2024年7月25日木曜日

電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

ヨゼフ・ヘンリー(1797~1878)は有名な電磁気学の大家である。ニューヨーク州立大学の教授であり、1820年頃から電磁石の原型をつくって実験を繰り返していた。1830年にファラデ-より先に電磁誘導現象を発見していたが、その発見の栄誉は1831年のファラデ-の発表に譲っている。しかし、1832年に彼は電磁石の自己誘導現象を発見し、彼の功績を称えて、電磁誘導係数(インダクタンス)の単位はH(ヘンリー)になっている。

              ヨゼフ・ヘンリーの肖像

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Joseph_Henry_(1879).jpg

彼は、1835年には電信機の発達に不可欠な電気信号の増幅器(リレー)を発明した。その後、画家モールスによる電信機の研究を技術的に支援した。ヘンリーによる支援がなければ、モールスによる電信機の実用化は不可能だったかもしれない。ヘンリーは、電磁気に関する多くの発明を行ったが、それらを一切特許化せず、他の人間がこれらを使って製品化することを大いに援助した。彼の電磁気学における功績を記した本は多い。

ところが、彼は気象学においても忘れることが出来ない大きな功績を残している。ワシントンにスミソニアン協会が設立されることになったとき、その理事長に、世界の著名な科学者であるフランスのアラゴ、イギリスのファラデー、デイビッド・ブルースターなどがヘンリーを推した。1846年にヘンリーは、米国スミソニアン協会の理事長となった。

実は、彼は稲妻を含む電気の性質と大気の謎にも大なる興味を持っていた。彼は、若い頃にニューヨーク州立大学で気象データのとりまとめに携わった経験があり、気象について優れた理解力も持っていた。そして当時の米国での気象学における暴風雨論争にも関心を抱いていた。

彼はスミソニアン協会の理事長になった際に次のように述べている[1]。

我々は新しく興味深い結果が必ず期待できる観測に、十分な科学的精度で我々の注意を向けることができる。北アメリカ大陸を覆う可能な限り広い観測システムを設立することを提案する。

スミソニアン協会は、気象学に関する二つのプログラムを立ち上げた。一つ目のプログラムは、観測者たちによる大陸規模の気象観測ネットワークの設立だった。この観測者たち(スミソニアン オブザーバーと呼ばれた)は、毎日気象観測を記録して毎月ワシントンのスミソニアン協会宛てに郵送した。

これには生物季節情報も含まれており、当時西へ西への拡大しつつあったアメリカ合衆国領土の地誌解明にも貢献した。

二つ目のプログラムとして、彼は1849年に米国国内の電報交換手たちからなる気象情報ネットワークを立ち上げた。彼は、電信による即時的な情報伝達における、気象学への意義を正確に理解していた。

電報交換手たちは現地の気象を電信を使って報告し、それはスミソニアン協会本部にリアルタイムで集められた。スミソニアン協会のロビーには、国内各地の現在の気象状況を表している大きな地図が展示された。これは、現在のナウキャストの原型ともいえる。

この展示物はスミソニアン協会来訪者たちの評判となった。ヘンリーはこの気象状況を見て、嵐になりそうな場合は自身の講演を中止したりしている。後にこの天気概況図はワシントンの新聞に掲載された。

ヨーロッパでは、パリ天文台のルヴェリエが、初めて電信を用いて各地の気象報告の発行を開始したのが1856年だった。それと比べると米国でのヘンリーの先進性がよくわかる。

しかし1861年から始まった南北戦争によって、電報交換手たちが出征したり、南北間の電線が切断されたりしたため、スミソニアン協会による気象ネットワークは、中断した。さらに1865年には、スミソニアン協会本部で壊滅的な火災が発生し、貴重な較正機材や記録が消失した。また、その凝った装飾の建物を修復するための費用によって、この気象プログラムの再建は困難になった。

スミソニアン協会本部の建物 

https://commons.wikimedia.org/wiki/Smithsonian_Institution_Building?uselang=ja#/media/File:Smithsonian_Institute,_New_York,_America._Coloured_steel_eng_Wellcome_V0014025.jpg

スミソニアン協会による気象ネットワークが再開されることはなかった。しばらくの中断の後、アメリカの気象ネットワークは、1871年に米国陸軍の通信部内で国営事業として新たに設立された。その事業を軌道に乗せたのは元シンシナティ天文台長だったクリーブランド・アッベだった。

このアッベの優れた指導の元で、米国の気象事業は大いに発展していく。しかし、その基礎を築いたのは、ヨゼフ・ヘンリーといえるかもしれない。

 参照文献

[1]Cox, J. D. (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.

