2020年7月17日金曜日

台風による第4艦隊事件 (2), The Fourth Fleet incident (2)

水雷戦隊の台風との遭遇 (Encounter of destroyer squadron with the typhoon)

 水雷戦隊(destroyer squadron)は、台風の中心が通過した本隊より東南東、つまり台風の危険半円内(dangerous semicircle)を航行しており、本隊とは若干状況が異なった。水雷戦隊は1200時頃から暴風雨となり、1400時頃には台風中心の東約200 kmと最も接近して風速は35 m/s近くに達した。1445時には風波が激しいだけでなく視程が悪化したため各艦は各隊ごとまたは単艦行動をとらざるを得なくなった。最大風速(maximum wind speed)は1500時に36 m/sを記録し、最大瞬間風速(wind gust)は45~50 m/sに達した[1]。

駆逐艦「夕霧」(Destroyer Yugiri)
駆逐艦「夕霧」(Destroyer Yugiri)

 1600時頃から風向が南東から南西の間で頻繁に変わるようになり、風速の変化も激しくなった。これは緯度が高くなるに従って台風周辺に前線が発生し、それが水雷戦隊付近を通過したためと考えられている。これが後述する三角波(Pyramidal wave)の原因の一つとなった。1602時頃には駆逐艦夕霧(Destroyer Yugiri)が3つの峰を持つ三角波に遭遇した。最初のものが右舷艦首に当たると次に中央最大のものが艦首から襲い、さらに左側のものが左舷艦首に衝突した。波高(wave height)は20mを超え、波長(wave length)は150~200m程度だった[1]。駆逐艦夕霧の艦首が破断され、艦の先端部3分の1がなくなった(a one-third leader of the ship was truncated)。艦首部分は漂流を続けていたが、翌朝に28名の乗員とともに沈没した。


 1620時には駆逐艦望月(Destroyer Mochizuki)の艦橋が波で破壊された(the bridge deck was wrecked)[1]。さらに1630時頃には駆逐艦睦月(destroyer Mutsuki)の艦橋が潰れて(the bridge deck was crushed)、艦長ら大勢が死傷した。水雷戦隊は、1700時頃には台風から300 km以上離れていたにもかかわらず、1729時に駆逐艦初雪(destroyer Hatsuyuki)は大波にぶつかって雷鳴のような音を立てて、船の艦橋より前の部分が切断された(the surge cut off the front part than the bridge deck of the ship with 24 crews)。切断された艦首部分は、24名の乗組員を乗せたまま転覆したがそのまま漂流した。旗艦である巡洋艦那智は、翌日艦首部分を何度か曳航しようとしたがワイヤが切れて失敗した。この艦首部分には通信室があり、その中には暗号書(code book)があった。このまま艦首がどこかに流れ着いて、暗号書が他国の手に入ることは避けねばならなかった。艦首部分は27日の夜に那智の砲撃によって沈められた。駆逐艦2隻が台風によって被害を受けたことは後に発表されたが、切断された艦首部分が那智によって沈められたことは秘匿された[2]。


 第4水雷戦隊の旗艦である巡洋艦那珂は、26日夕方に同隊の夕霧と初雪の相次ぐ遭難を受けて色を失った。沈没を防ぐための指示をすぐに出したものの、激しい風浪でなすすべがなくただ見守るしかなかった。初雪は波との衝突を避けるため、航行を止めて漂流しながら破断面からの海水の流入を防ぐ処理を行った。と同時に転覆を防ぐため、初雪は魚雷や砲弾、燃料など艦上の重量物を海に投棄した。他の多くの艦でも何らかの損傷を受けていた。夜になって波は収まってきたものの、濃霧が発生したため損傷艦に対する本格的な救助活動は翌朝まで行えなかった[2]。

Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.

2020年7月11日土曜日

台風による第4艦隊事件 (1), The Fourth fleet incident (1)

背景と主隊の台風との遭遇 (Background and encounter of main body of the fleet with the typhoon) 

 1935年に台風によって、航行中の艦隊の多くの艦が損傷するという大事故が起きた。これは気象に関連する単なる海難事故では終わらずに、多くの軍艦の設計や工法に関わる大問題となった。またこれは台風による海象の解明にもつながった。これについて説明しておきたい。 

 1935年は海軍にとって特別な年だった。1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約により日本を含めて主要国の軍艦の建造は制限されていた。この前年に日本は条約を破棄していた(制限は1936年まで有効)。当然国際的な緊張が高まることが予想されたため、海軍は大規模な艦隊演習(Fleet great maneuvers)を行うことにした。常設の第1艦隊、第2艦隊(青軍: Blue force, consisting of existing 1st and 2nd Fleet)を相手に演習を行うために41隻からなる臨時の第4艦隊(赤軍: Red force, consisting of tentative 4th Fleet)が編成された。演習は9月下旬に東北地方沖の西太平洋で行われることに決まった。 

