2021年7月8日木曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(2)

2. 第二期第一次キスカ島撤収作戦

2.1 作戦計画

6月11日に第一水雷戦隊司令官として木村昌福少将が着任した。彼は温厚だが果断な人物であり、南洋ソロモン諸島での諸作戦に参加して実戦の経験は豊富だった。さまざまな検討が重ねられた結果、この任務には収容隊として軽巡洋艦「木曽」、「阿武隈」、駆逐艦「響」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」、「朝雲」、「薄雲」、警戒隊として駆逐艦「島風」、「五月雨」、「長波」、「若葉」、「初霜」、それに補給隊として油槽船「日本丸」と海防艦「国後」、応急収容隊として特設巡洋艦「粟田丸」が割り当てられた [1, p607]。その他に潜水艦11隻が偵察や哨戒、気象通報に参加した。

木村昌福少将
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kimura_Masatomi.jpg?uselang=ja

迅速な収容と万一の海戦に備えて、海軍は撤収する際に兵士は小銃を携行しないように要請した。また、アメリカ軍の巡洋艦に偽装するため、軽巡洋艦の3本煙突の一つを白塗りにして2本煙突に見えるようにした [1, p614]。また、軽巡洋艦「阿武隈」、「木曽」には効果的な対空兵器がないので、陸軍の7 cm野戦高射砲を仮設装備した [1, p614]。

この作戦は、敵に見つからないように霧を利用しながらも、霧が濃いと艦隊の航行に支障を来すという矛盾した側面を抱えていた。そのため、第一水雷戦隊に気象士官が配置された [1, p614]。軽巡洋艦の「阿武隈」と「木曽」には2号1型電探が装備されていたが、見張りの代わりに使えるだけで、射撃用の距離測定はできなかった [3, p315]。木村司令官の要望で距離測定ができる最新の2号2型電探を装備した新造の駆逐艦「島風」が、7月1日付けで第五艦隊の第一水雷戦隊に編入された [1, p614]。一方で、超短波用の逆探が全艦に装備されたが [1, p614]、アメリカ軍が1942年秋から装備していた極超短波を用いた新型SGレーダーには応答しない可能性が高かった [4, p97-98]。

駆逐艦「島風」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimakaze.jpg


2.2 作戦のための霧予報

この作戦を成功させるためには3日以上先のキスカ島の霧の発生の予報が必要だった。この霧予報の重大な責任を負ったのは、中央気象台附属気象技術官養成所出身で、まだ22歳の第五艦隊気象長竹永一雄海軍少尉だった。

気象予報のためにはまず北太平洋高緯度での気象観測データが必要だった。また、幌筵に停泊している船舶にもアリューシャン列島の霧の特徴を尋ねた。

気象データを入手できても、霧の予報を出すには予報手法を新たに開発しなければならなかった。彼は艦隊旗艦「那智」がアッツ島沖海戦で損傷したため第五艦隊司令部が移された「摩耶」が、4月に横須賀に回航された際に、霧予報のための調査を命じられた。彼は過去に船舶によって行われた北太平洋の気象観測の結果や神戸の海洋気象台が発行していた北太平洋天気図を用いて霧の予報手法のための調査を行った [5, p7]。彼が苦心のすえまとめたアリューシャン列島西部の海霧予報のための法則は次のようなものであった [6, p6]。

  1. 北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカ島が霧になる確率は9割以上である。
  2. 霧は低気圧の接近によって発生し、その通過後に晴れる。
  3. 霧が発生する時の風速は5~7 m/sが最も多く、風が弱いときは霧は少ない。
  4. 気温より水温が2℃以上高いと霧が発生しやすい。
  5. キスカの霧の季節は6月下旬から7月上旬までの間で、7月下旬になると霧の発生は減少する。

1.は「プラス2セオリー」と呼ばれた。なお4.は2.の低気圧接近時の南風との整合性を考えると、夏の時期は「気温より水温が2℃以上低い(気温が水温より2℃以上高い)」とする方が妥当と思われる。ただ霧はどちらの条件でも発生する可能性はある。

2.3 作戦の経過

第五艦隊では、キスカ島付近は7月10日夕方から霧が濃くなり、11日は霧または霧雨、12日は霧は少なくなると予想した。この予報に従って、第一水雷戦隊は11日を撤収予定日として7月7日に幌筵を出港した。

