家であり、ロンドンで有名なレストラン、 ザ・トーマス・キュービット(The Thomas Cubitt)の建築などの主任建築士(Master Builder)を務めたり、英国王室の離宮であるオズボ-ン・ハウス(Osborne House)の建築に関わったりした。

しかし、建築物は気象の影響を受ける。信頼される建築物を作るためには、風や雨、湿度、結露などの建築物などへの影響を調べる必要があってか、父のジョージ・ダインスは気象の測定に強い関心があった。ジョージは、1864年にイギリスの王立気象学会のメンバーに選ばれており、「ロンドン地区の雨量(Rainfall of the London District) (1813-1872)」を出版した(Pike, 1987)

父ジョージ・ダインズの建築業は成功しており、ロンドンでいくつかの建物を所有していたため、これらからの安定した収入があった。これによって、父と息子のウィリアム・ダインスは、気象学に対する研究を熱心なアマチュアとして追い続けることができた(Pikes, 2005)。しかも、ウィリアムの子のうち、兄のLewen Henry George Dinesはケウ気象台(Kew Observatory)の技師となり、弟のJohn Somers Dinesはロンドン気象局の技師となった。大変珍しいことに、3代続いた気象学者の家系となった。


若い頃の経歴

ダインスは少年時代にはロンドン南西にあるウッドコート学校に学び、そこで数学に傑出した才能を示した。彼は有名なトリニティ・カレッジに進んだが、そこで彼独自のやり方を認めない数学教師と衝突したため、父は16才だった彼を自宅に戻した(Pikes, 2005)。

1873年から彼は南西鉄道会社の工場(The Nine Elm Works of the Southwestern Raiway)に見習エ(apprenticeship)として入社した。彼はそこで優れた製図技術を身につけ、後に彼がさまざまな革新的な気象測定器の設計図を作成する際に、それが大きく役に立つこととなった。また、彼はそこで風に興味を持ち、機関車のテスト走行時に彼が実際に乗って感じた風の速さや圧力の感覚は、後のテイ鉄道橋の大惨事後の風速の議論にも役に立った(Pikes, 2005)。

1877年にダインスは4年間勤めた鉄道技手を辞めて、ケンブリッジのコーパス・クリスティ大学(Corpus Christi College, Cambridge)の数学科に入学し、1881年に卒業した。彼はモーソン奨学金を受けるなど数学に才能を示したが、彼が在学中の1879年に起こったテイ鉄道橋の大惨事は、彼を気象学の道に進ませることとなった。

つづく

参照文献

Pike-1987- Master builder turned meteorologist; George Dines, 1872-1887, Weather, 42, 88-90
Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927),Weather, 60, 308-315.


2019年3月11日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(12)成層圏発見の意義

当時上空に行けば行くほど気温が下がることは、物理理論と高度10 km程度までの実際の観測から揺るぎない性質と考えられ、それを阻むようなメカニズムがあるとは考えられなかった。そういう中で、気温の低下が止まる成層圏の発見は、それまでの科学常識を打ち砕く意外な発見だった。イギリスの気象局長官で気象学の権威だったショー(Sir Napier Shaw)は、成層圏の発見を「気象学の歴史上最も驚くべき発見」と述べた(Shaw, 1926)。また、大気物理学者のグーディ(Richard Goody)は「テスラン・ド・ボールがきわめて難しい誤差を持つ観測から重大な発見を可能にした注意力は、その慎重かつ頻繁な測定によって、この観測を気象学の歴史の中で最もすばらしいものの一つにした。」と述べている(Goody, 1954)。

エクマン

しかしこの発見の与えた影響は気象学に止まらなかった。この地球上に特性の異なる同心円状の層があるという考え方は、気象学以外の分野にも広がっていった。スウェーデンの海洋学者エクマン(Vagn Ekman)は海洋の層状構造を発見し、クロアチアの気象学者モホロビチッチ(Andrija Mohorovičić)は、地殻の層状構造の存在を明確にした。これは「モホロビチッチ不連続面」と呼ばれている。

モホロビチッチ
モホロビチッチ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Andria_Mohorovicic.gif

さらに大気や海洋の層はその不連続面に沿って動くことから、ウェゲナー(Alfred Wegener)は大陸の地殻も長年かかって動くと考えて、1912年に「大陸移動説(continental drift theory)」を提唱した。しかしながら、当時はこの説は認知されなかった。本の11-5-2「IGYと南極観測」に書いたように、1950年代のIGYでの海底の観測などから1960年代にプレートテクトニクス理論が構築されてくると、ウェゲナーの大陸移動説が見直される結果となった。大陸移動説は、現在では地震を引き起こす原因の一つとして広く知られている。そういう意味では、成層圏の発見は気象学だけでなく、地球科学における発想の大きな転換点ともなった。

「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」はこれで終わる。19世紀において高層大気は地球の辺境の一つではあったが、そのおおまかな構造はそれまでの知識から明らかと考えられていた。しかし、自然は往々にしてそれまでの人間の常識を覆すことがある。高層に温度が高くなる層があるという成層圏の発見はそういったものの一つである。こういったことは「19世紀末の知識が不十分だったから起こっただけ」とは言い切れない。現代においても、自然に対する人間の知識は限られており、これまでの常識とは異なることが起こり得る。このブログの「地球環境の長期監視の重要性」で述べたオゾンホールの発見もその一つである。成層圏の発見はそういう意味でも、人間の自然に対する姿勢を問う教訓の一つとなるのではなかろうか。

(このシリーズおわり。次はウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃

参照文献

Goody, R. M., 1954: The physics of the stratosphere. Cambridge, University Press, 187 pp.
Shaw-1926-Manual of meteorology, Vol. I. Cambridge, University Press, 343 pp.