 第4艦隊(The 4th fleet)は9月25日に函館を出航した。朝0600時に第3、第4水雷戦隊と第5駆逐隊からなる水雷戦隊(Destroyer squadron of the 4th Fleet including light cruisers)が先に出発し、第2、第5、第7、第9戦隊と第1航空戦隊からなる本隊(Main body of the 4th Fleet)は、1600時に函館を出港した。水雷戦隊は本隊の東南東約200 kmに位置した。それ以外にも潜水隊や補給隊があったが、ここでは触れない。 

 9月25日の気象通報では小笠原諸島(Ogasawara Islands)付近に台風(Typhoon)があった(日本海にも別な台風があった)。2200時の観測に基づいた2330時の気象報によると、台風の予想進路(predicted course of typhoon)は北北西(NNW)で日本本土に向かっており、第4艦隊は演習予定海域に影響はないと結論していた。 安心した艦隊は0000時の観測結果に基づく26日0150時の中央気象台の「台風は北北東に転向せんとす」となっていた気象報に注意を払わなかった。台風付近の船舶からの報告に基づいて0450時には中央気象台から警報(warning)が出されたが、艦隊がこれに気づいた記録も残っていない。

 26日0600時の観測結果に基づく0800時の気象報で、中央気象台は「中心気圧約960 hPaの大型台風が銚子沖を進路を北北東(NNE)に変えて速度50~60 km/hで進んでいる」ことを報じた[1]。艦隊は、この気象報でこのまま東へ進むと午後に台風と遭遇することを初めて知った。既に海は荒れて始めていた。 
台風の進路図。[1]をもとに作成
(The track of the typhoon in September, 1935)

 第4艦隊は一旦西へ待避することにし、それを各艦船に連絡しようとしている間に天候がさらに悪化した。視程が低下したため、多くの船が一斉に進路を変更すると、衝突や転覆などの事故が起きることも考えられた。一方で艦隊司令部は、台風内の航行経験も艦隊の技術向上になるという考えを持っていた。結局、艦隊司令官は予定通り航行することを命令した[2]。

 台風はその後時速70 km/h という猛スピードで北北東(NNE)に進んでいた。主隊周辺は昼頃から風速(wind speed) 25 m/sを超える猛烈な風となり、海は高さ8 mを超えるしぶきを伴う白波(white wave with spray)となった。1400時には風速32.5 m/sを観測し、最大波高(maximum wave height)は18 mに達した。この波によって空母龍驤(Carrier Ryujo)の飛行甲板下の艦橋が圧壊した。1430時前後には台風の眼(the eye of typhoon)が主隊付近を通過し、風はやや衰え青空も見えた。このとき龍驤は最低気圧957 hPa(718.2 mmHg)を観測した。

 その後再び風が激しくなり、最大風速34.5 m/sを記録し、三角波も現れ始めた。1500時頃には波高15 m以上の大波によって駆逐艦朝風(Destroyer Asakaze)の艦橋(bridge deck)が破壊された。巡洋艦妙高(Cruiser Myoko)の船体鋲接が弛緩し、同じく巡洋艦最上(Cruiser Mogami)の艦首部に亀裂が生じた。大波の状態は1600時頃まで続き、その後主隊付近では風は収まってきた[1]。

Reference(このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.

2020年7月5日日曜日

富士山における気象観測(8)富士山レーダーの完成後

 富士山レーダーは1964年10月1日に電波検査に合格し、1965年4月1日から正式運用が開始された。世界最高地点にある気象レーダーだった。同年8月には早速台風6517を上陸の3日前から捉えることに成功した。この富士山レーダーの完成を記念して、記念切手が発行された。富士山レーダーは「地形エコー除去(A new automatic technique for ground clutter rejection)」などの技術が開発されて、台風などの監視に大きな役割を果たした。

富士山レーダー完成記念切手

 富士山頂のレーダー建設の気象庁責任者藤原寛人は、その後気象庁を辞めて、新田次郎というペンネームで作家となった。彼はこのプロジェクトの詳細をノンフィクション小説「富士山頂」として発表した。これはレーダー建設のプロジェクトの主人公が作家本人であるという異色の小説となっている。

 山頂への送電線はたびたび雪崩で損傷し、その補修のためには高額の費用が必要だった。また施設維持のために人の滞在が欠かせず、3週間交代で山頂勤務が行われた。特に冬季は硬氷に覆われた山への登山には危険が伴った。1987年に静止気象衛星(ひまわり)が打ち上げられると、徐々にその役割は減少していき、富士山レーダーは1999年に運用が停止された。しかしその技術は評価されて、2000年には米国のIEEE(米国電気電子学会)からマイルストーンに選ばれた。