7月11日~12日

第一水雷戦隊では11日には高気圧が発達して霧が消えると予想し、途中海域で待機しながら突入を13日に延期した。実際に11日はキスカ島付近の天候は曇りだが視程は10~15 kmあり、夕方にはアメリカ軍の駆逐艦隊がキスカ島を砲撃した。キスカ島では作戦延期の知らせが十分でなく、沖合に見えたアメリカ艦隊に向かって発光信号を送ったり、誘導電波を送ったりなどの混乱が起こった [7, p336]。

第一水雷戦隊では突入を延期した13日の天候を、午後から霧が深くなるが低気圧の動きが遅ければ霧の発生は夜になると予測した。またアメリカ艦隊の警戒を厳重と見なして、突入を14日に延期した。この時期の第一水雷戦隊の天候判断は、第五艦隊司令部や第五十一根拠地隊の判断と異なっており、全般的にきわめて慎重であった [1, p617]。第一水雷戦隊が待機していた海域は終始晴れており、心理的に第一水雷戦隊の突入を難しくしたかもしれない。

7月13日~14日

キスカ島の第五十一根拠地隊の14日の予報は雨または霧で15日の夕刻より天候が回復するというものだった。しかし第一水雷戦隊は、戦隊付近の高気圧がそのままキスカ島付近へ向かうため14日も薄い霧程度で視界は良好と予測し、突入を15日に延期していったん反転した [1, p617]。ところがその後低気圧が東進してきたため、2100時に第一水雷戦隊の翌日14日の予報を予報を悪天に変えて、突入を14日に戻した [1, p618]。

しかしながら14日0125時になって、キスカ島での撤収作業が高波で困難であることが予想されたため、やはり突入を15日に延期した。実際のところ14日はキスカ島付近の天候は悪かったが、アメリカ艦隊がキスカ島のすぐ東方で行動していた [2, p483]。第一水雷戦隊は15日の突入を目指して、折しも発生した濃霧の中を14日1450時にキスカ島へと針路を向けた [1, p618]。

7月15日

低気圧は予想より早くキスカ島付近を通過し、15日0300時には曇りだが視程は10 km程度に回復した。さらに0600時の気象状況を待ったが、第一水雷戦隊付近では晴れ間もあり、視程は20~30 kmあった [1, p619]。キスカ島到着予定は1500時であったが、キスカ島での天候はさらに回復することが想定された。既に敵機の哨戒圏内であり、退避して再び待機することは燃料不足のため無理だった。0905時に第一水雷戦隊は撤収作戦を断念した [1, p619]。連合艦隊司令部は1521時に第五艦隊に決行の要望電を発信したが、結局撤収は中止となった [3, p318]。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988. 
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.

2021年7月6日火曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(1)

第二次世界大戦において、日本軍がキスカ島からの撤退に成功したのには気象が大きく関係している。 それについて述べたいと思う。キスカ島からの撤退に至る前後のことについては、姉妹ブログである「アリューシャンでの戦い」に詳しく書いたので、そちらを参照して欲しい。

1. 第一期キスカ島撤収作戦

連合国軍のアッツ島上陸により、日本軍はキスカ島の将兵約5600名を救出する必要に迫られた。聯合艦隊は北方を守る第五艦隊に対して1943年5月29日にキスカ島からの撤退である「ケ」号作戦を開始するように下令した。ガダルカナル島からの撤退作戦は「ケ」号作戦とされたが、キスカ島からの撤退作戦も同じ名称が付けられた。

しかしキスカ島は連合国軍の航空機、哨戒艇、潜水艦によって四方から厳重に封鎖されていた。そのため、「ケ」号作戦は主に潜水艦を使用してキスカ島の守備隊を撤収させるものだった [1, p565]。しかし、それでは全員の撤収には9月末までかかると考えられ、諸状況を考慮すれば、半分撤収できれば良い方と考えられた [2, p468]。

キスカ島近くのセグラ島を飛行するPBYカタリナ飛行艇
https://ww2db.com/image.php?image_id=17307

北方部隊潜水部隊は、作戦発令前の5月27日から潜水艦を使って、まず傷病者と軍属のキスカ島からの撤収を開始した。「ケ」号作戦には13隻の潜水艦が参加した。6月9日までに6回の撤収が無事に成功し、1回の救出数は60~80名と効率が悪かったものの、潜水艦を用いた撤収は順調に進むかのように見えた。

