2019年4月4日木曜日

ウィリアム・ダインス(3)風速計の調査 (William Dines 3: Investigation for anemometer)

テイ鉄道橋の事故が起こった頃、イギリス気象局ではロビンソン式風杯型風速計が広く用いられており、風速は仮定された係数(3.1)によって補正されていた。しかし、ドイツのケッペンなど幾人かの気象学者は、異なる方式で測られた風速と大きな差があることを指摘していた(Pike, 2005)。

ダインスは、風杯型風速計ではガストのような瞬間的な風速を過小評価する一方で、平均風速を過大評価していると感じていた(Pike, 1989)。これが本の4-4「風力計・風速計」で述べるように、彼が圧力管風速計(pressure-tube anemometer)を開発する動機となった。
ロビンソン式4杯型風速計

風速計の調査

また父のジョージ・ダインズもこのテイ鉄道橋の事故によって、建築技術者として将来の構造物が耐風性についてどの程度の許容があるのかを正確に知る必要があると感じていた。ジョージは1887年に、ハーシャム(Hersham)にあった自宅の庭で、息子のウィリアム・ダインスと風速計の過大評価に関する実験を行い始めた。

まもなく父ジョージは亡くなったが、この実験は息子のウィリアムに引き継がれた。その結果、ロビンソン式風杯型風速計の係数は3よりは2.15に近いことがわかった(Pike, 2005)。これは、これまでの記録が実際の風速と圧力をほぼ3分の1ほど過大に評価している(つまりこれに耐え得た強度基準は過小評価になる)ことを意味した。

つづく
 

 参照文献

  • Pike-1989-One hundred years of the Dines pressure-tube anemometer, The Meteoroloical Magazine, 118,1407, 209-214.
  • Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927), Weather, 60, 308-315.


2019年4月2日火曜日

ウィリアム・ダインス(2)テイ鉄道橋大惨事について (William Dines 2: Tay bridge disaster)

1879年12月28日夕方に、強い低気圧がイギリス北部を横切る針路で北西ヨーロッパへ進んだ。午後7時頃、イギリスのスコットランド北東部のテイ湾にかかる全長3264 mを誇る当時世界最長の鉄道橋だったテイ鉄道橋(Tay bridge)は、この嵐によってちょうど橋を走行していた旅客列車もろとも海に崩落して大惨事となった。およそ75名がなくなったとされる。19時頃の気圧は982 hPa、風速は毎秒30~35 mと推定されている。ただ残った鉄骨の上向きに引きちぎれた状況から、竜巻が起こっていた可能性もあった(Burt, 2004)。なおテイ鉄道橋は1887年に再建され、それは現在でも使われている。
崩落する前のテイ鉄道橋

崩落したテイ鉄道橋

テイ鉄道橋の大惨事は、風が構造物へ及ぼす風圧の正確な測定に関する気象学的な議論と、その風圧に耐える設計に関する技術的な課題を提起した(Pike, 1989)。1885年6月に王立気象学会によって「風力調査委員会(Wind Force Committee)」が作られた。この大惨事とその後の風力に関する議論は、ダインスに風が構造物に与える圧力の影響に関する興味を再び抱かせた。彼はこの委員会のメンバーとして活躍し、それはまた彼自身の将来の方向性をも変えることとなった。

 (つづく

 参照文献

Burt-2004-The Great Storm and the fall of the first Tay Rail Bridge, Weather, 59, 12, 347-350.
Pike-1989-One hundred years of the Dines pressure-tube anemometer, The Meteorolo ical Magazine, 118,1407, 209-214.


2019年3月31日日曜日

ウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃 (William Dines 1: His family and young days)

イギリスの気象学者ウィリアム・ダインス(William Henry Dines, 1855-1927)は、気象測定器の優れた開発者であるとともに、それらを用いて得られた観測結果の解釈についての有名な気象学者である。しかし、彼の業績のイメージはあまり明確でないか、人によって異なっているかも知れない。それは本の4-4「風力計・風速計」8-2-5「異なる気流の接触という考え方の復活」に彼が出てくるように、彼の幅広い活動分野によって、彼の業績が絞りにくくなっているためかも知れない。しかし、彼の気象学における功績を大きく、ここでまとめてみたい。

ウィリアム・ダインス(William Henry Dines)

ダインスの家系

父のジョージ・ダインス
ウィリアム・ダインスの父ジョージ・ダインス(George Dines, 1812-1887)は優れた建築家であり、ロンドンで有名なレストラン、 ザ・トーマス・キュービット(The Thomas Cubitt)の建築などの主任建築士(Master Builder)を務めたり、英国王室の離宮であるオズボ-ン・ハウス(Osborne House)の建築に関わったりした。