 

2024年7月6日土曜日

フェーン現象の解明

最近、異常高温になると、「フェーン現象により」などの解説がなされることがある。昔からフェーン現象という言葉は使われてきたが、最近は昔より聞く機会が多くなったようである。

フェーンの語源は、ギリシャ語のファヴォニウスとも言われており、意味は暖かい西風だった[1]。このように、フェーンはある種の風を指す言葉である。ドイツ南部などでは、ときおりアルプスから高温の乾燥した南風が吹き下ろすことがあり、この風は昔からフェーンと呼ばれていた。

本書の「8-1-3 フェーンの解明」で解説しているように、フェーンを有名にした事件は、1704年に起こった。1月28日にスイス軍が、ミュンヘンの約60 km南にあるベネディクトボイアーン修道院を攻撃しようとした。冬季であり修道院へ続く沼地は凍っており、進軍を容易にしていた。

ところが、スイス軍が進軍を開始した正午頃から、フェーンによる高温の南風が吹き始めた。沼の氷が急速に溶けてぬかるんで、兵士たちが足をとられるようになったため、スイス軍は修道院の攻撃を断念した。この修道院を守った高温のフェーンは、聖アナスタシアの祝祭日の前日に起こったため、「アナスタシアの奇跡」と呼ばれて知られることとなった。

19世紀後半まで、どうして高温で乾燥したフェーンが吹くのかは謎だった。フェーン現象の仕組みを解明したのは、オーストリアの有名な気象学者ユリウス・ハンである。彼は幼い頃から身近にフェーン現象を経験してよく知っていた。彼はグリーンランドで起こる似たような高温の風について、その付近に熱源がないことに注目した。このこととヨーロッパでのフェーン現象を熱力的に吟味して、彼は1866年に、フェーン現象は風がアルプスを吹き下ろす際に断熱圧縮されて高温になって乾燥したもの、と結論した。

また総観気象の調査から、アルプス南方に高気圧、ヨーロッパ北部に低気圧があってアルプス南斜面で雨が降っているような時にフェーンが起こることもわかった。これらの一貫した説明から、フェーンの原因は、アルプス南斜面で上昇した空気が降雨によって潜熱を放出して乾燥して暖められ、北斜面に到達して下降する際に断熱圧縮によりさらに気温が上昇するため、であることがわかった。この考え方は、当時確立され始めた熱力学の、気象学における有用性を示すものだった。

風によって山に沿って空気が上昇すると、断熱膨張によって冷却され、尾根を越えると下降して断熱圧縮によって加熱される。しかしこれでは、原理的には風下の気温は風上の気温と同じである。しかしながら、フェーン現象では、上昇時の断熱膨張によって水蒸気が凝結して雲や雨となって潜熱を放出するため、下降すると風下では風上より気温が上昇する。

雲を伴いながら山頂を越えてフェーンが吹き下ろすと、山の風下側では上空の雲が切れて青空になることがある。ヨーロッパでは、これを「フェーンの穴」と呼ぶことがある。また下降流となって雲が切れる山脈の尾根の上には、雲が断崖のように連なることがある。これを「フェーンの壁」と呼ぶことがある。地上に降りてきた風は反動で上空へ跳ね返ることがあり、そうすると上空で上下する波となって、高積雲と青空が交互に線状に現れることもある[1]。

フェーンの壁(スペイン、カナリア諸島のラ・パルマ島)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_Palma_-_El_Paso_-_Cumbre_Nueva%2BFoehn_(Mirador_Llano_del_Jable)_01_ies.jpg

冬季の暖かいフェーンは、雪解けを早めたりして農業に有用なこともあるが、乾燥しているので、大火をもたらすこともある。もちろん、夏季のフェーンによる異常高温は、熱中症などの多発をもたらす。