実は、この時期のアメリカ艦隊はアッツ島の作戦が一段落したため、基地へ戻って補給を行っていた。しかし6月10日頃になると、アメリカ軍によるキスカ島付近の哨戒網が再構築された。アメリカ軍の攻撃を受けて潜水艦「伊二十四」が6月11日に、そして潜水艦「伊九」が14日に消息不明となった。それらの被害を受けて「ケ」号作戦は中断された。

潜水艦を用いた撤収は、6月18日に4隻の潜水艦を用いて再開された。21日に最初にキスカ島の七夕湾に進入しようとした潜水艦「伊七」は、駆逐艦「モナハン」から霧の中でレーダーによる砲撃を受けた。砲弾が艦橋に命中して司令と艦長が戦死し、潜航不能となった。同艦は旭岬に擱座して応急修理を行った。翌日に応急修理を終え濃霧の中を横須賀に向かおうとしたところ、再び同駆逐艦からレーダー射撃を受けたためキスカ島へ戻ろうとしたが、被弾によって浸水が激しく付近の岩礁に擱座するに至った[1, p580]。この戦闘で乗組員80名が戦死し、同艦は後日暗号書とともに爆破された。

これにより23日に「ケ」号作戦のいったん中止が指令された。結局6月18日までに潜水艦でキスカ島からの撤収に成功したのは、主に軍属や傷病者の872名だった [1, p574]。

潜水艦「伊七」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Japanese_submarine_I-7_in_1937.jpg

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.

2021年5月21日金曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(9)

 7. 南方振動のその後

ウォーカーが南方振動を発見した当時、その気圧振動はなぜ起こるかがわからない不思議な現象として扱われ、それ以上の研究は進まなかった。一方で、ペルー沖では毎年クリスマスの頃になると北から(赤道付近から)暖流が流れてくることが知られており、この暖流によって漁が休みになることから、沿岸の漁民はこの暖流が起こる現象を「エルニーニョ (El Niño)」と呼んでいた。ところが数年に一度、これが大規模に起こることによって、不漁が長期にわたって起こることがあった。これは現在エルニーニョ現象と呼ばれることがある。20世紀半ばまで、これは南米太平洋岸だけの特殊な海洋現象と思われていた。

本の「11-5-3 エルニーニョと南方振動の発見」に書いたように、オランダの研究者ベルラーヘ・ジュニアは、ジャカルタで南方振動の研究を行っていた。1926年に東京で開催された第3回太平洋科学会議(Pacific Science Congress)をきっかけに、彼はエルニーニョの影響を強く受ける南米の気象観測データを手に入れることが出来た。
彼は1957年にそのデータを手元の南方振動のデータと見比べて、エルニーニョと南方振動が極めて高い相関を持っていることを発見した。これで海洋現象であるエルニーニョと大気現象である南方振動が同一の現象であり、それぞれがその異なった側面を見ていることが明らかになった。


1957~1958 年に、ちょうど大規模なエルニーニョが発生した。この時、国際地球観測年(IGY)によって、地球規模で広範囲な気象と海洋の観測が行われていた。この時の観測によって、エルニーニョが南米沿岸だけの現象ではなく、中部太平洋にまで及ぶ広範な現象であることがわかった。

 

エルニーニョの例(1997年11月の月平均海面水温平年偏差)(気象庁ウェブサイトより)
(https://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/data/elnino/learning/faq/whatiselnino.html)

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教授だったヤコブ・ビヤクネスは、この時の太平洋域の観測データを解析した。1963~64 年と1965~66 年のエルニーニョ現象での結果も確認して、1969年にそのメカニズムを発表した。彼はエルニーニョと南方振動に密接に関連した赤道上空の東西風の流れを「ウォーカー循環」と名付けて、それが起こるメカニズムについてこう述べている。

「ウォーカー循環の下で気圧傾度が大きくなると、赤道東風の増加とそれによる海洋湧昇の増加により、赤道太平洋東西間の温度コントラストが大きくなる。この連鎖反応は、ウォーカー循環を強めて、ウォーカー循環の原因となる東西の温度コントラストもさらに大きくなる。ウォーカー循環の強まりとそれに対応する南方振動の関係は、おそらくそのように影響している。他方、ウォーカー循環が弱くなると、赤道での東風の弱まりは海洋湧昇を弱めるために、赤道の東部太平洋はいつもより暖かくなって、その上の大気に熱を提供する。この熱はウォーカー循環の中で東西温度コントラストを小さくして、その循環を弱めることになる。しかし、この変化がどうやって起こるのかはまだ明らかでない。」 [17]。

