2020年7月11日土曜日

台風による第4艦隊事件 (1), The Fourth fleet incident (1)

背景と主隊の台風との遭遇 (Background and encounter of main body of the fleet with the typhoon) 

 1935年に台風によって、航行中の艦隊の多くの艦が損傷するという大事故が起きた。これは気象に関連する単なる海難事故では終わらずに、多くの軍艦の設計や工法に関わる大問題となった。またこれは台風による海象の解明にもつながった。これについて説明しておきたい。 

 1935年は海軍にとって特別な年だった。1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約により日本を含めて主要国の軍艦の建造は制限されていた。この前年に日本は条約を破棄していた(制限は1936年まで有効)。当然国際的な緊張が高まることが予想されたため、海軍は大規模な艦隊演習(Fleet great maneuvers)を行うことにした。常設の第1艦隊、第2艦隊(青軍: Blue force, consisting of existing 1st and 2nd Fleet)を相手に演習を行うために41隻からなる臨時の第4艦隊(赤軍: Red force, consisting of tentative 4th Fleet)が編成された。演習は9月下旬に東北地方沖の西太平洋で行われることに決まった。 

 第4艦隊(The 4th fleet)は9月25日に函館を出航した。朝0600時に第3、第4水雷戦隊と第5駆逐隊からなる水雷戦隊(Destroyer squadron of the 4th Fleet including light cruisers)が先に出発し、第2、第5、第7、第9戦隊と第1航空戦隊からなる本隊(Main body of the 4th Fleet)は、1600時に函館を出港した。水雷戦隊は本隊の東南東約200 kmに位置した。それ以外にも潜水隊や補給隊があったが、ここでは触れない。 

 9月25日の気象通報では小笠原諸島(Ogasawara Islands)付近に台風(Typhoon)があった(日本海にも別な台風があった)。2200時の観測に基づいた2330時の気象報によると、台風の予想進路(predicted course of typhoon)は北北西(NNW)で日本本土に向かっており、第4艦隊は演習予定海域に影響はないと結論していた。 安心した艦隊は0000時の観測結果に基づく26日0150時の中央気象台の「台風は北北東に転向せんとす」となっていた気象報に注意を払わなかった。台風付近の船舶からの報告に基づいて0450時には中央気象台から警報(warning)が出されたが、艦隊がこれに気づいた記録も残っていない。

 26日0600時の観測結果に基づく0800時の気象報で、中央気象台は「中心気圧約960 hPaの大型台風が銚子沖を進路を北北東(NNE)に変えて速度50~60 km/hで進んでいる」ことを報じた[1]。艦隊は、この気象報でこのまま東へ進むと午後に台風と遭遇することを初めて知った。既に海は荒れて始めていた。 
台風の進路図。[1]をもとに作成
(The track of the typhoon in September, 1935)

 第4艦隊は一旦西へ待避することにし、それを各艦船に連絡しようとしている間に天候がさらに悪化した。視程が低下したため、多くの船が一斉に進路を変更すると、衝突や転覆などの事故が起きることも考えられた。一方で艦隊司令部は、台風内の航行経験も艦隊の技術向上になるという考えを持っていた。結局、艦隊司令官は予定通り航行することを命令した[2]。

 台風はその後時速70 km/h という猛スピードで北北東(NNE)に進んでいた。主隊周辺は昼頃から風速(wind speed) 25 m/sを超える猛烈な風となり、海は高さ8 mを超えるしぶきを伴う白波(white wave with spray)となった。1400時には風速32.5 m/sを観測し、最大波高(maximum wave height)は18 mに達した。この波によって空母龍驤(Carrier Ryujo)の飛行甲板下の艦橋が圧壊した。1430時前後には台風の眼(the eye of typhoon)が主隊付近を通過し、風はやや衰え青空も見えた。このとき龍驤は最低気圧957 hPa(718.2 mmHg)を観測した。

 その後再び風が激しくなり、最大風速34.5 m/sを記録し、三角波も現れ始めた。1500時頃には波高15 m以上の大波によって駆逐艦朝風(Destroyer Asakaze)の艦橋(bridge deck)が破壊された。巡洋艦妙高(Cruiser Myoko)の船体鋲接が弛緩し、同じく巡洋艦最上(Cruiser Mogami)の艦首部に亀裂が生じた。大波の状態は1600時頃まで続き、その後主隊付近では風は収まってきた[1]。

Reference(このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.

