2021年2月9日火曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(4)

 4.4    微気圧計

 旧ソビエト連邦は1949年8月から一連の核実験を開始したが、核実験を行う際には予告がなかった。日本で濃度の高い放射能雨が観測された際に、その原因が分からないことがあり、それが日本の住民の不安を駆り立てた。もし核爆発によって起こる微小な気圧波を日本で検知できれば、地震波の到達時刻から震源を求める方法と同じやり方で、世界中の大気中の大規模核実験を捉えることが可能だった。

 気象庁は1956年4月から全国8か所(稚内、釧路、秋田、輪島、東京、米子、室戸岬、鹿児島)の気象官署で徴気圧変動の観測を開始した。この観測に用いる微気圧計は、気象庁職員が開発したもので、微少な気圧変動をペンレコーダーで記録した。その能力は1 hPaの気圧変動を記録紙上で約20~30 cmの変動に拡大する感度を持っていた[3]。各観測地点の観測時刻の差と最大振幅は、核実験の行われた位置と規模を知る手がかりとなった。

 核実験による気圧波を検出したのは、観測開始から1962年末までに81回を数えた。その大部分はメガトン級の爆発力をもった核実験によるものだった。最大振幅を記録したものは、1958年6月27日早朝にエニウェトク環礁で行なわれた8.9メガトンのアメリカの水素爆弾の核実験によるものだった。これは実験が予告されていたため、核実験の報道の方が気圧波の到着より早かった。報道関係者は予め徴気圧観測室に待機して、気圧波の到着予定時刻に彼らは微気圧計の実際の針の動きをTVカメラで撮影した。この時の記録の最大振幅は0.9 hPa以上で、ペンが記録紙からはみ出した。この微気圧計が変動する模様は翌日のテレビで放送された[3]。


南太平洋での実験による微気圧波の観測例(1956年7月11日)
Microbarograph observation sample for a nuclear test in the Southern Pacific

 当時、大型核実験の多くは南太平洋の環礁や北極圏の島で行われた。その場所は東京からそれぞれ5500 km及び6200 km位離れており、爆発の際に発生した気圧波が日本に達するのに3~6時間かかった。多くの場合、前記のように予告のために観測より核実験の報道の方が早かった。それでも情報の信頼性を確かめることができるため、気象庁の徴気圧観測は国内や国外の様々な機関からの信頼を受けた[3]。

 北極圏での実験微気圧波の観測例(1958年2月23日)
Microbarograph observation sample for a nuclear test in the Arctic Circle

 後述するように業務としての気象庁の放射能観測は廃止されたが、同様の微気圧振動による大気圏内核実験の監視は、包括的核実験禁止条約(Comprehensive Nuclear Test Ban Treaty:CTBT)に基づく国際監視制度の中で行われている。

4.5    モニタリングポスト

 モニタリングポストとは、地表空間のガンマ線を連続的に測定し、環境放射能レベルの推移を常時把握するものである。核実験や放射能事故等の時に、フォールアウト(降下した放射性物質)の初期降下時刻、その強さ及び変動状況を迅速に把握するのが目的である。装置は検出部と測定部で構成され、検出部では検出器にタリウム化ヨウ化ナトリウム(NaI)を用い、入射したガンマ線によるシンチレーションを光電子増倍管で増幅しパルス電流に変換する[3]。

モニタリングポスト(気象庁の「放射能観測成績」より)
Monitoring post

 1967年7月6日に政府の放射能対策本部は13地点のモニタリングポストの設置を決定した。そのうち輪島と旭川の2地点の観測を気象庁が受け持つことになった。それらは1969年3月から観測を開始した[3]。気象庁の観測値の解析結果から、降水時の放射能の変動が季節にかかわりなく必ず現れ、変動度の大小はあるがしゅう雨性の降水の方が持続性の降水に比べ値が常に大きい特徴があること等が示された[4]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake
1954The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August 1954 Papers in Meteorology and Geophysics,  5, 173-177.
[3]
気象庁(1975)放射能観測業務回顧, 気象百年史 資料編, 267-272.
[4]
地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史, 測候時報, 73, 6, 気象庁, 117-154.