しかし、建築物は気象の影響を受ける。信頼される建築物を作るためには、風や雨、湿度、結露などの建築物などへの影響を調べる必要があってか、父のジョージ・ダインスは気象の測定に強い関心があった。ジョージは、1864年にイギリスの王立気象学会のメンバーに選ばれており、「ロンドン地区の雨量(Rainfall of the London District) (1813-1872)」を出版した(Pike, 1987)

父ジョージ・ダインズの建築業は成功しており、ロンドンでいくつかの建物を所有していたため、これらからの安定した収入があった。これによって、父と息子のウィリアム・ダインスは、気象学に対する研究を熱心なアマチュアとして追い続けることができた(Pikes, 2005)。しかも、ウィリアムの子のうち、兄のLewen Henry George Dinesはケウ気象台(Kew Observatory)の技師となり、弟のJohn Somers Dinesはロンドン気象局の技師となった。大変珍しいことに、3代続いた気象学者の家系となった。


若い頃の経歴

ダインスは少年時代にはロンドン南西にあるウッドコート学校に学び、そこで数学に傑出した才能を示した。彼は有名なトリニティ・カレッジに進んだが、そこで彼独自のやり方を認めない数学教師と衝突したため、父は16才だった彼を自宅に戻した(Pikes, 2005)。

1873年から彼は南西鉄道会社の工場(The Nine Elm Works of the Southwestern Raiway)に見習エ(apprenticeship)として入社した。彼はそこで優れた製図技術を身につけ、後に彼がさまざまな革新的な気象測定器の設計図を作成する際に、それが大きく役に立つこととなった。また、彼はそこで風に興味を持ち、機関車のテスト走行時に彼が実際に乗って感じた風の速さや圧力の感覚は、後のテイ鉄道橋の大惨事後の風速の議論にも役に立った(Pikes, 2005)。

1877年にダインスは4年間勤めた鉄道技手を辞めて、ケンブリッジのコーパス・クリスティ大学(Corpus Christi College, Cambridge)の数学科に入学し、1881年に卒業した。彼はモーソン奨学金を受けるなど数学に才能を示したが、彼が在学中の1879年に起こったテイ鉄道橋の大惨事は、彼を気象学の道に進ませることとなった。

つづく

参照文献

Pike-1987- Master builder turned meteorologist; George Dines, 1872-1887, Weather, 42, 88-90
Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927),Weather, 60, 308-315.


2019年3月11日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(12)成層圏発見の意義

当時上空に行けば行くほど気温が下がることは、物理理論と高度10 km程度までの実際の観測から揺るぎない性質と考えられ、それを阻むようなメカニズムがあるとは考えられなかった。そういう中で、気温の低下が止まる成層圏の発見は、それまでの科学常識を打ち砕く意外な発見だった。イギリスの気象局長官で気象学の権威だったショー(Sir Napier Shaw)は、成層圏の発見を「気象学の歴史上最も驚くべき発見」と述べた(Shaw, 1926)。また、大気物理学者のグーディ(Richard Goody)は「テスラン・ド・ボールがきわめて難しい誤差を持つ観測から重大な発見を可能にした注意力は、その慎重かつ頻繁な測定によって、この観測を気象学の歴史の中で最もすばらしいものの一つにした。」と述べている(Goody, 1954)。

エクマン

しかしこの発見の与えた影響は気象学に止まらなかった。この地球上に特性の異なる同心円状の層があるという考え方は、気象学以外の分野にも広がっていった。スウェーデンの海洋学者エクマン(Vagn Ekman)は海洋の層状構造を発見し、クロアチアの気象学者モホロビチッチ(Andrija Mohorovičić)は、地殻の層状構造の存在を明確にした。これは「モホロビチッチ不連続面」と呼ばれている。

モホロビチッチ
モホロビチッチ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Andria_Mohorovicic.gif

さらに大気や海洋の層はその不連続面に沿って動くことから、ウェゲナー(Alfred Wegener)は大陸の地殻も長年かかって動くと考えて、1912年に「大陸移動説(continental drift theory)」を提唱した。しかしながら、当時はこの説は認知されなかった。本の11-5-2「IGYと南極観測」に書いたように、1950年代のIGYでの海底の観測などから1960年代にプレートテクトニクス理論が構築されてくると、ウェゲナーの大陸移動説が見直される結果となった。大陸移動説は、現在では地震を引き起こす原因の一つとして広く知られている。そういう意味では、成層圏の発見は気象学だけでなく、地球科学における発想の大きな転換点ともなった。

「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」はこれで終わる。19世紀において高層大気は地球の辺境の一つではあったが、そのおおまかな構造はそれまでの知識から明らかと考えられていた。しかし、自然は往々にしてそれまでの人間の常識を覆すことがある。高層に温度が高くなる層があるという成層圏の発見はそういったものの一つである。こういったことは「19世紀末の知識が不十分だったから起こっただけ」とは言い切れない。現代においても、自然に対する人間の知識は限られており、これまでの常識とは異なることが起こり得る。このブログの「地球環境の長期監視の重要性」で述べたオゾンホールの発見もその一つである。成層圏の発見はそういう意味でも、人間の自然に対する姿勢を問う教訓の一つとなるのではなかろうか。

(このシリーズおわり。次はウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃

参照文献

Goody, R. M., 1954: The physics of the stratosphere. Cambridge, University Press, 187 pp.
Shaw-1926-Manual of meteorology, Vol. I. Cambridge, University Press, 343 pp.

