1. はじめに
1950年代から大気圏での核実験が行われなくなる1980年頃まで、日本を含む世界各地で頻繁に高濃度の放射性物質が降ってきていた。そのことは年配の方は覚えておられる方も多いと思うが、若い人は知らないあるいは実感できない方も多いのではないかと思う。
東日本大震災による福島原発の事故では、放射能の怖さを改めて思い知らされた。振り返ってみると、短期的には福島原発の事故によって降下した放射能量には及ばないものの、かつてかなりの量の放射能が日本全土に長期にわたって降り続けたことがわかる。このことは、気象庁と気象研究所などが長期にわたって継続してきた観測によって明らかになっている。このシリーズではそのことを取り上げる。
放射能の採取と観測は地方自治体の研究所や大学などの研究機関などでも行われたが、ここでは気象庁と気象研究所が行った観測のみを記す。なお、改めてこのシリーズの最後に記すが、気象庁の放射能観測は政府の方針により2006年に終了した。その後は環境省や各都道府県が放射能観測を継続している。
2. 背景
1954年3月1日に静岡のマグロ漁船第五福竜丸が、ビキニ環礁付近の安全航行域内で、操業中に閃光と爆音と原子雲を確認した。これは、アメリカがビキニ環礁で行った当時としては最大の水爆実験(ブラボー実験:Castle Bravo)によるものだった。第五福竜丸は数時間後に核爆発によって生じた放射能を含んだ灰を浴びた。第五福竜丸が安全航行域内で被爆したのは、核爆発が事前の予想計算による6メガトンをはるかに超える15メガトンと巨大なものになったためだった。また、ロンジェラップ環礁などにも放射能を含んだ灰の想定外の降下があり、住民2万人以上が被曝した[1] 。これは、アメリカが行った核実験の中で最悪の事故となった。また、これは「成層圏準二年振動の発見」で述べたように、成層圏の風などの振る舞いを詳しく調査するきっかけにもなった。
ブラボー実験での核爆発の様子
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Castle_Bravo_Blast.jpg
第五福竜丸は日本に帰港後、乗組員の中の2名は放射能症と診断された。第五福竜丸の船体に残った降灰からは著しく高い放射能が検出され、水揚げしたマグロからも放射能が検出された。放射能は、マーシャル諸島附近の海域で操業していた多くの日本漁船の漁獲物からも検出された。5月には日本各地の雨の中に放射能が検出されるようになった [2]。この放射能を含んだ雨は、米や野菜などの農作物に対する深刻な不安を日本国民に与えた。これは、核実験を非難する国際的な世論を高め、日本においても放射性物質の降下に対する対策が緊急に立てられた。
ブラボー実験によって発生した放射性物質の広がり。等値線の単位はrad(1 rad=0.01 Gy(グレイ))https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bravo_fallout2.pngを日本語に改変
日本学術会議は「放射能影響調査特別委員会」を設立し、1954年5月1日に第1回目の委員会が開かれた。この委員会において、当時の中央気象台長だった和達清夫は「気象官署は全国的に専用の通報網をもっていて情報の収集が迅速である。定常的なルーチン観測の継続に豊かな経験をもっている。また優れた技術者を多くかかえている」という意見を述べた。この意見が受け入れられ、中央気象台(後の気象庁)が定常的な放射能観測を引き受けることになった[3]。
中央気象台は緊急の会議を開いて、当座は気象研究所が中心となって雨の放射能を測ることを決定した。中央気象台内では気象官署が放射能の測定を行うことは、本来の気象業務の目的から外れるので適当でないという意見も出されたが、放射性物質をトレーサーとして気象解析を行うためということで観測目的の一致をみた[3]。
3. 観測の開始
1954年10月には大蔵省で放射能観測の予算が認められ、気象庁での放射能観測が開始された。降水降下塵(塵に付いて地面に落下した放射性物質)の放射能観測は、1955年4月1日から全国14か所の気象官署で行われた。浮遊塵(塵に付いて空中を浮遊している放射性物質)の放射能観測は1955年11月1日から5か所の管区気象台で行われた。雨水の放射化学分析は、1958年1月から気象研究所で行われた。また海洋上の放射能観測が、気象庁の南方定点観測船と海洋気象観測船「凌風丸」で行われた[4]。
ところが科学と技術の整理統合を図るという目的で、1956年に国務大臣を長官に据えた科学技術庁が新たに発足した。日本学術会議による勧告とは別に、科学技術庁が核実験による放射能影響調査を行政面から所管することになった。1955年12月に原子力基本法が成立したこととあわせて、1956年1月に政府に原子力委員会が発足した。同委員会は10月に「放射能調査計画要綱」を立案し、国内の各機関による放射能常時観測体制の確立を図った。そのための予算は科学技術庁が「放射能調査研究費」として、大学を除く各調査研究機関に配分した。
1956年に中央気象台から変わった気象庁の放射能観測も、その一部は1957年度からその要綱に基づく「放射能調査実施計画」の中に位置づけられた。観測項目に科学技術庁の予算による上空の放射能、海水中の放射能、降水・落下塵の放射化学分析が加わった。このため、気象庁が業務として行う放射能観測の予算は、大蔵省から気象庁を所管する運輸省を通して配分される予算と科学技術庁から配分される予算の2本立てとなった[4]。各省庁の予算編成権は大臣が持っており、運輸省下にあった気象庁が科学技術庁の予算で行政として放射能観測を行うことは、極めて異例なことだった。
(つづく)
参考文献(シリーズ共通)
[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.