2021年2月2日火曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(3)

 4.2 浮遊塵の放射能観測

 浮遊塵の放射能観測では、放射線を測定するために、週に3回集塵装置で地表から1 mの高さの空気を毎時約1.5 m3の割合で5時間吸引し、空気に含まれている塵をフィルタに吸着させた。吸引量は1964年4月から毎時60 m3に増やされた[4]が、観測は1970年6月から週1回に変更された。塵が吸着したフィルタは電気炉で灰化されて、その灰から放出される全ベータ線量がGM計数装置を用いて測定された。

集塵装置
Airborne Dust collecting system

全ベータ線測定
Gross Beta-Radioactivity


 以下に測定結果の経年変化を示す。

浮遊じんの全β放射能月平均濃度の経年変化図。上から札幌、東京、福岡。(気象庁「放射能観測成績」より)
Time Series of Monthly Mean Concentration of Gross Beta-Radioactivity in Airborne Dust

 改めて後述するが、1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故が起こると、事故で放出された放射性物質が日本でも観測された。本来核実験を想定して行われていた気象庁の降水降下塵や浮遊塵の全ベータ線測定では、原子力発電所等の事故によって放出されて人体へ影響を及ぼす放射性物質であるヨウ素131やセシウム137等を区別して検出することができなかった。それは原子力発電所の災害に対しての監視が十分でないことを意味した。

 1987年から管区気象台において放射性物質の種類を特定するためのガンマ線核種分析装置の導入が開始された。核種分析では塵を吸着させたフィルタを測定容器に入れ、その容器は高純度ゲルマニウム結晶の半導体検出器を用いたガンマ線核種分析装置により7200秒間測定された。その結果を多重波高分析器(Multi Channel Analyzer)を用いたガンマ線のエネルギースペクトル分析にかけることにより、放射性核種(セシウム137、ヨウ素131等)ごとに量が特定された。半導体検出器は、ノイズを減らすために液体窒素で-200℃に冷却され、また外部からのガンマ線の影響を受けないように鉛で遮へいされた[3]。

4.3 放射性ガスの連続観測(放射能レーダー)

 原子炉の基礎研究を行うために1956年に日本原子力研究所(Japan Atomic Energy Research Institute)が発足し、茨城県東海村に研究用原子炉が建設された。東海村から15 km南には水戸市がある。もし原子炉の事故が起こると水戸市の住民がその被害を受ける懸念があった。そのためには空気中に含まれる放射性ガスを連続的に測定する必要があり、1962年2月から水戸地方気象台で放射能の測定を行うことになった。

 原子力施設から出て来る放射性ガスを測定する方法として、放射性ガスの電離作用によって発生した電磁電流の変動を自動記録することになった。放射能観測は、水戸地方気象台内に新しく建てられた建物の屋上から空気を大きな電磁箱内に引き込み、箱の中の電離電流を振動容量電位計で測定して、その値は自動記録された。

 放射性ガスの観測は、1962年2月10日から水戸地方気象台で開始された。翌朝の地元紙は、大きな見出しで「原子力研究所を監視する水戸地方気象台の放射能レーダー」という記事を載せた。レーダーという言葉は比喩として使われただけで、実際の観測方法はレーダーの原理とは全く関係はなかった。観測の開始後に東海村での原子炉に大きな事故はなく、またこの測定はノイズの影響を受けやすいために1966年4月に廃止された[3]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.