2020年7月5日日曜日

富士山における気象観測(8)富士山レーダーの完成後

 富士山レーダーは1964年10月1日に電波検査に合格し、1965年4月1日から正式運用が開始された。世界最高地点にある気象レーダーだった。同年8月には早速台風6517を上陸の3日前から捉えることに成功した。この富士山レーダーの完成を記念して、記念切手が発行された。富士山レーダーは「地形エコー除去(A new automatic technique for ground clutter rejection)」などの技術が開発されて、台風などの監視に大きな役割を果たした。

富士山レーダー完成記念切手

 富士山頂のレーダー建設の気象庁責任者藤原寛人は、その後気象庁を辞めて、新田次郎というペンネームで作家となった。彼はこのプロジェクトの詳細をノンフィクション小説「富士山頂」として発表した。これはレーダー建設のプロジェクトの主人公が作家本人であるという異色の小説となっている。

 山頂への送電線はたびたび雪崩で損傷し、その補修のためには高額の費用が必要だった。また施設維持のために人の滞在が欠かせず、3週間交代で山頂勤務が行われた。特に冬季は硬氷に覆われた山への登山には危険が伴った。1987年に静止気象衛星(ひまわり)が打ち上げられると、徐々にその役割は減少していき、富士山レーダーは1999年に運用が停止された。しかしその技術は評価されて、2000年には米国のIEEE(米国電気電子学会)からマイルストーンに選ばれた。

富士山における気象観測(完)

2020年6月29日月曜日

富士山における気象観測(7)レーダードームの設置

 2年目の作業は、1964年5月20日のブルドーザーによる除雪から始まった。ブルドーザ除雪時に山腹の砂礫を馴らして山頂までの道を作ったので、その後はブルドーザが材料を山頂に直接運ぶことができるようになった。 建物は7月末までにほぼ完成した。 機材は8月上旬から組立・設置された[1]。

 建設で最も困難だったのは、風速100 m/sを超える風からレーダーアンテナを保護するレーダードーム(直径9 mの半球形ドーム)の設置だった。 ドームは地上で組み立てられ、ヘリコプター(Sikorsky-S62)によって頂上でレーダードームの基礎に輸送および取り付けられることになっていた。

 レーダードームの重量は620kgあり、ヘリコプターの最大積載量を超えていた。そのため、空気が薄い山頂でのヘリコプターの操縦は一層困難となった。向かい風を浮力として利用する必要があったが、富士山の頂上ではしばしば乱気流が発生することがあり、ヘリコプターが乱気流に巻き込まれてクレーターに吸い込まれる事故が実際に発生していた。 したがって、関係する多くの担当者は、ヘリコプターによるレーダードーム基礎への取り付けを懸念を抱いていた。

 作業に都合の良い天気予報から、設置日は1964年8月15日と決まった。当日は晴天で好都合なことに微風があった。軽量化のためにヘリコプターはドアと副操縦席を取り外し、半球形のドームを吊り下げて山頂に近づいていった。ところが設置のための最後のホバーリングになって一瞬風が止んだ。それでも操縦士は巧みにヘリコプターを操縦して、レーダードームをぴたりと基礎の上に置くことに成功した[1]。 

富士山測候所の在りし日のレーダードーム

 ヘリコプターの操縦士は、第二次世界大戦中は海軍のパイロットだった。彼は戦争中に特攻作戦で戦地へ赴く多くの教え子を見送っていた。 偶然にもレーダードームの設置日は終戦記念日だった。 ヘリコプターの操縦士は教え子たちの死になんとか報いたいという気持ちがあった。レーダードームの設置の成功に成功した彼は、教え子たちの加護に感謝を捧げた[2]。