2019年3月9日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(11)成層圏の存在と原因の広がり

1902年のテスラン・ド・ボールの報告では、高層大気に等温だったり気温が高くなったりする層があるだけでなく、等温層が始まる高度が高気圧の周辺では高度12.5  kmであったが、低気圧の中心付近では高度10 kmまで下がることも示していた。しかし、そのような等温層がどの程度の規模でどの程度継続するのか、あるいはその成因は何なのかは謎だった。彼は1904年に、上空の等温層は季節によらず通年で存在していることを明らかにした。その後ヨーロッパ各地での観測により、等温層は狭い局所的な現象ではなく、ヨーロッパ中に広がっていることが確認された。

高層での等温層のさらなる確認のために、高層気象観測が世界規模で行われた。1903年にはベルソンらが極域で観測を行った。1904年にはロッチによってアメリカでも探測気球観測が行われて、高層での等温層の存在がアメリカでも確認された。1906/1907年にはヘルケゼルと海洋学者でもあったモナコ王子(アルベール1世)が北極圏内のスピッツベルゲンで観測を行った。1907年からテスラン・ド・ボールは、北極圏ラップランドのキルナで調査を行った(結果は彼の死後に出版された)。1909年にはヘルケゼルは熱帯のスマトラで高層気象観測を行った。同年にテスラン・ド・ボールは、等温層が始まる高度が夏季に高く冬季に低く、また高緯度より低緯度の方が高いことを発表した。これで、成層圏の世界規模での特徴がおおよそわかった(Hoinka, 1997)。


気温の鉛直分布(気象庁提供)
1906年のミラノでの第5回科学航空国際委員会で、ドイツのケッペンがこの高層気象分野の学問を「高層気象学(aerology)」と呼ぶことを提案し、この用語はただちに広まった。また、逆転層や等温層などとさまざまな名称で呼ばれていた成層圏も、テスラン・ド・ボールが1908年9月28日のドイツ気象学会の会合で「成層圏(stratosphere)」と命名したとされている。これはこの大気の温度構造が極めて安定した静力学平衡状態にあり、成層(stratification)している性質から名付けたものである。一方それより下の層は、同じくテスラン・ド・ボールによって、ギリシャ語の混合する層という意味の「対流圏(troposphere)」と命名された(Hoinka, 1997)。これから、雲などの顕著な大気現象は、対流圏内だけの限られた高度で起こっていることがわかった。

どうして上空に高温の層がある原因も謎だった。本の8-4-3「成層圏の発見」で述べたように、1909年にイギリスの気象学者ゴールド(Ernst Gold)とショーは、理論計算から二酸化炭素と水蒸気の放射・吸収から上空に温度が下がらない層がある可能性を指摘した(Gold and Shaw,  1909)。当時太陽スペクトルの観測や地上実験から、上空に二酸化炭素、水蒸気、オゾンの3つの気体が存在して太陽放射と地上からの長波放射を吸収することがわかっていたが、それらの鉛直分布はわからなかった。
つくば上空のオゾンの鉛直分布例
(気象庁提供)

二酸化炭素は高度100 km近くまで濃度はほぼ変わらず(それ以上では重力分離を起こす)、水蒸気は通常は地上近くに濃度のピークがある。本のコラム「成層圏オゾンの発見」で述べた観測から、現在ではオゾンの鉛直分布は高度20 kmから30 km付近にピークがあることがわかっている。実は上空の等温層に対するオゾンによる放射・吸収の影響も当時検討されていた(Gold and Shaw,  1909)が、鉛直分布がわからなかったため、オゾンの寄与は小さく見積もられた可能性がある。オゾンによって成層圏が暖まる理由とそれを引き起こす反応が一応わかったのは、1930年のイギリスの地球物理学者チャップマン(Sydney Chapman)による、酸素分子の光分解から始まる成層圏オゾンの光化学反応(チャップマン反応)の提案によってである。
チャップマン反応。Mは窒素などの第3の分子、hはプランク定数、νは波数、λは波長
この一連の反応での消滅と生成のバランスによって成層圏でオゾンが存在し、大気を暖めている。

つづく

参照文献
  • Gold and Shaw-1909-The isothermal layer of the atmosphere and atmospheric radiation. Proc. Roy. Soc. London (A) 82, 43-47.
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303