2025年4月16日水曜日

フィッツロイと天気予報(2)

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。) 

 

フィッツロイの生い立ち

ロバート・フィッツロイ(1805 - 1865)は、イングランドのサフォーク州アンプトンで、貴族で陸軍軍人である父と子爵の妹である母との間に生まれた。14歳のときに王立海軍大学で首席になり、その後、士官候補生として4年間洋上で過ごした後、少尉試験に満点で合格して士官候補生となった。

23歳で「ビーグル号」のキング船長の補佐として南米を調査する航海を任された。その時に気圧計の降下にもかかわらず帆を上げたまま航海を続けたため、嵐によって船が横倒しになったが、フィッツロイは両方の錨を降ろすよう命じて、ビーグル号の船首を風に向けたため沈没を免れた。彼の行動は賞賛されたが、彼は突然の強風を事前に予測できたはずだと感じていた[2]

ビーグル号探検航海の船長とニュージーランド総督

この南米の調査はいったん打ち切られ、船はイギリスへ戻った。しかし、海軍のボーフォート大尉(ビュフォート風力階級の発明者)の進言で、翌年に再度南米の調査を行うことになった。この時、フィッツロイは今度は船長として博物学者のチャールズ・ダーウィンを同行した。船長は士官と自由に会話することが禁じられており、ダーウィンは船長の絶好の話し相手となったようである。孤独な状況からかフィッツロイは神経衰弱に陥り、乗組員に対してときおり感情を爆発させていたが、ダーウィンはフィッツロイを畏敬と慈愛の目で見ていた[3]。ダーウィンのフィッツロイに対する敬愛は、フィッツロイの死まで続いたようである。

1831年から1836年にかけて行われたビーグル号による探検航海は大成功を収め、フィッツロイはイギリス王立地理学会のゴールド・メダルを授与された。彼は1841年に議員に選ばれ、1843年にニュージーランド総督の地位に就いた。しかし彼は、為政者としての能力は秀でていなかったようである。当時ニュージーランドでは現地住民(マオリ族)と入植した白人が対立しており、それをうまく調定することが出来なかった。彼は1845年にイギリス政府と入植者たちの怒りを買い、総督を罷免されてイギリス海軍に戻り、さらに1850年には軍人を退役した[2]

政府による気象観測網の設立と警報の発表

フィッツロイと天気予報(1)」述べたように、1853年にアメリカのモーリーによって、気象観測に関する世界で初めての国際会議がブリュッセルで開催された。モーリーの世界中という当初の目論見とは異なって、この会議で海上の軍艦のみによる気象観測とその方法が定められた。これに応じてイギリスでは商務省貿易委員会(Board of Trade)に気象部(Meteorological Department)が設置され、その記録のとりまとめと統計が行われることになった。これは後にイギリス気象局(Met Office)となる。そして、これを実質上統括する気象統計官に、王立協会の推薦でフィツロイが任命された。

彼の仕事は、船から報告される気象観測結果の統計を行うことだった。このような気象統計があれば、船は風や海流をうまく利用することで航海日数を短縮することが出来る。彼は船で気象観測を行えるように気象測定器の取り扱い説明書を作成し、軍艦だけでなく商船にも配布した。また船舶用の気圧計を自ら作成した。これはフィッツロイバロメータと呼ばれた。

1859年に大きな海難事故が起こった。当時最新鋭の鋼船「ロイヤルチャーター号」が、嵐によってウェールズ沖で難破し、450名が遭難した。またこの船だけでなく合計で133隻が被害を受け、死者は800名を超えた。この嵐は「ロイヤルチャーター・ストーム」と呼ばれた。フィッツロイはこの嵐に関する気象調査を行った。

フィッツロイは、ドイツの気象学者ドーフェによる異なる気流の衝突が悪天候を引き起こす、という考えに従って、異なる気団の境目ではっきりした渦状の構造を持った嵐がイギリスを通過したことを図示した。この嵐が気団の境目で渦状の構造をしていることを図示したことは画期的だった。これは、このような図を作成できれば、嵐の進行方向に住む人々に暴風を予告することが出来ることを意味した。イギリスには電信網が張り巡らされていた。彼は電信を用いてある地点での嵐の到来を他の場所へ知らせることを提案した。この警報があれば、船舶は近くの港に避難するか、出航を見合わせることが出来た。