エルニーニョ現象に伴う太平洋熱帯域の大気と海洋の変動。海面上の東風がウォーカー循環の一部をなしている(気象庁ウェブサイトより)
https://www.data.jma.go.jp/cpd/data/elnino/learning/faq/whatiselnino.html

この海洋と大気が一体となって起きる世界規模の現象は、1983年にエルニーニョ・南方振動(ENSO)と命名された。本来は世界の異常気象の予兆を示す南方振動であったが、現在ではENSOはむしろ世界各地での異常気象の起こりやすさの指標のような使われ方をすることも多い。そしてウォーカーが指摘した「南方振動がその後の世界規模の多くの気象との有意な相関関係を持っている」という特徴は、ある地域の気象が遠くの気象と関連している「テレコネクション」と呼ばれる気候の新たな研究分野となっている。

さらに気象の大規模な振動現象について、南方振動をきっかけとして現在では北極振動太平洋十年規模振動大西洋数十年規模振動など、さまざまな新たな振動が見つかっている。南方振動はかつてはなぜかよく分からない現象として、長い間ごく一部の専門家以外が取り上げることはなかったが、今日ではウォーカーが述べたように世界的な規模を持った気象として、それにふさわしい関心と評価を受けているようである。


(このシリーズ終わり:次は「キスカ島撤収-「ケ」号作戦(1)」)

参考文献(このシリーズ共通)

[1] Taylor I.G., 1962: Gilbert Thomas Walker. 1868-1958. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, The Royal Society, 8, 166-174.
[2] Walker M.J., 1997: Pen Portrait of Sir Gilbert Walker, CSI, MA, SCD, FRS. Weather, Royal Meteorological Society, 52, 217-220.
[3] Walker T.G., 1901: boomerangs. Nature, Nature Publishing Group, 64, 338-340.
[4] 田家康, 2011: 世界史を変えた異常気象, 日本経済新聞社.
[5] Normand C., 1953: Monsoon seasonal forecasting. Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, Royal Meteorological Society, 79, 463-473.
[6] Pisharoty R.P., 1990: Sir Gilbert Walker-pioneer meteorologist and versatile scientist. CURRENT SCIENCE, Current Science Association, 59, 121-122.
[7] Walker T.G., 1923: Correlation in seasonal variations of weather. VIII. A preliminary study of world-weather. Memoirs of the Indian Meteorological Department, Indian Meteorological Department, 24, 75-131.
[8] Hildebrandsson H.H., 1897: Quelques recherches sur les entres d'action de l'atmosphere. Kongl. Svenska vetenskaps-akademiens handlingar, P.A. Norstedt & s?ner, 29, 33pp.
[9] Lockyer J. N. and Lockyer W. J. S., 1903: On the similarity of the short-period pressure variation over large areas. Royal Society of London, Proceedings of The Royal Society, 71, p467-476.
[10] Katz W. R., 2002: Sir Gilbert Walker and a Connection between El Nino and Statistics, Institute of Mathematical Statistics, Statistical Science, 17, p97-112.
[11] Walker T. G., 1924: Correlation in seasonal variations of weather. IX. A further study of world weather. Indian Meteorological Department, Memoirs of the Indian Meteorological Department, 24, p275-332.
[12] Walker T. G., 1933: Seasonal Weather and its Prediction, Nature Publishing Group, Nature, November 25, p805-808.
[13] Walker T. G., 1918: Correlation in seasonal variations of weather, Royal Meteorological Society, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 44, p223-224.
[14] Walker T. G., 1925: On periodicity, Royal Meteorological Society, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 51, p337-346.
[15] Walker T. G., 1931: On periodicity in series of related terms, Royal Society of London, Proceedings of The Royal Society of London, Ser. A 131, p518-532.
[16] venkataraman. g., 2019: Journey into Light life and science of C.V. Raman. Indian Academy of Sciences in co-operation with Indian National Science Academy.
[17] Bjerknes J., 1969: Atmospheric Teleconnections from the Equatorial Pacific, Monthly Weather Review, American Meteorological Society, 97, 163-172.