富士山における気象観測(完)

2020年6月29日月曜日

富士山における気象観測(7)レーダードームの設置

 2年目の作業は、1964年5月20日のブルドーザーによる除雪から始まった。ブルドーザ除雪時に山腹の砂礫を馴らして山頂までの道を作ったので、その後はブルドーザが材料を山頂に直接運ぶことができるようになった。 建物は7月末までにほぼ完成した。 機材は8月上旬から組立・設置された[1]。

 建設で最も困難だったのは、風速100 m/sを超える風からレーダーアンテナを保護するレーダードーム(直径9 mの半球形ドーム)の設置だった。 ドームは地上で組み立てられ、ヘリコプター(Sikorsky-S62)によって頂上でレーダードームの基礎に輸送および取り付けられることになっていた。

 レーダードームの重量は620kgあり、ヘリコプターの最大積載量を超えていた。そのため、空気が薄い山頂でのヘリコプターの操縦は一層困難となった。向かい風を浮力として利用する必要があったが、富士山の頂上ではしばしば乱気流が発生することがあり、ヘリコプターが乱気流に巻き込まれてクレーターに吸い込まれる事故が実際に発生していた。 したがって、関係する多くの担当者は、ヘリコプターによるレーダードーム基礎への取り付けを懸念を抱いていた。

 作業に都合の良い天気予報から、設置日は1964年8月15日と決まった。当日は晴天で好都合なことに微風があった。軽量化のためにヘリコプターはドアと副操縦席を取り外し、半球形のドームを吊り下げて山頂に近づいていった。ところが設置のための最後のホバーリングになって一瞬風が止んだ。それでも操縦士は巧みにヘリコプターを操縦して、レーダードームをぴたりと基礎の上に置くことに成功した[1]。 

富士山測候所の在りし日のレーダードーム

 ヘリコプターの操縦士は、第二次世界大戦中は海軍のパイロットだった。彼は戦争中に特攻作戦で戦地へ赴く多くの教え子を見送っていた。 偶然にもレーダードームの設置日は終戦記念日だった。 ヘリコプターの操縦士は教え子たちの死になんとか報いたいという気持ちがあった。レーダードームの設置の成功に成功した彼は、教え子たちの加護に感謝を捧げた[2]。

参照文献

[1]気象庁、 気象百年史II各種史談類第13章、 1975
[2]NHK、プロジェクトX挑戦者たち、巨大台風から日本を守れ、2000

2020年6月21日日曜日

富士山における気象観測(6)レーダー施設の建設

 予算の関係で、レーダー施設は2年間で完成させねばならなかった。しかも、レーダーの建設工事のために山頂で作業ができる期間は、山頂や雪や氷が少なく、比較的気候の穏やかな6月末~9月中旬までに限られた。しかも、強風などの悪天候時は作業ができないため、その期間をフルに使えるわけではなかった。とにかく、できるだけ短期間で完成させる必要があり、通常の建設の常識は通じなかった。

 レーダー建設工事における難題の一つは、多くの建設資材を山頂へ運ぶ方法だった。富士山では古くから資材や人の運搬に馬や強力(ごうりき:重い荷物を運ぶ人足)が使われていた。初めは九合目まで馬を利用し、それから先の急な勾配は、強力による輸送を計画した。しかし、それでは75 kg以上の重い荷物は運べなかった。そのためブルドーザを使うことが提案された。

 ブルドーザが急斜面に強いことはわかっていたが、平均斜度20度以上でかつ酸素が平地の7割以下になる富士山で使えるかは不明だった。ところが1962年に富士山の荷物を輸送していた馬方がブルドーザを試したところ、五合目まで登ることができた。ブルドーザを改良して、また専用の道を開削すれば更に上まで行けることがわかった。
富士山で使われているブルドーザ

 初年度の工事は、測候所建物の鉄骨の組み立てが予定され、雪解けが進んだ1963年6月から工事は始まった。建物の設計も難題の一つだった。それは山頂で想定される風速100 m/s以上に耐える必要があった。そのため建物は新幹線の車体を参考に設計され、輸送時の軽量化のため材料はアルミニウムで製造された。資材は山頂近くまでブルドーザで輸送され、残りは馬と人力で輸送された。短時問に作業を終える必要のある生コンクリートや大きく重い鉄骨はヘリコプターで運ばれた。

 作業員の多くは高山病に悩まされ、山頂での作業に音を上げるものも多かった。山を下った作業員の代わりは補充されたが、やはり高山病で下山する作業者が多く、その補充が繰り返された。[1]

参照文献

[1]気象庁、気象百年史II各種史談類第13章、1975