フィッツロイが作成したロイヤルチャーター・ストーム時の天気図。寒気が青、暖気が赤で示されている。これは現在の気象衛星からもたらされる画像に似ている。当時の限られた海上と地上観測結果だけから、このような嵐の構造を明確に示したことは驚くべき事だった。The Weather Book : A Manual of Practical Meteorology1863)より。

フィッツロイが考えていた暴風警報の発表には、いくつかの地点を網羅した気象観測網と継続的な観測・報告という大規模な事業を必要とした。フィッツロイは、イギリス科学振興協会を通じて電信を用いた気象観測網の設立を要求した。これは政府に認められて、イギリスを3つの気象区に分けた電信を用いた気象観測網が設立された。これは、アカデミックではない中央の政府機関が気象観測とその結果のとりまとめを行うという、当時の行政から見るとそれまでとは全く異質な事業だった。しかも観測データを集めて分析するという日々の作業は、科学的な匂いのするものだった。

この時からフィッツロイの使命は、気象統計から人々の命を嵐から守ることへと変わった。彼は気象観測所の設立を拡大し、イギリス沿岸の22か所と大陸の5か所からの気象観測結果を毎日受け取った。18612月に、それを用いた初めて暴風警報(cautionary signals)を発表した。しかし認めてられていたのは、存在がわかった嵐の接近を他の地点へ警報として予告することだけだった。警報は港などの高台に標識を掲げて人々に知らせた[2]

フィッツロイの警報標識(cautionary signals)。上段は昼間の信号。左から強風(北風)、強風(南風)、強風(継続)、暴風(最初は北風)、暴風(最初は南風)下段は代わりにランプを使った夜間の信号(The Weather Book : A Manual of Practical Meteorology1863年)より)

天気予報の開始

ところが彼は、8月からそれに強引に天気予報を加えた。これが物議を醸した。それまでの天気予報は占星術などを慣習的に用いたものであり、科学ではなかった。しかも、気象観測の結果を用いた予報のための法則や指針はなかった。当時気象学は、支援と研究に値するが、成熟した科学分野の確固たる基礎と信頼できる特徴を欠く学問分野、と見なされていた。王立協会のメンバーなど科学者たちはの、当時似非科学が人々に広まるのと戦っていた。フィッツロイによる予報も確固とした法則に基づいたものではなく、保守的な学者たちにとって政府から発表されるフィッツロイの予報は、高尚な科学への信望を損なう脅威と映った。

また当時、科学を実用に供することは必ずしも好ましいこととは考えられていなかった。科学は実用とは無関係に、独自の真理の探究に専念すべきと言う考え方もあった。ところが、暴風警報は、まさに科学の匂いのする実用技術、つまり気象工学だった。現状把握という事実に基づいて状況を知らせるという暴風警報は、「船舶に対する安全確保」という目的が明確になっていたものの、科学者たちの琴線には触れなかった。ましてや予報は科学を冒涜するものに近いと思われた。あらゆる機会を捉えたフィッツロイへの非難が始まった。

フィッツロイは、自身の天気予報がそれまでの占星術によるものと異なることを強調した。天気予報にドイツの気象学者ドーフェによる気流の衝突の理論を用いていることを示したり、従来の予測(プロバブル、プレディクションなど)の意味と異なることを示すために、新たに「フォアキャスト」という新語を作ったりした(これは現在は天気予報という意味で定着している)。彼は1863年の商務省気象局の報告書において、暴風雨警報と毎日の天気予報は同じ基盤に基づいており、一体のものであると述べた。

そして同年に、「ザ・ウェザー・ブック」という気象のためのガイドブックも発行した。これには「実用的な気象学の手引き」という副題が付いており、天気予報の初歩的な科学的根拠とそのための組織的な活動についての解説が含まれた斬新なものだった。これには寒気と暖気の境目で渦状の低気圧が発達するといった新しい考えも含まれていた。しかし、科学的な法則性が確立されていない予報は、利用可能な総観気象データを用いた、概念的な仮説と典型的な気象パターンによる経験的な知識を組み合わせた推論と見なされた[4]。結局、学者たちによる不信は拭いきれなかった。

フィッツロイは神経衰弱に陥り、18654月に自殺した。この原因はわかっていない。1859年にはダーウィンによる「種の起源」が出版されていた。敬虔なキリスト教徒だったフィッツロイは、親しかったダーウィンによる神を否定する進化論を受け入れることは出来なかった一方で、彼を同行者として受け入れた船長としての責任を感じていた。また、彼はビーグル号による探検費用とニュージーランド総督としての費用に私財を投じており、多額の借金があった。さらに日々の予報に対する責任、特に学者たちから指弾を受けないような完璧な予報を目指す重責があった[2]