参照文献

[1]気象庁、 気象百年史II各種史談類第13章、 1975
[2]NHK、プロジェクトX挑戦者たち、巨大台風から日本を守れ、2000

2020年6月21日日曜日

富士山における気象観測(6)レーダー施設の建設

 予算の関係で、レーダー施設は2年間で完成させねばならなかった。しかも、レーダーの建設工事のために山頂で作業ができる期間は、山頂や雪や氷が少なく、比較的気候の穏やかな6月末~9月中旬までに限られた。しかも、強風などの悪天候時は作業ができないため、その期間をフルに使えるわけではなかった。とにかく、できるだけ短期間で完成させる必要があり、通常の建設の常識は通じなかった。

 レーダー建設工事における難題の一つは、多くの建設資材を山頂へ運ぶ方法だった。富士山では古くから資材や人の運搬に馬や強力(ごうりき:重い荷物を運ぶ人足)が使われていた。初めは九合目まで馬を利用し、それから先の急な勾配は、強力による輸送を計画した。しかし、それでは75 kg以上の重い荷物は運べなかった。そのためブルドーザを使うことが提案された。

 ブルドーザが急斜面に強いことはわかっていたが、平均斜度20度以上でかつ酸素が平地の7割以下になる富士山で使えるかは不明だった。ところが1962年に富士山の荷物を輸送していた馬方がブルドーザを試したところ、五合目まで登ることができた。ブルドーザを改良して、また専用の道を開削すれば更に上まで行けることがわかった。
富士山で使われているブルドーザ

 初年度の工事は、測候所建物の鉄骨の組み立てが予定され、雪解けが進んだ1963年6月から工事は始まった。建物の設計も難題の一つだった。それは山頂で想定される風速100 m/s以上に耐える必要があった。そのため建物は新幹線の車体を参考に設計され、輸送時の軽量化のため材料はアルミニウムで製造された。資材は山頂近くまでブルドーザで輸送され、残りは馬と人力で輸送された。短時問に作業を終える必要のある生コンクリートや大きく重い鉄骨はヘリコプターで運ばれた。

 作業員の多くは高山病に悩まされ、山頂での作業に音を上げるものも多かった。山を下った作業員の代わりは補充されたが、やはり高山病で下山する作業者が多く、その補充が繰り返された。[1]

参照文献

[1]気象庁、気象百年史II各種史談類第13章、1975

2020年6月13日土曜日

富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画

 気象庁が降水探知を目的として気象用レーダーの開発を始めたのは,1949年で気象研究所に小型レーダーが設置された。1950年代半ばから本格的な開発が行われ、大阪、東京と現業用レーダー設置された。

 その次の課題として、本州を直撃する台風の通り路である日本南方海上をどのようなレーダーでカバーするかが大きな問題となった。超大型の台風Vera(伊勢湾台風)は1959年9月に突如本州中部に上陸し、5000名以上の犠牲者を出した。既存のレーダーでは上陸の3時間前に台風を捉えるのが精一杯だった。

 台風の早期発見は日本国民の悲願となった。数か所の設置候補地が比較検討された。もし富士山頂に高出力のレーダーを設置できれば、北緯30度付近から台風を捕えられるばかりでなく、低気圧や前線に伴う雨も広範囲にわたって探知できることがわかった。
 
 1961年に気象庁は富士山頂にレーダーを設置し、レーダー映像をマイクロ波で東京の気象庁へ送るすることを決定した。この建設の気象庁責任者は測器課長藤原寛人になった。彼は有名な気象学者藤原咲平の甥で、新田次郎というペンネームで有名な小説家でもあった。
にったじろう
新田次郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Nitta_Jiro.jpg?uselang=ja

 レーダーは減衰の少ない異例の10 cm波を用い、直径5 mのバラポラアンテナからバルス幅4 μsec、出力1,500 kWの強力な電波で、最大800 km先の降水を探知できる計画だった。建設のための予算は、1963~64年に認められた[1]。しかしながら、山頂へのレーダー施設の建設は数多くの問題を抱えていた。

参照文献

[1]気象庁、気象百年史II各種史談類第13章, 1975