2021年1月27日水曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(2)

 4. 放射能測定


 放射能の観測にはその対象や測定手法により幾種類かの観測がある。ここでは、降水降下塵の放射能観測、浮遊塵の放射能観測、放射能レーダー(放射性ガスの連続観測)、微気圧計(核爆発による大気波観測)、モニタリングポスト(大気中ガンマー線の連続観測)、放射能ゾンデ(高層大気の放射能観測)について、解説する。

4.1 降水降下塵の放射能観測

 降水降下塵の放射能観測は、地表に降下した雪を含む降水と降下塵を集めて、放射性物質の濃度及び降下量を測定するものである。これには「定時測定」として、1日1回定期的に雨の採取が行われるものと、「定量測定」として降り始めの雨だけを採取して測定するものの2種類があった。

 定時測定は、毎日午前9時に溜まった雨水の中から100 mlを抽出して試料とし、磁製蒸発皿で加熱して濃縮した。この試料の蒸発残留物をさらに試料皿に固化させ、GM計数装置を用いてこの試料の放射性物質から出る全ベータ線を測定した。全ベータ線とは試料から放出されるベータ線量を、エネルギー区分なしに計数したものである。

  定量測定では、大気中の降水洗浄過程によって落下する放射性物質からの放射能の総量を知るために、降り始めの最初の降水量1 mmの雨(試料としては100 ml)だけを集めて、その全ベータ線を測定した。分析手法は定時測定と同じだが、降り始めの雨だけを採取するために、採取器に特殊な工夫が行われた。なお、定量測定は1963年6月で終了した。

降水採取装置
Precipitation-sample collecting system


試料の濃縮と堅固
Condensation and solidification of precipitation sample


降水中の全ベータ放射能月間降下量の経年変化図(上から札幌、東京、福岡。気象庁「放射能観測成績」より)。Bq(ベクレル)とは単位当たりの物質から放射される放射能の強さである。なお、放射能が人間に与える影響の単位にはシーベルト[Sv]が用いられる。これは同じ線源でも、そこからの距離や時間などによって異なる。
Time Series of Monthly Deposition of Gross Beta-Radioactivity in Precipitation

 これに加えて、雨水の放射化学分析のために、5か所の管区気象台で半径79.8㎝のステンレス製の大型水槽を用いて地表に降下した降水と塵が毎月1回採取された。採取された試料水は気象研究所へ送付され、そこで人体に最も影響の大きいストロンチウム90やセシウム137等の量が放射化学分析により測定された[3]。この観測地点は1977年以降、11地点に拡大された。

放射化学分析用の試料採取のための大型水盤
Large basin for chemical analysis of radioactivity  

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.


2021年1月22日金曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(1)

1.    はじめに

 1950年代から大気圏での核実験が行われなくなる1980年頃まで、日本を含む世界各地で頻繁に高濃度の放射性物質が降ってきていた。そのことは年配の方は覚えておられる方も多いと思うが、若い人は知らないあるいは実感できない方も多いのではないかと思う。
 
 東日本大震災による福島原発の事故では、放射能の怖さを改めて思い知らされた。振り返ってみると、短期的には福島原発の事故によって降下した放射能量には及ばないものの、かつてかなりの量の放射能が日本全土に長期にわたって降り続けたことがわかる。このことは、気象庁と気象研究所などが長期にわたって継続してきた観測によって明らかになっている。このシリーズではそのことを取り上げる。
 
 放射能の採取と観測は地方自治体の研究所や大学などの研究機関などでも行われたが、ここでは気象庁と気象研究所が行った観測のみを記す。なお、改めてこのシリーズの最後に記すが、気象庁の放射能観測は政府の方針により2006年に終了した。その後は環境省や各都道府県が放射能観測を継続している。

2. 背景  

 1954年3月1日に静岡のマグロ漁船第五福竜丸が、ビキニ環礁付近の安全航行域内で、操業中に閃光と爆音と原子雲を確認した。これは、アメリカがビキニ環礁で行った当時としては最大の水爆実験(ブラボー実験:Castle Bravo)によるものだった。第五福竜丸は数時間後に核爆発によって生じた放射能を含んだ灰を浴びた。第五福竜丸が安全航行域内で被爆したのは、核爆発が事前の予想計算による6メガトンをはるかに超える15メガトンと巨大なものになったためだった。また、ロンジェラップ環礁などにも放射能を含んだ灰の想定外の降下があり、住民2万人以上が被曝した[1] 。これは、アメリカが行った核実験の中で最悪の事故となった。また、これは「成層圏準二年振動の発見」で述べたように、成層圏の風などの振る舞いを詳しく調査するきっかけにもなった。