天気予報と警報のその後

王立協会と商務省は、フィッツロイの死後に彼の仕事の調査を行うために、気象学者フランシス・ゴルトン卿を委員長とする委員会を立ち上げた。ゴルトン卿は高気圧などの用語を定義した気象学者であったが、後に統計学や優生学で著名な業績を上げたことで有名である。ただゴルトンとフィッツロイの間には以前から確執があったとされている[4]1866年にゴルトン委員会は報告書を提出した。この委員会は、暴風警報に対してはある程度成功していて、非常に重んじられたとみなした。しかし天気予報は、正確な法則もしくは事実からの十分な帰納的結論に基づいておらず、満足な状態ではないとした。委員会は、イギリスでの気象の研究は政府よりは科学的な組織による方が好ましいと結論した。

さらに商務省の官僚は、暴風警報について委員会と異なった意見を持っていた。この機会にフィッツロイの助手たちが続けていた予報と警報の発表は両方とも中止された。しかし、警報の中止に対しては、貿易商、漁民、海上保険業界から反対の声が起きた。警報は翌1867年から再開された。しかし、予報の再開は1879年からとなった。ただ、その間に何か予報技術の進歩があったわけではなかった。人々による予報の受け入れの方が変わったのかもしれない。

フィッツロイの予報に対する評価は一筋縄ではいかない。純科学的に見れば、フィッツロイの手法は、ゴルトン委員会の報告のように、十分な帰納的証拠に基づいたものではなかった。しかし、イギリスでの再開を始めとして日本を含む多くの国々は、後にフィッツロイと同じような科学的状況で天気予報を開始した。むしろフィッツロイは、予報や警報に対する観測の重要性を明確にしたとも言える。前線を用いたベルゲン学派気象学も詳細な観測の上に築かれたものである。究極的には、天気予報の考え方は数値予報が始まるまでフィッツロイの考え方の延長線上にあった、と言えるのかもしれない。

今日フィッツロイの名前は、パタゴニアの山、そしてニュージーランドの多くの通りの名前として生き続けている。

参照文献

[1] 村上陽一郎(2000, 現在の科学を問う, 講談社現代新書.
[2] J. D. Cox (2013),
嵐の正体にせまった科学者たち(訳: 堤 之智)、丸善出版.
[3] Erick Brenstrum (2009), FitzRoy: Inventor of the weather forecast, New Zealand Geographic, issue 99.
[4] Huw C. Davies (2014), Setting, substance and scrutiny of FitzRoy's Weather Book, Weather, No.69, 2.

フィッツロイと天気予報(1)

    (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

概要

ロバート・フィッツロイ(1805-1865)はイギリス海軍の提督であり、気象学者でもある。彼については本書の「6-2-4 フィッツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報」で解説した。しかし、彼が行ったイギリスで初めての天気予報の位置づけについて少し補足しておきたい。

フィッツロイは1831年から1836年にかけて行われた「ビーグル号」の探検航海時の船長であり、多くの人々にとっては、後に「進化論」を提唱したダーウィンをこの探検航海に同行させたことの方が有名かもしれない。フィッツロイは、「フィッツロイと天気予報(2)」で述べるように商務省貿易委員会の気象統計官(後のイギリス気象局)として、船が観測した気象データの統計を行っていた。しかし1859年に、嵐によって大きな海難事故が起こったことで、暴風警報の発表を思い立った。

 彼は政府の事業として1861年に防災のための暴風警報の発表を開始した。しかしそれだけでなく、合わせて天気予報も発表するようになった。これは画期的なことだったが、当時の天気予報にはっきりした理論や法則があるわけではなく、科学界からは科学の信用を傷つけるものとして非難を浴びた。1865年に彼は自殺したがその理由はわかっていない。

ロバート・フィッツロイの写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Robert_Fitzroy.jpg

 

警報と天気予報が始まるまでの背景

19世紀初め頃までの科学は、ほとんどが純粋な真理の探究を目的としていた。しかし、19世紀中頃から技術の発展に伴って科学の実用性を探る人々が出来た。気象学でもその学究的な知識を実用的に適用できないかと考える人々が出てきた。