2021年5月15日土曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(8)

 5. その他の研究

5.1. 鳥の飛行研究

インド気象局の彼の任期の間に、ウォーカーは公務以外の多くのものに興味を持った。それらの1つに、鳥の滑空と羽ばたきがあった。彼はハゲワシとトビが200 mほどの高さまで羽ばたいた後、700 m以上の高さまで螺旋状に滑空しながら上昇する方法を発見した。これは、彼の舞い上がってはばたく様々な種類の飛行という研究のきっかけとなった [1]。その成果は1925年、1927年、1930年に発表された。それがきっかけで、彼はブリタニア百科事典の動物飛行の項目の執筆も行った [6]。

これらの研究の結果は、彼が自らグライダーで飛ぶことへの興味も誘った。1911年に彼はグライダーの滑空性能と気象条件との関係に関する短い説明をNature誌に発表した。後年、彼はグライダーの操縦に挑戦したが、彼にとって残念だったことは、熟達したパイロットになるには65才では遅すぎたということだった [1]。

5.2. スケート

ウォーカーの興味のもう一つはスケートだった。すでに述べたように、インドに行く前に彼はスイスへ毎年訪問してスケートを楽しんだ。彼がインドに行ったとき、インド北部の避暑地になっているシムラの冬の夜の強い放射冷却が、スケートリンクの作成を可能にすることを発見した。放射冷却による冷気を逃さないように、大気の流れを防ぐスクリーンを用いて、彼はそこにスケートリンクを作ることに成功した。実際には、あまりの冷たさにスケートの歯が立たないほどスケートリンクの氷が硬くなることがあり、その際には逆にスクリーンを取り外すほどだった [1]。

5.3. フルート

彼はフルートの優れた演奏者であっただけでなく、その楽器の理論的な研究を行って、その成果の学術的な出版も行った。フルートは、低い方から2オクターブまでの音は連続して穴を開ける規則的な指使い(運指)で演奏できるが、3オクターブ目は不規則な指使い(クロス・フィンガリング)が必要である。彼はその音域における新たな指使いを提案した。その指使いで発生する理論的な音節の位置は、実際の音節と概ね一致し、いくつかの新たな指使いが考案された。現在、一部のフルートはウォーカー提案に沿って作られている [1]。

5.4. 人材発掘

ウォーカーはインドにおいて、人材発掘にも大きな役割を果たした。彼はある日気象測器の点検にマドラスへ行った際に、港湾事務所の所長から風変わりな事務員が書いた数学の走り書きを見せられた。ウォーカーはその事務員が天才的な数学能力を持っていることを見抜き、マドラス大学へ入学できるように手配した。彼こそが後に天才的な数学者となるシュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan)だった [16]。ウォーカーは彼をケンブリッジ大学の数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディの所へ留学できるようにも尽力した [6]。また、ノーベル物理学賞受賞者であるチャンドラセカール・ラマン(Sir Chandrasekhara Venkata Raman)や後に国際測地学及び地球物理学連合(IUGG)の会長を務めたK. R. ラマナサン(K. R. Ramanathan)の発掘や育成にも関わった [6]。

チャンドラセカール・ラマン

https://en.wikipedia.org/wiki/C._V._Raman#/media/File:Sir_CV_Raman.JPG

 6.イギリスへ戻った後

1904年に王立協会の会員になっていたウォーカーは、1924年にインドから引き上げて後、ナイトの称号を受けた。彼は著名な気象学者ネイピア・ショー卿の跡を継いでロンドンのインペリアル・カレッジの数学科教授となり、1934年まで教授を務めた。彼はその新しいポストで統計作業を続けたが、他の物理的な問題に関心を向けることも行った。雲形とそれを引き起こす物理的な状態は彼に常に興味を起こさせた。彼と彼の弟子たちは、実験室で不安定流体を下から熱して対流速度の違いによる効果を確かめる実験を行い、様々な雲の形成過程を研究した [6]。1926年と1927年には、王立気象学会の理事長を務め、1934年には王立気象学会のサイモン金メダルを受賞した [2]。1933年には英国学術協会の部門長を務めた。第二次世界大戦の間、彼は空軍省の気象委員会の下で長期予報や高層気象観測結果の相関、ヨーロッパの気象と北極の海氷との関係を研究した [6]。彼は1958年11月4日に90才で亡くなった。