 

ブラボー実験での核爆発の様子
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Castle_Bravo_Blast.jpg

 第五福竜丸は日本に帰港後、乗組員の中の2名は放射能症と診断された。第五福竜丸の船体に残った降灰からは著しく高い放射能が検出され、水揚げしたマグロからも放射能が検出された。放射能は、マーシャル諸島附近の海域で操業していた多くの日本漁船の漁獲物からも検出された。5月には日本各地の雨の中に放射能が検出されるようになった [2]。この放射能を含んだ雨は、米や野菜などの農作物に対する深刻な不安を日本国民に与えた。これは、核実験を非難する国際的な世論を高め、日本においても放射性物質の降下に対する対策が緊急に立てられた。


 ブラボー実験によって発生した放射性物質の広がり。等値線の単位はrad(1 rad=0.01 Gy(グレイ))https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bravo_fallout2.pngを日本語に改変

 日本学術会議は「放射能影響調査特別委員会」を設立し、
1954年5月1日に第1回目の委員会が開かれた。この委員会において、当時の中央気象台長だった和達清夫は「気象官署は全国的に専用の通報網をもっていて情報の収集が迅速である。定常的なルーチン観測の継続に豊かな経験をもっている。また優れた技術者を多くかかえている」という意見を述べた。この意見が受け入れられ、中央気象台(後の気象庁)が定常的な放射能観測を引き受けることになった[3]。

 中央気象台は緊急の会議を開いて、当座は気象研究所が中心となって雨の放射能を測ることを決定した。中央気象台内では気象官署が放射能の測定を行うことは、本来の気象業務の目的から外れるので適当でないという意見も出されたが、放射性物質をトレーサーとして気象解析を行うためということで観測目的の一致をみた[3]。

 3.    観測の開始

 1954年10月には大蔵省で放射能観測の予算が認められ、気象庁での放射能観測が開始された。降水降下塵(塵に付いて地面に落下した放射性物質)の放射能観測は、1955年4月1日から全国14か所の気象官署で行われた。浮遊塵(塵に付いて空中を浮遊している放射性物質)の放射能観測は1955年11月1日から5か所の管区気象台で行われた。雨水の放射化学分析は、1958年1月から気象研究所で行われた。また海洋上の放射能観測が、気象庁の南方定点観測船と海洋気象観測船「凌風丸」で行われた[4]。

 ところが科学と技術の整理統合を図るという目的で、1956年に国務大臣を長官に据えた科学技術庁が新たに発足した。日本学術会議による勧告とは別に、科学技術庁が核実験による放射能影響調査を行政面から所管することになった。1955年12月に原子力基本法が成立したこととあわせて、1956年1月に政府に原子力委員会が発足した。同委員会は10月に「放射能調査計画要綱」を立案し、国内の各機関による放射能常時観測体制の確立を図った。そのための予算は科学技術庁が「放射能調査研究費」として、大学を除く各調査研究機関に配分した。

 1956年に中央気象台から変わった気象庁の放射能観測も、その一部は1957年度からその要綱に基づく「放射能調査実施計画」の中に位置づけられた。観測項目に科学技術庁の予算による上空の放射能、海水中の放射能、降水・落下塵の放射化学分析が加わった。このため、気象庁が業務として行う放射能観測の予算は、大蔵省から気象庁を所管する運輸省を通して配分される予算と科学技術庁から配分される予算の2本立てとなった[4]。各省庁の予算編成権は大臣が持っており、運輸省下にあった気象庁が科学技術庁の予算で行政として放射能観測を行うことは、極めて異例なことだった。

つづく

参考文献(シリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.