1830年頃からアメリカを中心に「暴風雨論争」が起こった。これは嵐の構造とその原因についてのものだった。この論争には、嵐からの被害を避けるという気象学の実用的な利用も関連するとともに、アメリカだけでなくヨーロッパにも影響を与えた。イギリス陸軍工兵隊のウィリアム・レイドは、カリブ海のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めた。この資料は暴風雨論争の当事者であるレッドフィールドに提供されて、レッドフィールドは嵐の研究を推進した。この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となって、嵐による遭難防止に貢献した。

またレッドフィールドはさらにハリケーンに関する研究を進め、その研究らは航海の安全に寄与した。マシュー・ペリー提督はそれを嵐による被害を軽減するものとして賞賛し、レッドフィールドの研究成果「太平洋のサイクロン」を日本遠征時の公式報告書の中に含めた (「ペリーとレッドフィールド」参照)。これらは実用に使える科学的な知識であるが、いわゆるリアルタイムでの防災情報とは異なっていた。

気象を広く実用的に用いるには、まずその観測が重要となる。米国のモーリーは、「気候学の歴史(2」で述べたように、1853年に海上での気象観測に関する初の国際会議をブリュッセルで開催した。ここでの合意により、海上での軍艦による気象観測が統一・標準化された。これに基づいた観測結果は、今でも地球温暖化問題などにおいて、当時の気象を知る重要な情報となっている。

さらに電信の発明が気象学を変えた。気象を観測しても、それまでの徒歩や馬車による郵便では気象の移動に追いつけなかった。そのため、気象観測は気候目的が主だった。ところが電信の発明によって、初めてほぼリアルタイムで各地の観測結果を1か所に収集できるようになった。

嵐でまず被害を受けるのは船舶である。そのため嵐が襲来したことを警報として進行先に周知する、という試みがオランダ、フランスなどいくつかの国で始まった。そして、その一つがイギリスだった。後述するように、イギリスで気象警報の音頭を取ったのがフィッツロイだった。

科学と実用気象学

気象警報や天気予報というのは、ある意味で気象工学である。工学という言葉は学問分野以外にもその技術の利用者がいるという意味で使っている。19世紀までの気象学を含む科学(自然科学)は、学問で閉じていた。つまり科学は真理の発見に重きを置いていた。科学による発見が有用であるかどうかは重要ではなく、そこに学問分野以外の人々が入り込むことは例外的だった。科学界の学者とは、自分たちの専門家集団の知識を評価し、それを利用してさらに探求を進めようとする人々である。科学評論家である村上陽一郎は、それを科学者集団の自己閉鎖性と自己充足性と呼んでいる [1]

近代産業技術は、19世紀に入って目覚しい発展を見せた。産業革命におけるが繊維産業だけでなく、蒸気機関などの機械、鉄鋼、化学合成などの産業技術が、19世紀末からは、通信、自動車、電力・電気産業もこれに加わった。しかしこれらはいわゆる工学であり、当時のアカデミックな科学とはあまり関係がなかった。工学はその分野の専門家以外の利用を前提としている。当時、そこが根本的に科学と工学の発想が異なる部分だった。近代技術を開拓して巨大企業の始祖となった人々、鉄鋼王カーネギー、自動車王フォード、発明王エディソン、電信の発明家モールス、自動車開発のパイオニアであるダイムラー、無線の発明家マルコーニなどが、アカデミックな専門教育を必ずしも受けていないことは、そのことを示している。

19世紀のそういう風潮の中で、電信という瞬時の情報伝達技術を利用して、科学を実用気象学として用いて人々に貢献したい、つまり科学(観測結果の解析)を用いた気象情報を人々の暮らしに直接役立たせようとした人々が出てきた。その一人がイギリス人のフィッツロイだった。フィッツロイが行った気象警報と天気予報について見てみる。

( 次は「フィッツロイと天気予報(2)」)

参照文献

[1] 村上陽一郎(2000, 現在の科学を問う, 講談社現代新書.