上述したように、フェーン現象による高温は、風上での潜熱放出が原因と考えられていたが、近年は変わってきている。低層の空気が山を越えるより、むしろ上層の空気が山に沿ってそのまま風下に吹き下ろす場合がある。上空の大気は、一般に温位が高いので、地上に降りてくると高温になる。これは風上での降水を伴わない。このタイプのフェーン現象が日本では8割を占めるという研究もある[2]。

(次は電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学

参照文献

[1] 吉野正敏、風と人びと、東京大学出版会、1999.
[2] Kusaka et al., Japan's south foehn on the Toyama Plain: Dynamical or thermodynamical mechanisms?, International Journal of Climatology, 2021, https://doi.org/10.1002/joc.7133

2024年7月2日火曜日

雨が降るメカニズム

 雨が降るためには水蒸気が必要になる。そのため、最近は豪雨になると気象学の歴史から見た大気の川」で解説したような、水蒸気がどこそこから流れ込んでという解説がよくなされる。では、水蒸気の多さが豪雨の原因の全てかというと、事はそう簡単ではない。

歴史的に見ると、19世紀頃から雲粒の生成については凝結によることがわかっていた。しかし、雲粒同士の衝突だけでは、落下するほど大きな雨滴になるには相当な時間が必要となり、簡単には雨滴にならない。落下するほど大きな雨滴が、雲の中でどうやってできるのかは、1930年頃まで謎だった。

この謎を最初に解いた一人は、ノルウェーのベルゲン学派の気象学者、トル・ベルシェロンだった。彼は、幼い頃から雲のような気象要素の綿密で巧みな観察が得意だった。

ベルシェロンは保養のためによく訪れたオスロ近くの山腹で、1922 年にモミの森の散歩道を何度か歩いている間に、気温によって霧のパターンが異なることに気がついた。暖かかった時は、霧は散歩道の路面一帯に立ち込めていたのに、気温が氷点より十分に下がると、霧が晴れて路面がはっきり見えた。

彼はすぐにこの理由に対する仮説を思いついた。それは風上にあったモミの木の枝に付いていた霧氷が、-10℃程度の十分に低い気温下で水蒸気を吸収してしまったのではないかということだった。その結果、風下の散歩道では湿度が下がり、霧の液滴が蒸発して霧が晴れたのではないかというものだった。

ベルシェロンが考えた低温下で霧が晴れるメカニズムの模式図。
上が温かい場合、下が寒い場合

彼は、この考えを発展させて、雲の中で雨滴ができるメカニズムを考察した。それは水と氷の飽和蒸気圧の違いによって、十分に寒い高度にある雲では、雲粒から水蒸気が蒸発して氷晶核の方に付着する。こうやって氷晶核が十分に大きくなると落下し始める。これが暖かい大気層まで落下すると、溶けて雨滴となる、というものだった。

彼は、1933年のリスボンの国際測地学・地球物理学連合の会合でこの説を発表した。この氷晶核による雨滴の生成理論は、ベルシェロン過程(またはベルシェロン・フィンダイセンの説)とも呼ばれている[1]。この説はその後の飛行機による観測などによって確かめられ、中・高緯度の並雨以上の強さの雨の機構を説明するものとして広く受け入れられた。また人工降雨実験のための科学的な根拠となっている。

つまり、この説によると、雨が降るためには水蒸気だけではなく、雨滴の核となる氷晶核を作る固体の微粒子も必要となる。この微粒子には地表からのダスト、海からの海塩粒子、大気汚染(二酸化硫黄)からの硫酸粒子などがある。最近はこれらに加えて、微生物が生成する微粒子も関係しているのではないかとも言われている。

降雨のメカニズム(気象庁、数値予報解説資料、第4章、2012)
ベルシェロン過程は、主に中高緯度での右側の流れを解説している。雲氷は融解して左側に移って雨となる。下層が冷たければ、そのまま雪や霰として落下する。

(次は「フェーン現象の解明」)

参考文献

[1] J. D. Cox, (訳)堤 之智、嵐の正体に迫った科学者たち、丸善出版、2013.