 (つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] Taylor I.G., 1962: Gilbert Thomas Walker. 1868-1958. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, The Royal Society, 8, 166-174.
[2] Walker M.J., 1997: Pen Portrait of Sir Gilbert Walker, CSI, MA, SCD, FRS. Weather, Royal Meteorological Society, 52, 217-220.
[3] Walker T.G., 1901: boomerangs. Nature, Nature Publishing Group, 64, 338-340.
[4] 田家康, 2011: 世界史を変えた異常気象, 日本経済新聞社.
[5] Normand C., 1953: Monsoon seasonal forecasting. Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, Royal Meteorological Society, 79, 463-473.
[6] Pisharoty R.P., 1990: Sir Gilbert Walker-pioneer meteorologist and versatile scientist. CURRENT SCIENCE, Current Science Association, 59, 121-122.
[7] Walker T.G., 1923: Correlation in seasonal variations of weather. VIII. A preliminary study of world-weather. Memoirs of the Indian Meteorological Department, Indian Meteorological Department, 24, 75-131.
[8] Hildebrandsson H.H., 1897: Quelques recherches sur les entres d'action de l'atmosphere. Kongl. Svenska vetenskaps-akademiens handlingar, P.A. Norstedt & s?ner, 29, 33pp.
[9] Lockyer J. N. and Lockyer W. J. S., 1903: On the similarity of the short-period pressure variation over large areas. Royal Society of London, Proceedings of The Royal Society, 71, p467-476.
[10] Katz W. R., 2002: Sir Gilbert Walker and a Connection between El Nino and Statistics, Institute of Mathematical Statistics, Statistical Science, 17, p97-112.
[11] Walker T. G., 1924: Correlation in seasonal variations of weather. IX. A further study of world weather. Indian Meteorological Department, Memoirs of the Indian Meteorological Department, 24, p275-332.
[12] Walker T. G., 1933: Seasonal Weather and its Prediction, Nature Publishing Group, Nature, November 25, p805-808.
[13] Walker T. G., 1918: Correlation in seasonal variations of weather, Royal Meteorological Society, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 44, p223-224.
[14] Walker T. G., 1925: On periodicity, Royal Meteorological Society, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 51, p337-346.
[15] Walker T. G., 1931: On periodicity in series of related terms, Royal Society of London, Proceedings of The Royal Society of London, Ser. A 131, p518-532.
[16] venkataraman. g., 2019: Journey into Light life and science of C.V. Raman. Indian Academy of Sciences in co-operation with Indian National Science Academy.

2021年5月8日土曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(7)

 4.6 ユール・ウォーカー式

19世紀に各国で始まった気象観測であったが、観測手法や値の単位が異なっていたため、データを交換してもそう簡単には他国では使えなかった。19世紀末頃から気象観測結果の国際的なデータ交換が議論され始め、それは少しずつデータの記録方法の統一へとつながっていった。

そういった背景を受けて、20世紀に入ると世界各地の気象観測の結果を使った相関関係の調査が気象学の研究として行われるようになった。一方でその気象の変動要因として太陽黒点の変動も浮かび上がった。この時間的にある幅でランダムに変動する、つまり揺らぎを持つ準周期的な自然現象が、時系列データを扱う統計学に進歩をもたらした。当時、決定論的な調和解析を用いて太陽黒点の変動が11年周期を持つのではないかということが議論されていた。ところが、イギリスの統計学者ウドニー・ユール(Udny Yule)は、1927年に太陽黒点の変動周期について決定論的にではなく、その強さや周期が揺らぎを持つという前提で新たに2次の自己回帰モデル(AR(2))という手法を考案した。そして、それを用いて太陽黒点の変動周期がおよそ11年であることを示した。これは厳密な調和解析による手法より太陽黒点の周期変動の多くを説明できた [10]。

ウォーカーはユールによる自己回帰モデルの研究の前から、気象の準周期的な現象の問題に取り組んでいた。ユールによる自己回帰モデルの考案の前の1925年に、ウォーカーは南方振動の周期に3~3.25年の幅があることを示して、そういう幅がある周期現象には自己相関を用いた分析が有効であることに気づいていた [14]。しかし、ウォーカーが調査していたダーウィンの気圧変動は、ユールの自己回帰モデルAR(2)より複雑だった。そのため、彼はユールの手法を任意の次数ρの自己回帰モデルAR(ρ)に拡大した。彼は1931年に以下のユール・ウォーカー式を導出した [15]。