 

2025年4月11日金曜日

19世紀の暴風雨論争

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)

  はじめに

17世紀から、嵐などの暴風雨は気圧が下がることと関係していそうだということは良く知られていたが、19世紀中頃までその現象がどういう仕組みを持っていて、どのように振る舞うのかは謎だった。嵐に今でいうハリケーンや低気圧などの違いがあることさえもわからなかった。そのため、嵐については、ストーム以外にも、ゲール(強風)やハリケーンなど、さまざまな呼び名があった。

このブログの「嵐の構造についての発見」のところで述べたように、当時ニューヨークの実業家だったウィリアム・レッドフィールド(1789-1857)は、1821年にアメリカ東海岸を襲ったグレート・セプテンバー・ゲールの際に、ニューイングランド一帯を広く歩く機会があった。彼はその際に見た倒木の方向に、場所によって異なる大規模なパターンがあることに気づいた[1]。彼は、嵐の風が回転している、つまり大規模な旋風なのではないかという考えを持った。彼は科学者ではなかったが、気象学者にその話をしたことがきっかけで、1831年に「嵐の風が大規模に回転している」という論文を発表した。当時広域にわたる嵐の形態は知られておらず、嵐が組織的な風系を持っているという考えは画期的だった。彼は蒸気船を運航する実業家であったが、まじめで向学心に富んだ人物だった。彼は1848年にアメリカ科学振興協会(AAAS:サイエンス誌の出版などで知られる)の初代会長となることとなる。

ところが、このレッドフィールドが主張する嵐の構造についてアメリカで大きな論争が起きた。1841年に嵐に関して異なる説を発表したのは、フィラデルフィアにあったフランクリン研究所のジェームス・エスピー(1785-1860)だった。彼は、水蒸気が凝結して雨になる際に潜熱を放出することによって上昇流が起きて、それが周囲から大気を集めて嵐(低気圧)が発達すると唱えた。当時熱力学理論は完全には確立されておらず、熱力学を用いたエスピーの考えは画期的だった。ただ彼は、嵐の風は低気圧の中心の回りに回転するのではなく、中心に向かってあらゆる方向から直線的に吹き込むのだと主張した。

 


エスピーによる熱力学的収束説(左)とレッドフィールドによる回転説(右)

 エスピーが低気圧の中心部に向かって風が直線的に吹き込むと考えた理由は、風が回転する必然性が知られていなかったからだった。嵐の風が回転するのは「コリオリ力」によるものだが、コリオリの論文は1835年に出版されていたものの、フランス科学アカデミーによる有名なフーコーの振り子実験をきっかけにそれが再発見されたのは、1859年だった。論争当時、コリオリ力はほとんど知られていなかった。 

パリのパンテオンにあるフーコーの振り子

 この暴風雨に関する二つの説は、本書の「6-1-6 アメリカ暴風論争」で述べたように、レッドフィールドが本拠地としているニューヨークの学者たちとエスピーが本拠地としているフィラデルフィアの学者たちの間で大論争に発展し、暴風雨論争(The Storm Controversy)と呼ばれた。この論争において、レッドフィールドは、嵐の風は回転による遠心力で中心部から外側に引き出され、下降した上層の冷たい大気が暖かい大気と混じって雲や雨になると反論した。

レッドフィールドの説は、倒木などを実際に観察した結果による帰納的な考えをもとにしていたが、エスピーの説は力学や熱力学理論を用いた演繹的な考察に基づいていた。この論争の背景には、科学は観測に基づく帰納的にあるべきか思考に基づく演繹的であるべきかという当時の思想的論争も絡んでいた。

ヨーロッパでの暴風雨論争

この論争はヨーロッパに飛び火した。イギリスでは天文学者のジョン・ハーシェルや物理学者で数学者のブリュースター卿らはレッドフィールドの帰納説を推した。一方でフランスでは、天文学者フランソワ・アラゴや物理学者で数学者のジャック・バビネらがエスピーの演繹説を支持した。大西洋を挟んだ世界をまたにかけた論争に発展した。

ハーシェルによる大気波の観測

気象に関心があったイギリス天文学者ジョン・ハーシェル(天王星を発見したウィリアム・ハーシェルの息子)は、この論争に啓発されて1836年にロンドンを襲った嵐の時の気圧変化は、嵐が大気の波が交差することによって引き起こされるのではないかと考えた。帰納的な観測によってその波を検出できれば、暴風雨論争に決着をつけて嵐を予測できるかもしれないと考えた。それには天文学からの類推もあった。

ハーシェルは、それまで行われていたように観測結果をやみくもに蓄積するのではなく、波の検出という目的を絞った観測する必要性を感じた。彼は気象観測者たちに、夏冬至点と春秋分点の前後に限って毎時観測を集中して行うように提案した。

この観測結果は、アメリカの気象学者ルーミスによって、初めての詳細な天気図のデータとなった[1]。ハーシェルは政府に気象観測所を多数設置するようにも要望した。これは受け入れられなかったが、後にフィッツロイによる電信を用いた気象観測網の下地となった。