定常的なρ次の自己回帰モデルであるAR(ρ) モデルでは、ρ個の時系列現象Xtは、次式で表わされる。


ここで、Φkはk次自己相関パラメータ(t-k時の寄与分)で、atは時刻tに新たに加わった誤差である。ちなみにAR(1)でΦ1を1とおくと、XtはXt-1 から誤差atの幅で動くランダムウォークになる。詳細を省くがこの式において、ρ次のユール・ウォーカー式は次式となる。

ここで、ρk はk次の自己相関係数である。この式によってk次の自己相関係数はそれより低い次数の自己相関係数の漸化式となっており、自己共分散の式と合わせて自己相関係数の決定を容易にする。また彼は、一般的に自己相関関数が減衰する指数関数と減衰するサイン波の和であることも示している。

ユール・ウォーカー式は「1.はじめに」で述べたように、時系列解析などの自己相関係数を扱う数値処理には良く出てくる式である。なお、この式はウォーカーがユールの成果を拡張したものであり、共同で導いたわけではない。ユールは先ほどの1927年のAR(2)の発表を最後として引退した後に病気になっている[10]。

この便利なユール・ウォーカー式は、直ちに世の中に根付いたわけではなかった。アメリカの地球物理学者で統計学者のカッツは、自分が見つけたものの中で最も早い利用は1949年だったと述べている [10]。しかし、この式は近代的な時系列解析における画期的な発見であり、現在では自己相関を扱う数多くの分野で広く使われている。しかし、細分化されて専門分野化された現在の科学において、前述のカッツは気象学での南方振動と統計学のユール・ウォーカー式が、どちらも同一人物による同一の研究から生まれたものであることを、どれだけの人々が認識しているだろうかと疑問を投げかけている。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] Taylor I.G., 1962: Gilbert Thomas Walker. 1868-1958. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, The Royal Society, 8, 166-174.
[2] Walker M.J., 1997: Pen Portrait of Sir Gilbert Walker, CSI, MA, SCD, FRS. Weather, Royal Meteorological Society, 52, 217-220.
[3] Walker T.G., 1901: boomerangs. Nature, Nature Publishing Group, 64, 338-340.
[4] 田家康, 2011: 世界史を変えた異常気象, 日本経済新聞社.
[5] Normand C., 1953: Monsoon seasonal forecasting. Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, Royal Meteorological Society, 79, 463-473.
[6] Pisharoty R.P., 1990: Sir Gilbert Walker-pioneer meteorologist and versatile scientist. CURRENT SCIENCE, Current Science Association, 59, 121-122.
[7] Walker T.G., 1923: Correlation in seasonal variations of weather. VIII. A preliminary study of world-weather. Memoirs of the Indian Meteorological Department, Indian Meteorological Department, 24, 75-131.
[8] Hildebrandsson H.H., 1897: Quelques recherches sur les entres d'action de l'atmosphere. Kongl. Svenska vetenskaps-akademiens handlingar, P.A. Norstedt & s?ner, 29, 33pp.
[9] Lockyer J. N. and Lockyer W. J. S., 1903: On the similarity of the short-period pressure variation over large areas. Royal Society of London, Proceedings of The Royal Society, 71, p467-476.
[10] Katz W. R., 2002: Sir Gilbert Walker and a Connection between El Nino and Statistics, Institute of Mathematical Statistics, Statistical Science, 17, p97-112.
[11] Walker T. G., 1924: Correlation in seasonal variations of weather. IX. A further study of world weather. Indian Meteorological Department, Memoirs of the Indian Meteorological Department, 24, p275-332.
[12] Walker T. G., 1933: Seasonal Weather and its Prediction, Nature Publishing Group, Nature, November 25, p805-808.
[13] Walker T. G., 1918: Correlation in seasonal variations of weather, Royal Meteorological Society, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 44, p223-224.
[14] Walker T. G., 1925: On periodicity, Royal Meteorological Society, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 51, p337-346.
[15] Walker T. G., 1931: On periodicity in series of related terms, Royal Society of London, Proceedings of The Royal Society of London, Ser. A 131, p518-532.