ハーシェルは、同僚のバートに各地の観測結果の解析を続けさせたが、想定された大気の波は観測されなかった。彼は気圧変化の周期に解析を絞ったが、やはりそのような波は確認できなかった[2]。彼の帰納的な考えは、気象学の場合は結実しなかった。ハーシェルの研究は、その後防災などの実用を目指す気運が気象学に高まったこともあって、断念された。

ハーシェルの波の交差という考えは、ドイツの気象学者ドーフェが1831年に示唆していた大規模な気流の境目[3]として見れば全く見当外れなものではなかった。しかし、それは後にヤコブ・ビヤクネスが前線を発見するように、周期性のある気圧波のようなものではなかった。なおこの約100年後に、上層ではロスビー波という大気波が発見されることになる(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)」参照)。この場合は、ロスビーによる演繹的な理論が先行し、その後に観測によって実際に波が確認されている。

暴風雨論争と光の波動説

暴風雨論争は当時イギリスなどで行われていた光の粒子説波動説の議論にも影響を与えた。17世紀にホイヘンスが提唱し始めた波動説は、波動性そのものは実験で確認されたものの、波を媒介する物質として未確認のエーテルの存在という演繹的な仮説から出発していた。18世紀にはニュートンが主張した帰納的な粒子説が主流になったものの、19世紀に入るとイギリスの物理学者ヤングが光の波の干渉を示す実験を行い、その結果を約30年後にフランスの物理学者オーギュスト・フレネルが数学的に理論化した。そのため、エーテルを仮定する演繹的な波動説が有利となっていた。暴風雨論争が始まると、レッドフィールドの説は、帰納的な粒子説を力づけることとなった。

 暴風雨論争の解決

レッドフィールドの説は観測結果に基づいた帰納的な考えに基づいていたが、観測によって回転する風が内側に収束しているのか外側に発散しているかを立証することは困難だった。一方で、エスピーの説は、熱力学理論を演繹的に正しく用いていたが、コリオリ力を考慮しなかったことと自身の頑迷で強引な性格が災いしてか、大勢の科学者を納得させることが出来なかった。この論争にさらにペンシルバニア大学のヘアによって当時最新の流行だった大気電気説が参入してきた。

暴風雨論争は結局論争者たちが生きている間には決着がつかなかった。約20年後にアメリカの大気力学の研究者ウィリアム・フェレルによる、「嵐の原因は、潜熱による熱力学的な上昇流であり、風は低気圧中心に吹き込む際にコリオリ力で回転する」という結論によって解決された。

人間が自分一人で取り扱うことが出来る現象の問題は解決しやすい。例えば繰り返し観察したり、実験したりすることが出来る場合もある。しかし嵐に関するこの論争は、人間が届く範囲を超えた広域の気象を正確に捉えることが、当時いかに困難だったかを示している。この論争は、こういった現象を捉えるには、広域の気象観測網による統一的な組織的観測が必要であることを、多くの人々に感じさせることになった。

 暴風雨論争の余波

イギリス工兵隊のウィリアム・レイドは、赴任先のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めてレッドフィールドに提供した。これはレッドフィールドによるハリケーンの研究を推進するとともに、この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となった。またレッドフィールドはさらに研究を進めて、その成果はペリー提督が日本遠征時の公式報告書の中に、「太平洋のサイクロン」という題で含まれている。

一方でエスピーの方は、熱力学を先取りした画期的な理論だったが、コリオリ力を考慮しなかったのと、彼の傲慢な態度が災いしてか、彼の説の価値自体が曖昧となってしまった。しかし、彼は自分の説を立証しようとアメリカ国内の気象観測網の設立に尽力した。当時アメリカ陸軍は兵士の健康問題などのため気象観測網を構築しつつあった。観測結果によって自説の立証はできなかったが、気象観測網構築に協力した彼は、アメリカ国家機関での初めての気象学者に任命された。

(次は「フィッツロイと天気予報(1)」) 

参照文献

[1] J. D. Cox (2013), 嵐の正体にせまった科学者たち(訳:堤之智)、丸善出版

[2] V. Jankovic, (1998), "Ideological crests versus empirical troughs: John Herschel's and William Radcliffe Birt's research on atmospheric waves, 1843-1850.", Cambridge University Press.

[3] 斎藤直輔(1982, 天気図の歴史、東京堂出版